私は昨今、本県の社会で問題となっているユタについて御話をしてみたいと思います。「ユタの歴史的研究」! これはすこぶる変な問題でありますが、那覇の大火後、那覇の婦人社会を騒がしたユタという者を歴史的に研究するのもあながち無益なことではなかろうと思います。ユタの事などは馬鹿馬鹿しいと思われる方があるかもしれませぬが、この馬鹿馬鹿しいことが実際沖縄の社会に存在しているから仕方がない。哲学者ヘーゲルが「一切の現実なる者は悉く理に合せり」と申した通り、世の中に存在している事物には存在しているだけの理由があるだろうと思います。沖縄の婦人がユタに共鳴するところはやがて問題のあるところであります。女子は人類社会のほとんど半数を占めている、沖縄五十万の人民中二十五万以上は女子である。かくのごとく大なる数を
有っている女子に関する問題が等閑に附せられているのは遺憾なることであります。それはとにかく、中央の劇場でイプセンの「ノラ」やズーダーマンの「マグダ」が演ぜられつつある今日、沖縄の劇場でユタの事が演ぜられるのは妙なコントラストであります。そこで私は、ユタを中心として活動する沖縄の古い女は婦人問題で活動する新しい女より二千年も後れていると断言せざるを得ないのであります。
さて本論に這入る前に、古琉球の政教一致について簡単に述べる必要があります。おおよそ古代において国家団結の要素としては権力腕力のほかに重大な勢力を有するのは血液と信仰であります。すなわち、古代の国家なるものは皆祖先を同じうせる者の相集って組織せる家族団体であって、同時にまた、神を同じうせる者の相集って組織せる宗教団体であります。いったい物には進化して始めて分化があります。そこで今日においてこそ、政治的団体、宗教的団体等おのおの相分れて互に別種の形式内容を保っているものの、これら各種の団体は古代に遡ると次第に相寄り相重り、ついにまったくその範囲を同じうして政治的団体たる国家は同時に家族的団体たり宗教的団体たりしもので、古来の国家が初めて歴史に
見われた時代には皆そうであったのであります(河上肇著『経済学研究』の第九章「崇神天皇の朝、神宮・皇居の別新たに起りし事実を以て国家統一の一大時期を画すものなりと云ふの私見」参照)。私は沖縄の歴史においてもかくのごとき事実のあることを発見するのであります。
沖縄の歴史を研究してみると、三山の区画はその形式だけはとうに
尚巴志によって破壊されたが、その実質は
尚真王のころ三山の諸侯が首里に移された時まで存在したということがわかります。そしてこの中央集権は、じつに三山の割拠を演じていた周廻百里の舞台を首里という一小丘を中心とせる一方里の範囲に縮小したようなものであります。三山の遺臣はなお
三平等(三ツの行政区画)に割拠して調和しなかったのであります。語を換えて言えば、政治的に統一された沖縄はまだ宗教的(すなわち精神的)に統一されなかったのであります。とにかく、尚家を中心とせる政治的団体は同時に家族的団体であってまた宗教的団体でありましたが、新しく這入って来た団体はこれとは血液を異にし、神を異にしていると思っていたところの団体でありました。そこで首里の方では
島尻地方から来た連中を
真和志の
平等に置き、
中頭地方から来た連中を
南風の平等に置き、
国頭地方から来た連中を
北の平等に置き、その間に在来の首里人を混ぜてその首里化を計ったのであります。そして三山の諸
按司はその領地にて地頭代という者を置いて、自分等はいよいよ首里に永住するようになっても折り折り祖先の墳墓に参詣したのであります。ところが彼等をしばしばその故郷にかえすということは復古的の考えを起させる基になるので政策上よくないことでありますから、尚家の政治家は三平等に各自の遥拝所を設けさせたのであります。すなわち南風の平等は
赤田に
首里殿内を、
真和志の平等は山川に
真壁殿内を、
北の平等は
儀保に
儀保殿内を建てさせました。そしてその形式はいずれも
尚家の神社なる
聞得大君御殿にまねて祖先の神と火の神と鉄の神とを祭らしたのであります。そして時の経つにつれて三種族は合して一民族を形成するようになり、その中で最も勢力のあった尚家の神が一歩を進めて新たに発生した民族全体の神となり相合した数多の氏族は皆これをもって共同の祭神となすに至りました。
私の考えでは、首里城附近否首里城中にあった聞得大君御殿が時代を経るに従ってその神威はますます高まり、ついには一定の場所を撰んでここに鎮座するに至ったのでありましょう。今もそうであるが特に古代においては、御互の間に血縁なりとの仮想が生ずる時に、これがやがて新たに主君との恩顧の関係、はじめて非血縁者を人為的に血縁同胞たらしめるのであります。すなわち三山の遺民は戯曲「忠孝婦人」の玉栄が
村原婦人と「
御神一ツの
近親類」といって誇ったように威名赫々たる中山王と神を同じうする近い親類といって喜んだのでありましょう。これがやがて「弱者の心理」であります。今日皆さんが御覧になるところの本県の祖先崇拝の宗教はこういう風にして出来上ったのであります。これはじつに当時の人心を支配すること極めて甚しく、彼等はその吉凶禍福をもって一に懸って祖先の神意になるものとなしました(今なおそうである)。ゆえに当時の社会においてはその祖先を祭るということは、社会共同の禍福を保存するがために最も重大なる用務であって、政治はすなわち祭事、祭事はすなわち政治でありました。かくのごとくにしていわゆる政教一致の国家が出来上りました。政治的に統一された沖縄は宗教的にも統一されたのであります。じつにこの民族的宗教は当時の国民的生活を統一するにはなくてならぬものでありました。
以上申上げた通り、沖縄で四百年前、中央集権を行った時分に政教一致はひとしお必要になったのであります。さてこの以前から男子は政治にたずさわり女子は宗教にたずさわるという風に分業的になっていたのであるが、政教一致の時代においては二者は離るべからざる関係を持っているから、当時二者は一心同体となって活動していたのであります。それゆえにこの時代を研究するに、二者を離して別々に研究すると失敗に終るのであります。さて政治の方面において国王が国民最高の機官であるごとく、宗教の方面においては聞得大君が国民最高の神官でありました。『女官御双紙』に「此大君は三十三君の最上なり、昔は女性の極位にて
御座しゝに大清康熙六
丁未年王妃に次ぐ御位に改め玉ふなり」ということがあります。それは伊勢神宮に奉仕した
斎女王のようなもので、昔は未婚の王女(沖縄では昔は王女は降嫁しなかった)がこれに任ぜられたのであります。ギリシア・ローマの文化の未だ及ばなかった時代のゲルマン民族の女子も一般に男子より一段下に位するものとなっていたが、しかし女子は一種不思議な力を
有っているものと考えられ、女子は予言をする力を有っていて神によって一種不思議な力を与えられているという考えを有っておりました。女子が祭事にたずさわるべき者という思想は、おそらく古代においては世界共通の思想であったのでありましょう。実際昔は沖縄における女子の位地は今日よりはよほど高かったのであります。それはとにかく、後世になってこの民族的宗教が衰えて来るといったん嫁して帰って来た王女が聞得大君に任ぜられるようになりました。聞得大君の下には前に申上げた三殿内(三神社)の神官なる
大あむしられがあります。これには首里の身分のよい家の女子が任ぜられるのであります。もちろん昔は未婚の女子が任ぜられたのであります。さてこの「あむ」という語は母ということで「しられ」という語は
治めるまたは
支配するということであるから、
大あむしられには政治的の意味のあることがよくわかります。そして
大あむしられの下には三百人以上の
のろくもいという田舎の神官がありまして、これには地方の豪族の女子(もちろん昔は未婚の女子)が任ぜられたのであります(
のろくもいの中で格式のよいのは
大あむととなえられています)。もっとくわしくいうと真壁の
大あむしられは島尻地方および
久米、両先島の百人余の
のろくもいを支配し、首里の
大あむしられは中頭地方の六十人余の
のろくもいを支配し、儀保の
大あむしられは国頭地方の四十人余の
のろくもいを支配していたのであります。そしてこれらの
のろくもいの任免の時分には銘々の監督たる
大あむしられの所にいって辞令を受けるのであります(これらの神官はいずれも世襲であります)。
沖縄の古い歌に、
伊平屋のあむがなしわらべあむがなしいきやし七親島おかけめしやいが
というのがあるが、これは今度の伊平屋の神官の
大あむは歳が若いがどうしてマア、この伊平屋列島を支配することが出来ようかとの意であります(そのほかにもこういう例はたくさんあるが)。この一例を見ても当時聞得大君以下
大あむしられ、
大あむのろくもいが政治上勢力を有していたかがよくわかるだろうと思います。
そしてこれらの女の神官達は祭礼の時などには皆馬に跨ったのである。『女官御双紙』を見ると「首里大あむしられ根神のあむしられ乗馬にて継世門の外にて下馬被
レ仕候事……首里大あむしられ根神のあむしられ如
レ前継世門の外より乗馬にて崎山の御嶽に被
レ参……」ということがあり、また『聞得大君御殿並御城御規式之御次第』という本の
御初地入りの条に「知念
のろ二人
あむしられた三人女性たち
白巾にて騎馬にて御通り聞得大君御馬にて被
レ召筈之処御馬被
レ召候儀は御遠慮にて云々」ということがあるのを見ても、昔は上は王女から下は田舎娘に至るまで馬に乗ったということが明白にわかります。そして現今でもこの遺風は田舎に
遺っていて祭礼の時に
のろくもいが馬に乗るところが稀にあるようであります。私は先年八重山にいって十名以上の八重山乙女が馬に跨ってあるくのを見たことがありますが、その時、上古における沖縄婦人はこういう風に勇壮活溌であったろうと思いました。
尚真王時代に八重山征伐があったことは皆様御承知でありましょうが、その時、久米島の
君南風が従軍をしたという事実があります。これは『女官御双紙』にも書いてあれば、オモロにも謳ってあります。実際当時の沖縄では八重山を征服したのは君南風の策略が
与って力があると信じていました。そして船中の勇士たちはこの女傑のオモロ(讃美歌)とオタカベ(祈祷)によって鼓舞されたとのことであります。これは神功皇后の話とともに上古における日本民族の女子の位地が低くなかったという証拠になると思います(
与那国島にはかつてサカイイソバという女王があって、島を支配したという口碑が遺っています)。私は、『漢書』や「魏志」に九州地方に当時たくさんの女王がいたと書いてあるのは、たぶん支那の航海者がこの勇壮活溌にして政治上に勢力のあった
のろくもいのごとき者がたくさん活動しているのを目撃して早合点をしたのではなかろうかと思います。ここはおおいに研究する価値があるだろうと思います。とにかく、上古においては男女のケジメが心身ともに今日見るような甚しい差はなかったのでありましょう。
右に申述べた
のろくもい以上の者は、政略上いわば人為的に出来たものでいずれも純然たる官吏であります。そして旧琉球政府は、この
のろくもいを自然に出来上った
根人(氏神すなわち
根神に仕える女子)の上に置いてこれを支配させたのであります。この根人の下にもまた多くの
神人があるのであります。『
混効験集』に「
さしぼ(または
むつき)は
くでの事、また
くでとは
託女の事也、今神人と云是也」ということがあります。この神人の事を明らかにしておくことは沖縄の家族制度を了解する上にいたって必要なることでありますから、
喜舎場朝賢翁の近著『
東汀随筆』の一節を引用して御覧に入れましょう。
我が国古来の習俗として人家相継して七世に及べば必ず神を生じて尊信す。其の神は只二位を設く。蓋し祖考以上始祖に至るの亡霊を以て神となるなり。而して親族の女子二名を以て神コデと称し、之に任ぜしむ。一名はオメケイオコデと為し、一名はオメナイオコデと為し(方言、男兄弟をオメケイと言い姉妹をオメナイと言う)、其の神を祭る一切の事を掌る。其の祭祀は毎年二月には麦の穂祭と称し麦の穂を薦む。三月には麦の祭と称し、酒香酢脯を薦む。五月には稲の穂祭と称し(稲の穂を薦む。六月には稲の祭と称し)酒香酢脯を薦む。亦族中課出金を以て祖考祖妣の神衣を製し、祭祀毎に神コデ二人之を着て神を拝祭す。三月五月の祭には族中男女尽く来り、香を焚き、礼拝す。コデの酌を受く。而して神の生ずる期月三年の期月七年の期月十三年の期月二十五年の期月三十三年の期月には、酒香酢脯※[#「麥+比」、U+2A308、206-3]餅を具へて以て、之を薦む。其の費用悉く族中課出をなす。三十三年の期月を畢れば、其の翌年復た神を生じ及び期月毎に祭礼すること旧の如し。其のコデの任命は専ら祖宗神霊の命ずる所に因る。予め祖宗の神霊あり。其のコデと為すべき者及び巫婦の身に附着して言語をなし、或はコデと為るべき者疾病を為し、其の女コデと為ることを御請すれば、即ち癒ゆ。是を以てコデと為ることを得る。コデは終身の職と為す。死するときは即ち其の後任を選ぶこと復た此の如し。故にコデ職は自ら命ぜられんと欲するも得ず。自ら免れんと欲するも得ざるものとす。此コデと言ふ者は支那の古へ祭祀ある毎に設くる所の尸と同一なるべし。
そしてコデは五年おきもしくは七年おきに
今帰仁拝みとか
東廻りとかいうように族中の男女二、三名を携えて祖先の墳墓の地に往って祖先の神を拝し山川を祭るのであるが、巡礼が
畢って帰るとすなわち家中の神への報告祭があります。この日、氏子等(すなわち親類中の者)はサーカンケーといって半里位の所まで出かけてこれを迎えることになっています。じつにこの神人(もしくは根人)なるものは親族を宗教的に(すなわち精神的に)
纏める者であります。田舎の村落に行くと根神の家(すなわち根所)が一
字に一カ所(?)あるが、昔は村の真中にあってそれを中心として家族的の村が出来たようであります。それでこの根神を研究すればその村の歴史がだいたいわかるわけであります。私は沖縄中の根神の数を
算えたらアマミキョの移住当時の人数(そうでなくとも上古の人口)が大略わかるのではなかろうかと考えたこともあります。さて今申上げたところを図であらわしてみるとこうである。
これはとりも直さず軍隊的組織で、聞得大君の一令の下に沖縄中の
のろくもい、
根人、
神人が動き出すような仕組になっていたのであります。思うに日本の古神道の寺院組織は(外国文明が這入って来たために)ここまで発達しないでおわったでありましょう。じつにこの民族的宗教は沖縄の大家族制度を発達させて、尚真王時代の健全な国家を見るに至ったのであります。
近頃、日本の学者は
頻りに古神道や家族制度のことをやがましく説かれますが、琉球人の信仰生活や家族制度を
一瞥されたら思い半ばに過ぐるものがあるだろうと思います。日本中で完全な家族制度はおそらく沖縄にばかり遺っているのではなかろうか。私はかつて『沖縄毎日新聞』に「
古琉球の政教一致」という論文を書いて、その切抜きを柳田国男氏におくったところが、氏はさっそく返書を認められていろいろの注意を与えられたことがあります。その一節に、
只今拝読し了り大なる刺激を得申候加藤玄智氏等の仲間にて神道談話会と申熱心なる研究者の団体有之此連中に一読させ申度存罷在候内地の神道は承知の如く平田派の学説一代を風靡し之に反して説を為す者を仮容せず候も其原形に於ては御島の風習と相似たる者一二にして止まらず半月来古き人類学会雑誌を集め南島の信仰生活をより/\窺見候て後愈驚くべき共通を発見致候……南島の研究者が古宗教の原形を伺ひ得らるゝは此等の高僧碩徳の少なかりし為と考へ候へばかつは羨しく存申候又本居平田などの大学者の無かりし為と存候
ということがありますが、じつにその通りであります。沖縄の民俗的宗教は儒教も仏教も知らなかったところの婦女子の手に委ねられたために、かえってその原形を保存するに都合がよかったのであります(沖縄の女子が古来学問をしなかったということは面白いところであります)。そして柳田氏は、そのほかにユタが絶滅せぬ前にわかるだけユタの事を研究してくれとの注文をされました。これがそもそも私のユタの歴史的研究を始めるようになった動機であります。
さて、ユタの事を了解するに必要なることと思いまして政教一致のことをかなりくわしく申上げましたが、これからいよいよ本論に這入って琉球史上におけるユタの位地を観察してみようと思います。
御承知の通りいずれの宗教にも神秘的の分子は含まれているが、沖縄の民族宗教にもまた神秘的の分子(悪くいえば迷信)が含まれているのであります。いったい小氏の
神人より大氏の神人に至るまで、古くは神秘的な力を
有っていて神託を宣伝するものであると信ぜられていたのでありますが、なかにはそういう力を有っていない名義ばかりの神人もいたのでありますから、これらに代って神託を宣伝する連中が民間に出で、そうしてとうとうこれをもって職業とするようになったのであります。これがすなわちトキまたはユタと称するものであります(そして後には神人にしてこれを職業とするものも出るようになりました)。彼等の職掌は神託(琉球古語では
ミスズリまたは
ミセセルといいます)を宣伝するのでありますが、後には生霊死霊の口寄(死者の魂を招いて己が口に
藉りてその意を述べることで、今日の沖縄語ではカカイモンと申します)をも兼ねるようになりました。こういうように神の霊または生霊死霊を身に憑らしめて言出すことをウジャシュンと申します。こういうところから考えてみると、
ユタという語とユンタ(しゃべる)という語との間には内容上の関係があるかもしれません。そのほか彼等は時の吉凶を占ったり人の運命を占ったりするようなこともするので一名
物知りともいっています。ユタという語はやや日本語の
ミコまたは女カンナギに当るから巫という漢字を当てはめたらよいかもしれません。このユタという言葉は『オモロ双紙』や『女官御双紙』のような古い本の中にも一向見当らない言葉で、『
混効験集』には「
時とりや、
占方をするもの、巫女の類也、
ゑかとりや、返しの詞、いづれもありきゑとの
神歌御双紙に見ゆ」とあります。今日の沖縄語でウラナヒのことを
トキウラカタまたは
トキハンジといいますが、そのトキということは
男カンナギすなわち覡のことであります。この言葉は本県の田舎には今なおのこっています。私はかつてウラナヒの上手な老翁をさしてあの人はコマトキであるというのを聞いたことがあります。しかし今日では、首里・那覇ではトキユタ(
巫覡)という熟語を聞くのみでトキという言葉はほとんど死語となってしまいました。巫覡を時とりや(時を取る人)または、えかとりや(日を取る人)というところから見るときは日や時の吉凶を占うところから来たようでもあるが、日本語に
夢解きという言葉のあるのを見るとまた
解くという動詞の名詞形「
解き」から出たようでもある。とにかく今日の人がトキという言葉を忘れてしまって覡をイケガユタ(男ユタ)といっているのは、近代になってユタ(巫)が増加するにつれてトキが減少したためでありましょう。文献に現われているだけで判断してみると、昔は
ユタの勢力よりも
トキの勢力が強かったようであります。『オモロ双紙』の八の巻の二にこういうことがある。
おもろねやがりぎや
時とたるまさしや
おふれ よそわてちよわれ
せるむ ねやがりぎや
きやのうち ぬきまるが
時とたるまさしや
ぐすく二ぐすく時とたる
おどん二おどの時とたる
おもろねやがりは尚真王時代の人で日の吉凶を占うに妙を得た人であった。一名
きやのうち(御城京のうちのこと)
ぬきまるとも言われたこの人は、城二カ所を造る日を占った人だ、御城二カ所を造る時を占った人だというのであります。また同じ八の巻の十三に、
おもろとのばらよ
すゑのくちまさしや
ということがありますが、これは「オモロの詩人よ、汝の予言はよく適中す」の意であります。以上二つの例をもって見ると当時は詩人と予言者とは一致していたようであります。『混効験集』に、「
きやのうぬきまる、時取の名人也、もくだよのかね、是も時取の名人也」ということが見えていますが、もくだよのかねは有名な
武久田大時のことで、きやのうぬきまる(俗にチャヌチといってその墓も浦添辺にある)その高弟であります。二者の関係は後で
細しく申上げることにします。とにかくこのオモロを見てもこれらの覡が当時宮中にまで出入していたことがわかります。また
羽地王子向象賢の『
仕置』を見ても、向象賢以前には
時之大屋子という覡がいて政府の御用を務めていたことがわかります。政治家が神託を伺って政治を行った時代は巫覡の得意時代であったに相違ありませぬ。
今の尚家の大祖の
尚円王(伊平王)が即位された時の有様を『王代記』または口碑によって調べてみると、当時沖縄に革命が起って尚巴志の王朝が亡ぶとさっそく首里城の京の中で国王選挙の大会が開かれたとのことでありますが、群衆の中から白髪の老人
安里の
比屋が声を放って、
虎の子や虎、犬の児や犬、食与ゆ者ど我御主、内間御鎖ど我御主
という風に謡ったところが、衆皆これに和してここに一国の君主は選挙されたとのことであります。これがいわゆる
世謡というもので、琉球の上古にあってはいわゆる
世替(革命)がある場合にはおおかたこの形式によって国王の選挙は行われたとのことであります。世謡ということは「国家の大事件を謡う」の意で、予言者と詩人とを兼ねた社会の先覚者が神の命を承けて詩歌の形でこれを民衆に告げることであります。近代的の言葉を用いていえば、その社会の公然の秘密――雲のごとく煙のごとくたなびける社会情調――を民衆が意識せざるに先だちあるいは意識していても発表し切れない時に、見識なり勇気ある人がこれを看破し表明することであります。もっと手短にいえば時代精神を具体化することであります。カーライルの『英雄崇拝論』を
繙いてみると、ある古代のヨーロッパ語ではポエット(詩人)とプロフェット(予言者)とは同義語であって二者を表わすべきヴァーテスという語は別にあるとのことでありますが、前に申上げた
おもろねやがりも
きやのうちぬきまるも詩人・予言者を兼ねたヴァーテスの類であったろうと思われます。そしてわが安里の比屋もまたこういう種類の人間であって時代精神を具体化した警醒者であったろうと思います。悪くいえばいくらか覡のような性質を有っていた者でありました。この世謡という選挙の形式は今から見るとほとんど信ずることも出来ないほど妙なものでありますが、人文の未だ開けなかった時代にはいずれの民族の間にも行われた形式であります。琉球の上古は世替の時代でありました。英雄の時代でありました。そして相互の人格・才幹・技倆・能力・体力に非常なる懸隔があって、ある一人の偉大なる強者の下に衆者平伏して文句なしにその命に屈服した時代でありました(後世になって発達した多数決という選挙の形式と比較して研究するのはいたって趣味あることでありますが、こはまたいつかお話することに致します)。それから『
遺老説伝』に国王の即位についての面白い記事がありますから、引用することに致しましょう。
往古之礼、聖上即位、必択吉旦、召群臣於禁中、且聚会国中男女於獄(平等所)而覡巫呪詛而焼灰宇呂武、和水而飲焉、中古而来、王已即位、必択吉日、偏召群臣於護国寺、令飲霊社神文之水、且遣使者、往至諸郡諸島、而飲神水於庶民、永守君臣之義、不敢有弐心也。
すでに
世謡があって国王が立つと吉日を
択んで官吏を禁中に集め、それから国中の男女を
平等所(警察と裁判と監獄とを兼ねた所)に集めてトキ(覡)ユタ(巫)が
呪いをして灰を焼き、これを水に解かして飲ませる儀式がありました(中古以後すなわち尚真王以後は官吏のみを護国寺に集めてそういう宣誓式を行うようになりました。そして田舎や離島には別に官吏を派遣してこれを飲ませ、永く君臣の義を守って弐心のないようにとの宣誓式を行わせました)。これを見ても、当時トキユタの連中が幅をきかしていたことがわかります。こういう風に政府の御用まで勤めるようになっては民間におけるその勢力は一層大なるものとなったでありましょう。そこで尚真王の頃であったか、時の政治家がトキユタの
跋扈を憂いこれを抑えようとしてやりそこなって一層
跋扈させたという口碑があります。『東汀随筆』の二の九にこういうことがあります。
国王の御墓を玉御殿といふ。書に筆するには玉陵と書す。綾門の路傍に在り。三箇相並て居る中の御墓は初め薨御せらるゝ時葬り奉る所なり。東の御墓は、御洗骨の後御夫婦の美骨を一厨子に納め奉る所なり。西の御墓は、御子部を葬り奉る所なり。中の御墓内に一の石厨子あり。銘書もあらず何人たるを知らず。世に是れ武久田大時の髑髏なりと伝ふ。昔何王の時代なるを知らず、巫道盛んに流行し、妖術を以て人を眩迷せしむるものとて痛く厳禁せらる。其時武久田其魁となりたるを以て其術を試んと欲し、匣内に鼠一頭を納れ、武久田を召して幾箇あるやと占はしむ。武久田占て三ヶありと云ふ。王以て験あらずとて之を誅せらる。蓋を開けて見るに、果して子を産して三ヶあり。王悔みて玉陵に葬らせ玉ふと伝へらる。
(知花区長も
尚泰侯が薨御になった時、この不思議な
厨子を見られたとのことであります)。口碑によると武久田大時(『混効験集』に「
もくだよのかね是も時取の名人也」とあり)の高弟の
きやのち(前に御話いたしました
きやのちぬきまるのこと)と
東方カニーという二人がこういう神通力をもっている、人を殺しては大変であると言って騒いだところが、政府の方ではうろたえたあげく、とうとう武久田大時を
玉陵に葬ったということであります。さてこの教祖の犠牲によってトキユタはますます盛んになったとのことであります。そして今日に至るまで沖縄のユタは武久田大時をその開祖のように思っています。とにかくある主義または運動が主唱者の死刑によって大活動を始めたことは古今東西の歴史にその例が少くないのであります。この辺は経世家のおおいに注意せねばならぬところであります。
私は、これから沖縄以外の記録によって当時の沖縄を観察してみようと思います。新井白石の『
南島志』の風俗の条に沖縄の宗教のことがかなりくわしくあるが、その注にこういうことがあります。
按
使琉球録及

書云、俗信
レ鬼畏
レ神神以
下婦人不
レ経
二二夫
一者
上為
レ尸。降則数著
二霊異
一能使
二愚民悚懼
一。王及世子陪臣莫
レ不
二稽首下拝
一。国人凡謀
二不善
一神輙告
レ王。王就擒
レ之惟其守‐
二護斯土
一。是以国王敬
レ之而国人畏
レ之也。尸婦名
二女君
一首従動至
二三五百人
一。各頂
二草圏一二樹枝一、
有二乗騎者一有
二徒‐行者
一、入
二王宮中
一以遊戯一唱百和音声凄‐惨、倏忽往来莫
レ可
二踪跡
一。袋中所
レ録略相同而尤為
二詳悉
一。凡其神異鬼怪不
レ可
二挙数
一而已。甲午使人曰本国旧俗詳見
二袋中書
一百年以来民風大変神怪之事今則絶矣云々。
国王以下国民の尊敬を受けた三百人以上の
のろくもいが、
きのまき(すなわち、さみせんづる)という草で
八巻をして馬に乗りオモロなど謡う有様が、まのあたり見えるようであります。これは政教一致のところで御話する積りでありましたが、ちょっと忘れましたからここで申上げることに致します。『
使琉球録』という本は、明の嘉靖七年(今から三百八十六年前)
尚清王(尚真王の子)の時、琉球に使した
冊封使陳侃という人が書いたのであるが、沖縄の民族的宗教全盛代の有様を写すことがこのように詳細であります。それから慶長年間の琉球征伐の頃に琉球を見舞った日本僧
袋中が『
琉球神道記』にもほぼこれと同様なことが書いてあるとのことであるが、その時から百年も経つと、琉球の風俗習慣が著しく変化して以前のような迷信はほとんどなくなったということであります。民族的宗教が衰えるにつれて巫道も衰えたのでありましょう。
私考えまするに、沖縄の民族的宗教の衰えた源因は二つあります。第一は
島津氏の琉球入りで、第二は
儒教が盛んになったことであります。前にも申上げた通り、この宗教は昔は三十六島を統一するために欠くべからざる要具でありました。しかし幾多の氏族が合して一民族となり、相互に神を同じうし血を同じうすることを自覚した時には、最早その使命をおおかた全うしたのであります。しかのみならず島津氏に征服されて以来、尚家は政治上の自由は失ったがその王位はひとしお安固な位地に置かれたから、民族的宗教の必要はますますなくなったのであります。これから古来沖縄では男子にのみ学問をさせて女子には学問をさせなかったために、儒教が盛んになっても男子はこれによって開発されたが女子はこれとはまったく没交渉でありました。それゆえに男子はようやく迷信を脱することが出来たが、女子は少しもこれを脱することが出来なかったのであります。したがって男子は民族的宗教を記念祭的のものとし、女子は相変わらずこれを宗教的のものといたしました。ここにおいてか政治家はこれを政治以外に放逐しようとしてここに政教の分離が始まるようになりました。これはじつに代々の政治家を悩ました大問題であったが、有名なる羽地王子向象賢が国相となった時に断行するようになりました。『
女官御双紙』に、
聞得大君、此大君は三十三君の最上なり、昔は女性の極位にて御座しゝに大清康熙六年丁未王妃に次ぐ御位に改め玉ふなり。
とあるのを見ても民族的宗教衰微の有様が想像されるのであります。向象賢は同じ年に民族的宗教の附属物なる巫道に向って大打撃を与えています。これは彼の『
仕置』の中に、
前々より時之大屋子とて文字の一字も不存者を百姓中より立置、日の吉凶を撰、万事用候得共、此前より唐日本の暦用可申由申達相済候事。
とあるのを見ても明白であります。これじつに今から二百四十七年前のことである。前にも申上げた通り、
時之大屋子という覡は民間において勢力を有していたばかりでなく政府の御用をも務めたのであるから、当時の社会においてはかなり枢要な位地を占めていて劇文学の材料にまでなったくらいであります。余計な事とは思いますが、昔□時之大屋子のことを想像する便りにもと思って「
孝行の巻」という
組踊を紹介することに致しましょう。御参考にもなることと思いますから原文のままを御覧に入れようと思います。最初に頭が出て来て、
出様来る者や、伊祖の大主の御万人の中に頭取聞ちゆる者どやゆる、お万人のまぢり誠よ聞留めれ、ムルチてる池に大蛇住で居とて、風の根も絶らぬ、雨の根も絶らぬ、屋蔵吹くづち、原の物作も、根葉からち置けば、昨年今年なてや、首里納めならぬ、那覇納めならぬ、御百姓のまじりかつ死に及で、御願てる御願、祈べてるたかべ、肝揃て立てゝ、肝揃て願げは、時のうらかたも神のみすゞりも、十四五なるわらべ、蛇の餌餝て、おたかべのあらば、お祭りのあらば、うにきやらや誇て、又からや誇て、作る物作りも時々に出来て、御祝事ばかり、百果報のあんで、みすゞりのあもの、心ある者や、御主加那志御為、御万人の為に、命うしやげらば、産し親やだによ、引はらうぢ迄もおのそだて召いる、仰せ事拝で、高札に記ち、道側に立てゝ、道々に置ゆん、心ある者や、心づくものや、肝揃て拝め、肝留めて拝め、高札よ/\立てやうれ/\
といって広告を出す。そうするとある孝女がそれを見て、家内の困難を救うために老母のとめるのも聞かないで自ら進んで今度の犠牲になろうと申出る。そこでムルチのほとりに祭壇を設けていよいよ人身御供をやるという段になる。時之大屋子がこの可憐なる孝女を
列れて来て、
たう/\わらべ、祭り時なたん、果報時のなたん、急ぢ立ち登れ、御祭よすらに
といって孝女を祭壇に坐らせ、さて、
今日のよかる日に、今日のまさる日に、我のとき我の物知りの御祭りよしゆものおたかべよしゆもの、このわらべ得て誇れ、このわらべ取て誇れ、うんちやらや又からや、風の業するな、雨のわざするな、あゝたうと/\
と唱えると蛇が口から火を吐きつつ出て来て、この犠牲を受取ろうとするその一
刹那に天から神降りて来て孝女を救うこの奇蹟を見て、頭取がびっくりして、
あゝ天道も近さ、神もあるものよ/\
と叫ぶと、時之大屋子が、
あゝ天道も近さ、ときもあるものだやべる
といって自画自賛をやるような仕組になっている。これで覡のことが一層よくおわかりになったことと存じます。
私は
真境名笑古氏の注意により『
中山王府官制』に
巫覡長という官名があってこれがすなわち時之大屋子の漢名であることを学びました。してみると時之大屋子というものはトキユタの頭であって、公然たる官吏であったことは明白であります。向象賢が時之大屋子を政治上から駆逐したのは、とりも直おさずトキユタを社会から排斥する第一歩であって、これから七、八年の間、彼れは全力を迷信打破に注いだのであります。『
仕置』を読んでみると次のような面白いことが出ています。
当春久高知念へ祭礼事に付、国司被参筈にて候故愚意了簡之所及申入候。
一久高島は一里余の島とは乍申、左右方々津も無御座、殊二月之比あがり風時分にて、大事成御身渡海被成候儀、念遣存候事。
一久高祭礼之趣承候得共、聖賢之諸規式にても無御座候、大国之人承候ては、女性巫女の参会、還而可致嘲哢と被察候事。
一年越に両度之祭礼にて候得者、毎年渡参之賦にて候、左候得者、東四間切百姓之疲者不及申、島尻八間切浦添中城北谷越来美里勝連具志川読谷山八間切百姓の疲不可勝計候、且復御物も過分之失墜にて候、君子者節用愛之と御座候得ば、為主君民之疲題目可被思召候処、旧例と計御座候ては、仁政にて無御座候、知念久高之祭礼開闢之初より有来たる儀に非ず、近比人々之作にて候、ケ様成儀別而被致了簡儀目出度存候事。
一右祭礼旧規と被思召候はゞ、せめて一代に一度か又は使にても可然と存候、無左は知念久高の神城近江取請移被致崇敬可然候、大国より諸仏当国へ被請移被尊敬と同断之儀に御座候、竊惟者此国人生初者日本より為渡儀疑無御座候、然者末世の今に、天地山川五形五倫鳥獣草木之名に至迄皆通達せり、雖然言葉之余相違者、遠国之上久敷通融為絶故也、五穀も人同時日本より為渡物なれば、右祭礼何方にて被仕候ても同事と存候事。
一知念城内僅に三十間不足狭所に苫かけ桟敷七八間為作産、四五日被致滞留候儀は用心不足と存候、万一火出来候はゞ、女性共は可遁方無御座念遣存候事。
右熟思慮廻候処一として理に為当事無御座候、強而留度存候得共、障多御座候間、叡慮次第と存候、仍不顧愚才短慮如此候以上。
これじつに西暦千六百七十三年(わが延宝元年、清の康熙十二年)三月のことで、時之大屋子を廃してから七、八年後のことであります。これから二十三年前に編纂した『
中山世鑑』の中に向象賢は五穀の祭神のことを書いて、
久高知念玉城は五穀の始めて出来た所であるから昔は二月には久高の行幸があり、四月にも知念玉城の行幸があって「
是報本返始之大祭可敬々々五朝神願と申は此等の事に依て也」といっているのに、右のような矛盾したことをいうようになったのはそもそもどういうわけでありましょうか。これは前にも申上げた通り、男子はその祖先崇拝の宗教を記念祭的のものとしてしまったのに、女子はあいかわらずこれを宗教的なものとして信じたためにいろいろの迷信が生じて来て、かえって政治の妨害となったために心配していったことでありましょう。しかしながら向象賢の敏腕をもってしても、この数百年の歴史ある迷信を打破することが出来なかったのであります。それで同年の十一月に、向象賢は次のような歎声をもらしています。
国中仕置相改可然儀者大方致吟味、国司江申入置申候、前々女性巫女風俗□多候故、巫女の偽に不惑様にと如斯御座候、今少相改度儀御座候へ共、国中に同心の者無御座、悲歎之事に候、知我者北方に一両公御座候事。
向象賢はじつにやがましい政治家であってたいがいのことはやっつけてしまったが、宮中にはだいぶ手を焼いたようであります。とにかく、この老政治家を
手古摺した婦人の勢力もまた侮るべからざるものであったということを知らなければなりませぬ。『中山世鑑』によれば民族的宗教の盛んであった頃には、国王が
親ら久高知念玉城に行幸されたのでありますが、『仕置』によれば、向象賢の頃には国王の名代として
三司官が行くようになっていたのであります。そして何時からそうなったのであるかわからないが、近代になっては国王の名代として
下庫理当(式部官)が行くようになりました。民族的宗教衰微の歴史はこういうところにも現われているのであります。
『
古琉球』にも書いておいた通り、沖縄人の祖先は最初久高島に到着し、それから知念に上陸して玉城辺に居を卜したのでありますから、この地方すなわち俗に
東方と称する所は古来沖縄の霊地となっていたのであります。それゆえに上古においては、国王のこの霊地への行幸は政治上重大な意味を有していたのであります。そして、これに劣らず重大な事件は
聞得大君の
御初地入(俗にお
新下りという)でありました。これは聞得大君が任命されると間もなく、その領地たる知念へ始めて御下りになって霊地
斎場御嶽に参詣されることで、昔は国王の冊封の儀式にも比すべき儀式でありました。さて今から二百十七年前すなわち清の康熙五十六年に、この
御初地入を挙行することについて端なくも政治家と聞得大君
御殿との間に大衝突が起ったのであります。事の起りはこうである。聞得大君御殿で、この頃トキユタに占いを仰付けられた。ところが今度は聞得大君の厄年で辰巳の方の神の御祟りがあるので、この年内に御初地入を挙行されないとためにならないといって摂政三司官の方に交渉が始った。すると政府の方では、来々年
尚敬王の
冊封(
冠船)があるので財政上都合が悪いから延期されてはどうかといって御婦人方の再考を求められたところが、御婦人方の側では、来々年冊封があるとすればその御願のためにもやはり年内に挙行した方がよいではないかとそれ相応の理窟を述べてきた。そこで政治家の側でも大層もてあまして、神は国民を苦しめてまでも祭りをうけ給うものではないから是非冊封の済んだ後に挙行するようにとつっかえした。
この悶着の始末は、有名なる
文者石嶺の筆で書れて今日まで遺っている。今煩をいとわず全文を御覧に入れましょう。
頃日御籤御占方被仰付儀共御座候処、
聞得大君加那志御厄辰巳之方神之御祟も御座候由有之候。然者御初地入の儀此年内に相当宜候由、時占方より有之候間、弥御初地入御執行被遊旨御意被成下候、然処冠船御用意に付而、百姓江出物等被仰付置、折角其働仕時節候間、年季御延御座候様にと御断被仰上候処、右躰之御規式等無滞相済候得者、封王使御申請御願之為にも宜可有之候間、弥当年御初地入可被遊旨、段々御諚之趣御座候。雖然いまだ得と御請之筋不知御了簡候いづも之筋有之可然候哉、依之吟味可仕旨、被仰付、相談之趣左に申上候。
一御初地入之儀、常式に而候得者、弥此節御執行被遊可然奉存候得共、御賢慮之通、冠船御用意付而は、諸士百姓江段々出物等被仰付置、折角其用意仕事候且又勅使御滞在中にも野菜肴種々申付候、上七八ヶ月に及、家内を離、農業不仕候故、兼而より百姓有付貯物等無之候而不叶最中、其差引被仰付時節候得者、少迚も百姓手障を費、農業之滞有之儀、題目冠船御用意之方支窮に而候、封王使来々年御申請之事候得共、不図来年御渡海之儀も不相知候故、諸事其手当仕事候処、究竟成時節差当、百姓之痛罷成候儀幾重にも御断被仰上可然儀と奉存候、
一御初地入之儀、
聞得大君加那志付而、為差定神事之御規定にては無之、諸並之初地入同断之筋候得者、是を以封王使御申請御願之為に可罷成筋とは存当不申候。縦令為差定神事に而も、時之宜に随ひ、致遅速候儀は、於何国も其例可有之、尋常に而候得者、無滞御執行有之、一段之事候得共、此節差当百姓之困窮引比候得者、対神前却而神慮に叶申間敷と奉存候。
一亦当年中御初地入被仰付由御座候はゞ、乍漸相調申に而社有之候得共、百姓致辛苦、迷惑乍存、御奉公迄と存、無是非相勤申筋に而は、却而御祈願之旨にも叶申間敷と乍恐奉存候。縦令当年に限御初地入不被遊候而は神之御祟共有之抔と之御占方に而も右通時節柄相応不仕段は眼前に候間、第一封王使御申請之御願、第二百姓恵之筋を以、年季御延被遊候儀は、仏神にも納受可有之候間、封王使御帰朝以後時分柄御見合を以御初地入有御座度奉存候。右之段々御賢慮之上に而御座候得者、不及申上候得共、御政道何方に付而も首尾能相調候様にと奉存、彼是善否致差引、心底之程不残申上候。猶以御裁断所仰御座候以上。
これで政治と宗教との衝突の有様がよくわかるだろうと思います(
御初地入りの事については他日くわしく述べる積り)。この頃、有名なる
蔡温は国師として漸次頭角を
顕わして来ましたが、尚敬王の冊封が済んだ翌年かにその政治的天才を認められて
三司官に抜擢されました。そしてこの時代は日本および支那の両文化が沖縄において調和した時代で、
程順則ほか多くの学者の輩出した時代であります。しかしこういう黄金時代にも拘わらずトキユタは影を隠さなかったと見えて、蔡温の『
教条』に、
時ゆた之儀其身之後世を題目存、色々虚言申立、人を相訛候付而、堅禁制申付置候、右類之挙動有之者は、皆以世間之妨候間、上下共其心得可有之事。
ということがあります。そしてこれから半世紀も経つとトキユタがまたまた
跋扈したのであります。尚敬王についで王位についたのはその子
尚穆王であるが、この王が西暦千七百九十四年(わが寛政六年、清の乾隆五十九年)に死なれて、王孫
尚温がその翌年王位に即かれました(尚穆の世子尚哲は父王より六年前になくなった)。この時、尚温のお母さんがトキユタを信ぜられて首里城内には多くの神々が生れることになり、民間でもトキユタが大繁昌を来たしたとのことであります。口碑によれば、当時神の婚礼などというおかしなことまでがはやり出したとのことであります。そこで尚温の叔父の
浦添王子尚図が王の即位の翌年
摂政となるや否や、首里城中の無数の神棚を破壊して多くのトキユタを罰したとのことであります。寛政乙卯七年(清の乾隆六十年)の四月二十五日に、評定所の方からこういう令達が出ています。
時よた之儀、前々より堅禁止申渡置事候処、速々緩に成行、就中頃日差立候方も
よたに被訛、神信仰にて色祭奠執行、又は田舎江も差越、段々神事致貪着候由相聞得候、有来候神社嶽之参詣を格別に候得共、不謂虚説に惑ひ、神社抔と申致信心候儀、国家之妨甚以不可然事候条、右之断然と可相止候、依之横目中にも見聞申付、若違背之者於有之は、
時よたは勿論夫れを用候方も
不依貴賤、吟味之上重科にも可及候条、此旨支配中不洩可申渡者也、
四月廿五日 評定所
御物奉行申口
これはじつに口碑と一致しているように思われます。また明治の初年になっても時の聞得大君がユタ道楽をされたために一時巫道が盛んになったことがあったが、摂政
与那城王子が浦添王子を学んでユタ征伐をされたことがあります。この時検挙されたユタの親玉は
小禄のクンパタグワーのユタ、
垣花蔵の
前のユタ、トーのパアー/\、
前東江のユタ、の四人でありましたが、首にチャー(枷?)というものをかけられ、三日の間首里の三市場に引出されて見せ物にされたとのことであります。とにかく、向象賢以下の沖縄の政治家の強敵はこのユタというものでありました。そしてここに注意すべきことは、人智の進むにつれて、今まで個人的に活動していたユタが明治の初年頃から結社をする傾向を生じたことであります。特に天理教の輸入以来これをまねてオモチ教(御母前一派の巫道)のようなものの出来たことであります。古来こういう巫道が上下に勢力を有していた沖縄では、仏教の振わなかったのも無理のないことであります。したがって沖縄の仏教は巫道化せざるを得なかったのであります。
以上、歴史上におけるトキユタの位置と沖縄婦人の信仰生活とについて一通り御話いたしましたが、皆さんはこれによって、彼等が古往今来信仰なしに生活することが出来なかったということがおわかりになったことと存じます。最初に申上げた通り、沖縄五十万の人民のうち過半は女子であります。それから、首里・那覇一部の男子を除くのほかの沖縄の男子の多くはほとんど女子と心理状態を同じうしている連中であります。してみると、沖縄の人民の大多数は皆悉くこの迷信に囚われた者であります。こういう雰囲気の中に養育されて来たところの人間の心理状態がどういう風になっているかということは、教育家諸君はとうに御研究になっていることと思ます。私はその一例として『
東汀随筆』中の記事を引用して御覧に入れようと思います。
政府の命令ありて、我が国をして支那への進貢を絶たしむ。之を御断りする使者三司官池城親方、東京に在て三四嘆願すれども政府聴されず。国王謂へらく人力既に尽したり、此上は神力に憑らねばならぬとの御意気込みにて鬼神を崇神し玉ふこと時に厚し。時に系図座保存の旧記数十巻を御取寄せ謄写を命ぜらる。此書は国中御社の由来事実を記したるものなり。予命を奉じ別室に於て謄写す。左右人なく王予に謂て是好き書なるかな喜舎場よ、との玉ふ。予対へて唯と言ふ。既にして予貌を正し謹て奏しけるは、国家の興廃存亡は君臣御心を協せ能く御政事を御勤むるにあり、鬼神の関する所にあらずと。王の玉ふ、汝何の所見ありて爾か云、其説を聞かんと。予対へて言ふ、古へに其証拠があります、昔春秋の時

国君臣鬼神を崇信すること最も厚し、国家の政事決を鬼神にとらずと云ふことなし、鬼神も亦是に因て威光を増し霊応を顕はし能く人の如く言語を為して応対す、周の天子之を聞き、奇異なりとて臣某を遣はして視せしむ、王の使臣

に到る、君臣喜び迎へて鬼神の所に延て之を視せしむ、其君臣国家の政務を悉く鬼神に告ぐ、鬼神果して言語応対すること人の如し、王の使臣帰りて復命すること実の如し、且つ言ふ、

国は夫れ亡びん乎、国家の政務は君臣協心戮力するにあり、

国は君臣上下怠慢して専ら鬼神に任す、豈亡びざるを得ん乎と、其後果して亡びたりとぞ申上ける。王黙然として何んともの玉はざりき。併し鬼神の御崇信は旧の如く替はり玉はず。
喜舎場翁の話によると、当時、王は非常に神事に熱中しておられてしばしば城中の首里森という所で国中の鬼神を祭られたとのことであります。
尚泰王は琉球国王の中でも名君の部類に這入るべきほどの人でありましたが、この智者にしてなおかつこうであります。世に宗教のあるのは事実であります。宗教のない国民といってはないはずであります。宗教は人類の生活を統一するに必要なるものであります。しかしながら、世には宗教の必要を認めない人もたくさんあります。経済の必要、政治の必要、学術の必要を認めないものはないが宗教となるとその必要を認める者はいたって少ないようであります。これらの人々は宗教は愚民を導くに有用である、婦女子と子供とを教えるに便利である、しかし智者には必要はないと申します。ところが人類はすべてその心の深きところにおいて神仏を慕いつつある者である。ある人はただ我慢してこの切なる要求を外に発せざるまでであります。今度那覇の火災によって暴露されたところの沖縄婦人の迷信は、やがて人間に宗教心の存在することを証明するものであります。私どもは「存在の理由」を軽々しく
看てはなりません。子供を
有っていない婦人が人形を
弄ぶことがありますが、たとえて言えば、子供を愛する心は信仰で人形を愛する心は迷信であります。ただ人形を
棄てろ迷信を棄てろと叫ぶのは残酷であります。私どもは人形や迷信に代るべき子供と信仰とを与えなければなりません。
私は迷信の打破には科学思想を
鼓吹するのが何よりも急務だと思っていますが、これと同時に宗教思想を伝播させるのも急務だろうと思います。この辺のところは特に女子教育の任に当ておられる教育家諸君に十二分に研究して貰いたいのであります。馬に跨って活動したところの琉球婦人の子孫を教育して近代的の活動をさせることは、最も愉快なる事業であると思います。昔時、向象賢や蔡温を悩ましたところの沖縄婦人は、他日、女子問題をひっさげて
有髯男子をして顔色なからしむるような活動をやるかもしれませぬ。沖縄の女子教育は沖縄の発展と大関係のあるものであるから、この方面には常に多大な注意を払って貰いたいのであります。つい横道に這入りましたが、私はユタの歴史上における位地を御話したのみで彼等の心理学上の研究については一言も御話いたしませんでしたが、これは他日その道の人に研究して貰うことにいたしまして、私は欧米諸国にもこれに似た現象があることを紹介しようと思います。
欧米諸国においては近来、読心術であるとか透視すなわち千里眼とか降神術とか幽霊研究とかいうような唯物観的な従来の思想では迷想なりとせられ、または打ち棄て顧みられなかった精神現象の新しい研究がようやく盛んになって来て、ひとり一般の民衆のみならず科学者や哲学者などもこの方面の研究に力を尽すようになったのであります。たとえば民族心理学者のルボンのごとき、イタリアの有名な法医学者故ロンブロゾーのごとき、仏国の天文学者フランマリオンのごとき、英国の物理学者ロッジや化学者クルークスのごとき自然科学の大家さえ心霊に心を傾けるようになりました。いわんやかかる問題の研究を目的とする心理学者や哲学者に至ってはなおさらであります。この心霊研究という現象は一般にはまだ承認されておらないが、とにかくその盛んとなった事実は民心の傾向が
那辺に向っているかを示すものであります。それからこの現象と似通っている今一つの事実は、科学の宗教および哲学に接近したことであります。一方では宗教的思想や哲学がその研究態度においても組み方においてもはたまた出発点に関しても科学的となったことで、他方では自然科学者が哲学の研究に進み入るものの多いことであります。仏国の数学者ポアンカレーのごときも自然科学の立脚地に立って形而上学に接近して来たとのことであります。また近頃人気者なる仏のベルグソンのごときも初め数学を学び次に病理学を修めた者であるが、その哲学的傾向と新思想の潮流とは彼をして思いを人生観や世界観の問題に潜めしめ、とうとう唯心論に到達せしめたのであります。その他、科学から出でて哲学や宗教に入った大家は少くないのであります。科学といえども最終の仮定を要すること、すなわち物質とかエネルギーとかの憶説の上に成立することを知るに及んで、精神と物質との現象の最終的説明のためには物心二元の根柢を形而上の何物かに求むるか認識の根柢に求むるかの必要を認めしめ、また物と心との原造者として超絶的のもの、すなわち神またはこれに似たある者を最終仮定としなければならぬという思想に到らしめたのは当然の経路であります。これ皆、物質万能主義の反動として起った新たなる霊の自覚であります。この霊の自覚が欧米思想界における最近の要求であります。以上は樋口竜峡氏がその
近著『
近代思想の解剖』の「新思想の曙光」の条において説くところの大略であります。私は近来本県においてもこの霊の自覚が始まっているように思います。那覇の大火後は特にそういう感じがします。これじつに教育家や宗教家の見逃がしてはならない現象であります。終りに私は、この支離滅裂なる変な演説を長い間辛棒して御聴き下さったことを感謝いたします。