「親分。あつしはもう、腹が立つて、腹が立つて」
八五郎は
「頼むから後を締めてくれ。野良犬がお前と一緒に入つて來るぢやないか」
錢形平次は、不精らしく頭をあげました。相變らず三文植木を眺めながら、椽側に寢そべつて、粉煙草をせゝつて居る、閑居の姿です。
「それが親分、いつもと違つて、今日は本當に腹を立てましたぜ」
「果し
「何んです、それは?」
「財布の紐が
平次はニヤリニヤリと、シヤーロツク・ホームズ見たいなことを言ふのでした。
「圖星と言ひてえが、そいつは大違ひだ」
「さては何處かの新造つ子を
「そんな間拔けな話ぢやありませんよ。腹が立つてたまらねえ話といふのは
「まア坐れ。突つ立つての話ぢや、立つた腹の寢かしやうはねえ」
平次はさう言ひながらも、八五郎の眞劍さに釣り込まれて、火のない火鉢を挾んで、
外は四月始めの良い陽氣、
「ね、親分、
「腦天を碎いた土左衞門は變だね」
「ね、親分が聽いたつて變でせう。現に死骸を見て來たんだから、あつしが腹を立てるのも無理はないぢやありませんか」
八五郎の話は、妙に
「で、俺にどうしろといふのだ」
「錢形の親分でも、相手が三千石の殿樣ぢや、手の付けやうがないぢやありませんか。あつしはもう――」
「わかつた、腹が立つて/\――といふせりふだらう」
「何んとかして下さいよ、親分。十九になる神樂坂小町、ビードロで
「やれ/\、八五郎に出家された日にや、江戸中の娘達が泣くだらう。仰せの通り武家の揉め事はこちとらの手に了へねえが、人が一人殺されたとわかれば、放つても置けめえ。最初から筋を通して見な」
「斯うですよ、親分。涙ながらに申し上げると」
八五郎は語り出すのです。
神樂坂裏、長屋の入口に、さゝやかな小間物屋を
市之助お宮夫婦の間には、たつた一人の娘がありました。八五郎の口から、神樂坂小町と紹介されたお糸で、これはこの土地の口の惡いのが、『裏店小町』と言つたほどの御粗末な
柄は小さいが、蒼白くさへ見える、
それが何んかの拍子ににつこりすると、小さい唇の、上向きの
「そのお糸坊に、モモンガー見たいな野郎が惚れたんだから、親分の前だが、江戸といふ國は穩やかぢやねえ」
八五郎の話は斯んな調子で進むのです。
「お前の話の方が餘つ程穩やかぢやないぜ。誰が誰に惚れようと、日本中御法度はねえ筈だ。
「ところが、あつしはこの通り五體滿足で、男つ振りだつて滿更ぢやないでせう。唯金つ氣だけは少し心細い」
「あれ、本人がそんな氣で居るんだから、お前といふ人間は百まで生きるよ」
「その小間物屋のお糸坊、町内の義理で今年の三月十日、花見船を出して、柳橋から
「それがどうしたんだ」
「揃ひの
「フーム」
「
「三千石の旗本の若樣に見染められたといふのか、たいした出世ぢやないか」
「へツ、親分の前だが、
「俺に訊いたつてわかるものか」
「あつしは其處を見たわけぢやないが、若君彌八郎、お糸の顏を横から縱から、一日眺め暮らして、涎ばかり流して居たから、柳橋へ歸る迄に、
「嘘を
「屋敷へ歸ると、お定まりの戀の病、彌八郎、枕もあがらない騷ぎだ。こいつは醫者にも藥にも及ばず、中間半次の話で
「成程ね」
「だからあつしは
「お前の言ふことは亂暴だよ」
「津志田家からは、お糸を召使つてやる、早速奉公に出すようにと、高飛車の申し出だ。驚いたのは市之助夫妻、――たつた一人の娘で、近いうちに
「フム、フム」
「困つたことに、小間物屋の市之助、仕入れの金に困つた上、昔の借金を
「よくある
「たつた今、十兩に利子をつけた金を返さなきや、娘を奉公に出せ、それが嫌なら――と
「武家が金を貸して、町人から利分を取るといふことは、表向きには出來ない筈だ。まして三千石の大旗本がそんな事をして居ると知れると、身分にも
平次は一應
「ところがいけませんよ。それを申し立てて、娘をつれて歸るつもりで、
「成る程、それは放つて置けないな」
「その上、市之助の書いた證文は、名宛が柳町の金貸金六郎で、津志田家の用人岸井重三郎が、金六郎から證文を買ひ受けたことになつて居るから、恐れながらと
「フム、
「ね、何んとかしてやつて下さいよ。見す/\あのお糸坊が、ニキビの化け物の餌になるんですぜ。その上父親の市之助を殺したのも、間違ひもなく津志田家の一黨だ、言はば親の敵の伜」
「早まつたことを言ふな、――ところで、市之助が死んだのは何時のことだ」
「死骸を見付けたのは今朝、
「娘のお糸は家へ歸つたのか」
「親の市之助が死んだと言つてやつても、お糸坊を歸してくれないから
「お前はまた、何んの引つ掛りで、お糸坊とやらに
「江戸中の良い娘が、皆んなあつしの知合ひ――と言ひたいが、實はお糸の母親のお宮は、あつしの叔母の知合ひなんで」
「そんな事か、お前の腹の立てやうが尋常ぢやないと思つたよ」
平次は兎も角も、一應この事件を覗いて見る氣になりました。それが武家相手の、容易ならぬ事件にならうとは、素より豫想もしなかつたことです。
小間物屋市之助の家へ行つたのは、もう夕景でした。路地を入るともう、プーンと線香の匂ひ、小間物屋とは名ばかり、一間の狹い店に飾つた、お粗末な商賣物は片付けて、近所の人が多勢、家の中にウロウロしてをります。
八五郎の案内で、平次が入つて行くと、
「錢形の親分だ」
ザワザワと囁やきが傳はつて、人波は一ぺんに店中から引下がり、隣りの部屋に敷いた床の上に、主人市之助の死骸を守つて、泣き
「氣の毒だつたな、お神さん」
平次は
濠から引揚げて、乾いたものを着せてありますが、八五郎が報告した通り、頭の上に石で割られたやうな、大きな
「ね、親分、水を呑んだ樣子はないでせう。それに、あの邊は
平次は八五郎の説明を默つて聽いてをりましたが、一禮をして佛樣の傍から引下がると、
「ところで、外に變つたことはなかつたのかな。持物とか、何んとか」
女房のお宮の方に振り向きました。
「いえ、財布には小錢が少し、持物にも變りは御座いません」
「津志田樣と、娘のお糸のことは、一と通り聽いて來たつもりだが、お神さんの口からもう一度聽かしてくれないか」
「若樣が、娘を何んとかしたとやらで、たつて奉公に出せといふ強談です。娘はもう
「成程な、大層なきりやうださうだから、望めば玉の
平次は殺された市之助の小商人らしい堅さと正直さに、妙に好感が持てるのでした。
「津志田樣の仕打ちがあんまりなので、事と次第では、龍の口の目安箱にこの一
「外に?」
「親が死んだのに、娘を返さないといふのは、いかに御旗本でも、あんまり無理ぢやありませんか。私はもう、あの屋敷へ忍び込んで、庭先で首でも吊つてやらうかと、そんな事まで考へましたが」
「冗談ぢやない。そんな事をしたところで、死んだ者が生き返るわけでもなく、娘が無事に戻るわけでもあるまい」
平次は精一杯、この氣の立つて居さうな中年女を
「親分」
八五郎が、そつと平次の袖を引きました。
「何んだ、八?」
「あの、裏口に立つて居るのは、
「どれ?」
平次が振り返ると、二十七、八のちよいと男つ振りの好い、が安手な男が、あわてて姿を隱しました。
「ところで、八」
「へエ」
「お前、津志田家に乘込んで見る氣はないか」
「?」
「お糸の叔父さんか何にかになるんだ。父親の
「危ない藝當ですね、親分」
「何を言やがる。命の二つや三つは、何時でも投げ出して見せると言ふお前ぢやないか。それとも急に
「冗、冗談言つちやいけません。危ないと言つたのは、
「どつこい、その十手捕繩をひけらかすのは禁物なんだ。啖呵をきつても手を出しちやならねえ。默つてお濠の中へ投り込まれて、少しはお鉢も割つて見るが宜い」
「飛んでもない、親分」
「さうかと言つて、
「驚いたなア、どうも」
八五郎が
「日本一の臆病者になるんだ。宜いか、八。下手な腕立てをすると、ブチこはしになるぜ」
「いよ/\變な役廻りですね」
文句を言ひながら、八五郎は出て行きました。外はもう眞つ暗です。
「錢形の親分」
一應調べ了つて、歸らうとする平次は、店先で若い男に呼び留められました。
「あつしに御用で?」
相手は一本落した浪人者、少し
「
「成程、――お糸さんと親しかつたといふ」
平次はケロリとして斯んなことを言ふのです。芦名某の崩した姿が、平次に遠慮のないことを言はせたのでせう。
「親しいといふ程ではないが、少しは行き掛りがないでもなかつた。そのお糸を留め置く津志田谷右衞門、旗本の大家のすることが、拙者は心外でたまらない。どう思ふな、錢形の親分」
「腹は立つても、町方の岡つ引ぢやどうすることも出來ませんよ」
「錢形の親分と言はれる者が、さう
芦名光司は屹となりました。四角な顏に血が上つて、後ろ腰に、少しだらしもなく差した大刀を、グイと前に廻します。
「致し方もありません」
「この芦名光司は、どうにも我慢が出來ないのだよ。津志田家に思ひ知らせてやるつもりだが、――」
「前以つてお屆けぢや恐れ入ります」
「市之助は人手にかゝつて殺されたに違ひない。その敵を討つてやるのが、お糸への拙者の勤めだ」
「へエ」
お糸の亭主氣取りで居る芦名光司に、錢形平次も口のきゝやうがなかつたのです。
この掛合ひが濟んで、芦名光司が歸つて行くと、間もなく
「あ、親分、まだ居ましたかえ」
「何んだ、八か。相變らず騷々しい」
飛び込んで來た八五郎は、耻も外聞もない姿でした。
「いや、驚きましたよ。危ふく市之助の二の舞ひをやるところを、逃げたの逃げねえの、日本一の臆病者になれと親分が言ふから」
「まア、落着いて話せ。どんな事があつたんだ」
「筋書通り、お糸坊の叔父さんといふことにして、津志田家のお勝手口から、神妙に乘込みましたよ」
「フム」
「お糸坊の叔父さんぢや、役不足だが仕方がねえ、實は兄さんと言ひてえところだが、神樂坂小町はたつた一人娘と、牛込中で知らない者はなし、兄さんなどと名乘ると、それは一寸變に聞えるでせう」
「勝手な事を言はずに早く筋を通せ」
「應對に出たのは、用人の岸井重三郎。五十前後の
「それがどうした」
「あつしの口上を聽くと、――いかにも尤も、殿樣に申し上げて、よきやうに取計らつてやるから、暫らく待つやうに、と思ひの外の丁寧な挨拶だ。こいつは見當が違つたと思つたが、あつしの威勢に恐れて、折れて出たことと思つて、油斷をして居ると」
「?」
「どかんとやられましたね」
「何んだいそれは?」
「當て身ですよ。あつしの背後へ廻つた
「他愛がないなア」
「でも、市之助もこのキナ臭いのを喰つたに違ひありませんね。目を廻したところを裏通りから濠端に運び出し、あの邊にゴロゴロして居る石で、生き返らないやうに頭を叩き割つて、お濠へ放り込んだに違ひありません」
「そんな事だらうな」
「あつしの脾腹がまだズキンズキンしてをりますよ。ちよいと見て下さい、
「見る迄もあるまいよ。ところで、話はそれつきりか」
「それつきりなら、あつしも頭の鉢を叩き割られて、今頃は眼を剥いてお濠に浮かんで居たかも知れませんが」
「危ないことだな」
平次もこの冒險に八五郎を驅り出したことを
「と、眼を開いて見ると、あつしの側に、觀音樣が片膝立ててヂツとあつしの顏を見て居るぢやありませんか」
「觀音樣?」
「觀音樣ですよ。生きて血の通つて居る觀音樣と見たのは、お糸坊の心配さうな顏ぢやありませんか」
「ま、お糸が」
母親のお宮は乘出しました。
「叔母のところへちよい/\來たことのあるお糸坊が、あつしの顏を知つて居たんでせうね。あつしの命が危ないと見ると、お勝手から水を持つて來て、あつしに口移しに――」
「本當かえ、八」
「ま、さう思はせて置いて下さいよ。兎も角氣がついて見ると、お糸坊が、
「で」
平次もその先を
「あつしはお糸坊の手を引つ張つて、雨戸をそつと開けると、いきなり庭先に飛び出しました。サア、歸るんだ、お糸さん、皆んな待つて居るぜ――と」
「――」
「お糸坊が――八さん、私は、とても歩けさうにない。足がすくんで――と言ふのを、あつしはいきなり背中へおんぶしてしまつた。お糸坊は小柄で輕いから、これで
「どうした」
「塀を越すところまで

八五郎は自分の尻を撫でながら、いとも
「何を言やがる。切られたのは、お前の帶ぢやねえか。見るが良い、
「さうですか、命に別條はなかつたんですね。そんな事なら、もう一度津志田の屋敷へ行つて來ますよ、親分」
「何をしようといふんだ」
「お糸坊を助けに行くんですよ、――あつしはもう、親分の前だが、あの娘を背負つた時は、このまゝ
「馬鹿野郎。少しは愼しめ、佛樣の前だ」
「でも、かう、お糸坊の頬から髮へかけて匂つて、小さい柔かい手が――」
「止さないかよ、馬鹿野郎」
「もう一度出直して、あの味噌摺用人にキリキリ舞ひをさせなきや、あつしの顏が立ちませんよ、親分」
「わかつたよ。ところで外に氣の付いたことはないのか」
「ニキビの化け物彌八郎が、時々覗きに來ましたよ。それつきりで」
「よし/\、兎も角、今晩は歸つて、考へて見よう。三千石の旗本かは知らないが、やることがあんまりだ」
平次はこれを
それから五日、十日と日が經ちました。小間物屋市之助の
尤も、その後八五郎の叔母から聽いたところでは、お糸といふのは、お宮の連れ
「親分、變なことになりましたよ」
八五郎がキナ臭い鼻を持込んで來たのは、それから二、三日後、四月も半ばの月の良い頃でした。
「何があつたんだ」
「肴町の津志田の屋敷ですがね」
「?」
「昨夜あの屋敷の中に、曲者が忍び込んで、誰ともわからぬ者の手で殺されて居た――といふ屆出でがあつたさうです」
「ハテな」
牛込の肴町と神田の明神下では、少し遠過ぎて、平次の耳にも入らなかつたのでせう。
「殺されたのは、誰だと思ひます、親分」
「わかるものか」
「やくざの貧乏富、――あのお糸坊をつけ廻して居た、うるさい野郎で、親分も顏くらゐは見たことがあるでせう」
「知つてるよ、ちよいと好い男の」
「ならず者には女で身を持ち
「妙なことを言ふぢやないか」
「つまり、あつしなんか身を持ち崩しやうはないといふわけで」
「大層諦めたものだね」
「兎も角、ちよいと行つて見て下さいな。引取手も自分の家もないから、まだ津志田家の裏門のところに投り出してありますが」
「それは氣の毒な」
平次は八五郎と一緒に、兎も角も肴町へ行つて見ました。
「ね、この通り、心掛けの惡い野郎ですね」
八五郎は肴町の津志田家の裏へ廻ると、
「死んだ者の惡口は止せよ、
平次は片手拜みに近寄つて、上に
二十七、八の、ちよい好い男ですが、土手つ腹をゑぐられて血を失つて、まことに見る影もない姿です。
「誰でせう、こんな事をしたのは」
「お糸に逢ひたさに忍んだところを、――昨夜は月が良かつた筈だな」
「へエ、晝のやうでしたよ」
「この庭はろくな蔭もないから、一緒に忍んで來た仲間にでもやられたのかな」
「へエ――戀にはなまじ連れは邪魔――つて言ひますがね」
「それとも?」
「あの
「いや、お前の話ぢや、岸井重三郎といふ用人は、なか/\腕が立つらしい。曲者を見付ければ、刀を拔いて斬るだらう。傍に寄つて
「そんなものですかね」
「用人に逢つて見よう。お前案内してくれ」
「御免
八五郎はいつぞやの事を思ひ出して尻ごみをしてをります。
「よし/\それぢや、俺一人だけで逢つて見よう」
平次は津志田家のお勝手に廻つて、用人の岸井重三郎を呼び出してもらひました。
「何? 神田の平次、――錢形とかいふ岡つ引だらう、此處へ通すが宜い」
遠くの方に聲が聞えると、用人の岸井重三郎は椽側に廻つて、平次を待つて居る樣子です。
「へエ、御免下さいまし」
「何にか用事か。庭先に忍び込んで、死んで居た男のことは、何んにも知らんよ」
岸井重三郎は先を
「御尤もで、あの曲者の顏も名も御存じないと仰つしやるので」
「何んにも知らないよ」
「
「いや、物音がすれば、
「殿樣は?」
「殿樣は御役勤めがある」
「若樣は?」
「武藝學門の御修業でお忙しい」
さう言ふ若樣の――武藝や學問に縁のなささうな顏が、椽側の向うから
「若樣の御縁談など――」
「これ/\もう宜からう。武家方の立ち入つた事を訊くのは、不たしなみと言ふものだ」
用人岸井重三郎は、苦々しく
それから三日目。
「平次親分御在宿か、折入つてお願ひの筋があつて參つた。御取次ぎを願ひたい」
明神下の平次の家へ、折目正しく案内を乞うて、取次ぎの女房お靜を面喰はせたものがあります。
「へエ、私は平次ですが、どんな御用で」
と、淺間な家、居間から
「拙者は岸井重三郎と申すもの。おや平次殿か、先日はとんだ無禮を申した」
などと、津志田家用人、味噌を
「どんな御用で」
迎へ入れて座が定ると、
「平次どの、大變なことに相成つたよ。思案に餘つて、親分の智慧を拜借に參つたが」
岸井重三郎は疊の上へ
「まア、御手をお上げ下すつて。一體、何がどうなさいました」
「他聞を
「それはもう大丈夫、女房の外には、猫の子が一匹だけ、誰も聽いちや居ません」
「では申し上げるが――實は昨夜、津志田家に
「?」
「奧方、お高樣を突いて逃げうせた」
岸井重三郎はゴクリと
「奧方は
「雨戸を開けられたのでせうな」
「左樣、奧方は
岸井重三郎は、懷中から取出して、疊の上に半紙の
お糸を返せ
と、たつた五字だけ記してあるのです。「お糸と申すのは、
「お糸といふ召使は返されましたか」
「いや、斯うなれば、意地にも返さぬ――と、これは若君樣のお言葉だ」
「で、どうしようと仰しやるのです」
平次は改めて訊ねました。
「この事、公儀の御耳に入つては、家事不取締の御とがめは
あの高慢臭い岸井重三郎は、膝を折り、疊を掃いて頼み込むのです。
「成程、それはお困りでせう。私にも少しは心當りがあります」
「え、心當り」
「なに、ほんの
「それは有難い。では早速、御案内いたさう」
岸井重三郎はホツとした樣子で顏を擧げました。
「たつた一つ、此處で伺ひますが、そのお糸さんの評判はお屋敷でどんなものです」
「至極の評判ぢや。綺麗で悧巧で、人に可愛がられる。ことに若君樣の
岸井重三郎は平次と一緒に、牛込
津志田家は滅入るやうな、白晝の靜けさに支配されてをりました。奧方お高樣が、人手にかゝつて相果てたと、大公儀の耳に入つたら最後、三千石の家に、
從つて、御親類方も奧方御重態といふことで玄關から追ひ返され、僅かに奧方お高樣の里方、實弟の
「平次を召し連れました」
用人岸井重三郎は、次の間から聲を掛けると、中から唐紙が開いて、
「遠慮はいらぬ、これへ」
主人津志田谷右衞門の聲は、心持
大旗本の屋敷は、廣いくせにコセコセして、豪勢な割に陰氣でした。青侍に
「平次か、大儀であつたな。これへ參つてよく見てくれ」
主人の津志田谷右衞門は、三千石の
それは小肥りの立派な殿樣振りで、噂で聽いた、冷酷無殘な樣子はなく、反つて幾分の甘さと寛大さと、身分のある者に
「飛んだことでございました。さぞお力落しで――」
平次は素直に挨拶しました。
傷は正面から胸を突いたらしく、心の臟を破つて、ひとたまりもなかつたことでせうが、その代り、曲者は容易ならぬ返り血を浴びた筈です。
「椽側の外の
「それに相違ございません」
「何んの
その糸を受取りに、八五郎と平次がこの屋敷に乘込んだことのあるのは、殿樣御存じなのかどうか、其處まではよくわかりません。
「お心當りはございませんか。御當家に怨みを持つもの、わけても奧方樣に」
「それはない、ある筈もないのだ。奧は役向きのことに
「お糸さんといふお腰元のことに就て、親許から取戻すやうにと頼まれ、私も一度この御屋敷へ參つたことも御座いますが――」
平次はたうとう言ひたいことを言つてしまつたのです。
「それは用人の岸井重三郎から聽かぬでもなかつたが、腰元の糸本人が、歸りたくないと申すのぢや」
「へエ?」
それは錢形平次にも初耳でした。
「奧は、いづれかと申すと、糸を親許へ返さうとしたのぢや。世上の取汰沙もいかゞ、早速糸は親許へ返すやうにと、再三伜にも申し聽けたが、何分一人つ子の我儘で、母親の申すことも聽かない。それほど思ひ詰めたものならば、ゆく/\は假親でも立てて、伜の嫁にもしようかと、近頃になつて、
この殿樣の甘さ、尋常ならぬ
「で、下手人が知れた上は、どうなさるおつもりで」
「八つ割きにでもしなければ、私の腹が
谷右衞門は折入つて頼むのです。三千石の奧方が殺されたことを、支配や目付のところへ屆け出たところで何んの役にも立たず、
「よくわかりました。隨分この探索を御引受もいたしませう――が、その代り曲者を突きとめて、殿樣にお引渡し申し上げた上は、お腰元のお糸さんを、親許に御返し下さるとお約束を願ひたいのですが」
「それも承知いたさう。――だが、伜は兎も角、本人の糸が何んと申すか」
津志田谷右衞門はむづかしく首を
津志田家の一人息子、彌八郎といふのは二十一、ニキビだらけの、モモンガーと、八五郎が形容したのは、半分はほんたうで、半分は
それは、ニキビも相當はなやかであり、人間もあまり賢くなささうですが、我儘息子らしい純情と、
「若樣、曲者にお心當りはございませんか」
平次の問ひは、平凡で無事過ぎました。
「いや、ない。私はずつと離れた裏の部屋に休んでゐた。騷ぎに驚いて驅けつけると、母上は御
「萬々一、それが、お腰元のお糸さんに係り合ひはございませんか」
「いや、そんな事がある筈はない。お糸を
彌八郎の言葉は、何處までが本當か、平次も判斷はつきません。
「そのお糸さんにお目にかゝりたいと存じますが」
「よからう、本人の口から訊くのが一番確かだ」
伜彌八郎が唐紙の中へ引つ込むと、入れ代つて椽側から、障子を靜かにあけて、滑るやうに入つて來たのは、肉體的な
捧げて來た茶を、平次の前に進めて、少し
「私に御用と仰しやるのは」
縱やの字に三つ指、
美しさと言つても、育ちの貧しい長屋の娘には、凡を限度のあるものです。お品と愛嬌と、
「お前さんは、神樂坂の家へ歸らうとは思はないのかえ」
平次の最初の問ひは、先へ潜つたものでした。三つ重なつた殺しが、この娘に關係があると見れば、娘の心持を確かめるのが、何よりの先決問題だつたのです。
「でも、歸して下さいません」
片手を疊に落して、お糸は靜かに答へました。僅かにあげた顏は、やゝ小さくて、蒼白さの中に紅を
「お前さんは、此處に居たいと思つてる――と、殿樣も若樣も仰つしやるのだが」
「そんな事はございません。父さんが殺されたと聞いたときは、飛んでも歸らうと思ひました。でも」
「それが出來なかつたといふのだな」
「――」
お糸は僅かにうなづきました。
「お前の父さんの市之助は、本當の父親ではなかつたといふではないか」
「本當の父親なら、あんなことはございません」
お糸の頬に、僅かに血潮の動くのを、平次は見のがす筈もありません。恐らく、義理の父市之助が、養ひ娘のお糸に、燃えつくやうな愛情を持つて居たことでせう。その心の中には、何にか
「お前さんが、母親と一緒に、あの小間物屋市之助の家へ入つたのは?」
「三年前でございます」
「お前さんの本當の父親といふのは、――わかつて居るだらうな」
「――」
お糸は默つて首を振りました。
「わからないのか」
「母は知つて居るに違ひありませんが、私には教へてくれません。たゞ、御身分のある方――とだけ」
お糸が言ひにくさうにして居るのを見ると、平次は押して訊く氣もなくなります。
「ところで、
平次は話題を變へました。
「もう、
「遠くに休んで居るのか」
「二た間ほど離れてをります。私は女中のお
事が、昨夜の話となると、お糸の調子は
「で?」
「奧樣は、御氣性がすぐれていらつしやいますので、夜中でも必ず外の
「御自分で」
「私は手燭を持つた上、後ろから奧樣の御寢卷の右のお袖を押へてをりました」
お糸の兩手は完全に
「で?」
「その時でございました。手洗鉢の蔭に、何やら、白いものがチラリと見えたやうに思ひましたが、いきなり奧樣が恐ろしい聲を立てられて、後ろ樣に倒れかゝりましたので、私は驚いて抱き止めました」
「
「確と持つてをりましたが、曲者の姿を見定める
お糸は其處で絶句してしまつたのです。
中間の半次は、物置の隣りの中間部屋に、たつた一人で住んでをりました。三千石の大身ですが、無役の呑氣さで、渡り中間の半次が長い間住み付いて、庭も
「錢形の親分」
平次が通りかゝると、いきなり中間部屋の戸が開いて、後ろから聲を掛けた者があります。
「半次さん、――とか言つたね」
振り返ると、三十前後の、苦味走つた男、
「お骨折りですね、親分。曲者の見當は付きましたかえ」
「少しもわからないのさ。ところで、半次さん、
「昨夜は矢來の酒井樣の
半次は斯んなことを言つて、極り惡さうに
「ところで、お前さんも、たしなみの
平次の問ひは益々突つ込みます。小博奕に浮身をやつす、渡り中間が、
「確かに持つて居た筈だが、この間から見えなくなつたよ」
「奧方を刺したのも細い匕首。何處へ行つたか、見えなくなつて居る」
「曲者が外から入つた者なら、持つて逃げるのが當り前ぢやないか」
「さう言へばその通りだが、裏門を八文字に開いて逃げるのは、念が入り過ぎて少し變ぢやないか。ね、半次さん」
「俺はそんな事を知るものか」
「ところで、若樣は、花見船でお糸さんを
「
「それは聽いたが、お屋敷の中にも、その事については揉めがあつたことだらうな」
「大ありさ、第一奧方が承知をなさらない。唯の召使なら、身分素姓をやかましく言はねえ。假親を立てて嫁にするなら、相手もあらうに、背負ひ小間物の娘では――とね」
「若樣はどうなすつた」
「毎日の親子喧嘩だ。こちとらと違つて、身分のある方は大きい聲も出さないから、ネチネチと果てしがつかねえ――尤も殿樣は、一と目見るとお糸さんがひいきになり、これは若樣の方の肩を持つた。――お糸さんはあの通り綺麗でお品が良くて、申し分なくポチヤポチヤして居るから、男のきれつ端なら、誰でも一と目で好きになる」
半次は遠慮のないことを言ふのです。
「すると、お糸さんを追ひ出さうとして居た奧方が殺されたとなるわけだね」
「――」
「若樣の彌八郎樣も
「飛んでもない、俺はそんなつもりで言つたんぢやねえ。少々の仲違ひはあつても、母子の間柄は格別だ」
「では、外に心當りがあるといふのか」
「お糸さんをつけ廻してゐる、浪人者があるさうぢやないか。父親の市之助が、お糸さんを可愛がり過ぎて、その浪人者と一緒にしなかつたといふから、隨分市之助を殺す氣になつたかも知れず、お糸さんを張り合つて居た、戀仇のやくざ、貧乏富とか言ふのもその浪人者が手にかけたかも知れないぜ」
「それは、ありさうなことだが、お糸さんの
「奧方がお糸さんを引留めて置くと思つたかも知れないぜ。お屋敷の中のことは、外から見當もつかないから」
「成程な」
平次は一應
お勝手を覗くと、お女中が二人、四十前後のはお霜と言つて二十年以上も奉公して居るこの屋敷の古狸。若いのは十七、八の小娘で、お咲と言つて、この三月に來たばかり。これは何を訊いてもわかりません。
「お霜さん、奧方を
平次がさう言ふと、
「飛んでもない、私に何がわかるものですか。奧向きのことは、岸井樣に訊いて下さいよ」
お霜はさう言つて、門前のお長屋を指すのです。其處には用人岸井重三郎夫婦とその子供達、それに青侍が二人住んでは居りますが、この間からの事件には、どうも關係がありさうもありません。
「花見船の中で、若樣がお糸さんを見染めたことになつて居るが、その前からお前はお糸さんの噂を聽いたことがあるのか」
「半次さんが前々からお噂をしてをりましたよ。
「半次はお糸さんを前々から知つて居たわけだな」
「それに違ひありません。でも、年に三兩や四兩の
「成程ね」
「若樣を
この四十女は、思ひの外惡い口を持つてをります。
「殿樣も大層お糸さんびいきださうぢやないか」
「大きな聲ぢや言へませんが、五十男は
この女の毒舌は、まさに平次をも
平次はこの女の毒氣に恐れて、お勝手から外へ出ると、お長屋を一軒々々歩いて見ました。用人の岸井重三郎は、忠義一圖に小金を溜め、その女房のお
其處から引返して、奧方のお高が刺された庭先などを調べて見ましたが、連日のお天氣に乾ききつて、足跡が一つもない上に、
もう一度庭を一と廻り、木戸も
山の手の井戸で、水肌までは四間あまり、
糸を引いて見ると、何んの
大きな
平次はこのまゝ引揚げる外はなかつたのです。多分この糸の先には、奧方お高の方を刺した
明神下の家へ歸ると、もう夕暮れ、椽側に初夏の空を眺めながら、八五郎は
「お歸んなさい。
平次の顏を見ると、八五郎は立てつ續けにおつ冠せるのです。
「お前が行つてくれたら、下手人はつかまつたかも知れないが、俺ぢやどうにもならなかつたよ」
「そんな事はないでせう」
「ところで、お前の方はどうだ」
「親分に頼まれた事を、念入りに調べ上げましたよ。先づ第一に殺された小間物屋市之助の女房のお宮といふのは、昔は御殿奉公もしたことがあるさうで、男を
「其處までは俺も訊いたが、娘の本當の親は?」
「大旗本か小大名の次男坊で、腰元に娘を産ませたつきり死んでしまひ、あの女はててなし娘を抱へて艱難辛苦したさうですよ。だから今でも昔の榮華が忘られず、そんな
「外には」
「殺された亭主の市之助は、養ひ娘のお糸を滅法可愛がつたさうで、あんまり可愛がり過ぎて、母親のお宮と
「それから?」
「お糸を追ひ廻した、やくざの貧乏富は人手にかゝつて死んでしまひ、今では浪人の
「お前の調べたのはそれつきりか」
「それつきりですが、何んか外に仕事はありますか」
「
「津志田樣の奧方を殺したのは、その野郎ですか」
「其處まではわからないよ。兎も角調べるだけは調べて置きたい」
「やつて見ませう。こいつは智慧や男つ振りだけではむづかしいが、なアに、あつしがやりや」
八五郎は充分の自信で飛んで行きましたが、その晩は便りがなく、その翌る日も梨の
「あ、驚いた。あんなむづかしいところへ入り込むくらゐなら、あつしは龍宮城へ玉取りに行きますよ」
などと
「どうした、わかつたか、八」
「わかりましたがね、あの屋敷は名題の
「で、あの晩、半次は、酒井樣のお下屋敷に入つたのか」
「
「さア、益々わからなくなつたよ。奧方殺しの下手人は、半次でなきや、伜の彌八郎、――まさか親殺しはしないだらうが、すると、殿樣の谷右衞門か、外から忍び込んだ、浪人者の芦名光司といふことになる、――どれも本當らしくないな」
平次が斯うまで持て餘した事件も少ないことでした。
「サア、大變、親分」
八五郎の大變が、平次の寢耳を驚かしたのは、それから又三日目の朝でした。
「どうした八、朝つぱらから」
「肴町の津志田の屋敷に、又間違ひがありましたよ」
「今度は誰がやられた。あの娘か、それとも伜の彌八郎か」
「それが大當て違ひ。あの中間の半次の野郎が、前非を
「どうして前非を後悔したとわかつた」
「
「よし、行つて見よう。
平次と八五郎は、朝飯も食はずに、神田から牛込まで飛びました。
「あ、錢形の親分、又困つたことが起つたよ。これが度重なると、自然御目付衆のお耳にも入ららう」
用人の岸井重三郎は、そんな事ばかり心配して居る樣子です。奧方の
「お氣の毒なことで、兎も角も、拜見いたしませう」
物置の隣りの中間部屋に、平次は案内されました。半分は土間で、殘る半分は至つて粗末な六疊ですが、其處はまだ昨夜のまゝの
起して見ると、顏は
その遺書を取上げると、遺書の下、疊の上には
おくがたはじめ、三人もころしたのは、みんなおれのしわざだ。お糸さんを手に入れかねたのは心のこりだが、つみほろぼしのため、われとわが手で死んでゆく。
と、斯う書いてあるではありませんか。半次
「親分、こいつはもう
「何が大詰なんだ、八」
「市之助と貧乏富と、お屋敷の奧方を殺したのが、この男とわかれば、もうお仕舞ひぢやありませんか」
八五郎はもう、半次の遺書で堪能した樣子です。
「だがな、八。自分の匕首で、自分の胸を突いた達者な男が、匕首から手を放して、踏みつぶされた蛙のやうに、四つん這ひになるものだらうか」
「へエ?」
「まだ變なことがあるよ、――
「?」
「匕首を胸に突つ立てる前でなきや書けないのが遺書だよ。その遺書は血に塗れては居るが、下から浸み透つた血だ。そればかりぢやない、遺書の下に血が
「あつ、成程」
八五郎は膽をつぶしました。遺書が、半次の死んだ後で其處へ置かれたものとわかると、事件がなか/\重大になりました。
「そればかりぢやないよ、八。この遺書の字が確かに半次の書いたものかどうか、それを調べなきや、うつかりした事は言へないよ」
「それは大丈夫だよ、親分。半次はもと何處かの問屋場に居たさうで、
用人の岸井重三郎は、我慢のなり兼ねた樣子で口を
「確かにこの遺書は、半次の書いたものに間違ひありませんね、御用人」
「それは言ふ迄もないことだ」
「でも、御用人、半次は下郎に似氣なく字をよく書いたと申しますが、この遺書の
「フム」
「これが本當に心せはしく書いた遺書の字でせうか」
「?」
平次の言葉に、用人岸井重三郎は、すつかり考へ込んでしまひました。
「三人殺しの
「それは、どういふことだ、平次」
用人の岸井重三郎は、何にか
「この遺書は、半次の書いた字を拾つて、都合よく並べ、それを
「さア?」
「そこで、御用人」
「――」
「半次の書いたものを、澤山持つて居る人間は誰でせう?」
平次の問ひの途方もなさに、用人岸井重三郎も默つてしまひました。
「親分、そいつはわかつて居るぢやありませんか」
八五郎が横合から
「誰だえ、八。――半次の書いたものを澤山持つて居るのは?」
「半次が
「半次の惚れた女? ――お前はそんな事を知つて居るのか」
「知つてますとも。女出入りとなると、
「誰だえ、それは?」
「お糸さんですよ。――屋敷中で知らないものはありやしません」
「よし、お前は裏門へ廻れ。逃げ出す者があつたら、遠慮はいらない、誰でも縛つて引つ立てるのだ。――岸井樣はあの娘を追ひ出して下さい。町方の御用聞が、三千石のお屋敷で、人を縛るわけには行かねえ」
「よし、承知した」
岸井重三郎も、大方の形勢は解つたらしく、
「親分、大變なことになりました」
血だらけの八五郎が、裏門から戻つて來たのです。
「どうした、八」
「裏門からあの娘が飛び出したから、あわてて追つ驅けて行くと、
「どうした、八。泣いちやわからねえ」
「隱し持つて居たらしい
「それをどうした」
「近所の自身番に預けて、兎も角も知らせに來ましたよ。親分、あの娘が何んだつて、そんな事をしたんでせう」
八五郎は血だらけになりながら、片手なぐりに自分の涙を拂ふのでした。この男の神經ではまだ事件の眞相が解つて居ない樣子です。
× × ×
その後暫らく經つて、一件も落着した頃、八五郎にせがまれて、美しかつた
「あのお糸といふ娘は、綺麗で
「成程ね」
「そこで、津志田家の中間半次を取込んで、花見船からきつかけを
「――」
「ところが、津志田家の嫁になるには邪魔が二つも三つもあつた。一つは養ひ親の市之助が、連れ
「へエ、ありさうなことですね」
「そこで、お糸に首つたけの中間半次をけしかけて、親と言つても、うるさくてたまらない小間物屋市之助を殺させ、貧乏富も片付けてしまつた。――この二人を殺した手口は、奧方と半次を殺したのと違つて居るから、後の二人とは違つた下手人の仕業だ」
「へエ?」
「いよ/\お糸は津志田家へ入り込むことになつたが、奧方のお高樣は、女の
「へエ、恐ろしい娘ですね」
「血だらけの
「?」
「半次はお糸の
「へエ、恐ろしいことですね」
「危なくお前もやられるところさ。――あの時お糸の手には、
「冗談でせう親分」
八五郎は自分の首筋を、薄氣味惡さうに撫でるのでした。でも、この美しい娘を二度までおんぶした、八五郎の