山陽、山陰両道の河川は殆ど何れもが中国山脈を分水嶺として、瀬戸内海と日本海とに注いでゐるのにひとり両道第一の長流江の川のみは、その源を山陽道に発し且つその流程の半はこれを通過しながら、下は遠く山陰に入り日本海に流れ去つてゐる。備後の北部が安芸国と境を接し、それに雲石二州の国境が相迫らうとするところに広袤方約二里のいはゆる三次盆地がひらけてゐて、江の川五十余里の水源の大部分は、ここに会する吉田、
私がこの山国の町の夜川に鵜飼を試みるのは幾年振りであらう。永年の都住まひを引上げ、物寂しい峡村に帰つて間もない七月のはじめのことである。私等夫妻は不意に老母を奉じて西遊した百穂画伯を、この山間の町に一夜の客として迎へ、偶然にして久振りの鵜飼の清興を、この遠来の友の家族と共にするを得た。
鵜飼はいふまでもなく日没を待つて行はれる。私共が客船に乗つた場所は、昔覚えのある町外れの河岸である。町の後から比熊山の古城址が頭上に迫つてもう大分暗い。峡の空には淡い星も見える。夕闇の漂ふ河の向うの磧では焚火をしてゐる人が五六人、鵜舟が四艘つないである。これは我々の傭つた鵜舟ではなく、我々のは舟中の食啖に上すべき香魚を獲て、やがて上流から下つて来るはずである。暮色の深い山際の上瀬から玉を転がすやうな河鹿が啼いてくる。新蛍が水を照して現れだした。河の水気を含んだ風が漸次肌に涼冷になつて来る。元来かかるうちに鵜舟の麻炬の火が上流の山際赤く焦しながら出てくるのであるが、私の予想がさういふ光景に繋つてゐるときに、向岸の四艘の鵜舟は思ひがけないアセチリン燈を点じた。私は何時この地の鵜舟の麻炬がこの新燈に代つたかを、驚きかつ怪しんだ。新燈は或は水中の魚

四艘はすでに下つて河は再び暗く静かになる。その間に舟人等は磧に下りて提燈のあかりで渚の石を探りながら二三十疋の河鹿を捕へて帰つて来た。川上が明るくなる。私等の雇つた鵜舟が下るのである。夜の驚波に投ずる
私は三次鵜飼に麻炬の廃せられたことを甚だ悲しむ。もと天下の長良川の鵜舟に比して、この地の鵜飼を私が窃かに誇つてゐたのも、この野趣あるがゆゑであつた。然るに両三年前これが廃つてから今日ではその真趣を語るものに、文政の世に作られた頼杏坪先生の漢詩一聯のほか残るものが無くなつた。
今でも雇つた鵜舟は一夜の香魚の漁獲を挙げてその客に致すほどに素朴であるが、しかし近年の種々な経済変遷は、この生業をも圧迫した。下流に設置された発電所のために魚道阻まれ、この地の漁猟は三分の一に減じたといふ。趣ある麻炬も焚くを得なくなつた。今にして施すところなくば、たとへこの上流数十万の生民の食膳から香魚の影の奪はれることはなくとも、数百年の歴史を有する三次鵜飼は遂に廃れぬとも限らぬ。偶々郷国に帰住し、私はここにも同じく近代物質文明に破壊せられる郷土詩美ある歎を見た。