その頃の
その寮の中でも、湯島寄りに建つてゐるひときは目立つた構へは、横山町の金物問屋
その妾の一人、お關といふのが、自分の部屋、――池に面した二階の六疊で、自分の喉笛を掻き切つて死んでゐたのです。
時は八月十六日の夜、主人の文五郎は、横山町の店へいつてその日は歸らず、若い番頭の源助といふのが、店から主人の

翌る十七日の朝、下女のお兼が、
「あツ血!」
天井から
「何んだ、騷々しいぢやないか」
眞つ先に廊下から顏をだしたのは、内儀の弟の駒吉でした。もう三十に手の屆く立派な男ですが、立派過ぎて世間に通用せず、姉の厄介になつて、良い若い者の
といふのは、智慧も
「あつ、二階ぢやないか」
後ろから首を出した、若い番頭の源助は、早くも事情を察して、
これは駒吉より三つ四つ年上ですが、商賣で叩き上げてゐるので、理窟よりは行動の方が早く、駒吉が首を
「わツ、大變。お關さんが」
唐紙を開けて、敷居際へ突つ立つたまゝ、源助は怒鳴りました。六疊の小意氣な部屋で、寢具の
騷ぎを聞いて、一と間置いて隣りの部屋にゐるもう一人の妾のお吉と、階下にゐる本妻のお八尾、それに下男の半次まで飛んで來ましたが、お關の死體の
やがて、氣を取直したらしい下女のお兼は、
「親分、こいつはたつた一と眼で殺しとわかりましたよ。
ガラツ八の八五郎が、明神下の錢形平次の家へ、かう報告して來たのはまだ朝のうちでした。
「どうして自害でないとわかつたんだ。後學のためにそいつを聽かしてくれ」
平次は
「第一ですよ、若い女が――と言つてもお關は二十五の年増だが、ともかく人の妾でもしようといふ色氣のある女が、いかに死んで行く者の、耻も外聞もないと言つたつて、床の上に大の字になつて出來のいゝ大根のやうな足を二本、自分の枕の上に載つけて息を引取るといふことがあるでせうか」
「大分當てられたやうだな」
「さうでもありませんがね」
八五郎は
「それから、第二てえのを聽かうぢやないか」
平次は先を
「その第二が大變なんで――死んだお關は、血染の
「左利きぢやなかつたのか」
「飛んでもない。左にお椀を持つのが精一杯――右手に
「それつきりか」
「第三がありますよ、――前の晩もう一人の妾お吉と、大喧嘩をしてゐますよ。

「
「それも考へましたが、お吉の部屋の唐紙の引手にほんの少し血が着いてゐて、二階に寢るのは、お關とお吉だけといふのは面白いぢやありませんか」
「梯子段は?」
「たつた一つ」
「それで、どうしたのだ。あとの始末は」
「お吉の身柄を町役人に預けて、兎も角も親分に知らせに飛んで來ましたよ。――お吉を擧げようと思ひましたが、
ガラツ八の勇猛さでも、この
「行つて見よう。お前を甘く見るわけぢやないが、どうも氣になつてならねえことがあるよ」
「へエ?」
「例へばだよ八、――そいつは自害でなくて殺しで、死んでから、
「それに違ひありませんよ」
「下手人はお吉だとも言つたね」
「その通りですよ」
「女が右と左を間違へるだらうか、死骸に匕首を握らせるのも、三月の
「――でせうか」
「行つて見る外はない。檢屍前に一と眼見て置けば、飛んだ役に立つだらう」
平次はたうとうこの怪奇な事件に首を突つ込むことになつてしまひました。
池の端へいつて見ると、ツイ今檢屍が濟んだばかり、役人は引取つて、
店口にぼんやりしてゐるのは、内儀の弟の駒吉、八五郎の報告で
「お吉は?」
「お係りのお役人が番所へ連れて行きました」
八五郎の問ひに答へる調子は、それをひどく氣にしてゐるやうにも取れます。
中へ入ると、主人の文五郎が迎へてくれました。
「飛んだお騷がせをいたしますが」
五十年輩のでつぷり肥つた
「店の方は伜に任せきりで、私は滅多に横山町には泊らないのですが、たつた一と晩こゝをあけたばかりに、飛んだことになりました。尤も、二人は日頃仲が惡うございましたよ。同じ屋根の下に住まはせて置くと、面白くないことばかりなので、近いうちに一人はどこかへ移さうと思つてをりましたが――」
平次は默つて聽いてをりました。この浪費と
部屋の中の血は一應拭き清めてはありますが、檢屍が濟んだばかりで、死體はそのまゝになつてをります。
奉公人達は遠慮して寄りつかず、内儀のお
「――」
默禮して死體の側から退いたお八尾は、四十二三の淋しい女で、愼しみ深さうなのも、化粧に縁のない顏も、
平次は死體の側に寄つて、先づそれを今朝發見した時の位置に戻させました。お八尾も駒吉も氣の進まない樣子でしたが、平次の強い意志に引ずられて、番頭の源助を呼んで手傳はせながら、あられもない姿に復原させます。
血溜りの中にあふむいて、踏みはだけたやうな姿、
「八、お前は、この死體は死んでから動かして、布團の上の血溜りに引つくり返したものと思はないか」
「へエ?」
平次の第一の疑問は、早くもこの死體の不自然な姿に向けられたのです。
「それから、――この人は武家の出だと言つたね」
「へエ、その通りで、父親は御家人でしたが、
文五郎は代つて答へました。
「武家の出で、頑固な父親を持つた娘なら、自害の方式くらゐは教はつた筈だ」
「――」
「この通り、キチンと坐つて、
「誰も解きはいたしません。今朝見付けた時は、この通りでございました」
番頭の源助は
「すると、この
「――」
「若い女が自害して、こんな恰好になるといふのは
平次の言葉は、いかにも苦々しく響くのです。死體の冒涜に對する憤怒でもあるのでせう。
「でも、殺されたものなら仕方がないぢやありませんか、親分」
「いや、殺されたのではない、外にもまだ證據がある」
八五郎の抗議を、平次は手輕にはね飛ばしました。
「へエ?」
「匕首を左に持換へさせたのは、――恐ろしい惡智慧だ。自害したのを殺しと見せるためだ、持換へさせたに違ひないことは、この右手の指と
「――」
「爪がひどく痛んでゐるし、指も折れてゐるかも知れない。匕首を握り緊めてゐるのを無理にコジ開けたのだ。それに左手は匕首を持たせてはあるが、
死後硬直を起した死骸の右手から、無理に匕首を取つた形跡は、八五郎にもよく呑込めます。
「――」
「おや、左の手の
「引つ掻きくらゐは拵へたでせうが、血を流すほどのことはなかつたやうです」
番頭の源助は應へました。
「そいつは、殺した相手と揉み合つた證據ぢやありませんか」
八五郎は横から口を容れます。
「匕首を持つた手の掌に傷がある――これはむづかしい判じ物だよ。お前が考へたやうにも取れるが、自分で自分の喉笛を兩手に持つた匕首で掻き切る時、手が滑つて左の掌をきることもあるだらう。いざ死なうといふ時だ、それくらゐの粗相は氣もつくまい」
「そんなもんですかね」
「股を縛つた
「――」
「見るがいゝ、
平次はなほも調べを續けましたが、内儀のお八尾は愼しみ深くて何んにも言はず。二人まで妾を飼つて、同じ屋根の下に屈辱的な生活をしてゐることさへも、當り前のやうに考へてゐる樣子です。
その弟の駒吉は、さすがに堅い文字も讀み物の道理も
「あれは
こんな遠慮のないことを言つてのけるのです。そして姉の夫の文五郎に對して、かなりの根強い反感を持つてゐることを隱さうともしません。
番頭の源助はひどく要領の良い男で、
「へツ、へツ、旦那を一人占めしようと思つて、喧嘩の絶え間はありませんでしたよ。昨夜も旦那の言傳を持つて來て直ぐ歸らうと思ひましたが、若い女が二人で

すべてを茶にしたやうな態度です。
下男の半次は五十がらみの無口な男、何を訊いてもらちがあかず、下女のお兼は、出戻りの四十女で、
「お關さんは
これが平次の聽いた全部です。
戸締りは嚴重で、素より外から曲者の入つた形跡はなく、お吉が殺したのでなければ、自害といふことに違ひもありません。
平次は歸りに湯島の番所に廻つて、お吉にも會つて見ました。
これは二十一といふ咲きこぼれさうな妖艶な女です。
「あら錢形の親分さん、どうかして下さいよ。私は何が面白くて、あんな薄汚い婆アのお關などを殺すものですか、あの人はもうお佛箱に[#「お佛箱に」はママ]なる筈だつたんですもの。殺されゝば私の方ですよ。こんな馬鹿々々しいことがあるものですか」
と言つた調子で、
「八、お係に申上げて、この女を返すがよい。お關は間違ひもなく自害だよ。それに變な
平次は背を見せました。
「あ、錢形の親分。さすがは親分ねえ、お禮を申上げますわ。身に覺えがなくたつて、縛られて面白いわけぢやない」
お吉はその後ろから、際限もなくお世辭と
それから十日ばかり、お關の初七日も過ぎて、平次はツイこの不思議な
「さ、大變ツ、親分」
ガラツ八の八五郎、足も空に飛んできたのです。
「今日あたりは、お前の大變がきさうな空合だと思つたよ」
平次は夕立模樣の空を眺めて、こんな呑氣なことを言ふのです。
「へツ、そんな呑氣な話ぢやありませんよ。御存じの池の端の
「お化けでも出るのか」
「お化けくらゐは三杯
「昨夜は眞つ暗で暑かつたぜ。泳ぎに入つて、
「あの邊は淺過ぎて死ねませんよ。人足を入れて、佛樣を引揚げるとき見ると、
「さてはお關の幽靈に引き込まれたか」
「冗談ぢやありませんよ――腹一杯の水を呑んでゐるから
「着物はどこに置いてあつたんだ」
「
「では、俺も行つて見るとしようか」
「へツ、へツ、飛んだ眼の保養で」
「馬鹿なことを言ふな」
平次は八五郎の
お吉の死體は鹿野屋の寮に引取つて、池の端にはもう彌次馬の影もまばらです。
「あ、錢形の親分、重ね/″\の災難で面目ないが――」
主人の文五郎は
「御主人は昨夜も横山町のお店の方だらう」
「その通りで」
平次は先づ、豫想が的中しました。
「あれからお吉の樣子に變つたことがなかつたのかな」
「變つたと申せば、妙にふさぎ込んだり、さうかと思へば急にはしやぎ廻つたり少々取りとめもない風でしたが、まさか、死ぬ氣になつてゐたとは思ひません」
美しい
鹿野屋の寮の中は、さすが打ちしめつてをりました。お吉の死體は手輕に檢屍が濟んで、階下の六疊に寢かしてありますが、さすがに手が廻り兼ねて、まだ
佛樣の前を飾つて、まめ/\しく供養してゐるのは、相變らず淋しさうな本妻のお
平次は一と眼死體のゆがみを見て、ハツと息を呑みました。淺い池の中に飛び込んで、中腰になつて死んだせゐかどうか知りませんが、身體全體に、何んとも言へない不思議なゆがみがあるばかりでなく、第一その顏に現はれた苦惱の表情は、容易のものではありません。
普通の水死人の、いやにむくんだ顏は、
平次は女の胸から水落ちのあたりを見て行きました。明らかに水は呑んでをります。胃のあたりのふくらみは、殺されてから水に放り込まれたものでないことをあまりにも明かに示してゐるのです。
「八、あれをどう思ふ」
「――」
平次は女の髮の毛の異樣な亂れと、もう一つ、鼻の頭から、
「水の中の石か何んかでやられたんぢやありませんか」
八五郎は一向のんきに片付けてをります。
「兎に角
平次は家中の者に逢つて、昨夜の樣子を訊ねて見ることにしました。最初は下女のお兼、
「旦那樣が横山町のお店に泊るとわかつたのは日が暮れて風呂を立ててからでした」
「使ひでも來たのか」
「今度は小僧の佐吉どんでした。暗くなりかけてからお店へ歸りましたが」
「寢たのは?」
「眞つ先にお吉さんが風呂に入つて、――いつもさうですけれど、お内儀さんは頭痛がすると仰しやつて早く休んでしまひ、それから駒吉さんが入つて、半次どんと私が入つて、順々に寢てしまひました。火を落してから、一度寢た筈のお吉さんが、あんまり
お兼の言ふことはなか/\行き屆きますが、その語氣のうちにも、死んだお吉の
「それは何刻だ」
「
平次はさらに本妻のお八尾、その弟の駒吉にも訊きましたが、下女のお兼の言葉と大同小異で、お八尾はお吉が湯へ入つたのも、風呂場から出て來て、二階へ行つたのも知つてゐるが、家を脱け出して、
「その代りお吉が裏の戸を開けて外へ出たのは夢心地に知つてをります。――
「今朝店の戸は?」
「開いてゐました。變なことがあるものだと思つて外を覗くとあの騷ぎです」
と、駒吉は首を振るのでした。
もう一つ念のために今朝
それからお吉の遺品も調べましたが、あんな女にしては思ひの外金を持つてゐたことが異樣に思はれましたが、遺書一つあるわけでなく、押入も手文庫も亂雜で
「親分、妙に氣になることばかりですね」
「お前もさう思ふか、――いかに女の無分別でも、腰きりの水の中へ裸體で飛び込んで、しやがんで死ぬのは少し變だな」
「何んか良い智慧はありませんか」
八五郎は腰の十手などを拔いて、妙に
「ないな、一度歸つて考へるとしようよ。お前は氣の毒だがこゝへ殘つて、船を出して池の中を搜さしてくれ。
平次はそれつきり明神下へ引揚げてしまつたのです。
その日の夕刻、八五郎の『大變』がもう一度平次の住居を驚かしました。
「何んだ八、全くお前と言ふ人間は附き合ひきれないよ」
いま/\しさうに言ふ
「でもこいつは驚かずにはゐられませんよ。三輪の萬七親分が乘り出して來て、鹿野屋の
「それは本當か」
「池の端の
「誰のだ」
「金で
八五郎の報告には
「そいつは恐ろしい見當違げえだ。あの女一人の力で、若くてイキの良いお吉を
「行つてそれを教へてやりませう。お關とお吉が死んだ時、神妙に線香でも上げてやつたのは、あの内儀だけぢやありませんか」
「よし/\、俺もそれを考へてゐたよ」
平次はもう一度、眞夏の夕方の街を明神下から池の端へ飛んだのです。
丁度池の端の、鹿野屋の前のあたりまで行くと、平次が八五郎に言ひ付けて出した小船の一隻が、
「おや? 大きな石を二つ縛つてあるぜ、容易には上がらねえわけだ」
人足の男がようやくそれを船の中に引揚げたところへ、折よく平次と八五郎は顏を出したのです。
「親分、變なものがありましたよ」
岸へ
「これだよ、八、お關が自分の
「なんだつてそんなことをしたんでせう」
「お吉の部屋の入口の引手に血まで塗つたところを見ると、お吉を下手人にしたかつたのだらう」
「へエ」
「これほどお吉が怨まれてゐるとわかると、話は段々むづかしくなるぢやないか」
「?」
八五郎には何が何やらわかりませんが、平次はグングン鹿野屋に入つて行くと、店にゐる番頭の源助をつかまへていきなり言ふのです。
「風呂場へ案内してくれないか」
「
「その昨夜のまゝが見たいのだ」
平次は追つ立てるやうに、店中の
さすが大町人の寮の風呂場で、それは贅澤を極めたものですが、さすがにたそがれて、窓から入る夕あかりでは隅々までは眼が屆きません。
「
と平次が聲をかけると、默つて廊下に用意してある
「俺は大變な間違ひをしてゐたんだ、――お吉の死骸の額にひどい
「――」
「見るがいゝ、この鐵砲風呂には水が八分目入つてゐる。人間がこれへ入つて身體を沈めると、水は丁度縁まですれ/\になるだらう。その時誰か風呂場へ入つて來て、不意に
平次はさう言ひながら、風呂の蓋を取つて、僅かににじむ血の
「誰ですそれは?」
八五郎は十手を拔いて、又あたりを物色し始めました。風呂場の中には源助と駒吉、入口には文五郎と平次とお兼の顏が覗いてをります。
「お關の膝の
「?」
「女ではない、力のある男だ。お吉ほどの丈夫さうな女が、死物狂ひになつても、下から風呂の蓋を
「
「内儀ではない。内儀はそんな力がない」
「枳殼垣に落ちてゐた
「内儀は悧巧な女だ、お吉を誰が殺したか知つてゐるのはあの内儀だけだ。いつかはお吉が身投げではなくて、殺されたのだと分るかも知れない。その時下手人を縛らせるのが氣の毒だから、萬一の時俺達を迷はせるために自分の櫛を垣の中へ投り込んで置いたのだ、――あの内儀はさう言つた女だ」
「お内儀が
八五郎はます/\せき込みます。
「八、後ろを見るがいゝ、自首して出る氣だ。繩にも及ぶものか」
八五郎はハツと後ろを振り返ると、流しの板敷の上に、手燭を持つた駒吉が、崩折れたやうにしやがんでゐるではありませんか。
「恐れ入りました。錢形の親分、姉が縛られた時、名乘つて出なかつたのは、未練なやうですが、私は三輪の親分の手柄にしたくなかつたんです」
駒吉は流しに手を突いたまゝ言ふのです。
「お前は四角な字も讀めるといふことだ。なんだつてこんな無分別なことをしたんだ」
平次はその前にしやがみました。弟に意見でもしてゐる調子です。
「姉が可哀想でした、――同じ屋根の下に
駒吉は觀念しきつた態度で、何も彼もブチまけるのです。
「お前はお吉を殺す氣でこの風呂場へ入つて來たのか」
「飛んでもない、――私は
「――」
「驚きもすることか、につこり笑つて、――からかひ面に流し眼をくれたまゝ、後ろ向に風呂の中へ身體を沈めたのです」
「――」
「私は三十のこの歳まで、女遊び一つしたことのない人間です。私は學問と
駒吉は言ひをはつて崩折れてしまつたのです。
「よし、よく言つた。俺はお吉を殺したお前より、金のあるに任せて、妾を二人も飼ひ、女房と同じ家に住まはせて、通人氣取りで
「立てツ」
八五郎は怒鳴りましたが、その聲は妙に
文五郎はコソコソと姿を隱した樣子。夏の夜の池の端には、彌次馬が一パイ