八ヶ峰というのは、鹿島槍ヶ岳と五竜岳との間にある山稜の一大断裂に名付けられた称呼であって、峰とは呼ばれているが実は隆起した地点ではない。
此断裂の特色は山稜が歪なU字形にくびれて、越中人夫の
所謂「窓」を形造り、
其儘一直線に急峻なる越中側の山腹を
抉って、五百米も下の東谷(南五竜沢)の雪渓まで続いていることである。上部に於ては底は
稍や平であるが、左右の岩壁は、鹿島槍側に竪立し、五竜側に二段に

れ込んでいる。それが上段は浅く下段は深いので、横からながめた形を想像すると、さながら腹を膨らしてつくばっている蛙が壁と睨み合っている観がある。高さは五竜側の方が少し高く、二丈ほどはあるらしい。幅は二間
乃至二間半位のものであろうと想われた。
然し降るに連れて底は雨水や氷雪の為に侵蝕され、傾斜が甚しく急峻になるから、左右の岩壁は
益々高さを増して来る。
随って降れば降るほど通過し得る
望は少なくなる訳で、実際上から望見した所では、東谷の雪渓まで下りて迂廻しなければ、到底通過不可能であろうとさえ思われる。そしてまだ悪いことは、
折角其辺まで下りて迂廻しても、再び山稜まで登る際に、またしても滝などに阻まれはせぬかという不安に襲われることである。これは鹿島槍
又は五竜
孰れの方面から来た人でも、等しくその感を
懐くに充分なる程、附近の山谷の模様が威嚇的であるからだ。されどこれは大町の
百瀬君が大正二年に鹿島槍惻から此方面を探検されて、通行の可能なることを
慥められた。
信州側はといえば、これは敢て此山脈に限らず、日本アルプスを通じての特色である如く、
此処でも二百米近くも削立した峭壁で、鹿島槍側に在りては其縁に沿うて登降することは絶対に不可能であるが、五竜側は横を
搦めば窓の底に達し得る
一縷の望がないでもない。
唯だ
之を決行するに際しては、大胆細心にして岩石の登攀に熟練した者でなければ、生還期し難きものがあるであろう。
若し底に達することが出来れば鹿島槍側は、少し下手の岩壁に横に刻まれた一条の襞を伝って山稜に登ることは甚しく困難でも危険でもない。反対に鹿島槍側からは此襞を辿って底に下ることは難事ではないが、五竜側を登るのが生死を賭しての大冒険に属する。一言にして尽せば此断裂は、上を強行するか下を迂廻するか、
如是閑氏の所謂「労力の少ない危険」に就くか、又は「労力の多い安全」を
択ぶかの二途より外に通過の方法はない。但し後者の場合でも、直接岩壁の縁に沿うて何処までも下ることは不可能であるから、南北の両方面とも窓から二つ位手前の沢を下るようにしなければならぬ。現に百瀬君が此迂廻路を発見してから、大町の案内者は皆之に
遵っている。此路によれば尚お一の便利がある。それは此断裂から三十間ばかり北に寄って、更に之を縮小したような裂け目があるが、
夫をも合せて避け得られる。尤も大町以外の案内者を連れて、五竜方面から遂行する初めての縦走では、此断裂は目の前に夫が現われる迄は、とても遠方から看取することは出来ないので、
間違なく所要の沢に下ることは言う
可くして行われないことであろう。此迂廻は少くとも六時間前後を要するそうである。
私は今年
(大正六年)長次郎と他に二人の人夫を伴って
南日、森の二君と共に五竜方面から此山稜を縦走した。そして小断裂の方は二丈
許り下の所を岩を横に搦んで通過したが、それを探し出すまでに三十分、重い荷を運ぶのに二十五分、合せて約一時間を費した。此処を通過してから少し登りになる。其登りが
莫迦に急だ。登り終って五、六間行くと突然大断裂が現われる。例に依って長次郎に探検を命じた。荷を卸して暫く形勢を察していた長次郎は、忽ち東側の急壁をサラサラと無造作に下りて底に立った儘、両側を見上げて「えらい窓だ」と笑っている。どうだいと聞くと行ける行けると答える。其処から二、三間下の横の襞を伝って南側に登り、一町ばかり先の尾根の一角に立ってあたりを見廻している。もう一人の山田という人夫は岩壁に沿うて下りて行ったが、何処からか向う側に移って、やがて長次郎と長い間話し合った末、二人一緒に長次郎の下りた岩壁を登って帰って来た。長次郎は
始は無論其処を通る積りであったらしいが、二人で談合の結果下を廻ることに極めたのであろう。私等が上を通るのかと聞いたら、彼処は
辷ると止まらないから下を廻る方が安心だというた。これは荷が重い為に厄介であると山田に説得されて考え直したに相違ない(長次郎の外は二人とも山には初めての人夫であった)。けれども私等は強いて通して
呉れとは言い切れなかった。それで山田の通った所を廻ることにして、百米も下ったろう。すると好い工合に岩壁が崩れて其内側に
樺の立木が生え続いている所に来た。それを伝って下ると谷底に向って傾いた一枚岩の上に出る。幅は五、六尺に過ぎないが、平滑なる表面には手掛りも足掛りもなく、向う側はまた岩壁であるから一思いに飛び越す訳にも行かぬ。尤も高さは四、五尺に過ぎないし、
且つ谷底も急ではあるが大きな岩が積み重っているので、誤って足を踏み外したにしても、東谷まで落ちて行く気遣はない。荷を背負った長次郎に
扶けられながら、漸く底に下りついて吻と一息する。此処から二、三間下手で南側から空滝が落ち合っている。高さは三丈に近い。之を登るより外に方法はないから、荷は綱を用いて曳き揚げることにする。花崗岩らしい壁面は頗る堅硬であり、且つ手足の掛りもあるのは
幸であった。夫から左に一の窪を伝って、
岳樺の疎らに生えている恐ろしい急傾斜を二十間も登ると
偃松が現われ、傾斜も少しく緩くなって、やっと安心の胸を撫で下ろすことが出来た。午後十二時五分に窓の北側を下り始めて、南側のそれも窓から四、五十間上手に寄った山稜に登りついたのは一時四十五分であったから、一時間と三十五分を要したことになる。此通路は先年中村君が同じく五竜方面から、初めて此山稜を縦走した時に通過した場所と恐らく同一の地点であろうと思う。
鹿島槍方面からは、此急斜面を下って谷底に達することが
確に危険に感ぜらるるであろうし、また彼の一枚岩に取り付くのが多少面倒であろうと思われる。しかし荷が軽ければ案外楽に通過し得られるかも知れぬ。私等は
針木峠まで縦走する糧食其他を大黒鉱山で用意した為に、荷が重かったので人夫は可なり骨が折れたらしい。但し時間に於ては下を迂廻するよりも三時間以上を節約し得ることは確かであろう。
因に此断裂の位置は、鹿島槍の北峰より約四百米を下りたる辺、陸測五万の大町図幅に
拠れば二千四百八十米の等高線が、其北方に一隆起を表示せる同高の等高線と相対して成せる鞍部に当っているように思った。
(大正七、二『山岳』)