――その第三話です。
江戸年代記に依りますと、丁度この第三話が起きた月――即ち元禄七年の四月に至って、お
と言うのは、年々歳々、日を追うて次第に士風の遊惰に傾くのを痛嘆いたしまして、士気振興武道奨励の意味から、毎年この四月の月の
――試合項目は槍に馬術。
――場所は小石川
毎年その例でしたが、士気振興の意味でのお催しですから、諸侯旗本が義務的にこれへ列席を命ぜられるのは言う迄もないことなので、あたかも当日はお誂え向の将軍
犬公方はすでにお出座なさったあとで、そのお座席の左側は紀、尾、水、お三家の方々を筆頭に、雲州松平、会津松平、桑名松平なぞ御連枝の十八松平御一統がずらりと居並び、右側は
それもいく分気に入らないためもありましたが、刻限も少しおくれていましたので、退屈男はわざと旗本席をさけて、諸侯の
そのまにも試合は番組通りに開始されて、最初の十二番の槍術が
乗り手は先ず第一に
第二には
第三には
第四には加賀百万石の藩士で、荒木流の江田島勘介。
いずれもこれ等が、各流派々々の達人同士で、同じ早駈けは早駈けであっても、今の競馬とはいささか趣きを異にして、それぞれの流派々々に基づく奥儀振りを、将軍家御面前で名騎士達が駈け競うというのでしたから、なにさま当日第一の呼びものとなったのもゆえあることでしたが、やがてのことに試合始めの太鼓につれて、大坪流の古高新兵衛は
剣を取っては江戸御免の退屈男も、馬術はまた畠違いでしたから、ひと膝乗り出して京弥に囁きました。
「打ち見たところいずれも二十七八の若者揃いのようじゃが、こうしてみると一段とまた馬術も勇ましい事よ喃」
「御意にござります。中でも葦毛の黒住団七殿と、黒鹿毛の古高殿がひと際すぐれているように存じられますな」
「左様、あの両名の気組はなにか知らぬが少し殺気立っているようじゃな」
言っているとき、場内の者が一斉にざわめき立ったので、ふと、目を転ずると、これ迄はどこにひとりも
「ほほう、ちとこれは面白うなったかな。御酔狂な犬公方様の事ゆえ、あれなる美形に何ぞ謎がかかっているかも知れぬぞ」
呟いたとき――、ドドンと打ち鳴らされたものは、馬首揃えろ! の締め太鼓です。つづいてドンと一つ、大きく鳴るや一緒で、おお見よ!――四つの馬は、
第一周は優劣なし!
第二周目も亦同じ。
しかし、第三周目に及んだとき、断然八条流の黒住団七と、大坪流の古高新兵衛の両頭が、三馬身ずつあとの二人を抜きました。つづいて第四周目に及んだとき、さらに両名は二馬身ずつうしろの二人を抜いて、黒白両頭の名馬は、一進一退馬首を前後させながら、次第に第五周目の決勝点に迫りつつあったので、大坪流の古高勝名乗りをうけるか、八条流の黒住勝つか、場内の者等しく手に汗を握ったとき! ――だが、突如としてここに、予想だにもしなかった呪うべき
ために古高新兵衛はドウと
とみて、わが退屈男の色めき立ったのも勿論です。
「のう、京弥!」
「はッ」
「最初からそれなる両名、特に殺気立っていたようじゃったが、先程試合前にあの美形が天降ったあたりといい、何ぞまた退屈払いが出来るやも知れぬぞ」
「いかさま様子ありげにござりまするな。念のために一見致しましょうか」
「おお、参ってみようぞ。要らぬ詮議立てじゃが、この木の芽どきに
いかにも出来事が奇怪でしたので、のっそり立ち上がると、あの三日月形の疵痕に、無限の威嚇を示しつつ、のっそり場内へおりていきました。
行ってみると、予期せぬ
然るに、これが先ず第一の不審でした。よし重量のある鉄扇で急所の
「ほほう。鉄扇をうけた位で、生血が垂れているとは少し奇怪じゃな」
勃然として大きな不審が湧き上がりましたので、うろたえ騒いでいる人々を押し分けると、構わずにずいと死骸の傍らへ近よりました。
と知って、町方役人共が、要らぬおせっかいとばかりに鋭く咎めました。
「用もない者が、誰じゃ誰じゃ! 行けッ。行けッ。あちらへ行かぬかッ」
見ただけでも分りそうなものなのに、悉く逆上しきっているのか、二度も三度も
「わしじゃ、分らぬか」
「おッ。早乙女の御殿様でござりまするな。この者、御前の御身寄りでござりますか」
「身寄りでなくば、のぞいてはわるいか」
「と言うわけではござりませぬが、お役柄違いの方々が、御酔狂にお手出しなさいましても無駄かと存じますゆえ、御注意申しあげただけにござります」
「控えろ。笑止がましい大言を申しおるが、その方共はあれなる鎧に生血の垂れおるを存じおるか」
「えッ?」
「それみい! それ程ののぼせ方で、主水之介に酔狂呼ばわりは片腹痛いわ」
にわかにうろたえ出した町役人共を尻目にかけて、怪死を遂げた古高新兵衛の
ただちに馬の鞍壺を見改めると、愈々出でて愈々奇怪!――思うだにぞっと身の毛のよだつ毒毒しい生蛇が、置き鞍の二枚皮の間から、にょっきりと鎌首を
「のう、こりゃ、町役人」
「………」
畠違いの者が邪魔っけだと言わぬばかりに罵ったその広言の手前、いたたまれない程に恥ずかしくなったものか、さしうつむいて返事も出来ずにいるのを、笑い笑い近よると、揶揄するように言いました。
「真赤になっているところをみると、少しは人がましいところがあるとみゆるな。わしはなにもそち達の邪魔をしようというのではない。只、退屈払いになりさえすればよいゆえ、手伝うてつかわすが、どちらの番所の者じゃ。北町か、南町か」
「………」
「食物が悪いとみえて、疑ぐり深う育っている喃。そち達の瘠せ手柄横取りしたとて、何の足しにもなる退屈男でないわ。姓名を名乗らば下手人見つかり次第進物にしてつかわすが、何と申す奴じゃ」
「南町御番所の
「現金な奴めが。了見の狭いところが少し気に入らぬが、力を貸してつかわすゆえに、家へ帰ったならば家内共に
退屈男らしく皮肉を残しておくと、京弥を随えながら、なにはともかくと、中間馬丁達の詰め所にやって行きました。
無論その目的は、疑問の怪死を遂げた古高新兵衛の馬丁について、何等かあの
「いつ頃
「ほんの今しがたでござりましたよ」
「今しがたにも色々あるわ。いつ頃の今しがたじゃか、存ぜぬか」
「古高様のあのお騒ぎが起きますとすぐでござりましたよ。どうした事か急に色を変えて、まごまごしていたようでござりましたが、気がついて見ましたら、もう姿が見えませんでしたゆえ、手前共もいぶかしんでいる次第でござります」
突如としてここに疑惑の雲が漂って参りましたので、あの凄艶な疵跡に、不気味な威嚇を示しながら、わけもなく打ちふるえている馬丁共をじろじろと見眺めていましたが、その時ふと退屈男の目を鋭く射たものは、そこに置き忘れでもしたかのごとくころがっている本場
「これなる煙草入は何者の持ち品じゃ!」
「おやッ。野郎め、あんなに自慢していやがったのに、よっぽど慌てやがったとみえて、
もっけもない事を言いましたので、何気なく手にとりあげて、とみつこうみつ打ち調べているとき、ころり、と
「ほほう、そろそろ筋書通りになって参ったな」
言いつつ、うそうそと微笑を見せていましたが、実に猪突でした。
「
「ふえい?……」
「なにもそのように頓狂な声を発して、おどろくには当らないよ。こればッかりは知ったが病、久しぶりでちと
「ご冗談でござりましょう。お見かけすればお小姓をお召し連れなさいまして、ご身分ありげなお殿様が、賽ころもねえものでごぜえますよ。いい加減なお
「疑ごうていると見ゆるな。身分は身分、好物は好物じゃ。ほら、この通りここに五十両程用意して参っているが、これだけでは
ちゃりちゃりと山吹色を鳴らしてみせましたので、笑止なことには根が
「はあてね。いい色していやがるね。じゃ、あの、本当にこれがお好きなんでごぜえますかい[#「ごぜえますかい」は底本では「ござえますかい」]」
小判の色に誘惑でもされたもののごとく、ついうっかりと警戒を解きながら、乗り気になって来たので、すかさずに退屈男が油をそそぎかけました。
「下手の横好きと言う奴でな。ついせんだっても牛込の賭場で、三百両捲き上げられたが、持ったが病で致し方のないものさ。これだけで足りずば屋敷へ使いを立てて、あと二三百両程取り寄せても苦しゅうないが、存じていたら、そち達の寺場に案内せぬか」
「そりゃ、ぜひにと言えばお教え申さねえわけでもござんせぬが、実あ、こないだうちここへ御主人のお供致しまして、馬馴らしに参りますうちに六松と
「どこじゃ。町奴共の住いででもあるか」
「いいえ、手習いの師匠のうちなんでごぜえますよ」
「なに! 手習いの師匠とな! では、浪人者じゃな」
「へえ。元あ、宇都宮藩のお歴々だったとか言いましたが、表向きゃ、手習いの看板出して、内証にはガラガラポンをやるようなご浪人衆でごぜえますもの、なんか曰くのある
「住いはいずこじゃ」
「
きくや同時でした。
「馬鹿者共めがッ」
言いざま、前に居合わした中間二人を、ぱんぱんと取って押えておくと、鋭く京弥に命じました。
「急いでそち、あとの二人を取って押えろッ。こ奴共も、六松とやらいうた怪しい下郎と同じ穴の
自身の押えた二人をも、手早くそこの柱に
行きついてみると、いかさま言葉の通り、算数手習い伝授、市毛甚之丞と看板の見える一軒が労せずして見つかりましたので、在否やいかにと、先ず玄関口にそっと歩みよりながら、家内の様子を見調べました。
と――、いぶかしや、そこに見えたのは、八足ばかりの雪駄です。子供のものならば商売柄不思議はないが、いずれも
一緒に目を射た八人の者の姿! いずれも
然るに、それなる十人の者どもが、殊のほか不審でした。ぐるりと車座になっていましたので、聞いて来た通り、丁半開帳の最中ででもあるかと思いのほかに、中間六松をのぞいての九人の者が、何をこれからどうしようというのか、いずれも腰の
「さては、早乙女主水之介じゃな!」
しかし、退屈男は無言でした。黙然と両手を懐中にしたままで、じっと九人の者を静かに只にらめすえたばかり――。
とみて、苛立ったごとくに、いな、むしろ、無言のその威嚇に不気味さが募りまさったもののごとくに、甚之丞がじろじろと今迄見改めていた強刀を引きよせると、同じく唇まで蒼めながら叫びました。
「案内も乞わず何しに参った!」
きくや、依然ふところ手のままで、ほのぼのとした微笑をその唇にのせていましたが、冷たく錆のある太い声が、ようやく主水之介の口から重々しく放たれました。
「退屈払いに参ったのじゃ、びっくり致したか」
「なにッ? 何の用があってうしゃがったんだ!」
「血のめぐりがわるい下郎共よ喃。退屈男が御手ずから参ったからには、只用ではない。それなる中間の六松に用があるのじゃ」
途端――。
市毛甚之丞が、ちらり八人の者になにか目くばせしたかと見えましたが、同時でした。
「そうか。六松に用あってうしゃがったと分りゃ、あの毒蛇の一件を嗅ぎつけやがったに相違ねえ。各々ッ、いずれはこんなことにもなるじゃろうと存じて、今、お腰の物にも研ぎを入れて貰うたのじゃ。出がけの駄賃に、それッ、抜かり給うなッ」
問いもしないうちに、うろたえながら毒蛇の一件を言い叫ぶと、下知と共に素早く六松をうしろへ
「馬鹿者共めがッ。江戸御免の篠崎流正眼崩しを存ぜぬかッ。その
だのに、身の程もわきまえぬ
「手間どってはあとが面倒にござりますゆえ、ちょっと眠らしてつかわしましょうか」
「そうのう、では、揚心流小出しにせい」
「はッ。――ちと痛いかも知れぬが、暫くの間じゃ。お辛抱召されよ」
言いつつ、
とみて、笑止千万な者共です。はや腰を抜かして、へたへたと縁側に這いつくばりつつ逃げおくれた六松をひとり残して、誰先にとなく裏口へ逃げ走り去ったので、あとから追いかけようとした京弥を、退屈男は慌てて制しつつ呼び止めました。
「すておけ、すておけッ。六松さえ押え取らば、どこまで逃げ伸びようと、いずれはこちらのものじゃわ。深追いするな」
逃げるままに逃がしておいて、やおら六松のところへ歩みよると、鋭くきき訊ねました。
「主人と言えば、親にもまさる大切なご恩人、然るにあの素浪人共の手先となって、毒蛇など仕掛けるとは何事じゃ。かくさず
「へえい……」
「へえいでは分らぬ。何の仔細あって、あのような憎むべき所業致しおった」
「………」
「強情を張りおるな。そら、ちと痛いぞ。どうじゃ、どうじゃ。まだ申さぬか」
「ち、ち、ち……、申します、申します。もう申しますゆえ、その
「なにッ

「なんの嘘偽りがござりましょうぞ。あの黒住の旦那様が、昔宇都宮藩で御同役だったとかいう市毛の旦那様と二人して、ゆうべこっそり手前を訪れ、あの毒蛇を鞍壺に仕掛けるよう、三十両の小判の山を積んで、手前を欲の地獄に陥し入れたのでござります。あの時鉄扇を投げつけたのも、やっぱりお二人様の企らみですぜ」
「なに

「それがあの方達の
「きけば聞く程奇怪な事ばかりじゃが、何のためにまた黒住団七めは、そのような悪企み致しおった」
「知れた事でござんさあ、あの時、降って湧いたように姿をお見せなすった、あの
「なに

「へえい。ご存じかどうか知りませぬが、あの別嬪の女の子は
「馬鹿者ッ」
「へえい?」
「ずうずうしゅう、へえいとは何ごとじゃ。主人に危難来ると知らば、身を楯にしても防ぐべきが当り前なのに、自ら手伝って、死に至らしむるとは不埓者めがッ」
「へえい。それもこれも元はと言えば、バクチが好きのさせたわざ――、たった三十両の
「虫のよい事申すな! 立てッ」
「へえい?」
「立てと申すに立たぬか」
「痛えい! 立ちますよ。立ちますよ。そんなにお手荒な事をなさらずとも、立てと言えば立ちますが、一体どこへ御引立てなさるんでござりますか」
「くどう申すな。行けッ」
引立てながら道の途中で見つかったそこの自身番へ、小突き入れると、事もなげに言いました。
「この下郎めは、三十両の目腐れ金で、大切な主人の命を売った
言いおくと、通り合わせた町駕籠を急ぎに急いで仕立てながら、京弥いち人のみを引き随えて、ただちに黒住団七の禄を
行くほどに青葉がくれの陽はおちて、ひたひたと押し迫ったものは、夕六ツ下がりの紫紺流した宵闇です。
然るに、こはそも何ごとぞ!――まだそんな門限の刻限ではないのに、さながら退屈男の乗り込んで行くのを看破りでもしたかのごとく、奥平屋敷の江戸詰藩士小屋を抱え込んだお長屋門が、ぴたりと閉じられてありましたので、乗りつけるや、
「早乙女主水之介、直参旗本の格式以て
だのに、答えがないのです。
とみるや、ひらり一
「面倒じゃ。開けねばこうして参るぞ!」
ぱッと土を蹴って、片手
――見よ!
そこに
「のう京弥々々! ちとこれは面白うなったぞ。早うそちもここへ駈け上がってみい!」
「心得ました。お手かし下されませ」
退屈男のさしのべた手にすがりついて、これも身軽にひらり塀の上におどり上がったとみえましたが、中の意外な光景に打たれたとみえて、ややおどろきながら叫びました。
「よおッ。あの六人が先廻りしておりまするな!」
「のう。よくよく斬って貰いたいと見ゆるわ。久しぶりに篠崎流を存分用いるか」
「はッ。けっこうでござりまするが、うしろの槍はなんとした者共でござりましょうな」
「言うがまでもない。あの真中にいるのが、確かに昼間見かけた黒住団七じゃ。思うに、同藩のよしみじゃとか何とか申して、はき違うべからざる武士道をはき違えおる愚か者共じゃろうよ」
「笑止千万な! では、手前も久方ぶりに揚心流を存分用いて見とうござりますゆえ、お助勢お許し下されませ」
「ならぬ」
「なぜでござります」
「退屈男の名前が
言うや、ひらり、体を浮かしたとみえましたが、およそ不敵無双です。槍、
しかも
「よくみい! この疵痕がだんだん怖うなって参るぞ。抜かば斬らずにおけぬが篠崎流の奥義じゃ。いってもよいか」
しかし、相手の前衛を勤める六人の浪人共は、今、もう必死とみえて、いずれも呼吸のみ荒めながら無言でした。
「ほほう。大分、胸に波を打たせて喘ぎおるな。しかし、真中の市毛甚之丞! そちには小塚ッ原で、獄門台が待っているゆえ、今宵は生かしておいてつかわすぞ。では、左の二人、参るぞ」
物静かに呟きながら、大きく腰がひねられたかと見えた途端!――きらり、玉散る銀蛇が、星月宵にしゅッと閃めいたと見えるや、実にぞっと胸のすく程な早技でした。声もなく左の二人が、言った通りそこへぱたり、ぱたりとのけぞりました。同時に退屈男の涼しげな威嚇――。
「みい!――今度は右側の三人じゃ。参るぞ」
言いつつ、片手正眼に得物を擬して、すい、すい、と一二歩近よったかと思われましたが、殆んどそれと同時でした。
「生兵法を致すゆえ、大切な命をおとさねばならぬのじゃ。そら! 一緒に遠いところへ参れ」
一歩、さらにずいと歩みよって、右へ一閃。
「早うそちも行けッ」
つづいてまたすいと歩みよって、さらに一閃。
「主水之介とは段が違うわ。急いでそちも地獄へ参れ!」
そして、不敵にも
「みい! これが主水之介の正眼くずしじゃ。段々とあとへ下がりおるが、怖うなったか」
威嚇しながら、同じくすいすいと歩み近よったかと思われましたが、同時に
「馬鹿者ッ。今、御番所へ
峯を返しながら、急所の
「江戸旗本は、斬ると言うたら必ず斬るぞ。主君の馬前に役立てなければならぬ命を、無用な意地立てで粗末に致すつもりかッ。逃ぐる者は追わぬ。逃げたくば今のうちに早う逃げえいッ」
「………」
いずれもやや暫し無言でしたが、退屈男の冷厳な訓戒と、その
しかし、それと知った一瞬!
「余の者は逃がしてつかわすが、その方だけは退屈男の武道が許せぬわ」
痛烈に叫びざま、黒住団七のあとに追い近づいたかと思われましたが、およそ団七こそは武人の
――ほっと息をついて、退屈男はやや暫し黙然。ほんとうに、黙然とやや暫し、そこに
「あそこに倒れおる市毛甚之丞と、これなる死骸となった黒住団七の両名を、駕籠にでも拾い入れて、約束通り南町御番所の水島宇右衛門めへ土産に送ってつかわせ」
「送るはよろしゅうござりまするが、お殿様はいかがなさろうとおっしゃるのでござります」
「少し寂しゅうなったわ。退屈じゃ、退屈じゃと思うていたが、今となって思い返してみると、やはり人が斬りたかったからじゃわ。――しかし、もう斬った。久方ぶりにずい分斬った。そのためか、わしはなんとのう心寂しい! ――では、ずい分堅固で暮らせよ。菊路をも天下晴れて存分にいとしんでつかわせよ」
「ま! おまち下されませ!……どこへお越しになるのでござります。お待ち下されませ! どこへお越しになるのでござります!」
おろおろして、後を京弥が追いかけましたが、しかし、江戸名物旗本退屈男は、ふり返ろうともしないで、黙然と打ちうなだれながら、とぼとぼと闇の向うへ歩み去りました。