わが住める家のいらかの
白霜を見ずて行かむ日近づきにけり
うつり来しいへの畳のにほひさへ心がなしく
起臥しにけり
据風呂を買ひに行きつつこよひまた買はず帰り来て寂しく眠る
東京にのこし来しをさなごの
茂太もおほきくなりにつらむか
かりずみのねむりは浅くさめしかば
外面の道に
雨降りをるかな
聖福寺の鐘の音ちかしかさなれる家の
甍を越えつつ聞こゆ
ゆふぐれて
浦上村をわが来ればかはず鳴くなり谷に満ちつつ
電灯にむれとべる
羽蟻おのづから
羽をおとして
畳をありく
うなじたれて道いそぎつつこよひごろ蛍を買ひにゆかむとおもへり
灰いろの
海鳥むれし
田中には朝日のひかりすがしくさせり
とほく来てひとり
寂しむに長崎の山のたかむらに日はあたり居り
陸奥に友は死につつまたたきのひまもとどまらぬ日の光かなや
われつひに
和に生きざらむとおもへども
何にこのごろ友つぎつぎに死す
おもかげに立ちくる友を悲しめりせまき湯あみどに目をつむりつつ
かりずみの家に起きふしをりふしの妻のほしいままをわれは寂しむ
うつしみはつひに悲しとおもへども
迫り
来ひとのいのちの悲しさ
むし暑き家のとのもに降る雨のひびきの
鋭さわれやつかれし
長崎の石だたみ道いつしかも日のいろ強く夏さりにけり
仮住の家の二階にひとりゐるわがまぢかくに蚊は飛びそめぬ
わが家の
石垣に生ふる
虎耳草その葉かげより蚊は出でにけり
すぢ向ひの家に
大工の
夜為事の長崎訛きくはさびしも
はやり
風をおそれいましめてしぐれ来し
浅夜の床に一人寝にけり
豊栄といや新らしくなり成れる
国見をせすといでましたまふ
かけまくもあやにかしこし年
古れる長崎のうみに
御艦はてたまふ
百千代と
祝ぎてとどろく
大砲に
応へとよもす春の
群山
み民等の祝ぎて呼ぶこゑとりよろふ
港の
天にとほらざらめや
(長崎日日新聞、十首中存四首)
港をよろふ山の
若葉に光さしあはれ静かなるこのゆく春や
長崎は石だたみ道ヴェネチアの
古りし
小路のごととこそ聞け
おのづからきこゆる音の
清しさよ春の山よりながれくる水
はりつめて事に従はむと思へどもあはれこのごろは
痛々しかり
よわよわと幽かなりともはからひの
濁りあらすなわれの
世過に
(長崎日日新聞)
こほろぎの鳴けるひと夜の歌がたり
乱れたる心しましなごみぬ
長崎に来てよりあはれなる歌なきをわれにな問ひそ寂しきものを
白たへのさるすべりの花散りをりて
仏の
寺の日の光はや
中町の
天主堂の鐘ちかく聞き二たびの夏過ぎむとすらし
ヘンドリク・ドウフの妻は長崎の
婦にてすなはち
道富丈吉生みき
浦上天主堂無元罪サンタマリアの
殿堂あるひは単純に
御堂とぞいふ
外国よりわたり来れる
霊父らも「
昼夜勤労」ここにみまかりぬ
独逸潜航艇を観る。縣廰小使云、「潜航艇は唐人の靴のごとある」。夕べ新地の四海楼を訪ふ
長崎の港の岸に浮かばしめしドイツ
潜航艇にわれ
出入りつ
四海楼に
陳玉といふをとめ居りよくよく今日も見つつかへり
来
古賀、武藤二氏とともに猶太殿堂を訪ふ。猶太新年なり
猶太紀元五千六百八〇年その
新年のけふに
会へりき
満州よりここに来れる
若者は叫びて泣くも
卓にすがりて
長崎の
商人としてゐる
Lessner も
Cohn も
耀く
法服を
著つ
平戸行。平戸丸や旅館。小国李花に会ふ。崎方町阿蘭陀塀、阿蘭井戸、亀甲城址、亀岡神社等
阿蘭陀の
商人たちは自らの
生業のためにこれを
遺しき
あはれなる
物語さへありけむを人は過ぎつつよすがだになし
われは見つ
肥前平戸の年ふりし
神楽の
舞を海わたり来て
東京大相撲来る。釈迦嶽九州山長興山秀の山出羽嶽等に会ふ
巡業に来ゐる
出羽嶽わが家にチャンポン食ひぬ
不足もいはず
南蛮絵の渡来も
花粉の飛びてくる
趣なしていつしかにあり
光源寺にて曉烏敏師の説教を聴き、のち鳴滝シイボルト遺跡を訪ふ
この
址にいろいろの樹あり
竹林に冬の蠅の飛ぶ音のする
司馬江漢画を観る、「天明戊申冬日於崎陽梧真寺謹写司馬峻」
江漢が此処に来りて心こめし色をし見なむ
雲中観音図
隠元の八十一歳の
筆といふ老いし
聖の
面しおもほゆ
十一月なかば妻、茂太を伴ひて東京より来る。今夕二人と共に大浦長崎ホテルを訪ふ
四歳の
茂太をつれて
大浦の洋食くひに
今宵は来たり
はやり風はげしくなりし長崎の
夜寒をわが子
外に行かしめず
寒き雨まれまれに降りはやりかぜ
衰へぬ長崎の年暮れむとす
東京より弟西洋来る。妻・茂太等と共に大浦なる長崎ホテルにて晩餐を共にせりしが、予夜半より発熱、臥床をつづく
はやりかぜ
一年おそれ過ぎ来しが吾は
臥りて
現ともなし
朝な朝な
正信偈よむ
稚児ら
親あらなくにこゑ楽しかり
わが病やうやく癒えて
心に
染む朝の経よむ
稚等のこゑ
対岸の
造船所より聞こえくる
鉄の
響は
遠あらしのごとし
鉄を打つ音
遠暴風のごとくにてこよひまた聞く夜のふくるまで
東京より
来にしをさなご
夕ごとに
吾をむかへてこゑを
挙ぐるも
長崎のしづかなるみ寺に我ぞ来し
蟇が鳴けるかな
外の
池にて
外のもにて
魚が跳ねたり時のまの
魚跳ねし音寂しかりけれ
藤浪の花は長しと君はいふ
夜の
色いよよ深くなりつつ
君死にしよりまる
一年になるといふ
五月はじめに君死にしかも
このみ寺は山ゆゑ
夜のしづかなる
林の
中に鷺啼きにけり
山のみ寺のゆふぐれ見ればはつはつに
水銀いろの港見えつも
ここのみ寺より
目したに見ゆる
唐寺の
門の
甍も暮れゆかむとす
大槻如電翁を迎へ瓊林館にて食を共にす。会者古賀十二郎、武藤長蔵、永山時英、奥田啓市の諸氏及び予
シイボルトを
中心とせるのみならずなほ
洋学の
源とほし
西坂を
伴天連不浄の
地といひて
言継ぎにけり悲しくもあるか
おもほえず長崎に来て
豊けき君がこころに
親しみにけり
(永山図書館長に)
長崎のいにし
古ごと
明らむる君ぞたふときあはれたふとき
(古賀十二郎翁に)
「慶長十年にはじめて南蛮より種をつたへて長崎桜馬場にこれをうゆる」(近代世事談、金糸烟、烟草)
ささやけき
薬草の一つとおもへども
烟草のみしよりすでに
幾とせ
武藤長蔵教授より大阪天主公教会の公教会月報を借覧しぬ
大音寺の
樟の
太樹を見てかへり
公教会報の歌を写すも
萱草の花さくころとなりし庭なつかしみつつ吾等つどひぬ
ひとり西坂を行く。石塔「南無妙法蓮華経安永五丙申歳四月廿八日」石標「天下之死刑場ノ馬込千人埋タル法塔様誰方モ参リ被下度」「長崎市東中町中島ノイ建」
長崎の
麦の
秋なるくもり日にわれひとりこそこころ
安けれ
畠より烟がしろく立てる見ゆ麦刈る秋となりにけるかも
六月はじめ小喀血あり、はかばかしからねば今日県立病院に入院す。西二病棟七号室なり。菅沼教授来診
病ある人いくたりかこの
室を
出入りにけむ壁は厚しも
ゆふされば蚊のむらがりて鳴くこゑす病むしはぶきの声も聞こゆる
闇深きに
蟋蟀鳴けり聞き居れど
病人吾は心しづかにあらな
血いづ。腎結核にて入院中の大久保仁男来りて予の病を問ふ
わが心あらしの
和ぎたらむがごとし
寝所に居りて水飲みにけり
くらやみに向ひてわれは目を開きぬ
限もあらぬものの
寂けさ
若き友ひとり
傍に来つつ居りこの友もつひに
病を持てり
県立病院を退院す。三日より自宅に臥床して治療を専らにす
あらくさの
繁れる見ればいけるがに
地息のぼりて青き香ぞする
午すぎごろわが病室の入口に
鶉の卵売りに来りぬ
ゆふぐれの
泰山木の
白花はわれのなげきをおほふがごとし
わが家の狭き
中庭を照らしつつかげり行く光を
愛しみにけり
ひと
坪ほどの
中庭のせまきにもいのち
闘ふ
昆虫が居り
年わかき内科医
君は日ごと来てわが
静脈に
薬入れゆく
長崎に来りて
四年の夏ふけむ白さるすべり咲くは
未か
長崎の暑き日に君は来りたり涙しながるわがまなこより
よしゑやしつひの
命と過ぎむとも友のこころを
空しからしむな
大正九年七月二十六日、島木赤彦、土橋青村二君と共に温泉嶽にのぼり、よろづ屋にやどる。予の病を治せむがためなり。二十七日赤彦かへる。二十八日青村かへる。
この道は
山峡ふかく入りゆけど
吾はここにて
歩みとどめつ
この道に立ちてぞおもふ赤彦ははや
山越しになりにつらむか
赤彦はいづく行くらむただひとりこの
山道をおりて行きしが
草むらのかなしき花よわれ病みし
生やしなふ山の草むら
みちのくに
稚くしてかなしみし
釣鐘草の花を摘みたり
うつせみの
命を
愛しみ
地響きて湯いづる山にわれは来にけり
温泉にのぼり
来りて吾は居り
常なきかなや
雲光さへ
温泉のむらを離れてほのぐらき
谿の
中にて
水の
音ぞする
谿ふかくくだる道見ゆあまつ日の照ることもなき谿にかあらむ
千々和灘にむかひて低く
幾つ
谷息づくごとし山のうねりは
高々と山のうへより
目守るとき
天草の
灘雲とぢにけり
きぞの
朝友の行きたるこの道に日は当り居り見つつ
恋しむ
家いでて来にしたひらに
青膚の
温泉嶽の道見ゆるかな
小鳥らのいかに
睦みてありぬべき
夏青山に我はちかづく
山の根の
木立くろくして
静けきを家いで来つつ
恋ふることあり
羊歯のしげり吾をめぐりてありしかば
寒蝉ひとつ近くに鳴きつ
たまたまは
咳の音きこえつつ山の深きに
木こる人あり
臥処にて身を
寂しみしわれに見ゆ山の
背並のうねりてゆくが
あそぶごと雲のうごける夕まぐれ近やま
暗く
遠やま
明し
夏の日の
牧の
高原しづまりて
温泉の
山暮れゆくを見たり
遠風のいまだ聞こゆる
高原に夕さりくれば馬むれにけり
水光ななめにぞなる高原に群れたる馬ぞ走ることなき
松かぜの音は遠くに近くにも聞こえくるころ吾は行くなり
合歓の
花ひくく匂ひてありたるを
手折らむとする
心利もなし
あまつ日は既にのぼりて
向山に
晩蝉鳴けどここには鳴かず
行きずりの道のべにして
茱萸の
実ははつかに
紅し
紅極まらなむ
赤土の道より
黒土の坂となり往くも
反るも心にぞ
留む
湯いづる山の月の光は隈なくて枕べにおきししろがねの
時計を照らす
長崎に
二年居りて聞かざりし
暁がたの蝉のもろごゑ
まくらべに
時計と
手帳置きたるにいまだ
射しくるあけがたの月
起きいでて畳のうへに立ちにけりはるかに月は
傾きにつつ
山の上にひとときに鳴くあかときの
寒蝉聞けば
蟋蟀に似たり
あかつきのさ霧に濡れてかすかなる
虫捕ぐさの咲けるこのやま
寂しさに堪ふる
寝所に明暮れし吾にせまりて青き山々
温泉の
別所の奥は遠く
来し
西洋人もまじりて住めり
木もれ日はしめれる
土の一ところ
微かなる虫の遊ばむとする
谿水のながるる音も
巌かげになりて
聞こえぬこのひと時を
牛ふたつ林のなかに来り居りきのふも
此処に
来りてゐしか
あまつ日はからくれなゐに山に落つその麓なる海は見えぬに
露西亜よりのがれ来れる
童子らもはざまの滝に水あみにけり
幾重なる山のはざまに滝のあり
切支丹宗の歴史を持ちて
深き
峡南ひらきておち
激つ滝のゆくへを吾はおもひき
この山に湧きいだしたる
幾泉あひ寄り
峡の底ひに
落激つ
安息をおもひて心みだれざりふもとの山に
紅き
日かたむく
落つる日の夕かがやきはこの山の
平に居りてしばしだに見む
あかつきはいまだ暗きにこの山にむらがりて鳴く
蜩のこゑ
たぎり湧く湯のとどろきを聞きながらこの
石原に
一日すぐしぬ
温泉が
嶽に
十日こもれど我が
咽のすがすがしからぬを
一人さびしむ
水激ちけむ
因縁も知らずあしびきの山の奥より石原の見ゆ
ひぐらしは山の奥がに鳴き居りて近くは鳴かず
日照る
近山
かなかなの山ごもり鳴くは蟋蟀のあはれに似たりひとり聞くとき
けふもまた
山泉なる砂のべに
居るかな病める
咽を
愛しみて
谿のうへの樹を吹く風は強くしてわが居る石のほとりしづけし
雨はれし後の
谿水いたいたしきのふも
今日も
赭く色づき走る
この山に鴉すくなしゆふぐれて
小鴉一つ
地におりたつ
山かげの
楢の
木原の
下枝にも
山蚕が居りて鳥知らざらむ
大き石むらがれる谿の水のべに心しづかになりにけるかも
わがあゆむ山の
細道に片よりに
薊しげれば
小林なすも
山なみの此処にあひ
迫る
深谿を見おろすときに心落ちゐず
しばしして吾が
立向ふ
温泉の
妙見が
嶽の雲のかがやき
長崎をふりさけむとするベンチには
露西亜文字など
人名きざめり
多良嶽とあひむかふとき
温泉の秋立つ山にころもひるがへる
吾が
憩ふひとついただきに
漆の
木いまだ小さく人かへりみず
めぐりつつ
岨をし来れば
島山と
天草の
海ひらけたり見ゆ
なぎさには
白浪の寄るところ見えこの高きより見らくしよしも
ものなべて秋にしむかふ
広河原の水のほとりに馬居り走らず
山かげに今日も聞ければ
晩蝉は
秋蟋蟀の寂しさに似つ
やまかがし草に入りゆくに足とどむ
額の
汗を
拭きつつ吾は
谿、温泉神社(四面宮、国魂神社)裏の石原に沈黙せり
石原に来り
黙せばわが
生石のうへ過ぎし雲のかげにひとし
小さなる


のたぐひ
跳ねゆきぬ
水涸れをりて白き石はら
曼珠沙華咲くべくなりて石原へおり
来む道のほとりに咲きぬ
けふ
一日雲のうごきのありありて
石原のうへに
眩暈をおぼゆ
音たてて
硫黄ふきいづるところより近き
木立に
山蚕ゐるなり
この山を吾あゆむとき長崎の
真昼の
砲を聞きつつあはれ
絹笠の
峰ちかくして長崎の真昼を告ぐる
砲の
音きこゆ
ふか山のみづうみに来てぬばたまの黒き
牛等は水飲みにけり
山はらを
貫きめぐる道ありて馬
駈けゆくがをりをりに見ゆ
山谿が
幾重の山の
中ごもり
南の
流ここゆ出でむか
見おろして
吾居る谿の石のべに
没日の
光さすところあり
理由もなきわが歩み
谿底は既にくらきに水の音すも
わたつみに日は入りぬらむとおもほゆる
夕映とほしこころにぞ
染む
くらくなりし山を流るる
深谿の
水の
音きけば絶えざるかなや
谿底を流るるみづは
今ゆ
後くらきを流れ
音のかなしさ
わたつみの方を思ひて居たりしが暮れたる
途に
佇みにけり
闇空に
羽鳴らして虫飛びゆけり
峠につかれて我あゆむとき
夕映の赤きを見れば
凡のものとしもなし山のうへにて
谷底にくだり来にけり
独り
言も今はいはなくに
眼をつむる
昼ちかきころほひならむと
四五歩ゆき
山谿みづに
眼をあらふ
みづ越えてなほし行くときうづたかき落葉のにほひその落葉はや
谷底の
石間くぐりてゆく水に
魚住みをりて見ゆるかなしさ
この谿をおほへる
樹々のしげり葉を照らす光よともしむわれは
青々と
樹々の葉てらす天つ日はいま谷底の石をてらさず
かすかなる水のながれとおもへども夕さりくればその
音さびし
石苔にわが
出したる
唾のべに来りて去らぬ
羽虫あはれむ
この
狭間を強き水
激ち流れけむ石むらがりて
横たふ見れば
苔あをく
羊歯のしげれる
石群を山ゆく水は
常濡らしけり
石のひまくぐり流るる谷の水ききつつ吾は
一日ここにゐる
みなかみにのぼりてゆけば水の道
落葉が
下に
隠ろひにけり
石のまゆ
常湧きにして音たつるいづみの水をあはれ
一人見つ
おのづから水ながれたる
沢越えて
青山見ゆるところまで
来し
しづかなる
一日を
経むと
山水のながるる谿に吾は来にけり
山みづのながるる音の
親しさにわれは来りて
言さへいはず
山道をゆけばなつかし
真夏さへ
冷たき谷の道はなつかし
傾きつつ
太木しげれるきりぎしのその
下のべの
水光見む
みづ
流るる谷底いでて
木漏日の寂しき道を帰り来るなり
けふもまたしづかに
経むと
夏山の
青きがなかに入りつつぞ
居る
しらじらと
巌間を
伝ふかすかなる水をあはれと思ひ
居るかも
山みづの
源どころの
土踏める馬の
蹄のあとも
好きかも
石の上吹きくる風はつめたくて石のうへにて眠りもよほす
くだり来し
谷際にして
一時を
白くちひさき
太陽を見し
吾が
憩ふ観音堂に
楽書あり Wixon, Nicol, Spark
等の名よ
谷底を日は照らしたり谷そこにふかき落葉の朽ちし色はや
谷かげに今日も来にけり山みづのおのづからなる
音きこえつつ
魚の子はかすかなるものかものおそれしつつ
泉の
水なかにゐる
妙見へ雨乞にのぼり来し人らこの谿のみづ口づけ飲めり
午前三時、高谷寛、大橋松平、前田徳八郎等普賢嶽にのぼりぬ。おのれ宿にのこりて、朝食ののち林中を歩く
向山のむら立つ
杉生ときをりに鴉の
連の飛びゆくところ
おのづから夏ふけぬらし
温泉の山の
蚕も
繭ごもりして
久保(猪之吉)博士予を診察したまふ。また夫人より菓子を贈らる
ジュネーヴのアスカナシイの
業績を語りたまひて
和に日は暮る
この山に君は来りて
昆虫の卵あつむと聞くが
親しさ
わが
病診たまひしかど
朗らにていませばか吾の心は
和ぎぬ
温平の
温泉の話もしたまひて君がねもごろ吾は忘れず
万屋に吾を訪ひまし
物語るよりえ
夫人は
長塚節のこと
八月十四日、温泉嶽を発ちて長崎に帰りぬ。病いまだ癒えず。十六日抜歯、日毎に歯科医にかよふ。十九日諏訪公園逍遥。温泉嶽にのぼりし日より煙草のむことを罷めき
長崎に帰り来りてむしばめるわが歯を
除りぬ
命を
愛しみ
暑かりし日を
寝処より起き来しが向ひの山は
蒼く暮れむとす
公園の
石の
階より長崎の
街を見にけりさるすべりのはな
温泉より吾はかへりて暑き日を歯科医に通ふ心しづかに
のぼり来し
福済禅寺の石だたみそよげる
小草とおのれ
一人と
石のひまに
生ひてかすかなる草のありわれ病みをれば心かなしゑ
長崎の
午の
大砲中町の
天主堂の鐘ここの
禅寺の鐘
福済寺にわれ居り見ればくれなゐに街の
処々に
百日紅のはな
ものなべて
過ぎゆかむもの
現身はしづかに
生きてありなむ
吾よ
みづからの
此身よあはれしひたぐることなく
終の
日にも
許さな
しづかなる吾の
臥処にうす青き草かげろふは飛びて来にけり
精霊をながす日来り港には人みちをれどわれは
臥し
居り
北海道なる次兄より長女富子の写真をおくりこしければ
たらちねの母の
乳房にすがりゐる
富子をみれば心は
和ぎぬ
山たかく河
大いなる国原に
生れしをさなごことほぐわれは
とほくゐて
汝がうつしゑを見るときは心をどらむほども嬉しゑ
午前八時十五分長崎発、午後一時三十五分久保田発、午後三時十五分唐津著、木村屋旅館投宿。高谷寛共に行きぬ
五日あまり物をいはなく鉛筆をもちて書きつつ旅行くわれは
肥前なる唐津の浜にやどりして
唖のごとくに
明暮れむとす
海のべの
唐津のやどりしばしばも噛みあつる
飯の
砂のかなしさ
潮鳴り夜もすがら聞きて目ざむれば
果敢なきがごとしわが
明日さへや
城址にのぼり来りて
蹲むとき石垣にてる月のかげの
明るさ
砂浜に古りて
刑死の墓のありいかなる深き罪となりにし
満島にわたりて遊ぶ
人等ゆく月に照らされ
吾等もい
往く
日もすがら
砂原に来て
黙せりき
海風つよく
我身に吹くも
飯の中にまじれる
砂を
気にしつつ
海辺の
宿に
明暮れにけり
はるかなる
独り
旅路の果てにして
壱岐の
夜寒に
曾良は死にけり
命はてしひとり旅こそ
哀れなれ
元禄の
代の
曾良の旅路は
朝鮮に近く果てたる曾良の身の悲しきかなや独りしおもへば
朝のなぎさに
眼つむりてやはらかき
天つ
光に照らされにけり
この
病癒えしめたまへ
朝日子の光よ赤く照らす光よ
唐津の浜に居りつつ
城跡の年ふりし
樹を幾たびか見む
砂浜にしづまり居れば海を吹く風ひむがしになりにけるかも
孤独なるもののごとくに目のまへの日に照らされし
砂に
蠅居り
日の入りし雲をうつせる西の海はあかがねいろにかがやきにけり
松浦河月あかくして人の世のかなしみさへも
隠さふべしや
隣り
間に
男女の語らふをあな
嫉ましと言ひてはならず
いつくしく
虹たちにけりあはれあはれ
戯れのごとくおもほゆるかも
日を継ぎてわれの
病をおもへれば浜のまさごも
生なからめや
わがまへの砂をほりつつ
蜘蛛はこぶ蜂の
[#「蜂の」は底本では「峰の」]おこなひ見らくしかなし
わたつみを吹きしく風はいたいたしいづべの山にふたたび入らむ
わが友はわが枕べにすわり居り
訣れむとして
涙をおとす
午前九時五十六分唐津発、十二時半佐賀駅にて高谷寛と訣ををしむ。軌道、人力車に乗り、ゆふぐれ小城郡古湯温泉に著きぬ
ねもごろに
吾の
病を
看護してここの海べに幾夜か寝つる
わがためにここまで附きて離れざる君をおもへば涙しながる
わたつみの海を離れて山がはの
源のぼりわれ行かむとす
佐賀県小城郡南山村古湯温泉扇屋に投宿、十月三日に至る
うつせみの
病やしなふ
寂しさは
川上川のみなもとどころ
ほとほとにぬるき
温泉を
浴むるまも君が
情を忘れておもへや
遠雲の遠きまにまに近雲の近きまにまにかりがねはあひ呼びわたれ羽おとさへ聞ゆるまでに
川きよき佐賀のあがたの川のべに吾はこもりて人に知らゆな
蟷螂が蜂を
食ひをるいたましさはじめて見たり
佐賀の山べに
日の光
浴みて川べの石に居り
赤蜻蛉等ははやも飛びつつ
われひとりうらぶれ来れば
山川の水の
激ちも心にぞ沁む
この川の向ひの岸に白々と咲きそめたるは何の花ぞも
浅山をわれはわたりて
谷水の砂ながるるを今ぞ見てゐる
杉の樹に紅きあぶらの
滲みづるををさなごの時のごとく
愛しむ
曼珠沙華むらがり咲けりこの花の咲くべくなりて
未だし
籠る
山がはの石のほとりに身を寄せて日の光浴む病癒えむか
山がはの水の
香のする時にしみじみとして秋風ふきぬ
黄櫨もみぢこの
山本にさやかにて
慌しくも秋は深まむ
いつしかに
生れてゐたる
蝗等はわが行くときに逃ぐる音たつ
風ひきて
一日臥したりわが部屋のなげしわたらふ
蛇ひとつ
この家に急に病みたる
一人ありわれは
手当す夜半過ぎしころ
旅とほき佐賀の山べの
村祭り相撲のきほひ吾は来て見つ
(二十一日松森神社)
秋さりし山といへども蒸暑く雲のほびこり低くなり来も
(二十三日雷雨)
東京に子規忌歌会のある日ぞとおもひて吾は
川辺往くも
(二十六日)
やうやくに秋のふかまむ
山の
峡朝の
雷鳴りとどろけり
けふの昼
雷鳴りし雲そきゆきて秋の夜の月のぼらむとする
けふもまた山に入り来て
樹の
下に
銀杏ひろふ遊ぶがごとく
病みながら秋のはざまに
起臥してけふも噛みたる
飯の
石あはれ
此処に来て
蛇のあまたを見たりけり
常日ごろ蛇をおそれてゐしが
親しかる心になりて
此里のまだ
金つかぬ栗の実を買ふ
烟草やめてより日を経たりしがけふの
暁がた烟草のむ
夢視つ
みづからの
生愛しまむ日を経つつ
川上がはに月照りにけり
秋づきて
寂けき山の
細川にまさご流れてやむときなしも
みづ清き
川上がはに住む
魚のエダを
食したり昼のかれひに
胡桃の
実まだやはらかき
頃にしてわれの
病は
癒えゆくらむか
川のべに蜂むらがるを恐れつつ幾たび此処をとほり行きけむ
秋水をわきて悲しとおもはねど深き
狭間に見るべかりけり
向山に朝ひかり差しそめしかば谷もあらはになりにけるかも
早稲の
香はみぎりひだりにほのかにて
小城のこほりの道をわれゆく
ゆくりなく見つつわがゐる
青栗は近き電灯に照らされゐたり
曼珠沙華咲きつづきたる川のべをわれ去りなむか病
癒えつつ
小野五平翁九十一歳にて身まかりぬ
気根つめつつ
長命したり
旅ゆきつつ
勝負をしたるつよき
逸話この
翁にはめづらしからず
君死せりとふしらせを我は山深く
狭間に居りて聞けるさびしさ
ありし日を思ひいでなむ世の
相の悲しき歌を君はうたひし
きびしかりし
労働の
歌いくつかが人の心にかがやかむかも
朝古湯をたち午後長崎にかへる。万物に無沙汰の感ふかし
長崎にかへり来りて友を見つ
遠のめづらの心かなしも
校長にも会ひに行きたりおのづから低きこゑにて
病を
語る
われ病みて旅に
起臥しありしかば
諏訪の
祭にけふ逢ひにける
心しづめて部屋にし居れば
衢より神の祭りの
笛の
音きこゆ
わが部屋に
書を重ねて旅行きしが
書を持てれば手の
痕つくも
中村三郎氏と共に諏訪神社うへの丘にのぼる。諏訪祭第二日
長崎の港見おろすこの岡に君も病めれば
息づきのぼる
西彼杵郡西浦上木場郷六枚板の金湯にいたる。浴泉静養せむためなり
浦上の奥に来にけりはざまより流れ来る川をあはれに
思ひて
クルスある墓を見ながら
通り
来し
浦上道を何時かかへりみむ
日もすがら
朽葉の
香する湯をあみて心しづめむ
自らのため
僂麻質斯病みをる
媼等にあひ
交り日ねもす多く言ふこともなし
朝な朝な同じ頃あひに
稲田道児らは走りて学校へ行く
道のべに
赤楝蛇多きをおどろきつつ
西浦上をもとほりて
来も
山のべにひそむがごとき
切支丹の
貧しき村もわれは見たりき
かかる墓もあはれなりけり「ドミニカ柿本スギ之墓行年九歳」
「ドナメ松下ヒサ墓行年九十二歳」
信者にて世を
終へしものなり
信徒のため
宝盒抄略といふ書物
御堂の中にぽつりとありぬ
小さなる
御堂にのぼり散在する
信者の家を見つつしゐたり
この
宿に
島原ゆ来し
少女居りわがために夕べ
洋灯を運ぶ
油煙たつランプともして
山家集を吾は読み居り
物音たえつ
この家の
主人わざわざ長崎に買ひたる
刺身を吾に食はしむ
ここ越えてゆかば長崎の
西山にいづるらむとて
暫く
歩く
ひらけたる谷にむかひて長崎の港のかたをおもひつつ居り
十月十五日、六枚板発。少女予の荷を負ふ。午前十時四十分長与発、午後一時小浜著、柳川屋旅館に投ず。学生立石源治静養に来居るに会ふ
朝なさな船の
太笛聞きしより
山峡のこともわきて思はず
土手かげに二人来りて
光浴む一人はわれの教ふる
学生
覇王樹のくれなゐの花海のべの光をうけて
気を
発し居り
砂浜に
外人ひとりところがりて戯れ遊ぶ
日本のをみな
塩はゆき
温泉を浴みてこよひ
寝む
病癒むとおもふたまゆら
鴎等はためらひもなく今ぞ飛ぶ
嫉くしおもふ
現身われは
日本舟にひるがへりゐる旗見つつその
伝承をかたみに語る
長崎の
茂木の
港にかよふ船ふとぶとと
汽笛を吹きいだしたり
入りつ日の
紅き
光のゆらぐとき
磯鵯のこゑもこそ
聞け
日だまりにけふも来りぬ
行末のことをおもはば悲しからむぞ
ここに来て
落日を見るを
常とせり海の
落日も忘れざるべし
小浜なる
森芳泰来わがための心づくしを
永くおもはむ
温泉の山のふもとの
塩の
湯のたゆることなく吾は
讃へむ
旅にして
彼杵神社の
境内に
遊楽相撲見ればたのしも
祐徳院稲荷にも吾等まうでたり遠く
旅来しことを
語りて
嬉野の旅のやどりに
中林梧竹翁の手ふるひし
書よ
この山を越えて進みし
大隊が演習やめて
一夜湯浴みす
透きとほるいで湯の中にこもごもの思ひまつはり
限りもなしも
この村の小さき
社の森に来て
黙すことあれど心足らはず
わが
病やうやく癒えぬとおもふまで
嬉野の山秋ふけむとす
十月二十六日。午前八時四十分嬉野発、十時四十三分彼杵発、十二時半長崎著
病院のわが部屋に来て
水道のあかく出で来るを
寂しみゐたり
武藤長蔵教授より大浦天主堂に聖体降福式あることを知らせありしかど、身をいたはりてまゐらず
けふ
一日腹をいためて
臥しをれば
聖きまとゐに行きがてなくに
長尾寛済十月八日東京にて没す行年四十、東京巣鴨真性寺に葬る。寛濟は予より長ずること一歳なりき
長崎に心しづめて居るときに
永遠の
悲しみ聞かむと思ひきや
浅草の
三筋町なるおもひでもうたかたの
如や過ぎゆく
光の
如や
黄檗の
傑れし僧のおもかげをきのふも偲びけふもおもほゆ
赤く塗りし大き
木の
魚かかりゐる僧等の
飯のときに打つべく
扁額に
海不揚波の四つの
文字おごそかにしも年ふりにける
年々ににほふうつつの秋草につゆじも
降りてさびにけるかも
石垣のほとりに居れば過ぎし世のことも偲ばゆよみがへるはや
もろ人が此処に
競ひて
学びつるその時おもほゆ
井戸をし見れば
芭蕉葉もやうやく
破れて秋ふけぬと思ふばかりに物ひそかなり
洋学の
東漸ここに
定まりて
青年の
徒はなべて
競ひき
柿落葉色うつくしく散りしきぬ
出島人等も来て愛でけむか
鳴滝の
激ちの音を聞きつつぞ
西洋の
学に
日々目ざめけむ
深崇寺に栗崎道喜の墓を訪ふ顕耀院道喜正元居士
祭も過ぎて照らす日の光しづかなる長崎の山いろづきにけり
くれぐれの家に
石蕗の黄の花はわれとひととを招ぐに似たり
浦上の
女つらなり荷を運ぶそのかけごゑは此処まで聞こゆ
白く光るクロスの立てる丘のうへ人ゆくときに大きく見えつ
浦上の
女等の生活
異りて西方のくにの
歎きもぞする
長崎の人等もなべてクロス山と名づけていまに見つつ経たりき
斜なる
畠の上にてはたらける
浦上人等のその
鍬ひかる
牛の背に畠つものをば負はしめぬ
浦上人は世の唄うたはず
黄櫨もみぢこきくれなゐにならむとすクロス山より吹く
夕風
モリソン文庫
明恵上人の歌集をば少しく読みて
吾ものおもふ
西比列亜よりおくりこされし
俘虜あまた町にむらがるきのふも今日も
大浦の道のほとりにルーヴルの紙幣を売ると俘虜は佇む
チエッコへ帰らむとする
捕虜ひとり山の石かげに自殺をしたり
寺町の墓のほとりにもかたまりてチエッコの俘虜は時を費す
親しかる友をむかへて
身の
上のことも語りぬ夜のふくるまで
(平福氏)
このとし秋より冬にかけ折にふれて作りたる歌、大阪毎日新聞、大阪朝日新聞に公にせり
真日あかく港の西に落ちゆきて今しみじみと
夕映えにけり
港より
太笛鳴れるひまさへや我が足もとに
蟋蟀のこゑ
みち足らはざる心をもちて入日さす
切支丹坂をくだり来にけり
塩おひてひむがしの山こゆる牛まだ幾ほども行かざるを見し
山かげの大根の畑に日もすがら光あたるを見るはさびしも
港をよろふ山の
棚畑に人居りて今しがた
昼飯を食ひたるらしき
雨はれし港はつひに
水銀のしづかなるいろに夕ぐれにけり
友
二人もつひに帰りぬはりつめし心ゆるみて水を飲むなり
(土屋氏・平福氏)
支那街のきたなき家に我の食ふ黒き
皮卵もかりそめならず
夏の初めより病に罹り居りしかど
癒えて
白霜の降りたるを見つ
君が
業務は
忙しからむ然れども張りつむる心を
守り居らむか
長崎の港を見れば我がこころ
和みしづまるをあやしと思ふな
セミョノフの
砲艦ひとつ
泊てゐるを
背向にしつつ我は
急げり
病いえてここに来りぬ目のもとの落葉のしづかさを独ゆかむか
長崎にも霜ふりにけりありふれしもののあはれと我は思はず
さむき雨長崎の山にも降りそそぐ冬の
最中となるにやあらむ
ものぐるひの
被害妄想の心さへ悲しきかなや冬になりつつ
ウンガルンの
俘虜むらがりて長崎の街を歩くに赤く
入日す
あはれとも君は見ざらむ寺まちの高き
石垣にさむき雨かな
みちのくの
仙台よりおくりくれしてふ
納豆を食む心しづけさ
山上の白き
十字架の見えそむる
浦上道は霜どけにけり
豆もやしと氷豆腐を買ひ来つつ
汁つくらむと心いそげり
長崎の港の岸をあゆみゐるピナテールこそあはれなりしか
うらがなしき
夕なれどもピナテールが
寝所おもひて心なごまむ
午前武藤長蔵教授、三上知治画伯と共に大浦天主堂を訪ひ、午後ピナテール(Pignatel)翁を訪ふ
寝所には
括枕のかたはらに
朱の
筥枕置きつつあはれ
冬の雨ふるけふをしも
Pignatel が家をたづねて身にし
染むもの
年老いてただひとりなるピナテール
寂かなるごとくなほも
起臥す
このやまひ
癒したまへと
山川をゆきゆきし
歳の暮となりぬる
長崎を去る日やうやく近づけば小さなる論文に心をこめつ
クリスマスの長崎の
御堂に入ることも二たびをせむ吾ならなくに
暮れの年妻ともに身をいたはりて筑紫のくにの旅ゆかむとす
ひむがしの峠を越ゆる牛ひとつ歩みしづかなるをわれは見にけり
(西山所見)
くもり日の港をいでてゆく船はかなしきかなやけむりあげつつ
大正九年十二月三十日長崎発、熊本泊、翌三十一日熊本見物を終り、同夜人吉林温泉泊。
大正十年一月一日、林温泉より鹿児島に至る。一泊
秀頼が五歳のときに書きし文字いまに残りてわれも
崇む
熊本のあがたより遠く見はるかす
温泉が
嶽は
凡ならぬやま
光よりそともになれる
温泉の山腹にして雲ぞひそめる
球磨川の岸に群れゐて遊べるはここの
狭間に
生れし子等ぞ
みぎはには
冬草いまだ青くして朝の球磨川ゆ霧たちのぼる
青々と水綿ゆらぐ川のべにわれはおりたつ冬といへども
一月の冬の
真中にくろぐろと
蝌蚪はかたまるあはれ
白髪岳市房山もふりさけて薩摩ざかひを汽車は行くなり
大畑駅よりループ線となり
矢嶽越す
隧道の中にてくだりとなりぬ
桜島は黒びかりしてそばだちぬ
溶巌ながれしあとはおそろし
鹿児島の名所を人力車にて見てめぐり疲れてをりぬ妻と吾とは
わが友はここに居れどもあわただし使を君にやることもなし
城山にのぼり来りて劇しかりし戦のあとつぶさに聞きて去る
開聞のさやかに見ゆるこの朝け桜島のうへに雲かかりたる
大隅は山の
秀つ
国冬がれし山のいただき朝日さすなり
霧島は朝をすがしみおほどかに白雲かかるうごくがごとし
霧島はただに
厳しここにして
南風に晴れゆきしとき
宮崎の神の社にまゐり来てわれうなねつく妻もろともに
冬の雨いさごに降りてひろ前にあゆめるわれの靴の音すも
ねたましくそのこゑを聞く
旅商人は行く
先々に
契をむすぶ
午後三時青島につき、広瀬旅館投宿、第五高等学校教師ポーター(五十四歳)滞在しゐる
打寄する浪は寂しく
南なる
樹々ぞ生ひたるかげふかきまで
暖き
洋のながれのありてこそかかる繁りとなりにけらしも
旅館にはポーターといふ
洋人もやどりて
日本の酒をのむ見ゆ
青島の
木立を見ればかなしかる
南の
洋のしげりおもほゆ
南より流れわたれる
種子ひとつわが
遠き
代のことしぬばしむ
かすかなる
光海よりのぼりくる
日向のあかつきの国のいろはや
青島に
一夜やどりてひむがしのくれなゐ見たりわが
遠き
代や
ひむがしは赤く染まりてわが覚むる日向の国のあかつきのいろ
わたつみの海につづける
茜空二時にしてくもりに入りぬ
霧島はおごそかにして
高原の
木原を
遠に雲ぞうごける
灰いろのくすしき色も日あたりてこの
高山は見れども飽かず
あたらしき年のはじめを
旅来しが高千穂の峰に添ふごとかりき
青井岳の駅出でてより
猪の床の話を聴きつつ居たり
久留米、「寛政五癸丑年六月二十七日、生国上州新田郡細谷村、高山彦九郎正之墓」。上野旅館にてアララギ歌会。梅林寺を訪ふ
久留米なる
遍照院にわれまうづ「
松陰以白居士」のおくつき
神つ代のこと
恋しみてしらぬひ
筑紫のくにに果てし君はも
夜もすがら歌を語りて飽かなくに
朝鶏が鳴く
茜さすらし
九州の
十一人の友よりてわれと歌はげむ夜の明くるまで
梅林寺に紫海禅林の扁額あり
谷を持ちたるこの
仏林よ
三生軒居室より見おろす谷まには僧一人来て松葉を掃くも
筑後川
日田よりくだる白き帆も見ゆるおもむきの話をぞ聞く
観世音寺都府楼のあともわれ見たり
雑談をしてもとほりながら
奥田氏送別会を栄家に開く。会者図書館談話会員、主賓のほか、永見徳太郎、増田廉吉、谷田定男、林源吉、大庭耀、水谷安嗣諸氏
くさぐさの事を思ひて尽きざるにこよひ吾等は
互に
酔ひつ
南の国はゆたけし朝あけて君を照らさむ
天つ
日のいろ
奥田啓市氏鹿児島県立図書館長として出発す。予さはりありて見おくり得ざりしことを悔ゆ
このゆふべ
悔いおもへども君とほく今し去りゆく
悔いてかへらず
長崎の港をよろふむら山に
来向ふ春の光さしたり
ものぐるひはかなしきかなと思ふときそのものぐるひにも吾は
訣れむ
長崎に来りて既にまる
三年友のいくたり忘れがたかり
きびしかりしはやり風にて
見近くの
三たりはつひに
過ぎにけらずや
そがひなる山を越えゆく
矢上にも
思のこりてわれ発たむとす
雪大に降、諸家に暇乞にまはる。夜茂吉送別歌会を長崎図書館に開く
長崎をわれ去りなむとあかつきの
暗きにさめて心さびしむ
長崎をわれ去りゆきて
船笛の長きこだまを人聞くらむか
白雪のみだれ降りつつ日は暮れて港の音も聞こえ来るかな
行春の港より鳴る
船笛の長きこだまをおもひ出でなむ
三月十六日。午後十一時長崎を出発す。先輩知友多く見送らる。予長崎に居ること足掛五年、満三年三月なり。前田毅、江藤義成二君同車し、途上門司義夫君に会ふ
午前五時博多著、栄屋旅館。大学生青木義作、金子慎吾二君来る。榊、久保二教授を訪問し、耳鼻科教室精神病学教室を参観す。夜久保博士夫妻と晩餐を共にす
もろびとに
訣をつげて立ちしかど
夜半過ぎて心耐へがてなくに
春さむしとおもはぬ部屋に長崎の
御堂の話長塚
節の話
あたたかき
御心こもるこの
室にあまたの猫も飼はれて遊ぶ
午前九時四十二分博多発、十一時四十二分小倉著、市中を見物し、ついで延命寺に行き公園を逍遥、奇兵隊墓、名物おやき餅
春いまだ寒き
小倉をわれは行く鴎外先生おもひ
出して
公園の
赤土のいろ
奇兵隊戦死の
墓延命寺の春は
海潮音
午後一時小倉発、午後四時四十二分別府著、別府には大正八年夏一たび来りき。街見物、保養院長鳥潟博士訪問、博士は大学同窓也。大分共進会を見る
あたたかき海辺の街は
春菊を既に売りありく霞は遠し
鳥の音も海にしば鳴く
港町湯いづる町を二たび過ぎつ
三月二十日。午後二時別府より紅丸にて出航、高浜上陸、汽車にて道後著、入湯一泊。二十一日。松山見物(人力車)、三津港より上船、多度津上陸、琴平行一泊、神社参拝
年ふりし
道後のいでゆわが
浴めばまさごの中ゆ湧きくるらしも
大洋をわれ渡らむにこの神を
斎ひてゆかな妻もろともに
三月廿二日。琴平より高松、見物(人力車)、栗林公園、屋島。高松午後四時発、岡山午後七時著、一泊。二十三日。第六高等学校に山宮・志田二教授を訪ひ、医学専門学校に荒木(蒼太郎)教授を訪ふ。市内(人力車)城、後楽園
この園に
鶴はしづかに遊べればかたはらに
灰色の
鶴の
子ひとつ
時もおかずここに
攻めけむ古への戦のあと
波かがやきぬ
元義がきほひて歌をよみたりし
岡山五番町けふよぎりたり
岡山を発してゆふぐれ神戸著、中村憲吉君出迎ふ。みつわにて神戸牛肉を食ふ。香櫨園畔の中村氏方に泊。長女良子さん(五歳)次女厚惠さん(三歳)
ひさびさに君とあひ見てわが病癒えつることをうれしみかはす
何といふ
平安なるか
朝よりわがまへに友のをさなご二たり
三月廿四日。大阪。大学法医学教室(中田篤郎氏)、精神病学教室(小関光尚氏)、浪速花屋碑、心斎橋通、道頓堀(文楽人形芝居)、よる森園天涙、花田大五郎、加納曉氏等も加はり晩餐。中村氏宅泊。
三月廿五日より廿七日。中村君の案内にて奈良を見る。法隆寺佐伯管長にも会ふ。雨降る。ついで大和に行き万葉の歌に関する古跡をめぐる。ゆふ京都著。藤岡旅館に入る。
三月廿八日。宇治、鳳凰堂、平等院、宇治川花屋敷、佐久間象山遭難地、加茂川、本能寺、御所、烏丸通、堀川、嵐山電車、仁和寺の山、塔、如意輪観音、大竹林、隠窟、臨済宗大本山天龍寺、保津川、桂川、金閣寺(鹿苑院)、大極殿(平安神宮)。藤岡旅館
いそがしき君はひねもすわがために
古山川をみちびきやまず
あはれあはれ恋ふる心に
沁みとほり
山川ぞ見し君がなさけに
午前十時四十分京都を発ち、米原駅下車、番場蓮華寺に

応和尚にあひまつる。石川隆道、樋口宗太郎二氏に会ふ
ぬばたまの
夜さりくれば
湯豆腐をかたみに食へとのたまひにけり
夜もすがら底びえしつつありたるが
暁庭に
薄氷が見ゆ
この寺に
応和尚よろこびて
焦したる
湯葉をわれに食はしむ
三月三十日。米原発急行にて上京す。車中、榊、和田、小野寺の三教授にあふ。教授等は学会出席のために上京するなり。
四月一日。日本神経学会に出席し、呉秀三先生の大学教授莅職二十五年祝賀会(上野精養軒)に出席しぬ
芳渓呉秀三先生大学教授莅職二十五年賀歌竝正抒心緒謌(仏足石歌体)二十五章
長崎の港をよろふ
山並に来むかふ春の光さしたりあまつ
光は
長崎にわれ
明暮れてとりがなくあづまの国の君をしぬびつしぬびけるかな
み冬つき来むかふ春にこころこそゆらぎてやまね
導きたまふ
情しぬびて
しらぬひ
筑紫のはてにわれ居れどをしへの
親を
讃へざらめや
仰がざらめや
薬師はさはにをれどもあれの
師はおほかたに似ず
現し
世のため
今の
世のため
さちはひに
充ち
満ちにつつあれの
師の君が
力はいや
新しもきみがいのちは
ものぐるひは
哀しきかなとおもふときさびしきこころ君にこそ寄れ
救ひたまはな
しきしまのやまとにしてはわが君や師のきみなれや
Pinel Conolly は
外くににして
霊枢に
狂といふともわがどちは
狂とな云ひそと
宣しけるらし病むひとのため
二十年にあまる
五とせになるといふみ
祝のにはに差せる光や
瑞のみひかり
ものぐるひをまもりたまひて年を経し君がみ
髭はつひに白しもその
清しさや
しろがねの
髭さへひかり
新幸もいよよ
重ねむ君がいのちやおのづからなる
ものぐるひは悲しきものぞ
護らせる君こそたふとあはれ
尊きけふの
尊さや
うからやから
弥々さかゆる君ゆゑに
新幸もかぎり知らえず
祝はざらめや
長崎に来てより三とせは過ぎにけりいざ帰りなむあづまの春へ君がみもとへ
なまけつつ
十年を経たりおこたりて
十歳過ぎけむことをしおもふ君を
祝ぎつつ
中学の
四級生にてありけむか
精神啓微をわれは買ひにき
小川まちにて
もろもろのくるへる人のあはれなるすがたを見つつ君をおもはむ
敬ひまつり
わがもてるものは
貧しとおもへども
狂人守りてこの世は
経なむありのまにまに
をしへを受けしもろもろの人あつまりて教への親を囲むけふかも
言寿ぎにつつ
うつしみの
狂へるひとの
哀しさをかへりみもせぬ世の人
醒めよもろびと
覚めよ
君がこころひろく
寛けくたまかづら絶ゆることなく
幸はへてあらむ
若えつつあらむ
おなじ世にうまれあひたる
嬉しさや教へのおやにこの
敬ひをささげまつらむ
むらぎものこころ傾けことほぎの
吉言まうさむ
酒祝もせよ
豊酒清酒に
あまつ日の光るがごとく
月読の照らすがごとく
常幸福にいます君かも
大正六年十二月長崎に赴任してより満三年三月余、足掛五年になりて大正十年三月帰京しぬ
東京に帰りきたりて人ごろしの
新聞記事こそかなしかりけれ
閨中の
秘語を心
平らかに聞くごとし町の夜なかに
蛙鳴きたり
長崎よりかへりてみれば銀座
十字に牛は通らずなりにけるかも
さみだれの
日ならべ降れば
市に住む我が
腎ははや衰へにけり
流行の心理は
模倣憑依の
概念を以て
律すべからず夏の
都会に
ゆたかなる
春日かがよふ
狂院に
葦原金次郎つひに老いたり
さみだれはしぶきて降れり
殺人の心きざさむ人をぞおもふ
わが心いまだ落ちゐぬにくれなゐの
胡頽子を
商ふ夏さりにけり
われ
銀座をもとほり居りてブルドック連れし
女にとほりすがへり
長崎の昼しづかなる
唐寺やおもひいづれば
白きさるすべりのはな
朝はやき
日比谷の
園に
腫みたる足をぞ
撫る
労働びとひとり
馬に乗りて行く人のあり日がへりに玉川あたり迄行くにやあらむ
浅草の
八木節さへや悲しくて都に
百日あけくれにけり
ものぐるひを
看護して
面はればれとしてゐる
女と相見つるかも
長崎にて暮らししひまに虫ばみし金槐集をあはれみにけり
さ庭べにトマトを植ゑて
幽かなる花咲きたるをよろこぶ吾は
けふもまた何か気がかりになる事あり虫ばみし
書いぢり居れども
このごろ又
外国人を殺しし
盗人あり
我心あやしきを君はとがむな
畳のしたにナフタリンなどふり
撒きて蚤おそれゐる吾をしぬばね
心いらだたしく風吹きし日は過ぎてかへるで赤く萌えいでにけり
亀戸の普門院なる
御墓べに水青き溝いまだのこれり
月読の山はなつかし
斑ら雪照れる春日に解けがてなくに
ふきいづる
木々の芽いまだ
調はぬみちのく山に水のみにけり
谿ふかくしろきは
吾妻山なみの
雪解のみづのたぎつなるらし
みちのくは春まだ寒し
遠じろくはざまをいづる川のさびしさ
かなしきいろの
紅や春ふけて
白頭翁さける
野べを来にけり
われひとりと
思ふ心に居りにけりをさなき
蚕すでにねむりつ
山がひに日に照らされし田の水やものの
命の
幽かなりけり
みちのくのわが
故里に帰り来て
白頭翁を掘る春の山べに
山陰のしづかなる野に
二人ゐて細く萌えたる蕨をぞ
摘む
みちのくの春の光はすがしくてこの山かげにみづの
音する
山かげを吾等
来しかば
浅水に
蛭のおよぐこそ
寂しかりけれ
木立よりかこまれてゐる春の
小野昆虫跳ぬるだにこの
平安よ
かりそめとおもふは
寂し
飼ひし
蚕は
黄いろき繭にこもりはてたり
胃腸病院に神保孝太郎博士を訪ひ、ついで入澤達吉博士の診察を受く
われひとり物おもふ
室にきこえくる
鈍くおもおもしき
衢のおとは
けふ
一日たえまなく汗が流れしと
記しおかむわが
病のことも
甲斐がねを汽車は走れり時のまにしらじらと
川原の見えし
寂しさ
しづかなる
川原をもちてながれたる
狭間の
川をたまゆらに見し
山がひにをりをりしろく
激ちつつ
寂しき川がながれけるかな
ふく風はすでにつめたし
八ヶ
嶽のとほき
裾野に汽車かかりけり
天づたふ日のかたむける
信濃路や山の
高原に
小鴉啼けり
高原に足をとどめてまもらむか
飛騨のさかひの雲ひそむ山
澄みはてていろふかき空に
相寄れる
富士見高原ゆふぐれにけり
あかときはいまだ暗きに目ざめゐる吾にひびきて啼く鳥のこゑ
蚊帳つりてひとりねむりしあかときの
冷たきみづは歯に沁みにけり
みすずかる信濃
高原の朝めざめ
口そそぐ水に落葉しづめり
山ふかき林のなかのしづけさに鳥に追はれて落つる蝉あり
桔梗のむらさきの色ふかくして富士見が原に吾は来にけり
松かぜのおともこそすれ松かぜは遠くかすかになりにけるかも
谷ぞこはひえびえとして
木下やみわが
口笛のこだまするなり
あまつ日は松の
木原のひまもりてつひに
寂しき
蘚苔を照せり
ともし火のもとにさびしくわれ居りて
腫みたる足のばしけるかな
ひとを
愛しとおもふ心のきはまりて吾に
言つげし友をぞおもふ
諏訪のみづうみの
泥ふかく住みしとふ
蜆を
食ひぬ友がなさけに
みすずかる信濃の国に足たゆく
灯のもとに
糠を煮にけり
高はらのしづかに暮るるよひごとにともしびに来て
縋る虫あり
窓外は月のひかりに照されぬともし火を消しいざひとり寝む
しづかなる山の高原とおもへども電流に触れてひとは死にけり
月の光いまだてらさず
白雲は谷べにふかく沈みたるらし
潮浴に
安房の海べに行きたりしわがをさなごは眠りけむかも
夕飯をはやくしまひてこのよひは妻をおもへり何か知らねど
諏訪のうみの
田螺を食へばみちのくに
稚かりし日おもほゆるかも
よひとおもふにはや更けそめし
山家なるこのともしびに死ぬる虫あり
うつしみは
現身ゆゑに
嘆かむに山がはのおともあはれなるかも
文身だらけの
屍隅田川に浮きしとふ
記事も身に沁む山の夜ふけに
やまふかきその
谷川に住むといふやまめ
岩魚を人はとり
食む
八ヶ嶽の裾野のなびきはるかにて鴉かくろふ白樺の森
蓼科はかなしき山とおもひつつ
松原なかに入りて来にけり
いまだ鳴きがてぬこほろぎ土のへにいでて遊べり黒きこほろぎ
秋づくといまだいはぬに
生れいでて我が足もとに逃ぐるこほろぎ
秋らしき
夜空とおもふ目のまへを光はなちて行く蛍あり
谷川のほとりに見ゆるふる道はたえだえにして山に入るなり
高原の月のひかりは
隈なくて落葉がくれの水のおとすも
ながらふる月のひかりに照らされしわが足もとの秋ぐさのはな
月あかし谷ぞこふかくこもり鳴る
釜無川のおとのさびしさ
秋の夜のくまなき月に似たれどもこほろぎ鳴かぬ
茅生のつゆ原
飛騨の空に
夕の光のこれるはあけぼのの如くしづかなるいろ
飛騨の
空にあまつ日おちて
夕映のしづかなるいろを月てらすなり
空すみて照りとほりたる月の夜に底ごもり鳴る山がはのおと
わがいのちをくやしまむとは思はねど月の光は身にしみにけり
あららぎのくれなゐの
実を
食むときはちちはは
恋し
信濃路にして
ゆふぐれの日に照らされし
早稲の
香をなつかしみつつくだる
山路
八千ぐさは朝よひに咲きそめにけり桔梗の花われもかうのはな
やまめの子あはれみにつつゆふぐれて釜無川をわたりけるかな
山のべににほひし
葛の
房花は藤なみよりもあはれなりけり
くたびれて吾の
息づく
釜無の谷のくらがりに啼くほととぎす
夕まぐれ
南谿よりにごりくる
谿がはの
香をなつかしみつも
逝きましてはや
九年になるといふ
御寺の池に蓮咲かんとす
八千ぐさの
朝な
夕なに咲きにほふ富士見が原に吾は来にけり
日の
御子むかふる足る日と信濃なる富士見の里にわれはめざめぬ
わが心かたじけなさに充ちにけり雨さむきけふをあへる友はや
大正十年十月二十六日東京駅発、二十七日熱田丸横浜出帆、諸先輩諸友の見送を忝うせり。二十八日神戸着、上陸諸友に会ふ。京都に遊び藤岡旅館泊、中村憲吉君宅一泊。六甲苦楽園六甲ホテル一泊。十一月一日神戸出帆
門司著、上陸、巌流島、下関万歳楼、山陽ホテルに泊る
しづかにいにしへ人をしたふ心もて冬の港を渡りけるかな
(巌流島三首)
わが心いたく悲しみこの島に
命おとしし人をしぞおもふ
はるかなる
旅路のひまのひと時をここの
小島におりたちにけり
十一月三日。午前十二時門司出帆、藤井公平、奈良秀治、山口八九子三氏見送る。玄海浪高く、四十八分時計をおくれしむ。大方の船客船に酔ふ。
海の
面しづかになれる朝あけて
四十八分の
時おくれしむ
あかあかと
濁れる海と
黯湛くも澄みたる海と
境をぞする
戎克の
帆赭き色してたかだかとゆく
揚子江の
川口わたる
上海のもろもろの
様相人の世のなりのままなるものとこそ思へ
「日本首相原敬被刺」と報じたる
上海新聞の
切抜しまふ
(六日)
清麗とも
謂ふべき
小都市につらなりし山のかなたの
支那国の見ゆ
たちまちに
山上にのぼり見おろせる
市街冬がれのさまにはあらず
no smoking に
不准食煙と注せりき「
食煙」の文字善しと思はずや
茶館には「
清潤甜茶」の
扁がありにほへる
処女近づき
来る
海岸はさびしき
椰子の林より
潮のおとの
合ふがに聞こゆ
空ひくく
南十字星を見るまでに吾等をりけるわたつみのうへ
日本国の森に似しかなと近づくに
椰子くろぐろとつづきて居たり
腰まきを腰に巻きつつとほるもの
男女とまだ
雅きと
汗じめるわが
帳面の
片隅にブルンボアンとしるしとどむる
ジョホールの
宮殿のまへに佇みしわれ等
同胞十人あまりは
椰子しげる中に群れゐし
水牛がうごくとき人をおそれしめつつ
岬なるタンジョンカトン訪ひしかばスラヤの落葉
蟋蟀のこゑ
太陽をマタハリといひて
礼拝すまた「
感天大帝」の
文字
牛車ゆるく行きつつ南なる国のみどりに日は落ちむとす
「にほんじんはかの
入口」の
標あり
遊子樹といふ樹さへ悲しも
火葬場にマングローヴ
樹植ゑたりき其処の灰を手にすくひても見つ
二葉亭四迷も此処に火葬せらる
日本人墓地の中にてはるかなる旅をし行かむこころ
和ぎ居り
赤き道
椰子の林に入りにけり
新嘉坡のこほろぎのこゑ
はるばると船わたり来てかなしきはジャランプサルの
夜のとよめき
マラッカの
山本に霞たなびけりあたたかき国の霞かなしも
平なる
陸にかたまり青きをば
柳の
木かとおもひつつ居る
東印度会社のしるし今
遺り
過去のにほひを放ちてきたる
戦死者の
記念塔のまへにセナ
樹うゑ往くも還るも見む人のため
日本人の歯科医にあひぬささやかに
紙障子などたてて居たりき
今しがた牛
闘ひてその一つ
角折れたるが
途のうへに立つ
ふさふさにバナナ成り居るをまのあたり見てゐる吾等馴れむとすらし
マラッカの
街上にしてわれも見つ
富める
女の
面の
愛しきを
聖 Francis Xavier の墓
時ふりて
此処にしづまる雪降らぬくに
マラッカをはなれ来りて入つ日の雲のながきににほふ
紅のいろ
額より汗いでながら
支那人墓地馬来人墓地めぐりて来たり
ややにしてペナンは近しそのはての空に白き雨ふるが見えつつ
その
角を色うつくしく塗れる牛幾つも通るペナンに来れば
蛇おほく住める寺あり
額の文字「
恩沾無涯」は
国境せず
ペナン川に添ひて
遡るところには
水田ありて
日本しのばゆ
支那街はここにも伸びておのづから富みたるものも
代をしかさねつ
夜に入りて
大雨となり乗りこめるデッキ
航者(deckpassenger)の床さへ濡れぬ
水の中に
水牛の群れゐるさまはなよなよとせるものにしあらず
おほどかに水張りて光てりかへし
田植は今にはじまるらむか
この村に
鍛冶が
鋼鉄を鍛へ居り
鎚のひびきも
日本に似たり
Kandy にゆく途中にて
土民等が象に命令するこゑ聞きつ
高々と聳えてゐたる山ひとつマハベリガンガと云ふにやあらむ
ことわりはおのづからにて
錫蘭のサカブタの山に滝かかりけり
コロンボのちまたの上に
童子等が
独楽をまはせり遊び楽しも
ここにしも植物園のもろ木々が油ぎりたる葉を誇らむか
仏牙寺にまうできたりて
菩提樹の
種子日本にも渡れるをおもふ
おほきなる白き
獣ちひさなる
獣を食ふところを彫りぬ
椰子の葉をかざしつつ来る
男子らの黄なるころもは皆
仏子にて
つづき居る
椰子の
木立のひまもりて
入日の雲のくれなゐ見えつ
冬さむき国いでて遠くわたりけりセイロンの島に蛍を見れば
余光さへなくなりゆきし
渡津海にミニコイ嶋の灯台の見ゆ
あらはれし二つの
虹のにほへるにひとつはおぼろひとつ
清けく
印度の
洋けふもわたりて
食卓に
薯蕷汁の
飯を人々たのしむ
わたつみの
空はとほけどかたまれる
雲の
中より
雷鳴りきこゆ
虹ふたつ
空にたちけるそのひとつ
直ぐ
眼のまへにあるにあらずや
アデン湾にのぞむ山々
展くれど青きいろ見ゆる山一つなし
佐渡丸ととほり過がへり海わたる
汽笛かたみに高きひととき
朝あけて遠く目に入る
鋭き
山をアフリカなりといふ声ぞする
空のはてながき
余光をたもちつつ
今日よりは日がアフリカに落つ
夜八時バベルマンデブの
海峡を過ぎにけるかも星かがやきて
ペリム
島亜刺比亜の国に近くしてその灯台の見えはじめたり
アフリカに日の入るときに
前山は黒くなりつつ雲の中の日
あかつきは海のおもてに
棚びける
黄色の
靄あな
美しも
紅海に入りたる船はのぼる
陽を右にふりさけ見れども飽かず
甚だしく
紅かりし雲あせゆきて
黙示のごとき三つ星の見ゆ
紅海の船の上より見えてゐるカソリン
山は
寂しかりけり
海風は北より吹きてはや寒しシナイの山に
陽は照りながら
Suez より Genef

, Fayed, Nefisha, Esmailia, Abou-hammad, Zagazig, Benha 等の駅を経て Cairo 著。ピラミッド、スフィンクス等よりカイロ市街を観、Port Said に至る。同行神尾、薬師寺、庄司三氏のみ
大きなる砂漠のうへに
軍隊のテントならびて飛行機飛べり
丘陵のうへに白雲の棚びけるところもありぬすずしくなりて
砂原[#ルビの「すなはら」は底本では「はなはら」]のうへに
白々と
穂にづるはしろがね
薄といふにし似たり
列なしてゆく
駱駝等のおこなひをエヂプトに来て見らくし好しも
Bitterlake といふ
湖水が見ゆ
小鴉のむれ飛びをるは何するらむか
土の
家部落をなして
女など
折々いでて
此方見にけり
英吉利の兵営なるかかたはらに
軍馬の
調練せるところあり
モハメッドの僧侶ひとりが
路上にてただに
太陽の
礼拝をする
たかり来る蠅あやしまむ
暇なく小さき町に汽車を乗換ふ
白き鷺
畑のなかに
降りて居り
玉蜀黍の
列ながくつづく見ゆ
しづかなる午後の
砂漠にたち見えし
三角の
塔あはれ色なし
ピラミッドの
内部に入りて
外光をのぞきて見たりかはるがはるに
スフィンクスは
大きかりけり
古き
民これを
造りて心なごみきや
はるばると砂に照りくる
陽に焼けてニルの
大河けふぞわたれる
はるかなる国にしありき
埃及のニルの河べに立てるけふかも
ニル河はおほどかにして濁りたり大いなる河いつか忘れむ
朝床に聞こえつつゐる
馬の
鈴われの心をよみがへらしむ
黒々としたるモッカを飲みにけり明日よりは寒き海をわたらむ
この夕べ
鯛の
刺身とナイル
河の
鰻食はしむ
日本の
船は
シシリーのイトナの山はあまつ日にかがよふまでに雪ふりにけり
伊太利亜の
Reggio の町を見つつ過ぐしらじらとせる
川原もありて
Messina の
海峡わたり冬枯のさびたる山が目にし
入り
来も
孤独なるストロンボリーのいただきに
煙たつ見ゆ
親しくもあるか
Bark といふ
三檣船も見えそめてコルシカ
島に近づきゆかむ
朝さむきマルセーユにて白き霜
錻力のうへに見えつつあはれ
山のうへのみ寺に来り見さくるや
勝鬨あぐる時にし似たり
十二月十五日[#「十二月十五日」は底本では「二月十五日」]午後十時十分巴里ガル・ド・リオン著。オテル・アンテルナショナール投宿。銀行、大使館、市街、トロカデロ、エツフエル塔、エトワール、ルウヴル、パンテオン、アンヴァリード、リユクサンブール、クルニエ博物館、オペラ、地下鉄道(メトロ)等。十八日まで滞在す
霧くらく
罩めて晴れざる
巴里にて
豊なるものを
日々に求めき
ルウヴルの中にはひりて
魂もいたきばかりに去りあへぬかも
英雄はその
光をも
永久にして放たむものぞ疑ふなゆめ
Ici repose un soldat fran

ais mort pour la patrie 1914-1918われもぬかづく
十二月十九日、午前八時十分、ガル・ド・ノールを出発して伯林に向ふ。小池・神尾二君と予と同車なり。十二月二十日伯林アンハルターバンホーフ著。石原房雄君出迎ふ。Hotel Alemannia 投宿。
○爾来前田茂三郎君はじめ多くの同胞に会ふ。○十二月二十七日、ハンブルグに行き老川茂信氏に会ふ。帰途の汽車中にて信用状の盗難に遭ひ困難したるが、信用状大使館に届き、謝礼三五〇〇麻克にて結末を告ぐ。
○三十一日、ユニオン・バレエにて除夜を過ごし、十二時に大正十一年の新年を祝ふ。○四日より連日美術館を見る。○八日、神尾君ウユルツブルヒに立つ。○十三日、墺太利、維也納に向ふ。
大きなる
都会のなかにたどりつきわれ
平凡に
盗難にあふ
美術館に入りて佇む時にのみおのれ
一人の
心となりつ
おどおどと
伯林の
中に居りし日の
安らぎて
維也納に旅立たむとす
[#改丁]
○
歌集「つゆじも」は制作年代よりいへば、自分の第三歌集に当り、歌集「あらたま」に次ぐものである。そして、大正六年十二月、自分が長崎医学専門学校教授になつて赴任した時から、大正十年三月長崎を去るまでのあひだに、折に触れて作つた歌、それから、東京に帰つて来て、その年の十月すゑ、欧羅巴留学の途に上るまでのあひだに作つた歌(その中には信濃富士見で静養した時の歌をも含んでゐる)、それから、船に乗つてマルセーユまで行き、汽車で巴里を経て伯林に著き、暫時其処に滞在し、大正十一年一月十三日、維也納に向つた時までの歌をひろひ集めたことになつて居る。
○
自分の長崎時代の歌、即ち大体大正七年八年九年の歌は、アララギ、大阪毎日新聞、大阪朝日新聞、長崎日日新聞、雑誌紅毛船、雑誌アコウ等にたまたま載つたもの以外は、未定稿のものをも交へて手帳に控へ、一部は歌稿として整理してあつたものが、大正十三年の火難に際して焼失してしまつた。そこでもはや奈何とも為ることが出来ないから、既に発表したもののみにとどめて編輯しようとおもひ、大正十五年ごろその一部を印刷にまで附したのであつた。然るに計らずも、欧羅巴から持帰つた荷物の中に、長崎時代の小帳面四冊あることを発見したが、その中には大正九年病のため静養してゐた頃の歌がいろいろ書いてあつた。即ち、自分が大正十年の夏ごろ解放といふ雑誌に発表した「温泉嶽」と題した十数首の歌は、皆この小帳面の中にあることを発見したのである。さうして見ると、是等の小帳面は自分が洋行するとき、荷物の中にほかの物と一しよに入れたのであつた。帳面には、長崎から鹿児島宮崎の方に旅したときの未定稿のもの、それから長崎を去つて上京するまでの途中の歌をも若干首書き記してある。是等は皆粗末な歌であるが、自分としては記念したいものであつた。ただ大正七年八年ごろの小帳面が失せたからその年に作つた歌が無い。大正七年夏には、二三の同僚と共に宇佐から耶馬渓、それから山越をして日田に出て、日田から舟で筑後川をくだり、鮎の大きいのを食ひ、その耶馬渓から日田への途上、夜の山越をしたとき、紅い山火事を見たりして、その時の歌もあつたのに、それ等は焼失せたのであつた。また大正八年には同僚知人と共に熊本に遊びそれから阿蘇山にのぼり、別府へ抜ける旅をし、阿蘇の中腹で撮つた写真も遺つて居るし、その時の歌も若干首あつた筈だが、それ等は焼けたから奈何ともすることが出来ない。
○
焼失せた其等の歌のごときは、所詮粗末なものであるから、大観すれば決して惜しむには足らぬけれども、焼失して見れば、つまらぬものにも愛惜をおぼゆるは人の常情であらうから、この歌集には随分つまらぬ歌まで収録せられたのである。また洋行の歌であるが、洋行は自分のはじめての経験であり、慌しい作のうちから、辛うじてこれだけ整理したのであつた。海上の赤い雲の歌などが幾首も出て来るが、これも初航海の経験者として免れがたいことであつた。
○
私が帰朝して、火事のために、雑誌書籍を焼失してしまつたとき、同情深き諸友は、私のために、所蔵の新聞雑誌の切抜を贈られたのであつた。その諸友は、渡辺庫輔(与茂平)、村田利明、鵜木保、鹿児島寿蔵、竹内治三郎、森路

平(高谷寛)、赤星信一、村田敏夫、山根浩、加納美代、佐藤峰人、遠藤勝、畠山元三郎、結城健三、三田澪人、志村沿之助、我謝秀昌の諸氏で、この集を編むことの出来たのも、皆此諸氏のたまものである。特に、私ごとき者の書いたものを、斯く丁寧に保存して置かれたといふことに対し、私は涙の出るほどふかく感動したのであつた。この感動と感謝とは、既に十数年を経過した今日といへども毫も変るところがない。
○
集の名「つゆじも」といふのは、この一巻の内容が主として長崎晩期の心にかよふと思ひ、かく命名したのであつた。併し、万葉に、
露霜乃消去之如久。
露霜之過麻之爾家礼などの如く、無常悲哀を暗指するやうだから、歌集の名としてはどうかしらんと云つて呉れた友もゐたが、『
露霜乃、
消安我身、
雖老、
又若反、
君乎思将待』(万葉巻十二)といふ歌もあるから、大体この名にしておかうと答へたのであつた。また私のこの集を予告したのと前後して、某氏の遺稿に、「つゆじも」といふのが出でて、かたがた自分もどうしようかとおもつたのであるが、やはり最初の心にこだはつてこの名を存することとしたのである。
○
この歌集は昭和十五年の夏に編輯した。自分の歌集は「寒雲」以来新しい方から逆に発行しようと企てたから、本集の発行はいつになるか明瞭ではないが、兎も角、ほかの歌集を整理したついでに整理して置くのである。(以上昭和十五年八月記)
○
昭和十八年夏、横浜の佐伯藤之助氏が、私が大正七年八月七日長崎で書いた左の短冊を示された。
長崎に来てより百日過ぎゆきてあはれと思ふからたちの花
○
ついで昭和十八年十二月六日、長崎の森路

平氏が左のごとくに通信せられた。
大正十年一月二十三日、長崎市酒屋町松楽にて斎藤先生送別小宴を催す。会するもの、斎藤茂吉、広田寒山の両先生、大久保日吐男(仁男)、前田毅、大塚九二生並に高谷寛(森路

平)、斎藤先生に左の即吟あり
うつしみは悲しけれどもおのづから行かなかたみにおもひいでつつ
この家に酒に乱れゑひて人は居りとも我等の心にさやらぬしづけさ
をみな等のさやぎのひまに聞ゆるはあられ降りつつあはれなる音
女等のさやぎのひまに聞ゆるは霰のたまるさ夜の音かな
寺まちの南のやまの黒々とつひに更けつつあられ降る音
○
昭和二十年九月、山形県金瓶在住中、熱海磯八荘なる永見徳太郎(夏汀)氏より来書、米軍の用ゐた原子爆弾の惨害を報ずると共に、大正九年予がのこした次の三首を報じた。
長崎の永見夏汀が愛で持ちし鰐の卵をわれは忘れず
南京の羹を我に食はしめし夏汀が嬬は美しきかな
しづかなる夏汀が家のこの部屋に我しばしば来し百穂も来し
○
大正七年は自分の三十七歳の年に当るから、本集の歌は殆どすべて三十七歳から四十歳に至るあひだに作つたものといふことになる。また、本集の歌数は、本文中に六百九十七首、後記中に九首あるから、合算すれば
七百六首といふことになる。(以上昭和二十年九月記)
○
本歌集の発行は岩波茂雄、布川角左衛門、佐藤佐太郎、中山武雄、榎本順行諸氏の厚き御世話になりました。私は三月から病気になり今なほ臥床中でありますが、その間岩波茂雄氏の急逝にあひ、悲歎限りありません。(昭和二十一年五月廿九日、大石田にて、斎藤茂吉記。)