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昭和九年八月中旬、台湾巡歴の帰途、神戸に迎へたる妻子と共に紀州白良温泉に遊ぶ。滞在数日。
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白良の浜に遊びて
おなじく
ましららの白良の浜はまことしろきかも敷きなべて真砂も玉もまことしろきかも 旋頭歌一首
また
ましららのまこと白浜照る玉のかがよふ玉の
まことにもしろき浜びや足つけて踏みさくみ熱き
音絶えてかがよふ砂浜ましろくぞ白良のま玉
昼渚
松が
浜木綿を、また
紀の海牟婁の渚に群れ生ふる浜木綿の花過ぎにけるかも
糸しだり花過ぎ方の浜木綿は影おだしけれ
崎の湯二趣
牟婁の崎荒き
夜景
浜木綿に
短夜
短夜の白良の浜に
白良荘起臥
朝ながめ夕ありきして牟婁の津や白良の浜に玉をめでつつ
玉ひろふ子らと交らひ牟婁の崎白良の浜に
砂いくつ畳にひろふ
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我弱冠、郷関を出て処女詩集「邪宗門」を公にして以来、絶えて故国に帰ること無し。その間、歳月空しく流れて既に二十の星霜を経たり。時に望郷の念禁じ難く、徒に雲に島影を羨むのみ。偶
昭和三年夏七月、大阪朝日新聞社の求むるところにより、その旅客輸送機ドルニエ・メルクールに乗じて北九州太刀洗より大阪へ飛翔せんとす。これ日本に於ける最初の芸術飛行なり。事前、乃ち妻子を伴ひて郷国に下る。山河草木、旧のごとくにして人また変転、哀楽また新にして恩愛一のごとし。南関柳河行これなり。二十三日、本飛行を決行するに先立つて、幸ひに試乗してその太刀洗より郷土訪問飛行の本懐を達するを得たり。恩地画伯、長子隆太郎と共なり。ここにその長歌十七篇短歌二百五十三首を録す。

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海を越えて
七月十八日朝、関門海峡を渡る。
海を越ゆるただち胸うつ国つ
見るただち顔に
我が言へば音の響に添ふごとく響き
明日飛ぶと
雲
山門の歌
反歌
雲
妻と子らに
汽車いよいよ生国筑後に近づく。
筑紫野は大き
筑紫は
父我はここに響けりまつぶさにこの
父恋し母恋してふ子の雉子は赤と青とに染められにけり
「雀の卵」
夏山は赤と青との雉子馬の清水寺も雨こめにけり
夏かすむ
午近く、大牟田に着けば、既に師友、肉親の人々、柳河或は南関より来りて、我等を待ちたまふに会ふ。
我が帰る心矢のごとありけらし早や着きたりと笑ひて泣かゆ
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肥後玉名郡南関 、そのかみの関町 、その字外目 は我が母の生地にして、我にも亦、第二の故郷たり。乃ち、大牟田より先づ出迎の叔父たちと共に上内の山を越えてその土を踏む。親戚知音の人々の喜びかぎりなし。一夜、町の招宴に臨み、竜田川の橋ぎはなる島田家に泊る。翌十九日、外目近郊の外祖父母の墓に詣で、後、石井本邸に帰る。山河旧のごとくなれども、その母の生家は既に昔の俤なし。
索麪の関町
掛け
手うち索麪戸ごと掛け
恩賜の時計
南関田町の島田家は我が母の異母姉の家なり。従兄敏三は帝大法科に学びて聞えし俊才なりき。いま一家すべて死に絶ゆ。
しろがねの恩賜の時計、畏 むやその子秘めにき。秒隔 かず死ぬまで愛 でぬ。子が死にて愛 しき時計、形見よと、父は後愛 で、命よと、いとほしと、日も夜も持ちき。時刻むその秒の、その秒すらも絶えざりき。その小さき恩賜の時計、父死にて母に伝へき。その母も、ちちちちと、その音聴きき。子の敏三 あはれよと、命よと、また継ぎ巻きぬ。生けるあひだ、その臨終 まで、その螺子 巻きき。人の世の真実の、この音の、つきつめにけり。
反歌
時計の秒
老柿
島田家その後、従妹類子(北原氏)夫妻之を継ぎたれども遠くロスアンゼルスに在り。一の叔父隆承老その跡を守る。老は生来徳望高く、今また南関町長たり。
中庭の柿の老木は庇より手のとどかむに暑き
乏しきを老いて豊けき
低屋根に鉄砲風呂の煙立ちあくまでも暑き西日たもてり
外目、祖父母の墓に詣でて
お墓山煙草の花にふる雨のほの
この道よ椎の落葉にふる雨のいたくもふらねよくしめりつつ
外目、石井本家
母の生家石井家は南関の西、外目の丘にあり、いま二の叔父貴道氏、その兄に代りて本邸にあり、而も世の転変は甚だしく、旧時の高閣既にその半ば取りこぼたれ、庭前庭後、ただ荒るるにまかせたり。
白き
老樹なほ存す
背戸柿やこれの
蚕室の跡にて
玉名のや
そのあたりの家々をまた見てまはるに
零余子
裏なる三の叔父武雄氏を訪ふ。
七面鳥
病み
遠近を眺めて
高き屋に常眺めてし
§
母の里
横笛は子らが手づくり
§
幼なくて
§
赤ん谷山桃実る
夏山は霞わけつつ持て来たる山桃ゆゑにそのよき
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青櫨
葉がくりにいまだか青き
瀬高にて
十九日、外目を出でて筑後の瀬高へかかる。上ノ庄の江崎氏を訪ふに
酒屋には酒屋よけむと嫁に来しお加代姉さもただの
空飛ぶを
童女柳河
午後、いよいよ郷里に入る。柳河女学校にて
我老いぬただに
夏ごろも匂ふ少女は朝ひらくからたちの花と
中学伝習館にて
我、中学伝習館を学業卒へずして去りぬ。寧ろ追はれたるにちかし。而も我が今日ある、恨無くしてただ感謝あるのみ。
これの子ら
我が声にひびき
沿道
沖ノ端に近づくに、城内 、矢留 両小学校の生徒、既に旧藩侯邸の前に整列して我が一行を迎ふるあり。雨中三時間の余も佇立したりきと。
雨に
林泉の鴨
旧藩侯邸の林泉は古来の名苑にして、所在の鴨おのづからに集り嬉遊するもの数を知らず。
石多き
この
か
昼の
日のうちも幽けくあらし引く水のかがよふ方へ鴨の寄り行く
日は暑し
矢留小学
遂に我が唯一の母校矢留小学校に臨む。乃ち我、故老、旧知、児童を前にして嗚咽、しばし言葉絶ゆ。
息つめて子らまじろがず空飛ぶに何悲しきと思ふなるらし
我が言ひて絶ゆる言葉は子らはいざ老いたるどちや知りておはさむ
雲仙の山を眺むる朝霞ここに学びて
村社、太神宮に詣でて
宮裏はそこらの砂の日に蒸れて
神にうつ大き太鼓はその朝やとうとうとあげてゆくらつづけぬ
宮司は旧師木下登三郎先生なり。ぼそぼそと老いたまへり。
この
展墓
専念寺甍
閻魔堂草むす軒のうらべよりつぶやききこゆ蜂か巣ごもる
夏
夕凪はいきるる草を
明治三十四年、十三にてみまかりし妹ちか子の墓は、まだ土を盛りしままなり。
土に沁む線香の火のまだ見えて散るいくつあり青き折れ屑
沖ノ端
柳河の西南半里、我はこの沖ノ端に生れぬ。漸くにしてその石場に帰るに、すでに夕に近し。町には祭の楼門チョウギリといふものを我が為に立て、人々、また宴を張りて泣く。
かいつぶり橋くぐり
我が見るは入日まともにさしあたる駐在所脇の
その日に
もの言ひて前かがみなる甚吉は柳の洩れ日まぶしむならむ
菎蒻屋の
葉柳や今の日ざしに相見れば誰彼の
生家
我が生家は今、人手にわたりて、とどろしき鑵詰工場となりぬ。初めて妻子を伴ひて、この我家にあらぬ家の門をくぐるに、胸塞がりてまた言ふこと無し。
泣かゆるに日は照り暑し湯気立てて
照る砂に雷管のごと花落す
鍋二つ
我が書斎たりし隠居家は、なほ遺れども、既に久しく鎖しぬ。
空しかり縁に眼をやる
我家は
我が幼な遊びの穀倉いまなほ存す。外壁破れ、ひとへにあはれ深し。
穀倉は
十数棟にもあまりし酒倉の跡はと見れば
五月雨に麦は落穂も取り
青光るめくわじやの貝に眼は大き鴉降りゐてまた
沖ノ端の鹹川
葦むらや
潮の瀬の
夕凪の干潟に黒き粒だちは片手の小蟹貝ひろひ
註、ここの蟹すべて片手なり。
西日して潮満つるまの夕干潟営み長く蟹ぞつぶやく
夕凪の干潟まぶしみ
西日には
潮くさき
註、沖ノ端にては突堤をうろこと云ふ。石にて鱗のごとく畳める故なるべし。尚「むつごろ」は小さき山椒魚に似たる魚にて、よく潟を走り、突堤の石垣にも登る、前世紀の遺物の由。日本にていま棲息するはこの土地のみ。
魚市場
乳母
字、筑紫村のほとりに、妹の乳母を訪れて、同じくその日、
風かよふ蘆のまろ屋に息ほそり白鷺のごと
老の息かくて絶えなむ
朝の揮毫
柳河町の旧友川野三郎氏宅に泊る。盛んなりしこの柳河にての歓迎の一夜も明けて、
墨を磨り若かへるでは
夏の三柱宮
高畠公園の三柱神社は藩祖を祀る。二十日、ここに詣でてまた幼き日を偲ぶ。
太鼓橋
神楽殿砂吹きあぐる
宮地嶽神社は、その裏参道にあり。
水路舟行
二十日、再び沖ノ端に帰りて、人々と共に楽しむと柳河まで小舟に棹さしのぼる。恩地画伯も同舟なり。
我つひに還り来にけり
註、倉下とは倉の庇の内らの壁。
夏真昼わが
しづかさは
註、昼鼠とは土俗に水陽炎の影をいふ。
御船倉
御船倉いとど明るき水の
水のべは柳しだるる橋いくつ舟くぐらせて涼しもよ子ら
土橋をわが往きかへる柳かげ
風のさき黄なるカンナの
橋ぎはの醤油竝倉西日さし
背戸ごとに小舟
二十年前
処女詩集「邪宗門」の上梓の直後なりけむ。かかるわかき日の帰省の夢を境として、その後二十年絶えて帰省することなし。之等の感懐も今は昔となりぬ。
合歓
葉のとぢてほのくれなゐの
水のべにいまだをさなき合歓の花ほのかに
鳰の浮巣
水の
旗雲と匂だちたる月の出はたぐふすべなしあかき旗雲
幼な遊び
過ぎし日の幼な遊びの土の鳩吹きて鳴らさな月のあかりに
爆竹の花火はぜちる柳かげ水のながれは行きてかへらず
汗あゆる夏のゆふべはすがすがし葦の葉吹きてあるべかりけり
菱売のこゑ
都べへ立たむ日近し菱売の
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馬
馬描 かば前脚曲げて、蹄上げ、内腹蹴れと、尾の張りに力こめよ、跳ぶごとく描けよと見せぬ。土けぶり後 にあがらむ、勢 や和子 もかくあれ、早や描けと筆持たしめき。末爺 、三代に仕へて老ゆる大き爺 よく馬描きぬ。よく見よと雲に馬描く和子や我や、三つ児のたましひ、かくぞ生きぬく。
反歌
馬描かば内にためたる蹴上げよと老いたる泣きぬ幼児に言ひて
描く馬よ青雲のぞむ
石合戦
石うてやよしや若殿、何負けむ、石場の子ら、小舟にて早や漕ぎ出だせ、石積めよ、水棹 とれ、土橋 くぐれ、鳰鳥の火の点 く頭 、いま夕日、それとかかれと、我が仰ぐ館 の築地 、濠めぐるここをよろしと、采配やささとかかれと、前うちの金の鍬形、紙鎧、桜縅の大将我は。
反歌
十二万石
註、石場は字石場町、六騎とは平家の六騎、ここに落ちのびて漁る。故にこの町の漁師を時俗六騎と呼ぶ。
外ながめ
風の日は風をながめて、雪の日は雪をながめて、玻璃戸越し、大き店さき、朝 には餅 焼かせて、日暮にはお膳竝べて、さて師走、我が家の市、馬ぞ、鮪 ぞ、鰤ぞ、牛ぞと、おもしろと、見るとながむと、子供らの一の和子 我は。
反歌
初売
あらたまの年のはつ売、暁を大戸あけさせ、早や待つに挙 り入り来る。たうたうと人ら入り来る。※ [#「仝」の「工」に代えて「北」、屋号を示す記号、262-8]の濃染手拭、酒の名の「潮 」の盃、引出よと祝ふとわけて、我が老舗 酒はよろしと、新 の桝酒に磨 くと、春や春、造酒 よ造酒 よと、酒はかり、朱塗の樽の栓 ぬき、神もきかせと箍 たたき、たたきめぐれば、ほのぼの明けぬ。
反歌
春の夜と
習字
太竹の青き筒、つやつやし筒に、たぷたぷと素水 入れ、硯の水清 けし、墨磨れと、傍 注 ぎ、注ぎてまはりぬ。勢 ひける何なるならし。幼などちそのかの子らの、筒袖の、その中にしも級長われは。
反歌
雲畦先生
幽人雲畦先生は我が書の師なりき。
よく
田のそなた堀に柳のしだれたる

藩札
藩札は赭 き紙ぎれ、皺に寂 び黴 くさき札 、うち廃 り忘られし屑、うち束ね山と積めども、用も無し邪魔ふさげぞと、放 られてあはれや朽ちぬ。竹鉄砲紙の弾丸 よし、花火筒につめよ押しこめ、煙硝よ染 めとはじけと、ぱんぱんと響け、火花よ飛びちれと、幼な児我は。
反歌
しゆうしゆうと花火ふき
青銭
反歌
青銭の穴あき銭をかなしよと父のみ前に
魚市
魚市は師走の市、歳のすゑ、大つごもり前の三日 、雪よ霰ふる中を、塩鰤や、我が家の市、競り市や、魚市場、戦 や、船に馬に大八車 、わさりこ、えいやえいや、かららよ、えいやえいや、人だかりわらわら、はいよ、天秤、担棒 、走る走る、えや肩掻きわけて。
千石船
篦
反歌
白鷺 童ぶり
夕焼には、夕焼にはの、白鷺が紅 つける。白鷺が潟のそこりに足なづむ。簑毛風にそよいで。ハレヤ、霞の雲仙、島原は追風 の一と潮、風さきの向う突堤 は三潴 ばの、のうもし。
反歌
春もやや潟の
童子柳河
涼しさは水豊かなる柳かげ葦笛吹きて我等行けりし
夏の照り葦辺行く子は
今ぞ見む
町内
菎蒻屋桶に藷 磨り、飴形屋掛けて飴練る、蚊ばしらや春より立たむ。藍俵夏よ染 み出 む。綿うたす媼 はさもあれ、提灯屋老 の猫脊が、さてゑがく牡丹に唐獅子、太神宮祭近しと、子供組勢 ふよろしと、えやうやと受け合ふものから、向ひ屋の浄瑠璃の師匠、越太夫を我は。
反歌
照る日には
柳河風俗
菱採りはか揺りかく揺り桶舟に
菱売は久留米絣の筒袖に手も
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太刀洗飛行場
昭和三年七月二十二日、午後一時十分、愈
一期の郷土訪問飛行を決行せむとす。恩地孝四郎画伯同乗、幼児隆太郎をも伴ふ。乃ち太刀洗飛行場に参集す。

驟雨の
草原にまだ
蟻のごと兵列小さく曲り来て格納庫
照りを来し
空は夏
新野飛行士この人あり
飛行帽まぶかに笑ふ逞ましきこの
単葉ドルニエ・メルクール機両翼張り大き安らあり尾を地に据ゑぬ
平らけき今日の地平のあさみどり軽気球あがる空気がありぬ
音に澄みまはるプロペラ風
その後にて、妻のいふを聴くに
滑走し去りてふはりと
雲ぎはに機体消えてより胸せまる虫のすだきを原に聴きぬと
離陸、柳河へ柳河へ
飛ぶただち
滑走しとどろ
上昇し早や
単葉のドルニエ・メルクール軽快なり今影落す遥か下の原に
雲の
久留米師団
いよいよ柳河見ゆ
水
我が
故郷の
反歌
柳河は城を
柳河上空旋回
草家古り堀はしづけき日の照りに
柳河、柳河、空ゆうち見れば走り
殿の池ここだおどろく鴨むらの飛ぶまあらせずその上過ぎぬ
うち低み榎か
遂に恩讐を超えぬ
伝習館ここぞと思ふ空にして大旋回一つあとは見ずけり
沖ノ端上空旋回
空よりぞ我が沖ノ端を見る時し機体ことごとが光る眼なりき
鯉のぼりけふは視界に吹きながし沖ノ端あり飛びて行くなり
§
矢留校に呼ぶ
子らよ見よ、我 かく翔 る、かの童 、かく今翔る。空はよ、皆飛ぶべし、山河よ越えむに、時なし、またたく間ぞ、鳴 かぶら矢留 の子ら、いざや勢 ひ、土たたら踏み飛べや。
§
嵐なす羽風我が切りとよもすと的の
泣かむかに我は突き入る
命なり散華の
§
風立てて我が
大揺れに我が
我が
雲仙と有明の海ひと目見したちまち
右に見し今は左翼にある海の浩蕩として筑紫潟ここは
いや
父よ、児は遂に飛びぬ
父の顔ありありと見る雲間にて涙
大牟田上空
煙吐く煙突
三池山中
この日、南関を見失ひ、あらぬ山中を旋回す。
夏照りの山の
南関上空
二十三日、本飛行に先立ち、南関の上空を求む。
母の里
山方は野町原町北の関その関越えて官軍は
註、野町、原町もともに村の名。南関は西南戦争の時官軍の本陣なりし由。
棚畑の煙草の花の夏霞
石の井に釣瓶は置きて影ありしきのふの庭の空通り過ぐ (二の叔父の家)
町の
柿
その家の低空にして
老柿と
幼くて裸馬をせめたる山河を桑の
瀬高の上空をも、またあらためて
本飛行
二十三日、はじめて本飛行に就く。南関の上空よりそのまま一路ただ大阪へ大阪へと飛ぶ。
昼がすみ
天つ辺は飛びつつ泣かゆまなしたに虹の輪円く
目にとめて
北の
我が飛ぶや山はさやらず
山なるは森厳にして雲湧けり
空行けば目も
プロペラは音ひびかへれいつ知らず
新野飛行士生地の上を過ぐ、二首
密雲のま中衝きゆく我が下に嘉穂の
山中は音響かへば雨雲の上行く脊をか妹見けむかも
夏山は思はぬ岩に
我が
飛びつつを
深山辺よあはれは久し人入りておのづからなる道通ふ見ゆ
四方の雲ひたに
真夏空絶えず涌き
ここの空真夏
じんじんと山上百メートルを飛びつつあり緑に徹る命あるのみ
ひた恋ふる地上のみどり
ひた飛びに周防へ向ふ灘の空何か
簑嶋は玉にかつづるひと簑の雨うつくしく光るその嶋
航空はしづけきものと人言ふを夕海の空をわたりうべなふ
飛ぶものは
水平動感じつつあり夕暮は思ふともなく母恋ふらしき
天上に桃の
たまゆらと翔るたまゆら
厳嶋潮満ちたらし
空に観て活字
夕かげは
雲の
翼のかげ支柱に映りしづかなる飛行はつづく
ほのぼのと匂ふ淡路のそなた空飛びつつは見ゆ霞む夕浪
早や
水のべの
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二十四日、我空を飛びて大阪へ向ふあひだ、妻は子らを伴ひて、太刀洗より大分なる生家へ下る。我、行を了るや、その翌の日、紅丸に乗じて、そを迎ふと航海す。かくして、別府、大分、由布院に淹留旬日、再び妻子と瀬戸の内海を渡りて帰る。その折の長歌竝に短歌二三。
大分にて
母びと
母びとはかなしかるかな。老いましてなほとやさしな。妻と来て、お許に来て、今日 くつろぐと、子らもゐて。茶寮には灯 のはひり、石いくつ水うつあひだ、彼方 見て、もの言ひてます物ごしのあはれ、よくぞ似る妻が母刀自、子らにもけだし。
反歌
水うちて残んの日かげ濡れたるにもの言ひてます母のしたしさ
おなじく
瀬戸内海
しづかや船ゆきゆく。安らや船ゆきゆく。飛ぶべくはその空飛びぬ。ひさびさや会ふべく会ひぬ。子らにしも父が母国 、まつぶさに見よとし見せぬ。さて見むと、母の里をも、子ら見よと隈なく行きぬ。淡路嶋かよふ千鳥、明石の浦、このそよぐすずしき風に、親子づれ帰 さ安しと、この日なか、波折 光ると、甲板 に鼠出でぬと、おもしろとその影見やる。
反歌
空ゆ見し
あとのたより
君が飛ぶことごとの人が仰ぎぬと涙せりとぞ友ら言ふかも
その空は涙たまりて見ざりきと下べのその
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昭和五年五月、かの郷土飛翔の事ありて翌々年、われ再び、北九州に所用ありて下る。この間一ヶ月余、郷里柳河、沖ノ端、母の里南関、外目にも帰省するを得たり。その折の新唱之なり。なほ、この帰途、再び太刀洗より大阪へ、大阪より羽田へ一気に飛翔し、感懐また新なるを覚ゆ。此篇またおのづからにして郷土飛翔吟の続篇を成す。録長歌四首、短歌九十五首。
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月光荘雑詠
月光荘は柳河瀬高町高椋公夫君邸の離家に我が名づけしものなり。この行ほとんどこの水荘に宿る。
月夜
積藁に電柱のかげ
この川やまだ張りすてて
註、蜘蛛手は四つ手網。
月夜なり
昼間見し麦の
きやろと啼きけろと啼きつぐこゑきけば蛙も月に出て
内庭
庭の
この庭の湿りがたもつ
月夜照る庭の木立をちかぢかと見つつゐにけり暗き
まことのみ
註、昼講演せり。
うち
昼
縦川を斜に見やる縁の
この
国つぶり
誰が棄てし暑さぞ
菱の葉に白き扇のなづさへばあはれ
再び夜景
とちかがみ揺れ合ふ見ればいとどしく月明りして飛ぶ羽虫あり
月の空夜の明方となりぬらし黄にあかり来る麦の穂のいろ
水郷の朝
夏の夜ははや明けにけり瓦家の瓦に赤き煙突が見ゆ
やはらかきからしの
うしろ射す夏の朝日にわが渡る
土橋の朝まだ早し揺りゆりてそら豆売りが籠かつぎくる
花まじる
穂に立つ麦の畑の
しらしらと米の磨ぎ汁流れゐて藻の葉にまじる鮒のなきがら
ついかがむ
うちしめりなにか
裏町の媼
見るすでに涙はためつ。会ふすぐと眼に手はあてつ。およし媼 六騎 がながれ、我が乳母 、そのかの一人。笛鳴るに太鼓とよむに、水祭また御覧 ぜよ、舟よしと、さて棹さしぬ。蚕豆 と麦秋の頃、舟舞台水にうかびて、老柳堀にしだれて、ひりへうと子らぞ吹きける、撥上げてとうとたたきぬ。見えず媼 、舟多きから、我が言へば、さらばかくませ、この脊 にと、両手 後 にす。さて負はれ、のびあがり、見ゆと見ゆとし我が言へば、なよあはれ、五十年 の昔の温 み、よろぼふ腰に力を撓 むる。
反歌
ひりへうと笛が鳴るから夏祭
宮永の媼
海老腰や家の子の媼 、寺詣で左手後 あて、片手杖、なむなむの媼 、和子 よしと、こなたかなしと、ひさびさぞよくわせぬとぞ、せはしとぞ、早や膳まゐる。あのよろし蟹よ蝦蛄 よ、それよこれよ、そをめせ、かくめせとあはれ、中つつき、殻 ほじりあはれ。かの和子にものいふさまよ、雛鳥にふふますごとよ、傍 つき、にじり寄り、さて暑さよとな、またあふぎゐる。ほれほれと箸もてまゐる。その和子はかくなる歳を、老いづくを、蟹や蝦蛄 さもこそあらめど、身の老の、その海老腰の、おのれ知らずて。
反歌
すかと
女友だち
反歌
大江の幸若
筑後山門郡瀬高在の大江の幸若は今は日本に唯一のものとして珍重せらる。或る日、特に迎へられてその大江の村社に参観す。柳河の老儒渡辺村男先生の東道なり。社内、舞手と我等の外殆ど人影無く、俗塵絶ゆ。
蝉のこゑしづけき森のここの宮
麦の
幽けさは笛や
打烏帽子脇と
舞殿の
人な知り宮の幸若足ぶみに遊ぶ
舞殿に舞ひつつ
野の宮よ
墨の香のながれて
城内
裏堀は藻をかいくぐる
或る月夜
竝倉のしづけき
ユーカリのしろき月夜の
船小屋
湯の
南関、大津山
一族、我が為に集りて、半日を清遊す。
北の関・南の関
北の関の村は、筑後の山門と肥後の玉名の境にあり、そを越ゆれば母の里南の関、関町ともいふ。
ふかみどり
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宰府道
筑紫の、
反歌
汗沁むる木彫の
観世音寺道
麦の秋
麦の秋観世音寺を
夕あかる
水城
草ふかき
雑餉隈、環水荘
この行、この加野宗三郎氏の水荘に淹留することまた数日なりき。
水
昼
菱生ふる広き
老樫のこぼれ日あかく地にあるに蟻現るる待ち居り我は
積藁にひびく一つの爆音が太刀洗より近づくごとし
夜
ほのぼのとからし焼く火の夜は燃えて筑紫
鬼菱の花さく池の月しろは夜のいよいよに
呼子
名護屋城址
麦黄ばむ
おなじく、山下善敏君の山荘にて
麦の秋に白帆見わたす山幾重君が
ここにして十時伝右衛門の
註、柳河の旧友。
おほらかにありつる
呼子港
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白日飛行吟 飛行吟その一
まさやけく夏の
三笠山さ
高行くはひたすら
鈴鹿山
移りつつ雲はあるらし
雲海 飛行吟その二
雲に会ふ心したしく幽けかり高度の高さ思ふなるべし
人飛びて
しづかなる空の
天つ風山吹きおろし
み身
眼のかぎり雲
噴く綿の
雲塊の片陰附けばか
紫外線はげしき昼は陰黝き雲片附きて位置は低めつ
雲海の雲
挙げて光り眼は向けがたき
雲の海に我はひびかふエンヂンの命なるなり
雲海の荘厳をしも我が飛びていつ果つるなし心
雲隔つ友の
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昭和三年盛夏、常陸大津の海岸へ児童自由詩講演に赴き、その夜五浦の故岡倉天心居士の別墅に宿る。帰途、筑波に登つて山上に一泊。「五浦少女」「筑波新唱」はその折の歌。
昭和八年十一月、福島市の公会堂創立につき講演に赴く。「初冬信夫行」はその時の作。
昭和七年一月、妻子を伴ひて信州、池ノ平に遊ぶ。「雪に遊ぶ」はその折に作る。
昭和八年十一月、福島市の公会堂創立につき講演に赴く。「初冬信夫行」はその時の作。
昭和七年一月、妻子を伴ひて信州、池ノ平に遊ぶ。「雪に遊ぶ」はその折に作る。
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大津
大津の浜目どほり白き
順礼の墓
順礼の墓とふ影が
順礼の山辺の墓は日ざかりをせせり浮きたり
五浦、潮見堂
潮見堂ここにぞ天心先生は
六角堂庇にしぶく夕潮の涼しきがほどを我ら
五浦少女
反歌
山越は日のあるうちぞほどほどに持て来てたもれ道は遠きに
おなじく
墨磨りに
少女子や山は
また
早や帰れ火のひとつづり見え
印度のタゴール翁ここに泊りしといふ。
かく
天心居夜情
岩の
潮ひびく君が
草塚にこもるこほろぎ
註、天心先生の墓あり。
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五浦の帰りに筑波の麓大宝村へ廻り、横瀬夜雨氏の邸にて河井酔茗氏と約のごとく落合ひ、その午後一同筑波山へ登る。山上へ一泊す。
大宝村
ここの
庭苔の
朝顔に
鉢にして花ひらきたる朝顔の
朝顔の幾花鉢や張る
雲居立ち紫にほふ筑波嶺を麓に堪へて足蹇君は
山毛欅と青がへる
筑波嶺のいただき通る
小筑波や
筑波嶺のいただきよりぞ見おろして雲はうち乱る
にひばり筑波をくだりあはれあはれケーブルカーの索条
夜雨、山にのぼる
見てのみや泣きてこらへし筑波嶺を君いまはのぼる人が
君を負ふ人の
山のぼる人の
まだ見えて人の
夜
夜雨氏夫妻も泊る、生れて初めての蜜月遊ぞといふに、
筑波嶺の男峰落ちゆく雲あらしふりつつもあるか下の葉山に
翌日、昼
筑波嶺にひとすぢかかる
筑波の帰りに
ここに見る霞ヶ浦は採る魚のわかさぎ色にしろく霞みぬ
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伏拝を越えて
文字摺石
みちのくの信夫文字摺かくながら日の寒うある岩の
冬日ぐれ文字摺石の
福島対岸
ちびと啼く
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池ノ平
清らけく雪に遊ぶは白鷺の水あさりするたぐひならまし
今朝ふりて
雪の原
風やみて紫にほふ雪の
妙高温泉へ下る
落葉松に粉雪ふりつむ日くれがたひた滑りつつ我はありける
積む雪の下深くゆく水あらし風かとも聴くにせせらぎにけり
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昭和五年三月より四月にかけて四十余日、満蒙各地を巡遊す。満鉄の招聘によるなり。その情報部の八木沼丈夫君と同行す。歴遊するところ、大連を起点として満鉄沿線及び東支鉄道は満洲里に至る。尚ほ長春吉林間、奉天新義州間を往復し、また大連へ還る。即ちこの満蒙風物唱成る。うち二百十一首を録す。
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東鶏冠山
息はつめて
春ならぬ
春寒き旅順の港見おろしてましぐらに
大連、碧山荘
碧山荘は華工の収容所なり
影つけて日向
その裏山
人だかり
鳴くまでは
春なれや
くらくらと牛の
丸揚げと揚ぐる
大連図書館にて
はげしかるピゴーの漫画をかしとし泣きて遊ばむ旅にあらぬを
金洲
冬来り
熊岳城
砂湯にてかじる林檎は
春はまだ河原の砂湯上寒し風邪ひかぬまとそこそこあがる
枯野行く
湯崗子早春
湯崗子氷は厚し我が買ひて赤き

遼陽
仰ぎ見てさむざむとある
寂びつくし
黒豚の仔豚走り
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奉天北陵
太宗文皇帝の
奉天北陵の
森ふかし対ひ
帝王のただに
鳶の声澄みつつ舞へれ
角楼は
瀋陽東陵
ひむがしのたふとき山の
松が
山水に
茶膳房雪ちらつけば
鵲の飛ぶ影見ればふりみだる雪おもしろし黒と白の
撫順
露天掘ま澄みか
天を摩す鉄のパイプの
三月は石炭壁に沁む雪の
家の
青きもの摘む子らならし
長春近づく
黒煉瓦焼く火の
長春駅
日は黄なり
鉄の
国際列車とどろ湯気噴く
移民の群
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公主嶺
公主嶺馬駆る見れば
汽車は北へ
群れにけり
十三時
家の影隣に映り冬日なり
浮雲 一間堡にて
難民ならし
いづくへ行く群ならむ空低く雲黄なる野に人つづき見ゆ
或る枯野
ただに見る影と日向の
冴えにけり
ちかぢかと我は眺むる野の日向遊ぶ
冬楡
墨にして
冬の楡の
冬に観る楡の寒けき墨いろは毛描の線に
冬楡 その二
しばしばも見つつ越え来つ
寒きびし
氷閉ぢきびしくしろき川ひとつただにかびろき枯原は見ゆ
或る野の夕光
くだら野の
日おもてと
夕日照る
車挽きて
行くものの何とはなけれ移りゐてうらめづらしき
根黍
落つる日に我がひた向ふ野の原は光しみつつすぐろなる土
朝出でて
地平より根黍鋤き
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興安嶺を越ゆ
落葉松
興安嶺黒く
雪の線
谿なだりしづもる雪の片空は
落葉松の
札蘭屯を過ぎて
岩膚の岱赭に蒼む色見れば
山中
興安嶺越えつつぞ思ふこの山やまさしく大き大き
日をつくし大き
白樺樹林
のぼり来て眼も澄みにけり雪の原に白樺の林しみみ光れり
細木原しろく
雪線
ここ過ぎて雪は空より新たなり山ぎはの線はいふばかりなし
北の
雪の
山の
春あさき黄と青磁との蒙古の
興安嶺くだりつくして野は曠し赤き
松花江
太陽嶋
霧ふかし
さすらへば命に換ふるなにものも売りつくしけりその
詣づらく朝の
太陽嶋夕づく塔に鳴る鐘の影ひたすらや振りにつつあり
墓地
露西亜びとは都大路の見とほしに先づ墓地を定め寺うち建てぬ
露西亜びとはみ墓楽しと花植ゑて日曜は来る椅子しつらへぬ
キタイスカヤ
キタイスカヤ昼のほのほと職待つと
春早し何の
街の角冬は日向とひろげたる
旅情
木製の
流離 (白系露人のさまざまをまた)
国破れ人はさすらふ毛ごろもの氷の
酒みづき
弾く手には
松花江支流
橋がまへとどろ
声はして夜の汽車の
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四平街
聞くだにも寒き鴉のま冬には空うづむとふ街に見あげつ
我が聞きて声泣くごとし夜酒
声
鄭家屯郊外
外蒙古西吹きあげて東する沙漠の大き移動をぞ思ふ
註、蒙古の沙漠は東へ東へと移動しつつありと云ふ。
み冬の夕かげあかき
蒙古びと駱駝追ひつつ夕べなり早駈けに乗る驢馬の
註、霾るとは遠く沙塵の黄濁するを云ふ。
ひた駈けに
毛ぶかくて
蒙古風吹きもつくすか石積みて山はただ一つ低きオボ山
眼を放つ
註、未開放地とは蒙古の主権を以て、未だ他国人(支那人をも含む)に開放せざる土地なり。
行く行くに一つの部落あり
宿舎にて
鄭家屯落つる日赤し畳にはざらつく砂の数光りつつ
傳家屯にて
赫爾洪得
蘇支交戦の直後なり

地平の落日
雲かとも山かとも思ふ地の
外蒙古雪のこるらし
砂丘つづく
砂窪に泡だちしるき雪のいろ
柔らかと砂山の雪の薄ねずみ
砂窪に
塩包
影ここだアンペラ
満洲里
風車丘
蘇満国境春冴えかへり砂山の
砂寒き
駱駝の宿
内蒙古春おぼろならず早やい寝て駱駝が宿は月に
駱駝づれ月夜寒きに膝折りて
影
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吉林
旅にして
熊出でて昼立ち
漣や筏を洗ふかがやかし解氷期近き
北山にて
春霞むここに花咲き我が居らば
風の音
昼霞
旅舎
旅やどり匂やかなる

三人の満人の姿夢に襲ふ
南満春来る 吉林長春間
氷解け春の
春いでてこぞり耕す鍬の
春は今農用馬車の野に見えて二頭三頭四頭早や前駆けぬ
見てよきは春の広野に輝きて
春夕
春ゆふべ野焼の跡に佇める白き馬見れば尾に遊ぶかに
春の野は
早や
本渓湖
鵲は雪ふり乱る空にして色まぎれなし
本渓湖影清らなり
五竜背
疲れけりとろむ蛙の
田は鋤きてまた
国境の春
鴨緑江照りひろびろしあきらかに
春まさに国の
遼陽の春
春霞む
湯崗子の春
湯崗子遠く来りてあはれあはれ
うちこぞり
金洲を過ぎて
大和尚山ねもごろ霞む麓べは春かたまけて
旅終る
山すそに桃の花さく大和路に茫漠とありし我が旅果てぬ
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昭和三年初冬、国醇会の一行と正倉院拝観に赴く。その所産、「春日の鹿」「正倉院御物抄」。
翌々五年春、満蒙旅行の帰途妻子と奈良に遊ぶ。その所作、「奈良の春」。
翌々五年春、満蒙旅行の帰途妻子と奈良に遊ぶ。その所作、「奈良の春」。
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三笠山
まとに見る三笠の山の朝霧はまさしく寒し奈良に来てあり
三笠山冬来にけらし高々と
正倉院前
朝ぼらけ春日野来れば冬木には
森の手に寒き
春日神社
山茶花の朝霧ゆゑに
公園
頼めなく夕かがやかし
つれづれとつくばふ鹿のいくたむろ
鹿のかげほそりと駈けて通りけりかがやき薄き冬の日の芝
冬薄日うらなく遊ぶ鹿の子のうしろ
二月堂
二月堂つくばふ鹿のつれづれと目も遣るならし寒きこの芝
秋の鹿群れゐ遊べど寄り寄りに立つもかがむも角無しにあはれ
猿沢の池
冬ちかき池のほとりの夕日向うつらとどまり鹿ぞ立ちたる
春日野
夕日洩る木の間に見えてかぼそきは連なき鹿の影ありくなり
鹿のこゑまぢかに聴けば杉の
群の鹿とよみ駈け来る日の暮をひたととどまり冬は幽けさ
春日野の夕日ごもりとなりにけりさむざむと立つ鹿の毛の靄
夜の小路
いつまでかもとほる鹿ぞ夜の
池をへだてて
猿沢の柳の眺めさびにけり余光
池向ひ
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鳥毛立女屏風 一首
樹の
ほのぼのと貴き昼は我が入りて宝蔵の古りし墨に思はむ
をとめ子の
黒柿の蘇枋の絵箱
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法隆寺にて
四十日にわたる荒涼たる我が満蒙の旅は、寧ろこの法隆寺を美しく見むためなりしが如し。
日の照りて桜しづけき法隆寺おもほえば遠き旅にありにき
春日向人影映る東院の
夢殿
菫咲く春は夢殿日おもてを
夢殿に太子ましましかくしこそ春の一日は
夢殿や
日ざしにも春は
春日神社
夕寒き庇のつまに影あるは燈籠吊れり雨のふりつぐ
春日の夕闇の
大仏
灌仏会に参りあはせて
大仏殿にほふ霞の
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昭和七年十月、遠州浜名湖畔鷲津に遊ぶ。「浜名巡航」「本興寺林泉」成る。
翌八年一月再び鷲津の本興寺を訪ふ。「続本興寺林泉」「白須賀」続いて成る。
翌八年一月再び鷲津の本興寺を訪ふ。「続本興寺林泉」「白須賀」続いて成る。
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鷲津より
冬すでに雲は低きを船立ててうち
館山寺内外
秋晴の入江の水戸のさざらなみ鷹一羽来り
この船をすでに追ひぬきうち
引佐細江
奥の瀬の
波切といふところにて
ほの寒き
浜名の湖
遠つあふみ浜名のみ
冬いまに居つく

冬の
風や冬とよみ飛び立つ
すれすれに波の
羽ばたき頻りにして
乱り立つ鴨の羽音の
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鷲津の本興寺は法華宗の古刹にして、その林泉の幽寂なる、譬ふべきなし。池にのぞみて、懸樋あり。
所望されて、一首
水の音ただにひとつぞきこえけるそのほかは何も申すことなし
林泉を、また
水の音聴きつつをればこの
蓮の葉の水に影おとすうしろには低き
このごとき
物寂びてなにか
朝曇うち
本興寺の庭はこれかとさもこそと観てを居りけり十月末なり
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山内
高野槙
懸樋の音
水の音ただにひとつぞきこえけるふたたび籠りみ冬にぞ聴く
水の音まさにひびけり聴きてゐて夕かげ近き冬のこの
池の
林泉矚目
さむざむと
刈りこみて
鳥の羽の
山茶花のはつかにのこる
土の橋かかり低きに
糸檜葉の
いづく洩る冬の日ざしぞ赤松のそこばくの幹いとど明れり
風さむく椎の葉さわぐ
客殿の
俗に文晁寺といふこの寺には、文晁の四季の大壁画あり。就中春の絵ことにめでたし。
春の山しづもる見ればおほどかににほひこもらひ墨の
橋の
余響
玉葉坊を俗に坂寺といふ
坂寺の高垣見れば槙垣に山茶花まじりいつくしき靄
文晁
常霊山本興寺より湖水に向ふひとすぢ道唐辛子赤く掛け干しにける
近藤医院の横を過ぎて後に消息す、一首
槙垣にまじりて赤き南天の二えだ三えだ目にしまつりぬ
岸寄りに
きこきこと
雪虫の飛びつつ曇る水の空雪にかもならむけだし
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遠州浜名郡白須賀
白須賀は昔の宿 、
ただ白し、ものさびて、
その蔀 、はひり戸、
なべてみな同じ障子。
ただわびし、軒竝 の
同じ型、
出て、はひる人すらや、
同じ影。
音も無し、なにひとつ、
埃づくものもなし。
草屋のみ、
弱き日のあたりたる。
いづこぞ遠江灘、
灘見坂ほどちかくて、
薄ら曇る低き空を
風も来ず。
冬ながら、その屯 、
ほのなごむ家がまへ、
ここ過ぎて、きびしくも、
おもほえず、寒しとも、
白須賀は旧街道、
朱の鶏冠 ふりたてて
軍鶏 は居 れども、
そは暮のひとあかりのみ。
ただ白し、ものさびて、
その
なべてみな同じ障子。
ただわびし、
同じ型、
出て、はひる人すらや、
同じ影。
音も無し、なにひとつ、
埃づくものもなし。
草屋のみ、
弱き日のあたりたる。
いづこぞ遠江灘、
灘見坂ほどちかくて、
薄ら曇る低き空を
風も来ず。
冬ながら、その
ほのなごむ家がまへ、
ここ過ぎて、きびしくも、
おもほえず、寒しとも、
白須賀は旧街道、
朱の
そは暮のひとあかりのみ。
とほつあふみ浜名の
おなじ冬おなじ
ここ過ぎてなにか
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昭和七年、妻子と共に晩秋の富士五湖に遊ぶ。
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山中湖
よく響く冬は暁ふる雨のただに
うち黄ばむ
山中湖あかつき近し落葉松や目もさむざむと向ふ
冬向ふ
河口湖
鵜の島は紅葉しにける岩はなに兎出てゐてぬくとき秋や
鵜の島と
§
秋の晴
西湖
西湖の熔岩壁を立つ鳥の羽ばたきを聴けば
み冬づく西湖の
西湖はしづかなる
精進湖
パノラマ台にのぼりて
尻高に子が乗る
ここよりぞ富士は裾野の見わたしと
青木
雪の富士
帰路湖畔にて
精進湖雲あし赤く日暮なり写真とらすと
本栖湖
びせす、渚ゆく人かげも見ず、風ふけばひろごる
同じく
パノラマ台より俯瞰す
本栖の湖雲
一色に
雲の遠に南アルプスと思ふ雪かがやき
み冬の雲もこごるか我が
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昭和四年六月、新潟、今町、国上、出雲崎各地に遊ぶ。吟懐三十四首。
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新潟
夏すでに砂丘の光おぎろなし弘法麦の筆の穂のいろ
砂山の
海荒く砂丘のい照り
港には
松原、日光療院裏にて
北越沿線
日おもてのたも木に
山里は家の南の田竝びを皆出て居らし植ゑそめにけり
今町郊外
おほかたは田を植ゑ
赤々とこくれんぐわしの毛は垂れて田へ行く子らに朝そよぐなり
註、こくれんぐわしは唐もろこしの方言。
国上行
草繁き山いくつある
乙宮のおもての田居に鳴く蛙
かへるでのさ
植ゑそめて山田の
あしびきの山田の田居に
あな
ゆきかへり見つつましけむ国つぶり揺りおもしろき田うゑ菅笠
ありやとも
五合庵の蹟にいたる
蔭山の夏の
まさしく
風そよぐ
山かげの君がいほりの跡どころ
出雲崎良寛堂
出雲崎は良寛堂の夕つかた網かいひろげ人かがみ
出雲崎夕浪
この御堂夕かげながら詣で来て廂のつまの
この御堂夕照りあかし
出雲崎この夕凪のはるかには日かげ
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昭和二年八月、一子隆太郎を連れて木曾川、恵那峡、養老、長良川等に遊ぶ。
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犬山、白帝城
ちかぢかと城の
鷹
蹴爪に
犬山より木曾川を下りて
花火過ぎ水にただよふ
水車
笠松の四季の里にて
ふたいろの花さるすべりおほよそに月夜はしろしあかず遊ばむ
夏の夜は短き藤の実の
雀のお宿にて
松が根にそよぐ小萩のあはれさよ莚しき
恵那峡
こごし
朴ならむ岩石層に吹きあつる風ことごとく
養老 菊水楼にて
もてなしと杉の
長良
舟べりに羽ばたきあがる鵜の鳥を篝照らしておもしろき夜や
腰簑に
我が物とさばく
黒き鵜は嘴黄なりそち向きに水切りて羽うつ火映り見れば
ほうほうと鵜を追ふ声の末消えて月の入るさの惜しき横雲
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昭和八年四月、東都成城学園大いに紛擾す。その職員、父兄両派に分れ、抗争数月に及ぶ。教育界に於ける未曾有の不祥事なり。当時、隆太郎小学部六年に在り。篁子同じく二年に在り。即ち父兄たる故を以て、我が正しとする信念により行為す。抑
この学園たる沢柳政太郎博士総長たり。小原国芳氏その初より主として参劃経営するところなり。同博士死後、新総長小西重直博士の下に校長小原氏専らその経綸を尽す。この年初夏、総長の辞任と共に、つづいて校長を引責せしむ。その理由とするところまた故なきにあらざるべきも、小原氏に対するその道を失し、遂に教育の本義を誤る。我が立ちたる所以なり。録長歌四首短歌八十八首。

雑草に思ふ 序歌
相憎む
この原や
成城学園また子ら行かず
小原校長送別会
四月某日、荒涼たる校長送別会なるもの開かる。父兄その理由を知らず。ただ一部の理事及び財団の刻薄に驚く。蓋し直感すること深し。挙り起ち遂に流会す。
ひと鉢の草の花だにすゑなくに昼
追ひ
事はてむ
母の館
母の館は児童の母たちの建設するものなり。感慨深し。
母の

母の館父兄会
父兄遂に立つ、四月三十日なり。
空見つつ何の言葉ぞ手ぶりよく説きは巧めど
小学部
五月十二日、小学部職員、父兄を招集し、その態度を声明す、一に結束固し。
一に成城教育の精神をうち建つるもの小学部なり我疑はず
いふ
我が子
子の太郎声はあげつつ帰りたり我が先生を正しと言ふなり
我が太郎まこと
心よりその師よしとし疑はぬこのをさなさに父我泣かゆ
我が立つは
此の立つは私 ならず、人ひとり守 るとにあらず、皇国 をただに清むと、正しきにただに反 すと、心からいきどほる我はや。まさやけき言立 か彼 は、ゆるすべき邪 か其 は、己 が子のためとは言はじ、すべて世の子らをあはれと、胸張り裂くる。
反歌
この道よただにとほれりこごしくも敢てい行くに何かはばまむ
正しきを
正しきを正しとせずば、照る日さへ子ら疑はむ。まさやけき明 しとせずば、かぎりなく澄む月にすら、闇かとも子らはまどはむ、安寝 しなさね。
母の館父兄大会
五月十四日、母の館に再び父兄大会を開かむとす。事前三沢校長の命により、その扉に釘うつ。後漸く開会す。小原前校長来り初めて辞職事情を釈明す。
声絶えて道に言はずも父母の子を思ふ誠ただにとほらむ
人の子は棄てて清くば道芝の塵だにも
多摩川にさらす
この子らぞ父よ
この子ら
その後、紛糾、遂に休校令下さる。而も学生は皆登校し、自学自習すること常のごとし。
この子らを見つつ
この子らがボールかつとばす音さへやま空にひびき
ほがらかに子らはあるべし
きびしく今は鍛へむ事しあるかかる日にこそ光るべきなれ
女学生自学、自ら出て体操す。
馬鈴薯のうす紫の花ゆゑにわづかに堪へて子らは足踏む
反動の教員たちに
何ぞ、暴動もせざる子弟をば師を脅迫せりと誣ふる。
日のもとに父打つおのが子らありと悲しみてよき空もあるらし
道は説け
真実を観よ
事はただに単純なり、学園のこの空を見よ。
誠あらば神も
この子らは共に遊ぶを遊ぶ無しその母と母の何憎みする
六月三日
長き休校の後、この日連袂辞職したる三沢校長初め三十数名の高等及び中学部の職員たち乗り込み来る。前警視総監長岡隆一郎氏校長室にありて何事かを指揮したるものの如し。私服正服の警官四十数名監視、反小原派の帝大教授、その夫人、竝に父兄等活躍す。あはれ学園も末なるかの如く感ぜらる。かくひたざまに自由教育を善からずとするこの圧迫は如何。
何すとかここにわが
手を
夏
子の母ぞ照る日
子の母の今のなげきは道芝の照る日に
ある日の朝礼
三沢校長脱帽せず、而も国家合唱の半に、中止を命じ、タクトを揮へる指揮者杉先生を壇上より突き飛ばす。「非国民」の声起る。合唱なほ粛々たり。
国の歌君が代歌ふしづかなるこのひとときは譬ふるものなし
三沢校長辞職
よしなき
潔き人は
三会堂にて
最後の父兄大会なり。
ひたおもて君が
涙共に下るこの声この子らぞ
ある夜の父兄実行委員会
経過深憂に堪へず、奔命に疲る。
事しありて君とこそ行け我どちは音
夜のほどろ疲れ帰りて力無し
夜の田には蛙ころろぐ聴けよ聴けよあはれなるものは声ころろぎぬ
師を売る者
小原氏遂に告訴さる。その告訴の主は某氏なれど、その策謀の何れにあるかは歴然たり。
日は照るを将た安からし師と頼む市に引き出て早や
夏早やも棘に花さく
国びとは心
その子らはかくも歎くを石うつと
この憤りを、四首
焼き
眼の白き
職員某々氏も亦他の職員を訴ふ。
朝なさな机ならべてありけらし今
告訴せられたる榎本、福上、小野三氏謹慎を命ぜらる。
何頼め降らす石かも草ごもり家居る
風に立つ
心弱き職員たちに
腰弱のへろへろ、正しきを何なづむ。骨無しのとろとろ、立つべきを何呆 けつる。深山 の一木
の、風に立つ樹思へや。

反歌
照る日に
悪しきは沙汰過ぎたり。悪しきを見過ぐすもの善 からじ。弱きもの詮無し。照る日に、この明 きに、何怖 づる、人びと。五月 の、白雲のいゆきしづけ松むら、その姿思へや。
反歌
女学部に対する圧迫いよいよ加はる
藤棚の藤の葉とほる日のひかりつくづくと
少女らははげし日中も
朝なさな
或る母たちに
よき母は清くありこそ照る月の子を抱きつつ草に立つかに
口あくるもの
朝夕しきりに文書にて誹謗する者あり、煩堪へがたし。
あなうるさ草につくばふ下闇の蚊喰がへるが
狐狸
横議の士続出し、新聞利用またしきりなり。
日のまぎれ我は
ま日照りを夜の
小原国芳氏におくる歌
物言ひて
身ひとつにただに命をこめにける
夢なりや
事すべて私ならず道
世に憂ふ人が
悪しとなす
再び
憂ふ無き君たはやすし事々につくづくと
大味も程にこそよれ幾塩と薩摩の
君
時により教へ
感深し
師、子弟、父兄、これこの学園の三位一体となすものなり。
三つの円この触れ合の
昭和七年三月、女学校卒業式直後、小西、小原、銅直、金子諸先生同乗の自動車、電車と衝突し、転覆す。今に於て感深し。
既に遅る
挙り立つなほし
還るなき人を待つよは落鮎や多摩の瀬合に
諸人よかもかくもなし
児玉新総長に、一首
静かに観君はますべし善き悪しき
人々よ、真に思へ
草の原に蒼くいただく
天地とむなしかるべし身ひとつに何物も無ししかく生きなむ
思ひしみつくづくと人はありけらし朝起きてそよぐ草の葉を見よ
恩讐を越えて
夜ふかく今に思へば善き悪しきすべて遥かなり
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秋夜童女像
月あかしひと日吹き去りし風速のとどろなりしか今は
髪いらふ

ねむからばまこと寝よとしかきおこし
硝子戸の
秋夕
ひたすらよ これの女童 、文字書くと 習ふと書きぬ。その鳥の 鳥によく似ず、その魚の 魚とも見えね、あなあはれ 鳥や魚や、巧まずも なにか動きぬ、その影 象 。
反歌
このゆふべ空やはらかし物の葉にさだかにはあらぬ狭霧なづさひ
制帽
中学生、我が子の太郎、道ゆくと、読むと、坐ると、箸とると、帽かむりゐる。制帽よ制服よただに、金釦しかとはめゐる。うれしきか小学卒へし、中学やしかほこらしき。蘇枋咲くと、樗 そよぐと、霜置くとあはれ、一学期二学期よとあはれ、日の照ると、雨ふると、風ふくと、寝 ると起きると、制帽かむる。
反歌
はつ霜とけさは霜置く門の田に
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沼津薤露行
若山牧水の七週年に際し、哀傷の新たなる、遂にこの追懐吟一聯を成さしむ。
一、その庭
水の音常は
まとに見て松が枝
やり水のちろろとくぐる篠の根も眼には光れど心には観ず
二、瓢と仏
うち見には
この仏いまだ酔ひ臥し安らなりおのづからいつか起き
うたた寝ゆ
三、その人
胸を張りて朗らなりける歌ごゑの君なりしかも塵もとどめず
よく遊び常に
四、火葬場へ
狩野の川瀬にすむ鮎の若鮎の今かさ走りにほふその子ら
霊柩車火にほろびたる街ぬけてひたに香貫の道
かきおろす
五、伊豆大仁穂積忠宅に宿る、義弟山本鼎と伴なり
油もてすべなゑがくか芋の葉を露のまろびて落つるその玉
すべはなし風にかがやく芋の葉をゑがく油絵われは観てをり
六、三津の浜にて
群れつつを
船にして網くりたたむ子らがこゑ夕焼の頃はとみに
茅ヶ崎南湖院
昭和九年四月十八日、大手拓次君病歿、妻と行きて告別す。
南湖院
死顔の神さぶ見れば
電気火葬
仏は義妹富子の母刀自、落合火葬場にて。昭和九年晩春。
1
継ぎおこる電気火葬の火のとどろ聴きつつすべな舎利ひろひ分く
この仏えにし深からずつつましく舎利は挟みて春
この
目にとめてうち
さらさらと骨粉をあけ夕さむし
2
迎ひ立つ軍帽ひとつまぶかなり何か立ち待つその焼がまを
火に
電気火葬の重油の炎音立てて
3
手を洗ひつくづくと見る向う雨山の桜しろく咲きたる
若き誰彼
しみじみと堪へてゐれども身のほとり数死にけり若きともがら
かがなべてあはれよと思ふ春かけて
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冬夜酔歌
昭和七年の冬のことなり。深夜、池上町なる斎藤瀏将軍を驚かし、遂に暁にいたる。
ことさら我
この
夜風の
冬の夜もとよもす酒の友どちはおろかしくしてかなしなかなか
蝿をどりなるものを仕りて
冬向ふ蝿の日向の舌ねぶりあはれ手ぶりにまね申すなり
五十九議会
五十九議会大に紛擾し、
硝子を破り、遂に流血の醜状を曝らす。

一茎の草の葉にすらひざまづく心は思へ彼等知るなし
朝雲の大き
今朝やぶる硝子のひびき
血を流し
陣笠と電燈の笠と何そちがふ
歌人の或る向に
闇
よそ事ながら
女弟子もつものにあらずしみじみとかく思ふゆゑに身を
師をうやまひ弟子をかなしむ
短歌朗吟
ほのぼのと歌ひあげゆく声きけば
よく歌ふ春もあらねば我やはた
歌ふとし声に巧まば流るべし物のかなしき心知りてな
うちあげて朗らなりける我が友の牧水のこゑの今もおもほゆ
歌ふこゑ澄みぬる
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春宵東金囃子
月や春、
ひたしやぎり月に吹く子が横笛は口もて吹かず腰ゆすり吹く
口あけてくわんと鳴らした
月夜暮春調
水ぐるま春の月夜の
夏向ふこの夜すがらに月は照り水車しづかや米を搗く音
月夜立つる水車の音は夜ごもりとかすむ草田の低みより立つ
嶋田旭彦病篤しといふ
音ひびく春のおぼろを人すでに意識すら無しと月の曇りを
月おぼろ草田の堤歩み来て今は聴きをり蟇を蛙を
夏すでに月の
マチ
風そよぐ蓬のうれ葉裏見せてしろき月夜を田へ
KONZERT
或る夜の音楽会
大きチエロ立ち
立ちかかへ脊丈をあまるチエロの棹
立ちかまへ
チエロの胸ひたかきむしり
チヤイコフスキー交響曲第六ロ短調「悲愴」なり香蘭のことをいつか
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永日
葉牡丹は薹立ちほけて日が永し花さきにけりちらら黄の花
康徳皇帝を迎へ奉る
国を挙げて声はとよめどしづかなり神と
日のもとに我が大君とみそなはし春のあしたの山ざくら花
軍刀の歌
陸軍の依嘱により大陸軍の歌成る。恰も日露役三十年記念に際し、昭和十年三月十四日附、軍刀の贈を受く、靖光の新刀なり。その歌に曰く、
大陸軍の歌
1
青雲 の上に古く、
仰げ皇祖、
天皇の大陸軍、
道あり、統べて一 なり、
建国の理想ここに、
万世、
堂々の歩武を進む、
精鋭、我等、
我等奮へり。
2
盤石 と誓 堅く、
守れ軍紀、
天皇の大陸軍、
勅 あり、律は儼たり、
奉公の誠常に、
一心、
烈々の士気は徹 る、
身命などか、
などか惜まむ。
3
旭日 ののぼるごとく、
揚げよ国威、
天皇の大陸軍、
風あり、軍旗燦たり、
大陸の血河すでに、
征戦、
赫々の誉高し、
忠勇曾つて、
曾つて範あり。
4
六合 を家と広く、
布 けよ平和、
天皇の大陸軍、
道あり、東亜我あり、
国防の一線ここに、
満蒙、
生生 の秋 ぞいたる、
決然、敢て、
敢て当らむ。
1
仰げ皇祖、
天皇の大陸軍、
道あり、統べて
建国の理想ここに、
万世、
堂々の歩武を進む、
精鋭、我等、
我等奮へり。
2
守れ軍紀、
天皇の大陸軍、
奉公の誠常に、
一心、
烈々の士気は
身命などか、
などか惜まむ。
3
揚げよ国威、
天皇の大陸軍、
風あり、軍旗燦たり、
大陸の血河すでに、
征戦、
赫々の誉高し、
忠勇曾つて、
曾つて範あり。
4
天皇の大陸軍、
道あり、東亜我あり、
国防の一線ここに、
満蒙、
決然、敢て、
敢て当らむ。
この
我が歌をよしと
この太刀の
心澄みて抜き放つ太刀春浅し眼は
よく
大将刀父のみ前にとり捧げ言ふことはなし今日はをさなさ
隆太郎に
此の太刀は
神ながら清く明らけきひた心りゆうりゆうと振る太刀に子ら見よ
あさみどり
うち粉叩き叩きつつゐつ此の太刀の
或る人に
大将刀抜き放ち
洩れ承りて
日の真昼我が大君はきこしめし今いさぎよし大陸軍の歌
[#改丁]
昭和十四年十一月十三日、寒波しきりに到つて、私の眼底は痛む。立冬既に過ぎて、この私の薄明の視野には、やうやうに我が頼む光と影とが消えつつある。私は今、口述しつつ、この巻末記を妻に書き綴らせてゐる。
心貧しくしてかの春の日の夢殿を思ひ、その高貴と知性とに本来の郷愁を感ずるこの私は、抑々何であらうか。
童女の朱衣がいまだにこの網膜に映像するのに、私の短日は微かに邃い。
曾つての夏、雲海の上に出でて、飛翔し飛翔した私は、かへつて郷土のまことに触れた。
あながち歌に遊ぶとはいはない。かの夢殿の霞にやんごとなき籠りを籠りとせられた終日 の春を慕ふものである。少くとも私の道に於て私は楽しんでゐる。
齢知命を踰えて、いつまで稚い私であらうか。
§
『夢殿』は、前集『白南風』の姉妹歌集である。即ち『白南風』が、大正十五年暮春、小田原より東京谷中天王寺墓畔に転住して以来、馬込緑ヶ丘、世田ヶ谷若林、砧村大蔵、等に亘る東京生活の所産であるに対し、本集は、殆同時代の覊旅の旅を主として採録した。尚、覊旅以外の人事生活篇「童子群像」「風騒四部唱」等は彼の集の「砧村雑唱」の続篇たるべきもの故是に附加した。姉妹集たる所以はここにあるのであるが、ただ年代に於てその直後、雑誌『多磨』の創刊に到る迄の、略一年間の延長がある。
尤も覊旅歌としてはなほ『白南風』と『多磨』の期間に「白良」以外「伊豆の初夏」、「音・光・風」、「雪冠」、「渓流唱」、「水戸唱」、「河童早春賦」等の創作があつたが、これらは編輯の都合上次の集に譲ることにした。
さてこの『夢殿』は主たる覊旅歌を上巻とし、副たる人事生活篇を下巻とした。
本集の内容は左の如くである。
また『白南風』がその編纂に志して以来新に感興の昂騰に乗じて殆その半に達する補作を得たるが如く、本集も亦「郷土飛翔吟」、「郷土と雲海」、「満蒙風物唱」等の大連作を初めとして、「覊旅小品」「夢殿」「木曾長良行」の諸篇に亘り、凡そ六百余首の新作を追加するに到つた。この最近六月より七月上旬へかけての日夜行に因るものである。その他旧作に於ても、削除すべきは割愛し、抄録の分も更に改訂を敢てした。又新作の分もその後の推敲に於て聊か面目を改めたかと思ふ。
茲に煩を避けて一一に是等に就き解説をしないが、白秋年纂『全貌』その他今後の私抄について彼我対照して戴ければ幸甚である。
前述の如く、この『夢殿』は『白南風』の姉妹歌集である。これらは楯の両面の如きものであつて、いづれもが私のものであり、同時代のものである。かの『白南風』を通じて私の歌風に変化がないことを速断した向きは、この『夢殿』と綜合して改めて見直して欲しいと思ふ。歌風に変化がなかつたのでは無く『白南風』の編纂の法が、かくあらしめたのである。
『白南風』と『夢殿』、一は静であり一は動である。或は観照に、或は叙情に、その時々に於て私は常に自由に自らの変化を変化としてゐる。
ただ本集を読んでくださる方に願ふことは、これらの一首一首につきぢかに触れて専らに味つてほしいのである。而してまた一首を中にした四方の空間をも楽しんで欲しいことである。また作者の丹精そのものを読者その人のものとして、その鑑賞にその時を割いて欲しいのである。
本集の編纂がその年代に五年も遅れたことは、雑誌『多磨』の創刊と共にひたすらに前進を続け、過去を顧る余裕も無かつた為であつた。既にその後作歌も千三百首に上つてゐる。これらは眼疾の前後に別つて、いづれ二冊として順次に刊行する予定である。
編纂方法に就ては、上巻の覊旅歌は略倒叙の形態をとり、下巻に於てはその内容について分類し、その篇毎に年月の順を概ね正しくした。
全体を通じて最も旧き作は、「木曾長良行」の犬山城や、水車船、四季の里等の景情であり、最も新らしきものは、「飛翔吟」の雲海の一連である。歌風について云へば、眼疾以後の今日のものの多くが前時代のものと交錯してゐる。
終りにこの歌集『夢殿』は、往年の『雀の卵』編纂の当時私と苦楽を共にした鎌田敬止君が、この度八雲書林を創立するに当り、その需めに悦んで応じた。そしてまた大に柔らかに悩まされたが、それにしても私の度を超えた推敲の習癖はまた其人に煩瑣と困惑とを与へたに違ひ無かつた。
巻頭の朱衣の童女像は、永瀬義郎君の筆であつて私の永く愛蔵するものである。その童女の面貌が私の篁子に似通つてる節もあり、その篁子をまた人人が呼んで夢殿となしたことから、この歌集はこのやうなものとなつた。
心貧しくしてかの春の日の夢殿を思ひ、その高貴と知性とに本来の郷愁を感ずるこの私は、抑々何であらうか。
童女の朱衣がいまだにこの網膜に映像するのに、私の短日は微かに邃い。
曾つての夏、雲海の上に出でて、飛翔し飛翔した私は、かへつて郷土のまことに触れた。
あながち歌に遊ぶとはいはない。かの夢殿の霞にやんごとなき籠りを籠りとせられた
齢知命を踰えて、いつまで稚い私であらうか。
§
『夢殿』は、前集『白南風』の姉妹歌集である。即ち『白南風』が、大正十五年暮春、小田原より東京谷中天王寺墓畔に転住して以来、馬込緑ヶ丘、世田ヶ谷若林、砧村大蔵、等に亘る東京生活の所産であるに対し、本集は、殆同時代の覊旅の旅を主として採録した。尚、覊旅以外の人事生活篇「童子群像」「風騒四部唱」等は彼の集の「砧村雑唱」の続篇たるべきもの故是に附加した。姉妹集たる所以はここにあるのであるが、ただ年代に於てその直後、雑誌『多磨』の創刊に到る迄の、略一年間の延長がある。
尤も覊旅歌としてはなほ『白南風』と『多磨』の期間に「白良」以外「伊豆の初夏」、「音・光・風」、「雪冠」、「渓流唱」、「水戸唱」、「河童早春賦」等の創作があつたが、これらは編輯の都合上次の集に譲ることにした。
さてこの『夢殿』は主たる覊旅歌を上巻とし、副たる人事生活篇を下巻とした。
本集の内容は左の如くである。
白良 長歌 一 短歌一七 富士五湖 長歌 一 短歌二四
郷土飛翔吟 一七 二五三 初夏北越行 三四
郷土と雲海 四 九五 木曾長良行 二一
覊旅小品 一 四八 童子群像 六 九七
満蒙風物唱 二一一 風騒四部唱 九〇
夢殿 四二 巻末に 一
浜名の鴨 四九
計 長歌 三〇 短歌 九八二 総計 一〇一二
『白南風』に於て、その生活年代と、製作年月が必しも同一でない如く、本集に於てもそれらの相違がある。而もいづれも生活に準じて、編纂せられた。つまり『白南風』時代である。従つて本集は昭和二年八月より昭和十年三月に到る期間の覊旅及び身辺生活に資材を得たものであるが、その製作は昭和二年より同十四年七月に到つてゐる。郷土飛翔吟 一七 二五三 初夏北越行 三四
郷土と雲海 四 九五 木曾長良行 二一
覊旅小品 一 四八 童子群像 六 九七
満蒙風物唱 二一一 風騒四部唱 九〇
夢殿 四二 巻末に 一
浜名の鴨 四九
計 長歌 三〇 短歌 九八二 総計 一〇一二
また『白南風』がその編纂に志して以来新に感興の昂騰に乗じて殆その半に達する補作を得たるが如く、本集も亦「郷土飛翔吟」、「郷土と雲海」、「満蒙風物唱」等の大連作を初めとして、「覊旅小品」「夢殿」「木曾長良行」の諸篇に亘り、凡そ六百余首の新作を追加するに到つた。この最近六月より七月上旬へかけての日夜行に因るものである。その他旧作に於ても、削除すべきは割愛し、抄録の分も更に改訂を敢てした。又新作の分もその後の推敲に於て聊か面目を改めたかと思ふ。
茲に煩を避けて一一に是等に就き解説をしないが、白秋年纂『全貌』その他今後の私抄について彼我対照して戴ければ幸甚である。
前述の如く、この『夢殿』は『白南風』の姉妹歌集である。これらは楯の両面の如きものであつて、いづれもが私のものであり、同時代のものである。かの『白南風』を通じて私の歌風に変化がないことを速断した向きは、この『夢殿』と綜合して改めて見直して欲しいと思ふ。歌風に変化がなかつたのでは無く『白南風』の編纂の法が、かくあらしめたのである。
『白南風』と『夢殿』、一は静であり一は動である。或は観照に、或は叙情に、その時々に於て私は常に自由に自らの変化を変化としてゐる。
ただ本集を読んでくださる方に願ふことは、これらの一首一首につきぢかに触れて専らに味つてほしいのである。而してまた一首を中にした四方の空間をも楽しんで欲しいことである。また作者の丹精そのものを読者その人のものとして、その鑑賞にその時を割いて欲しいのである。
本集の編纂がその年代に五年も遅れたことは、雑誌『多磨』の創刊と共にひたすらに前進を続け、過去を顧る余裕も無かつた為であつた。既にその後作歌も千三百首に上つてゐる。これらは眼疾の前後に別つて、いづれ二冊として順次に刊行する予定である。
編纂方法に就ては、上巻の覊旅歌は略倒叙の形態をとり、下巻に於てはその内容について分類し、その篇毎に年月の順を概ね正しくした。
全体を通じて最も旧き作は、「木曾長良行」の犬山城や、水車船、四季の里等の景情であり、最も新らしきものは、「飛翔吟」の雲海の一連である。歌風について云へば、眼疾以後の今日のものの多くが前時代のものと交錯してゐる。
終りにこの歌集『夢殿』は、往年の『雀の卵』編纂の当時私と苦楽を共にした鎌田敬止君が、この度八雲書林を創立するに当り、その需めに悦んで応じた。そしてまた大に柔らかに悩まされたが、それにしても私の度を超えた推敲の習癖はまた其人に煩瑣と困惑とを与へたに違ひ無かつた。
巻頭の朱衣の童女像は、永瀬義郎君の筆であつて私の永く愛蔵するものである。その童女の面貌が私の篁子に似通つてる節もあり、その篁子をまた人人が呼んで夢殿となしたことから、この歌集はこのやうなものとなつた。
狭霧立つ櫨 の木群 の深みどり我が水上 はわけて哀 しき