毎週二回か三回、僕は帝大構内の、浜尾新先生の銅像の下を通つて、丘の上の教員食堂に
第一に、浜尾先生の顔はいつ見ても春風駘蕩で、その慈眼には子弟を愛する温情があふれるほど湛へられてゐたのに、銅像の顔には、かすかな笑ひの裡に、専制的な意志と皮肉な冷やかさが潜んでゐる。第二に、銅像のポオズが、未だ嘗て僕等が昔の先生に於いては一度も見たことのない、脚を組んで手で頬を支へた姿勢なのである。謹厳な先生にしても、その生涯に一度や二度はあんなポオズをされたこともあつたかも知れぬし、さうした姿の写真もあるのかも知れぬが、少くも僕等は、あの銅像のやうにバタ臭い先生の態度を一度も見たことがなかつた。どう考へても制作者は浜尾先生といふ仁を知りもせず、見もせず、その人格の香りに触れなかつたアルティストに相違ない。
尤も、今の帝大学生は既に先生の

全く、浜尾先生のやうな名総長は何処の学府でも再び得られぬかも知れない。先生はL・L・Dといふ立派な学位を持つて居られたが、それが如何なる学問を意味するものか、僕は永い間知らなかつた。学生時代に僕等の仲間の一人が、一体L・L・Dといふのは何の学位だらうと云ひ出した時、誰も知らなかつた。誰いふとなく、『恐らく総長学だらう』といふことに一決したが、蓋し帝国大学総長といふタイトルと浜尾新といふ名前位ぴつたりと来る感じは滅多にあるものではない。
先生は尽忠の君子であつた。東大の陸上運動会や短艇競漕や剣道、柔道の大会の折には、いつも先生が天皇陛下の万歳を三唱して会を閉づるのが吉例になつてゐた。而も万歳の声が先生の肚の底から発せられる時、僕等学生は厳かにして且つ朗かな気分になつて、心から先生の音頭に和して高らかに万歳を唱へ、日本帝国の学生たる幸福を満喫したのである。
先生は

先生は、また、話の長い人であつた。当時の多くの教授のうちでも、浜尾先生から電話がかかると、先づ短くて三十分と定めて、電話室に椅子を持ち出す人が少くなかつたといふ。
先生の話の長さには、実は僕も散々に悩まされた経験がある。多分明治四十二年の夏だつたと思ふが、伊豆戸田の帝大水泳部に、芝居好きな学生が集つたことがあつた。そのなかでも、中野武二、谷口喬一、今村信吉なんぞ一騎当千の劇通が、茶話会の余興に


ところが好事魔多し、芝居興行の噂がまはりまはつて浜尾総長の耳に入つたのであつた。九月の新学期になつてから、誰いふとなく、水泳部の芝居騒ぎについては、総長は非常な立腹で、取締三人は退学、演技者一同は停学になるといふ噂が僕等にも伝はつて来た。取締三人とは医科の宮部昇、法科の霜山精一、それから斯くいふ僕なのだから――而も名は取締だが三人とも取りみだしと評判されてゐたので――お互にこの夏は少々取りみだしすぎたなあ、と寄り寄り話し合つては、びくびくしてゐた。唯一つの頼みは当時の運動部委員長丹波敬三博士の五男、五郎君がお富に扮して、妙技を揮つたのであるから、万一取締や演技者が厳罰に処せられるやうになつたなら、委員長はまさかに俺たちを見殺しにするやうなこともあるまい。殊に丹波博士は狂言の名手でもあつたから、歌舞伎にも多少の同情はあつて然るべきだと、僕等はそんなことでも当てにして、自ら慰める他はなかつた。
九月の末であつた。水泳部取締三名、何日、午後一時、本部総長室に出頭すべしといふ達しがあつた。そら来たとは思つたが、僕等三人は『まさか退学にもなるめえ』と肩を聳やかしたが、それでも、総長室へ往く歩みはのろかつた。三人は端然として大仏の如く構へてゐる総長の面前に、卓を隔ててかしこまつた。浜尾先生は徐ろに口を切つて、取締ならびに演技者の学生の本分に
たうとう、二時間あまり訓されづめに訓されてから、三人は芽出度く放免された。総長室を逃れ出ると、三人は申合せたやうに大欠伸をしながら、『長げえ小言だなあ!。』と大笑ひをしたのであつた。斯くて、取締と演技者一同は兎に角、退学や停学の処分を免れたことを互に祝福し合つたのである。
浜尾先生の在任中、嘗て陸軍当局が一年志願兵制廃止の意向を帝大へ通告したことがあつた。先生は、たちどころに、国家の学問といふ見地から断乎として反対したのであつた。学生の修業期が中断されるのを国家の由々しき損失だと信じた先生は、自ら陸軍省に赴いて、当局を相手に例の大仏のやうな態度で志願兵制廃止の非なる所以を切言した。若し陸軍当局にして、飽くまで国家の学制を覆すやうな意向を固持するなら、帝国大学でも今後一切陸軍の依託学生の修学を拒絶する他はない、と力説して、軍部が主張を飜へすまでは、いつ迄も席を立たうとしなかつたさうである。先生の説くところは極めて平明で疑ひを容れる余地もなく、
浜尾先生は篤学の士を熱愛した。また先生の同僚や後輩の子弟にして帝大に遊ぶ者も少くなかつたので、さういふ学生には二代目に対する一種の感情を以て接して居られたやうに思はれた。我等の総長として在任中、僕は帝大の構内を楽しさうに散歩する先生に屡

僕の記憶に誤りがなければ、片山国幸博士が未だ医科の学生であつた頃、或る朝、登校の際、本郷三丁目の辺で、後から、『片山君』と呼ぶ太い声に驚かされた。振り返つて見ると、それが浜尾先生だつたので、悪い人につかまつたとは思つたが、逃げるわけにもゆかず、二人の巨漢は肩をならべて歩き出した。然るに先生は一言も口を利かない。片山氏も口を利かない。二人は唖の如く――先生は悠々と黙しながら、片山氏は惴々焉として黙しながら――兎に角赤門まで辿り着いた。赤門をはいると、先生は左に折れて本部の方へ、片山氏はまつ直ぐに眼科の教室の方へ足を向けることになつた。片山氏が脱帽して別れようとした時、三丁目以来黙しつづけた先生は氏を顧みて、『お父さんはお達者かね』と第二の言葉を発したさうである。話と話との
復讐の女神ネメジスは人間の幸福を妬んで、之を傷けねばやまぬといふ。浜尾先生が不慮の火傷のために、僕等が祈念してゐた寿に先立つて、亡くなられたのは如何にも残念であつた。先生の如き人格者は、何をされずとも、唯生きて居られるだけで、僕等後身は何か清いもの、温かいものを感得して、寂寥たる人生の一角に春風の訪れるのを知つたのに、ネメジスは学会の大先輩を無理に奪ひ去つたのであつた。