二皇子の四国流し。
その日は近かった。あと二日ほどでしかない。洛中は車馬のうごきにも緊迫した時局が見えて、不気味な流言もまま飛んでいた。
「
「
「赤坂落城のさい死んだとみせ、じつは大塔ノ宮と共にどこかで指揮をとっている」
時も時ではあり、熱病の熱が再発したように、この
六波羅のうけた衝撃は小さいものでない。
もし事実なら、洛中の諸大将などもまた、鎌倉表へたいして、面目もないわけだ。
彼らは赤坂落城と同時に「正成も火中に死したり」と公報して、いい気な“
「
「流言が作り出す亡霊だ、大塔ノ宮はともあれ、正成が生存しているはずはない」
と表面、平然を
それの証拠には、在京諸軍をあげて、洛外七道の街道口その他に非常の布陣が行われ出した。いうまでもなく、
その
「待てっ」
とつぜん、三ノ橋のたもとで、槍ぶすまを突きつけられ、ぎょっと立ちすくんだ旅人がある。
「どこへ行く?」
旅の男は答えた。
「京へ入ります」
「知れたこと、何しに行く」
「てまえ、
「ならん。ここ数日は、京口一切、夜中通行止めとある高札を見ていないのか」
「はて」
男は、ほかを見廻して。
「もしやここは、足利殿の御陣ではございませぬか」
「いらざることを申すな。何でもあれ、通すことはならん」
「ならば、高氏さまへお取次ぎ下さい。具足師の
「えっ、柳斎」
末端の兵では、一色右馬介の顔は知らない者が多い。しかし柳斎と聞けば、しばしば殿が座辺に近づけている隠密と知っている。
まもなくその右馬介は、高氏のいる野外の
「なに。堺ノ浦から、宮方残党の者が、ここしきりに舟で山陽方面へ移動していると申すのか」
「はい。それもお耳に入れおきたく、また、
「そうだろう!」
高氏は膝を打った。じぶんの観測は
「かねて正成の人となりは、そちからつぶさに聞いていた。その正成が、小城一つ失ったとて、やわか、むなしく焼け死ぬものか。
柳斎、じつは右馬介の、隠密情報によると。
そのご大塔ノ宮は、吉野を根拠に、依然、宮方の士を募ッており、正成は一時、伊賀に身をかくしていたが、近ごろは、和泉、摂津の辺まで出て“幻の軍”を指揮している形跡がある。のみならず、はやくも
主上奪回
の目的と、宮方再起の日とを、かたく期している模様だとのことだった。
「さもあるはずだ」
高氏には、どれ一つとて、疑えもしなかった。
彼が、正成の人物をこう重視していたのも、戦前すでに
「では、このところ密々に、その正成と、山陽方面の宮方とが結んで、なにか
「さようです」
右馬介は、自信をもって、はっきりいった。
「――さきに備前で宮方に呼応した桜山
「むむ」
「したが、火だねは絶えず、近ごろまたも、桜山につづいて、備前には
「とすれば、島々の海賊、村上なども一部は宮方へ加担とみえるか」
「さ、そこまでは私の眼や耳ではとどきえません。が、堺のうごきから察するに、正成は、先帝の
「む! その手はあるな」
「されば、先帝の隠岐送りも、行く先、すこぶる危ないもので、おそらく、児島高徳の一類に楠木の与党も
「右馬介。そのこと、人にはゆめいうなよ」
「なんで、殿以外に」
「よしっ。なお、あさってのお道筋、摂津、兵庫の泊り泊りへも眼をくばって、異状を見たら、すぐ暗文にて、早馬を打て」
「こころえました。では、あわただしゅうございますが、ほかならぬ日、すぐお別れを」
「おお行け」
しかし、高氏はふと、彼の背へ、何かもいちど呼びかけそうにした。右馬介に訊けば、なんであの藤夜叉が、無断で一色村を出てきたか、くわしく仔細も分ろうにと、ふと迷ったからだった。
ところが、その時、伝令の大声が、三ノ橋からここの床几へ触れ渡していた。
「お
道誉の巡視隊は、れいの
獄帝の島送りも目前なので、万一をおもい、軍監として一巡、諸所のまもりを見廻って来たものだろう。鳥羽、伏見をへて、いま大和街道口の三ノ橋までかかって来ると、
「オ。足利殿の持ち場だな」
と、床几場から高氏の影が、大股に歩みよっていた。相互は、折目ただしい陣中の礼で対し合った。――あれ以後、小右京のいきさつは、どっちからもまだ、その
「ご巡察、ご苦労にぞんじます」
「いや、足利殿にも」
「さらには、隠岐へお立ちの準備も、あす一日。おたいていではありますまい」
道誉、それには答えず。
「大和街道からこの辺には、何も怪しいうごきは見えませぬか」
「は。いまのところは」
「京の内外、
「ご念にはおよばぬ」
「では。あさっては早や、それがしは先帝警衛の任について隠岐へ立つ。……高氏どの、これで当分お目にかからぬかもしれん」
「長途の旅、しかも容易ならぬお役目です。つつがなきお果たしを祈っておる」
「お。やがてまた、この窮屈な物を
馬上にかえると、道誉は高い所から、もいちど高氏へ
「…………」
高氏は、道誉の列が、闇と一つになるまで見送ってから、いちどは元の床几場の
「おいっ、馬を貸せ」
と、並木の向うにいた部下の一将をさしまねいた。
「ご乗馬ですか。ただいま」
その者が、高氏の駒を曳きに駈け出そうとすると、高氏は、
「その馬でいい。そちの馬をちょっと借りるぞ」
とばかり、はや道誉のあとを追っかけていた。
彼は道誉と、このまま別れるに忍びなかった。型のごとき礼と、型のごとき陣前の言などは、何ら人間同士の出合いでもなし別れでもない。
たった今、柳斎の右馬介から、自分だけは、
ひょっとしたら、道誉は、こんどの警衛の途中で、討死の
「惜しい! あれ程な男を、むざと見殺しにするのは」
と、俄に彼は、目さきの小を捨てて、未来の大をつかみにかかっていたものだった。
「や。高氏の声らしいが」
道誉は馬をとめて待った。不審にたえぬかのような姿である。なんで高氏があとを追っかけて来たのか? と。
「佐々木どの、言い残した。一言告げたい。しばらく」
すぐそこへ来た
「用とは、軍のことか、わたくし事か」
道誉は、なにかを邪推していた。小右京の件は、早川主膳からとうに聞いていたろうし、それの
「もとより軍事。しばし人を遠ざけていただきたいが」
「人を払えと?」
それにも、道誉はちょっと
大宮大路の暗い風は、二騎だけを吹いていた。道誉はなお、高氏がなにを言い出すかと、たぶんに感情を
だが高氏は何のこだわりもない風だった。先ごろ、ついこの辺で道誉の家来たちを
「道誉」
もう裸でいい。彼はわざと、友達としてそう呼んだ。
「おぬしのことだ、用意に抜かりはあるまいが、たった今、
「千葉、小山、自分をあわせて、兵五百。小荷駄一小隊の予定だが」
「それや、あぶないものだ。少なくも千以上は引き
「なぜ」
「
「ふうむ」
「のみならず、備前の住人児島高徳らが、それと結んで、中国山脈の要地に待ち伏せ、隠岐送りの
つい今し方、柳斎の右馬介へは「誰にも洩らすな」と口止めしていた一事を、高氏は、道誉にはみな告げてしまった。いかな道誉も、この好意は、恩とも感じるであろうと、自分なみに相手を
ところが道誉は、けらけらと笑い出した。その手は食わないといわぬばかりだ。しかし失笑を洩らしたのは、よくないと思ったらしい。俄に顔をあらためて、いんぎんに頭を下げた。
「ご注意、かたじけない。だがの高氏どの。広言には似たれど、山波の彼方の旅路で、やみやみ山家武者の待ち伏せに陥る道誉でもないつもりだ。お案じあるなよ、策なきにしもあらず、いずれ帰洛の後、あらためて
自然、語気に陰性なふくみがあった。言いすてると、
駈け去りながら道誉はクツクツ内心で快味を覚えた。――後で、唖然と自分の駒を見送っているであろう高氏の顔が、彼にはおかしい腑抜け顔に描かれていた。
「
もとよりこれは彼の胸だけのものである。やがて待たせておいた
すでにその道誉は、洛内巡察もすませ、
「――まずは今夜も無事」と、自祝のくつろぎにかかっても、疲れは知らない肉体らしい。手にはすぐ杯、周囲には、女たちの香を立ちけむらせないでは、我に返った気もしないかのような彼だった。
「殿。……お
黄母衣の一人、
「あいつめが、なんでのめのめ、おれの前へ出られるのだ。出られるものなら出てみせい」
「はっ……」
「すぐる日、高氏にはよい恥を掻かされ、あげくに小右京の身まで奪われ去ッたという不始末者だ。腹も切らせずにおくだけでも、ありがたいと思うていぬのか」
「重々、自責しぬいてはおりまする。で、主膳めも、雪辱に
「
すさまじい命である。
佐々木の家中は、すべてこの主人の毒づきには馴れていた。がまた、ときによってはこんな物分りのいい
音もなく、いつのまにか、遠くに平伏している者があった。
「……主膳か」
「はッ。そのごは」
「ま。一杯つかわす。ずんと寄れい。……何用だ、このどじ侍」
「おそれいりますが……」
「なに、人がいては都合が悪いか。では、女どもはみな立て。……ところで主膳、その腰抜け振りで、どう先ごろの雪辱をいたす気か」
「こんどこそ、きっと致さねば、一分が相立ちませぬ」
「羅刹谷から小右京の身を
「いえ、羅刹谷へは、しょせん手が出せませぬ。それに代るべつな女性を、小松谷から奪って、ご
「小松谷。小松谷といえば、探題仲時どののやしきだが」
「さようで」
「はて。そこの女性とは誰か」
「誰とおぼし召しますな」
「わからん。わかる筈はない」
「殿。……」
主膳はずっと膝をすすめた。そして指でたたみの上へ、
藤夜叉
と、書いてみせた。
藤夜叉が都へ来ている。それは彼も初耳だったようだ。
主膳の

おそらく、今は女ざかりの
「もともと、藤夜叉はおれがお抱えの田楽女だ。取り返したとて何が悪かろう」
就寝しても、彼は小右京と藤夜叉との肌を妄想の中でくらべていた。どっちの性も未知である。しかし藤夜叉を屈伏させてみることに
「……ま、主膳めに、まかせておこう。
瞼は眠った。
と見えたが、寝つかれぬ様で、またも、枕の位置などかえていた。
「……はや、あす一日か。隠岐までは渡海せぬにせよ、
こんどこそほんとに眠りに入ったらしい。頬の
三月六日だ。
明けるも待ちかねていたように
道誉もはや起き出し、
「みな心得ておけよ。
広縁から庭へ向って、庭上にあつめた黄母衣組の者や物頭たちへ告げていた。
「それとな、大弥太」
「はっ」
「さきには、当家の出勢百五十名と触れおいたが、ちと編成をかえるによって、さらに百名を加えて行くぞ。昼中に、新たな人数を動員しておけ」
「心得まいた」
「共に警衛の旅に
そしてまた、
「そうだ……」と、横を見て、かろく言った。「主膳、そちは老臣
すぐ衣裳を着がえる。
これがまたやかましい。
千葉ノ介の宿所、小山五郎左の陣所と、あすの事の談合にあるいて、午すこしすぎ、六波羅へ顔を出すと、待ちかねていたように、探題仲時が彼に告げた。
「いや、よい所へ。じつは
「公卿日記」によると、元弘二年三月七日の天気は、前夜から風もなく、晴れが予想されていたようである。朝のま、薄雲ひくく閉じて明けなやむかの如し、とあるなどは京洛の春のつねで、盆地の
まだその頃のうち。六波羅
が。よく見ると。
「…………」
あまりな静けさである。
車は、中宮(皇后)の常々召される青い
中宮の
「……名残りはつきぬ」
こう聞えたのは、背のきみの後醍醐のお声だった。――帝の
いや。まだしもこれは、皇后の禧子にすれば、おもいがけない倖せとしなければならない。……しょせん、お目にもかかれまいと、ゆうべまでは野々宮の女院の深くにただ悲しみ沈んでいたのである。
ところへ、佐々木道誉と名のる大将がおとずれて、
「隠岐へお立ちのまえに、仰せには、中宮に一と目会わでは心残り、それ計らえと、この道誉へ
とのことだった。
それはもう夜半すぎだったが、中宮はとるものも取りあえず、車にかくれた。そして道誉のみちびくまま夢心地に六波羅へ来たのであるが、急ではあったし、去年いらい、わが
「禧子。身を大事に。……この
そこの後醍醐の影も、お一人ではなかった。警固の武士が、くろぐろと後ろに見える。
「みかどにも。……どうぞ、おからだのみを。……そればかりが」
中宮は言いかけてはすぐ後も先もなく車の内の身もだえに消え入った。そしてもう
「時刻だ」
どこかで荒々しい声が告げる。
「中宮のお供たち。早や御車を返されい。ぐずぐずしていると道を
空も明るむ。六波羅中は、黒い霞の中で、俄に活動し出すような物の気配だった。
いやおうはない。糸毛車の
同時に。
中門廊の後醍醐の影も、黙然と、廊の奥へ消え行かれた。――昨日からのこと。お座所は、
獄の
もちろん、
そのさい幕府側では、おそらく素直なご承服はあるまいと観て、それのいい渡しには、
「そうか」
とのみで、
「さしも、今はこれ天命と、すべてを神仏にまかせられたか」
と、後では言ったものである。
事実、お身近な二人の
つひにかく
沈み果つべき
報 いあらば
上なき身とは
なに生れけむ
こうした獄中の沈み果つべき
上なき身とは
なに生れけむ
いざ知らず
なほ憂き方の
またもあらば
この宿とても
忍ばれやせむ
と、その獄へさえ、名残りを呟いておられたほどだ。これも並ならぬなほ憂き方の
またもあらば
この宿とても
忍ばれやせむ
「……またいつ帰るか、帰る日もないか。今朝の
女房たちが理髪を仕える。
やがて三位ノ
「はや巳ノ刻(午前十時)にござりますれば、そろそろお立ち出でのご用意を」
御車の六波羅発門は、午前十時と
「……いざ、行くか」
どこやら自嘲をふくむようなご
後醍醐が現われると、階下ではみな、ひれ伏したので、
「…………」
帝は、思わずお眼をこらした風である。
南北の両探題から諸大将らのほか、公卿もたくさん来ていたからである。亡き
が、その中にいた西園寺中納言
「あれ見い、公重や公宗らも見えておるわ。これでは、今日も何やら、北山の花見にでも行くような心地よな」
と、微苦笑された。
それで妃の
――西園寺家の別荘、北山ノ亭に、花の
管絃、
――そんなことも、つい去年の春なのである。
何と
人の変り方か。
「公宗、公重」
「はっ」
「今日は見送りに来てくれたか。して、どこまで参るな」
「鳥羽まで、おん供つかまつりまする」
「そうか」
後醍醐は、はや
「どうだ、お
「はあ」
「いっそ、隠岐まで供せぬか。めったには見られぬ大波の吠えや、絶海の島のさまざまが見られようぞ」
きびしいお
花
「増鏡」のいう、
――かくてしも
世に珍らしき見物 なり
それを見損なッてはと、押し出して来た人出である。今朝の世に珍らしき
すべて、後醍醐の御車が通る道すじには、万一にそなえて、検断所の兵がすきなく配置されていたから、それを目あてに一般の男女もひしめきあっていればよかった。
六波羅より、七条を西へ、大宮を南に折れて、東寺 の門前に、車をおさへらる。
物見車 、所 狭 きほどなり。若きも老いも、尼法師、あやしき山賤 まで、(中略)おのおの目押し拭 ひ、鼻すすりあへる気色ども、げに憂き世の極 めは、今に尽しつる心地ぞする。〔増鏡〕
これで見ても、東寺附近の帝も、それを察しられたか、
「道誉、道誉」
と内からお声があって、
「――
と求められた。
たえず
御車を南大門の正面にとめ、また、あたりの群集を遠くへ追い払って、自己の警衛軍一千余と、鳥羽までお送りしてゆく六波羅武者の
といっても、帝が御車を降りるふうではない。
車の内のままなのだ。いま、都門を遠く離れるにあたって、どんな御祈願をこめ給うのかと、しばし人霞の上の
――すると、そのうつつない群集の中で、とつぜん、絹を裂くような女の声がした。しいんとしていた時だけにただ
ところが、すぐまたおなじ附近で、
「や、人買いか」
「かどわかしらしい」
「かわいそうに、この迷い子、どこの
だが、この小事件と言い合せたように、ちょうど、
何しろ今日のこの
だが、すべて
「
と、聞えたことの方が、たちまち、ここのどよめきとなっていた。
「ここ数日らい、
「密告により、今朝、急に襲って、良忠以下、おもなる者五人を
いま加わった騎馬武者の一団は、これを
「
道誉は、
「
と、再び列を進め出した。
捕まッた殿ノ法印は、大塔ノ宮が片腕とたのんでいた豪僧であるのみならず、叡山という手の届かない巣にたてこもって、のべつ洛内を
だから、千葉、小山の二大将から部下全体も、
「この
と、よろこんだ。前途を
「まだ安心は早い。――殿ノ法印は一人だけではないのだ。――これからの幾山河、幾百里、行くところに、べつな殿ノ法印があらわれるかもしれぬ」
じつの所、道誉だけは、はしゃぎもしていない。一昨夜、大和街道巡察のさい、高氏から注意されたことばもある。
あれは嘘とも思えない。
堺あたりから、中国路の備前、備中などへは
「したが。……備前の住人、児島高徳とは?」
道誉はこの名を胸中に忘れていないが、さてどれほどな勢力を持つ武士なのか。また人物声望の
――いつか、御車と警衛の大列は、鳥羽の旧離宮についていた。
ここで
予定として。
ここまで送って来た公卿および六波羅の
――割子 (弁当)などまゐらせけれど
み気色 ばかりにてまゐらず
とあるを見れば、帝も妃も、さすが、おみ
ところで、道誉はその間に、
「大弥太、顔をかせ」
と、黄母衣組の一人田子大弥太を人なき所へ招き入れ、何事かを、
道誉はなお一通の書を、田子大弥太にさずけた。そして、
「ここは
と
「道は
「心得ました。では」
大弥太はすぐ立った。彼が、ふところにした書面の名宛には、
加治源太左衛門安綱どの
と、読めた。
はやくも途上の第一日に、道誉が備前の加治安綱へ、一使を送っていたなどとは誰も知らない。
また、鳥羽の旧離宮の内外、いまやその混雑さも、それどころでなかった。
「おう。捜していた、道誉どの、ちょっと代ってくれまいか。どうにも、ご
小山秀朝と千葉ノ介だった。二人とも何か手を焼いたものらしい。
ここでの、小憩もすんだので、かねて用意の別な乗物を、
もっとも、六波羅からよこした輿も、ちとひどすぎる物だが、それにせよ幕府の“
道誉はすぐ、小憩のお座所にあてた便殿の階下へ行ってみた。いちいち
「おそれながら」
と、道誉は階下にぬかずいて、侍側の行房と
「――お行く先は何せい遥か。しかも
「…………」
これでも、ご得心が見えないので、道誉はやや凄んで言った。いわば柔軟な強迫だった。
「とかく鎌倉からわれらへの厳達は、こんな手ぬるいものではございませぬ。馬の背に押しまいらせても、期日までに、
すると。――帝は、頷かれた。すぐお立ち出でになったのである。
何しても、幕府の武家意志なるものでは、後醍醐にたいして、みじんな
しかし、新しい
せめて都門を離れるまでは。
と、六波羅から鳥羽までの道筋だけでも、衆目に
従って、鳥羽から先では、乗物から扱いまで、
「花園院御記」には、
いずれにしても、あさましい世の常の
――先帝は今日、津の国、昆陽 の宿に着かせ給ひて、夕月夜ほのかにをかしきを、ながめおはします。
命あれば
こやの軒ばの月も見つ
又いかならむ
行く末の空
昆陽 を出でさせ給ひて、武庫川 、神崎 、難波 など過ぎさせ給ふとて、御心のうちに思 す筋あるべし。広田の宮のあたりにても、御輿 とどめて、拝み奉らせ給ふ。葦屋 の里、雀の松原、布引 の滝など御覧 じやらるるも、ふるき御幸 ども思 し出でらる。生田 の森をも、とはで過ぎさせ給ひぬめり。湊川の宿につかせ給ひけるに、中務 ノ宮(尊良 親王)は、昆陽 の宿におはしますほど、間近く聞き奉らせ給ふも、いみじう哀れにかなし。〔増鏡〕
ここに、一ノ宮命あれば
こやの軒ばの月も見つ
又いかならむ
行く末の空
ゆうべは、父皇が泊まった昆陽の宿に、次の夜は、やはり
その一ノ宮は、福原から箱船で土佐の国へ送られて行ったが、もう一人の
そして、十二日の頃。
「さきを行った後醍醐の御列は、今宵すぐ近くの加古川ノ宿にお泊りらしい」
と、ふとお耳にされた。
その宵。皇子宗良の一行は、
「……どうだろう、明日の海上の風向きは」
船出は高砂ノ湊の予定である。船検分などおえて、長井
長井将監は、都でもずっと自邸に宮の身をお預かりしていた者であり、かつまた、これから宮の
「いや大丈夫です。風もこのていどなら」
兵のことばに、将監は空へ面を上げた。三月十二日の月だが、月は乱れ雲にみだれて、月のかたちもない。
「……おれにも子はあるのに」
将監はふとそんな感を持った。何かしらいやな晩だった。はやく夜が明け、そして早く海上へ出てしまいたい気がする。
「や。……また
将監はわざと物々しく宿営の近所でどなッた。
天皇奪回も戒心を要するが、この道中では、皇子奪回の
「いや、その
寺とは名のみな、念仏道場の破れ門前に、
が。まどろみかけるひまもなく、宮のそばに近くいる
「どうも処置がございません。宵から宮は警固の武士へ、泣いて、お叫びつづけです。……武士の情けじゃ、ひと目、父のみかど(後醍醐)へ会わせてくれい、みすみす川ひとえ彼方のお宿にいるものを、と」
「しゃッ。その儀はならんといったのに、まだ駄々をこねておられるのか。一体誰が
「いや、加古川ノ宿には、こよい御父の後醍醐も、お泊りなりと、自然、ご存知あったらしく」
「ばかな。告げ人もないに、御承知のはずはない。せっかくなれど、武士一存では、お計らい申し上げかねると、再度ようお
「それはもう、くりかえし、申し上げまいたが」
「でもまだ、手を焼かせて、おさまらぬのか」
「されば。将監にも子はあろう、親なれば、子の心がわからぬはずはないと、果ては、お声をあげて泣き狂うさま。どうにもはや、われら警固の者も、見て見ぬ振りは仕切れませいで……」
宮は、すでにこの夕方から、大将の長井将監にたいしても、嘆願しておられたのである。
父のみかどは、すぐ先の加古川ノ宿にお泊りとか。
この生別は、永遠な、別れとなるかもしれないのだ。
もし今の機会を逸せば、じぶんの船は
「あわれ。頼む……」
と、宮は
だから将監も、じつは逃げていたのである。だが、それは部下も同様だった。再三、持て余しては訴えて来る。で、ついに彼は不承不承、宮のいる念仏道場の床の一ト間へ伺ってみた。
「……?」
見ると、宮はそこにはおいでなくて、道場の隅のいぶせき
ここはやや高い所だけに、彼方の加古川ノ宿の灯が、一つの川を隔ててすぐそこのように見える。薄月夜の下にちらばッている灯影のどれか一つは、父のみかどのいます囹圄の灯ではあるまいか。
宮は、仮想の下に、
「父の君。子の宗良はここにおります」
と、その灯へ向って、叫んでいるようなお姿だった。
「……きのう兵庫の浦で、兄宮(
もとよりお声はない。しかし、ぼうと窓に見える宮の背の影に、それは窺われる。いやお姿が描いている。
将監は、そっと抜き足で、戻って来た。そして遠くの警固の組へ来て言った。
「何だ、しごく静かなご容子ではないか。物狂わしいご悲嘆だなどと、いちいち大げさに、告げてまいるな」
「いや、たった今、おしずまりになったもので、嘘をお告げしたのではありませぬ。あの茶汲み部屋に、妙な坊主がおりまして」
「なに。茶汲み坊主が」
「されば、その坊主が、何やら宮の前に出て、ぼそぼそお説教じみたこと長々申しおりましたが、そのうちに、ふとお
「はてな、そんな坊主は見えなかったが?」
「いややがて、ふらりと何処かへ失せてしまいました。乞食僧まで寝泊りする念仏道場だけに、ここには妙な者が住みおりまする」
讃岐行きの船は、十数そう、前夜から高砂ノ浜の東の川口に用意されてあった。
夜が白むやいな、武士たちは、宮をうながし、
「いざ、お船へ」
とばかり、追っ立てるように野口の念仏道場をどやどや立ち出で、そして、はや浜べに
馬も積む。武器、食糧などもかつぎ込む。
そして宮の船だけには、荒板の囲いが見えた。船牢なのだ。
そこの渡りの板へ向って、長井将監が、宮を
「ア。しばらく」
と、近寄って来た見すぼらしい法師があった。
将監は、ぎくとしたらしい。その眼を、かどだてて。
「寄るな。何者だ」
「はい。これは念仏堂の
「ははあ、では何か。……昨夜チラと耳にしたが、宮へむかって何かぼそぼそ話していたという、あの茶汲み坊主は、そのほうなのか」
「さようで」
「その坊主がまた、何でこれへ」
「じつは昨晩、ご悲嘆のさまを、見るに見かね、おのれの身一つさえやッとな乞食法師の
「わしに説法はいらんよ。用向きだけを、はやくいえ」
「はははは、お気短な」
法師は動じもしない。武士など虫ケラともしていない
「宮さま」
あげくに、彼は将監をさしおいて、心から
「――昨夜、
「ほ……。あったのか。これへ持って来てくれたのか」
宮はほほ笑まれた。
将監以下、武士たちにすれば、これは驚くべきことだった。宮がほほ笑まれたなどは――この道中はおろか、ついぞ見たこともないのである。のみならず、宮はうれしそうに、
「
と、礼をいって、ほろりとなされた御容子でもある。
さては、この坊主は、兼好という者か。兼好とは、どこかで聞いたようなと、武士たちは眼をそばめ合ったが、彼は
「おおい
と、呼びたてた。
おそらく、その命松丸は、何かに
「はいっ」
と、元気のいい声を人ごみの中で
野べの、
目笊の目には、青い物の色が、こぼれて見える。
「では、宮さま」
兼好は、命松丸からその小笊を受けとると、
「……警固の武者方も、これまでならんとは申しますまい。どうぞお船の内へお持ちあって。……そして、昨夜もおものがたりいたした通りです。すべて天意のほかではございません。ただどうぞ、毎日の日と、お体とを、お
すると。いきなり、横あいから長井将監が、
「なんだ、それは」
と、小笊の上へ顔を突き出した。そして、何かをおおっているらしい中の
「……?」
ふと、彼は変な顔をした。
小笊の中には、まだ羽ネもよく生え揃っていない雀の赤子が一羽、寒そうにふるえていたのである。
「はははは。何かと思えば、やくたいもない!」
将監は急に、笑いが止まらないほど笑いぬいた。そして、宮が命松丸へ向って、餌やら飼い方など訊いておられるらしいその仲を割って、
「時刻です。……さ、ご乗船を」
と、渡り板へ追い立てた。
子雀の小笊を持った宮の姿は、待ちもうけていた武士に迎え取られて、すぐ船牢の
将監もそれへ乗り込み、以下、人馬のすべても、ほかの十数そうに乗り別れる。空はすっかり明け放れ、
そのあと。
なんのわけも知るではなく、ただ物珍しげに見物していた里の男女もみな散らかってしまい、兼好と命松丸だけが、いつまでも雲雀のサエズリの下に腰をおろして、ぽかんとしていた。
「お師匠さん」
「……ウむ」
「もう行きましょうか」
「うん」
「もう船は見えませんよ」
「……ウむ」
「腰が抜けてしまったんですか。お腰が」
「ああ、半分抜けたよ」
「どうして、あんなお優しい親王さまが、流されて行ったんでしょうね。どこが悪人なんですか」
「わからないよ、世のことは」
「変だなあ。……じゃアなぜ、雀の子なんか差し上げたんです?」
「そっくり、お前と同じようなお方だからさ」
「わたしなんか、寝小便小僧だ。似てなんかいるものか」
「いや、あの宮は、皇子にこそはお生れだッたが、そして、やごとなき父ぎみや、立派なご兄弟も沢山におありなのだが、じつはおまえと同様な孤独なのだ。愛に飢えていらっしゃる。お前の方が、今はよッぽど倖せだろ」
兼好はやっと腰を上げた。
「どれ、今日は加古川ノ宿へ行かねばならぬ。命松、お前も行くか」
「連れてッて下さいますか」
「むむ。先へ走って、はやく朝飯の支度でもしておきなさい」
ひと晩でも、数百の兵が泊って行くとたいへんだ。教信院の僧たちも、今朝は、そのあとかたづけに、みな、てんてこ舞っている。
それもよそに。
念仏道場の片すみで、しゃあしゃあと朝飯をたべ、弁当までこさえて、命松丸の背に負わせているのを見ると、
「おやまア。いいご身分だこと。兼好さん、今日はお花見かね」
と、からかッたものである。
「なあに、加古川ノ宿まで用達しさ。すぐ帰るよ」
「どうだか、知れたもんじゃない。兼好さんと来たら、出かけたがさいご、いつ帰るのやら、帰らぬのやら」
「困った
「じぶんでいってるから世話はないよ。ねえ命松さん。おまえも、えらい者をお師匠さんに持ったものさね。いったいこんなお師匠さんに付いて、何になるつもりだえ」
命松は、本気になって。
「くそ婆、ぶん
「あれ、この寝小便たれまでが、一人前に何かいうよ。似合いのお弟子だったんだね」
「出て来い、こっちへ」
「おまえこそ、生意気をいうと、寝小便蒲団を背負わせ追ン出すからいい。居候のクセにして」
「ぬかしたな」
婆はすばやくどこかへ隠れた。そして婆を追ッかけようとした命松丸は、釜屋の土間の入口で、内からバッと
兼好は腹をかかえて笑った。しかし結果を見ようとはしない。もう
しかしである。あの釜屋働きの婆が、ややもすれば、悪たれつくのもむりはない。
ここの院主との旧縁で、ふと去年の暮から
「都も少しはおちついたろう。そろそろ、古巣の吉田山へ帰ろうか」
この日頃は、思案していたところである。そこへ思いがけなく、
兼好が
宮は、ひとかどの歌人だった。後には“
「その君が」
――ああなんと無残な、と昨夜は、警固の眼をぬすんでのつかのまながら、その痩せ肩を抱いて上げたいばかり、さまざまお力づけもしたのであった。
宮は涙のうちに、懐紙へ一と筆走らせた。ついに会うことをゆるされなかった父のみかどへ。「――兼好、あとでこれを、父のみかどへお渡ししてくれ」と、彼に託しておかれたのだ。
兼好はさっそく、今日、それをふところに、出たのである。
おいて行かれた命松丸は、やがて、追ッついて来て、
「わっ、待ってくれ」
と、いちばん後から
舟の中に笑いが起った。
「河童や、河童や」
彼を見てみなおかしがる。
みれば、彼の顔は、鍋ズミだらけだ。頭から水をかぶせられた腹いせに、釜屋の婆と、格闘でもしたあげく、またも負けて来たにちがいない。婆は強いのだ、命松丸など敵ではない。
兼好さえ、おかしくて
「命松。顔を洗え」
「はい」
命松丸は、尻を逆さに押ッ立てて、舟べりから顔を水へ
「これで拭け」
兼好が布を出してやる。命松はそれでぐるぐる顔じゅうを拭き廻した。もとより大して変りばえもない。舟の男女はまた笑う。
おかげで
とまれ、後醍醐がお泊りの宿所は捜すまでもなかった。宿場一の大きな建物だ。杉林にかこまれた古い
「ああよかった」
そこまで来て、兼好はほっとした。あちこちに軍馬が見える。幕営がある。まだ帝の
「命松」
「はい」
「おまえな、あそこの杉林の横に見える木戸へ行って、番の兵に、訊いて来てくれい」
「何とですか」
「佐々木道誉どのがおいである御宿所は、どちらの木戸でございましょうかと。どうも諸所に木戸があるので見当がつかぬ」
「佐々木どのも御供なんですか」
「千葉、小山、佐々木どの。大将三名の御警衛と聞いた。何と物々しかろうが」
「およしなさい、お師匠さん。こんな所でつかまると困りますよ。命松もどうしていいかわかりません」
「なぜそんなことをいう」
「だっていつか、
「そんなつもりはない。いや、よけいなことをいうな。はやくお
命松丸が帰って来る間を、兼好は街道の端に腰かけて、矢立の筆をとり出していた。なにか旅覚えでも書いているのか。
すると、その眼のまえを、一群の武士を従えたこの地方の守護職らしい格式張った騎馬の武家が、路傍の彼を馬上からジロジロ見つつ、森の内へ通って行った。
その社家の一室だった。
「いやおそれ入る。わざわざ、ここの
道誉である。四ツ目結は佐々木党の
客は、さいぜん森前を、大勢して通った三十前後の武家で、
「なんの、父
と、そこへ
「久しくお会いしてないが、大安寺殿にも、お達者かの」
「いえ、父も早や年で」と、客はややくつろいで「――こんどのご道中には、ぜひ旅舎へうかがって、お目にかかりたいといっておりましたが、あいにく風邪をひき込みまして」
「それはいかんな。お大事になされよ。この道誉も、先帝のお身柄を、
「父へ、申しおきましょう。……して、ここの出立は」
「それがさ」
と、道誉は、困ったような顔を見せて、
「先帝にも、馴れぬお旅路のせいか、ちと、ご
「では、お日延べで。いや、何かにつけ、ご辛労でしょうな。――して、出雲への道はやはり、日女道から杉坂を越え、
「ま。……どう行っても、
「万一、
大安寺とは。備前の豪族、松田左近将監重明のいるところの地名である。当時まだ、現在の岡山市は、ただ一帯の砂丘でしかなく、その西方の笹瀬川に沿った大安寺ノ里に、松田一族の富山城があった。
使いとして、これへ来たのは、松田重明の一子、
「では、おいとまを」
と、辞しかける。
道誉もまた、
「重任の途中でなくば、一
とのみで、しいて、引きとめようとはしない。
佐々木の家臣は、松田権ノ頭がすぐ帰りそうなので、それを待っていたものだろう。――道誉が、客をおくり出して、元の座へ帰って来るとすぐ、
「殿。ひょんな者が、訪ねてまいりましたが」
と、兼好法師の
「浮かれ法師が。かかる所へ、今ごろ何しに」
と、舌打ちはしたものの、しかし、通せとは、すぐ言っていた。
「……これは、殿」
「ほ。兼好か」
「まことに、ごぶさたを」
「いや、よくもぬけぬけと。しかし、ここは
「ごきげん斜めでございますな。小右京どののことを、いまだ根に持っておいでなので」
「頼みにならん御僧などを、頼みにしたのは、こちらの思わく違いだった」
「その通り、殿のお目ちがいと申すものでした。世の女は、すべて、おれならどうにでもなるなどのお考えは、あらためねばなりませんな」
「
「されば、兼好も今日は、ぜひないお使いで参ったのです」
「よく使いを頼まれる御僧ではあるよ。して何事を」
「じつはゆうべ、野口ノ宿で、はしなく、
「これを、父の
と、それの伝奏を、彼は切に道誉へ依頼したのであった。そして、道誉の承認をえると、
「今日は、これのみ。いずれご帰洛の頃を見はからッて、都であらためてまた、お目にかかりまする。どうかお旅先では、いちばいお気をつけられませい」
と、さっそくに
道誉はなにか、味気ないここちがした。
兼好と会えばいつも、酒をくんで、公務や世事をわすれるのが常である。こう、そッけなく別れたことなどめったにない。
「だが」
彼は自分の顔を想像してみる。
兼好に長居をさせなかったのも、先客の松田権ノ頭をそうそうに立ち帰らせたのも、この顔つきが追い立てたものだと思う。さりげなくしているものの、
「さて、これからの、
に思いいたると、不安は、顔へ出ずにいなかった。
いうまでもなく、それは途中で後醍醐奪回を狙う宮方残党の嵐の前ぶれにたいする彼の予感にほかならない。
たとえば、今日の一客。――備前の松田権ノ頭なども、なにかここの
「うさんな眼だった」
道誉は、充分疑っている。
しかし、備前、備後方面へは、さきに鳥羽から家臣の田子大弥太を飛ばして、すでに手は打っておいた。「――なおこれ以上、
そして、侍者の千種忠顕へ、ついでに言った。
「ここは明朝出立いたします。――先帝には、ややお疲れぎみとうけたまわるが、ちと猶予ならぬ事情もあれば、女房がたへも、さよう、お触れおき願いたい」
旅の
「のう。佐々木の紋は、四ツ目
後醍醐はいわれた。
こんな自嘲のお
しかしこの、おそばの三女性のあいだにも、微妙な感情の差は、ひそんでいる。
「小宰相には、心をゆるすな」
と、帝はあるとき、廉子に注意された。鎌倉の息がかかっている女とみてのご警戒なのだった。もとより廉子もとうに彼女へは一線を引いている。
いまし方。
帝のご座所には、忠顕が伺って、なにやらお伝えして
「いまは、ならぬか」
と、おあきらめ顔と共、廉子だけを室へ召して、こうささやかれた。
「いま、忠顕が来ての話では、どうしても、ここは明朝出発するとの
「ではついに、お望みの
「その宗良も、すでに今朝早く、高砂ノ浜を出たと、つい今、忠顕から聞かされての……。会えぬなら、ここにいてもせんないこととあきらめたわえ」
「でも、お疲れも」
「日ごと、日ねもす、
と、後醍醐は、いちばいお声を低くした。
「……廉子。ひょっとしたら、笠置、赤坂の残党や中国の宮方が、山また山の長い旅路のさきで、身を待っているようなここちもする。何か
「ふたりも密かに申しておりまする。途中では何かの
「むむ……。それに警衛の佐々木道誉も、やむをえず、きびしい規律をしめしておるが、あわよくば宮方へ寝返りの色が見えぬではない。ともあれ、旅が山路へかかったら、つねに油断なく身を持っておれよ」
そのとき。
廉子の眼が、なにかを告げた。帝はすぐお口をつぐむ。――すると、障子の外を、
「…………」
帝はまた、お手にしていた宗良の
まもなく、灯がともる。
あすの夜は、
そして美作境へ向っても、山陽道へ出ても、それから先は、一路出雲まで中国山脈の
道中、夕は早くに、朝は早立ちを本則としていたが、とかく妃たちの身化粧なども手間どって、早いその朝立ちは容易でない。
さらには、千に近い人馬である。それがすべて
「ちと、大兵すぎたな。この半数でも、足りたものを」
「京を立つさい、なぜか俄に、佐々木殿が増員をとなえたためだ」
千葉ノ介貞胤と、小山秀朝の二将は、今朝もまた、出立まぎわの喧騒に手をやいて、
「かかる有様では、やがて山間の旅へ入ると、いよいよ困ろう」
と、嘆じていた。
ところへ、何か道誉の打合せが来て、二将は、彼の待つ神社の横の
とは知らず、
「まだか、出発の命は」
「今朝にかぎって遅いのは、どうしたわけ?」
馬を揃え、列を作って、兵はしびれを切らしている。
すでに、帝も輿にお身をまかされ、三人の女房らも各

さて、やがてのことである、やっと。
「立てっ。列を出せ」
千葉と小山の号令は伝えられたが、いつもよりよほど遅い発向となっていた。
道誉の騎馬もすぐ列前に現われて、帝のお乗物の
ご不予(病気)は、帝の口実とわかっていたが、しかし、終日の輿のお旅は、いかにお辛いか、誰にも、それのお察しはつく。
なにしろこの同勢と、輿のお旅では、一日五里がせいぜいである。六里をこえることは難しい。
その点、「増鏡」でも古典「太平記」でも、ここらはおよその見当で書いたらしく、道中の日時、日程などの記述は、どれもはなはだ不確実だ。――かりに増鏡などの日どりで行くと、一日十数里も歩いたわけになるが、とてもそんなに
で。加古川を朝出た帝の
そこには、
そこへ着くと、すぐだった。
道誉はつぎの路次の予定を、警固の全員へ公示していた。
「――明日、道は今宿より西と南へ
ところが、である。
翌、十四日の早暁、ここを去った列は千葉、小山のひきいる兵六百余と四つの
また、それだけでなく、姫山の西方半里の今宿から、道誉の人数のみは、さらに道を西へとって、播磨と美作の国ざかい、杉坂へ向って行った。――しかも、ほとんど休みなく夜を日についでの急ぎ方だった。
さきに贈り物をもって、備前の自領から加古川ノ宿に道誉を訪ねてすぐ去った松田五郎権ノ頭は、あの日、ふしぎな行動をとっていた。
その帰路、彼は近くの曾根ヶ浜へ出ると、乗りすてた馬を家来一同の手へ渡して、
「いいか。では、きさまたちはこのまま街道を船坂峠まで行って、
と、いいつけた。
そして、すぐ、おのれ一人、かねて待たせておいた
「行け」
と、命じた。
六挺の
「風が変った。帆を張れ」
夜は夜で、追い風をうけながら、夜どおし舟もかしぐばかりな帆しぶきを浴びつづけて行く。
かくて翌日の
「父上、戻りまいた」
「お、権ノ五郎か」
父の松田重明は、待ちかねていたふうである。いやここの城中全体が「権ノ殿が帰ったぞ」というそのことを焦点に、かたずを呑んだ空気だった。
加古川で見て来たあらましを、権ノ五郎は父に報告していた。重明はいちいち頷く。彼は、ややあから顔で、かっぷくのいい六十がらみの武将なのだ。
「そうか。
「は。お旅疲れは、もちろんでございましょうが」
「道誉は」
「いつに変らず、世辞のよい
「いやその世辞が油断ならぬ。よも、こちらの腹を見やぶられはしまいな。都ではいくたびも会っておるが、
「だいじょうぶ、察してはおりません。第一、いかに道誉が炯眼であろうと、
「そうだ、宮にも、お待ちかねのはず。帝のご消息、そのほか、そちからじきじき申しあげるがいい」
父子は連れだって、さらに
「さいぜんから、お待ちでおられまする」
と、すぐ方丈へ
内にいたのは、年ごろ三十四、五の、
大覚ノ宮と、松田父子があがめているのはこの人か。
からだの骨ぐみもよいが、唇は意志の強さをしめし、どこか、後醍醐のご風貌に似かようていなくもない。
「待っていた。ずっと入れ」
何と、その声がらまでが、後醍醐にそっくりだった。
疑問から先にする。
大覚ノ宮
とは、いったい皇系のうちの誰なのか。
かりに世上へ問うても、六波羅でさえ「さような宮はおられぬ」と、否定するだろう。後醍醐の
だいいち、皇子にしては、後醍醐とのお年が近すぎる。
しかし、この大覚ノ宮は、後醍醐の皇子のお一人たるには違いなかった。ただし俗にいう、養子なのである。
では、ご実父は、たれかといえば、ほかならぬ亡き後宇多の院だった。――院が上皇のころ、

その遊義門院は、よほどな美人であったらしい。――おん父は持明院統の天皇
事の秘密は「増鏡」の「つげの
――皇后宮(
子)も、この頃は遊義門院と申す。
法皇(後深草)のおそばにおはしましつるを、中 の院 (後宇多)、いかなるたよりにか、いと忍びがたく思 されければ、とかくたばかりて、盗み奉らせ給ひて、冷泉ノ万里小路 殿におはします。
またなく、聞えさせ給ふこと、限りなし。
優雅に言いまわしてはあるが、これは一大事件だったにちがいない。
法皇(後深草)のおそばにおはしましつるを、
またなく、聞えさせ給ふこと、限りなし。
持明院統と、大覚寺統とは、帝位をはさんで、その臣下まで、真二つに対立し、百年、
それなのに、後宇多は、反対派の皇女を、人をもって盗み
だが、どんな非難も、ものともし給わぬ後宇多の恋は、同書「うら千鳥」に、
この程は、いどみ顔なる御方々、かず添ひぬれど、なほ遊義門院のみ志に、たちならび給ふ人は、をさをさなし。
と、はたからも見えるくらいな、ご熱愛ぶりだった。が、さまでな君も、徳治二年ふとご病死された。花の命は短かった。ご悲嘆のあまり後宇多は
なお、遊義門院には、生前、
ここで、あらためて、いうまでもないが。
後宇多は、後醍醐の実父である。だから後醍醐とすれば、ほんとは、母ちがいの弟なのだが、事情のため、認知されない父の子
とまれ、皇統の人の例にもれず、この恒性も、肉親的にはめぐまれぬ皇子であった。
おん母遊義門院にわかれたのは、十一だから、後醍醐の養子となっても、実父は、後宇多院と、知っていたろう。
そして青年期をまえに、大覚寺へ入り、やがて
だが、時勢のあらしは、
後醍醐が、笠置へ
そして、どうかして、後醍醐のおわす笠置へ行こうとしたのである。だが、笠置は陥ち、赤坂城も亡び、六波羅の獄へと、日々捕虜がつづいて行く。
この前後、
しかし、すでに寸断され、また
で、ついに海をわたって、この備前へ来たのである。中国では、桜山
「備前の守護、松田重明は
とも聞いたからだった。
それが、去年の冬だ。
いらい松田一族は、この流離の宮――後醍醐の異母弟にあたる人――を擁して、日蓮宗の
また、この春には、
「先帝は隠岐へ、ご
と、聞えてから、笠置、赤坂の残党も海をこえて、この地方へ入りこんでいた。そして、
「先帝の
と、大覚寺ノ宮恒性を中心に、もう数十日も前から、今日のいたるのを、じつに
……密談、しばらく。いつか暮れた方丈の障子の内では、
「では、宮にもすぐさまお身支度を」
と、松田重明の声がほどなく洩れていた。
つづいて、その重明は、子息の権ノ五郎へ、
「このこと、高徳へも、さっそく告げたか」
「いや、舟路を来ましたので、児島殿とはまだ会うているひまもありません」
「お、そうだったな。誰を走らせよう」
「誰をと申しているまも面倒。いっそ、それがしが先へ駈けて伝えおきます。宮や父上には、あとよりおつづき下されい」
権ノ五郎は、ふたたび
わずか四里余の道。権ノ五郎の馬では
でも、さすが馬の疲れに、五郎は目的の
城といっても、やや堅固なただの
しかし、
「……いや
さび声の、しかも沈痛な口吻だった。人をも遠ざけた一室のうちである。
かねてからの申し合せにより、彼が首尾をつたえて、大覚ノ宮や父重明とともに「すぐ
どこにも才気ばしッた風のないだけ、内はかえって剛毅なのかも知れない。まるっこい栗色の顔だ、栗に長いモミ上げや大きな両眼を取ッつけたような容貌である。……分厚い肩を
「では、なんですか、備後どのには……」
と、五郎は煮えきらぬ相手の調子に、
「この
「いや二の足ではないよ、権殿。やるからには、不覚があってはならんではないか」
「さ。それゆえこの五郎も、輦輿の御供の佐々木道誉を訪うとみせ、お道順やら敵の人数などつきとめてまいったのだ。さるに、なおまだ何を」
「それはよいが、和殿がいないここ数日のまに、いやな雲行きが
「なに、気味悪い」
「うん、なんとも不気味」
「飽浦といえば、
「いかにも」
「はて。何で彼らが?」
「知るはずはない、かくまで密々に運んでいたこと。この高徳もたかをくくっておりまいた。しかるに、児島(児島郡)の旧縁から今日の昼、
「…………」
これには五郎も色をかえた。無視できない何らかの支障をふと、彼にしても思わぬわけにゆかなかった。
備前佐々木党は、平家のころ、藤戸ノ渡しで軍功をあげた盛綱いらいの子孫であり、近江の佐々木道誉とは、宗家と
宮方か。幕府方か。
この地方にもその
大覚ノ宮と、
守護の松田一族。
宮方の主峰は、この二つと観ていいが、さかのぼれば、承久ノ乱に宮方へついて、いらいうだつのあがらぬ落ち目におちた不遇な武士や、
高徳もその一人だ。
備後ノ三郎とも呼ばれ、かつては備後守でもあった古い家柄だが、その備後の所領も、備前児島郡の本拠も、いまは失われて、彼の家のものではない。
わずかに、
しかし、こんな微力な山間の落魄武士へも、先には勤王の士を召す密勅は早くから廻っていた。なぜなら元々彼の家は、皇室領のいわゆる“御領の武士”だったからである。――すべて彼にかぎらず、笠置挙兵のまえに発せられていた天皇の
そのうえ高徳は、守護の松田父子を
「きっと、帝を奪い返しておみせします」
と、忠誠を誓って出たのも、当然であった。
そこで万端の手筈はでき、こよい高徳の手兵を先駆に、今木から山陽道を北へすすみ、輦輿の通過する船坂峠に敵を待って、宿望をとげようとするものなのに、かんじんなその高徳が、急に、
「あぶない!」
と、観察を下して、腰を
「なるほど、
と、耳もかさず、
「ともあれここはすぐ立たねば、父重明や大覚ノ宮にも、はや大安寺の城を出ておられるし、時もおくれる」
と、せきたてた。
けれど高徳には、彼が気を揉むほどな反応は一こうに見えなかった。
「ま……もすこし待たれい。万一、その
権ノ五郎は
「備後どの。その
「まさか」
高徳は
この
それをなぜか、大覚ノ宮も、父の重明までが、
「真っとうな武人、力にもなる人物」
としているのが、五郎には元々からふしぎだった。裏切りの
「おう、
ふと、高徳が呟いた。
その黒い人影は、庭木戸からこれへ入って来たのである。主人のほかな人影が室に見えたためか、男は、くつぬぎの辺に、だまって
「して、どうだった。飽浦八浜の動静は?」
と訊かれ、その俊敏そうな
飽浦、八浜、
「すわ」
と、色めきを見せたのは、決して、今夜のこちらの機密が洩れたがためではなく、もう五、六日も前からの動きであった。
と、断定できる理由には、次のごとき事実がある。
佐々木道誉の一家臣、田子大弥太という者が、さきごろ
つまりは、道誉が、近江佐々木の
たちどころに、備前佐々木党は、浦々に兵船をそろえ、陸の要路にも、いつでも討って出られる戦備をととのえ、
「もし、今木の児島や、大安寺の松田勢が、輦輿のお道すじへ向って、その
とここ二、三日、鳴りをひそめている
で当然、こなたが先帝奪回に
さらにはまた、兵船をこぞッて、海づたいに船坂附近へ上陸し、輦輿を渡さじとする幕府方の兵に呼応して、味方を孤立におちいらせようとして来ることは、火を見るよりも明らかなこと。――ほぼ、飽浦を中心とする敵の構えはそのようでござりました、と細作の男は一気に述べ終った。
「ご苦労だった。退がっていい」
そのあと。
高徳と五郎とは、
容易でない。
どう考えても、事態は大きく狂ッたと観るしかない。
「どうする。
「どうもこうもおざらん。大覚ノ宮も父重明も、はや大安寺の居城をすでに出ていよう」
「おひきとめせねばならん」
「いや、宮は思い止まるまい。父にしても、この
「ここで言い争ってもぜひないことだ。あまり居城を遠く出られぬうち、ともあれ、お目にかかった上の対策とするしかあるまい」
高徳は立ち上がった。
五郎も気は
「あとを守れ。物見をおこたらず、たえず飽浦方面に満を持して、不意の攻めに突かれるな」
と、留守の将へくれぐれ注意して立つという入念ぶりであった。
一方。
この宵、松田重明はすでに千余の兵を動員して、居城の大安寺を立ち、やがて
子息の権ノ五郎と高徳らが追ッついたのは、もう山陽道の山せばまッた浮田の谷道へ軍がかかっていた頃だった。兵馬はここで俄な停頓をみせた。――宮も加えて、協議のためだったのはいうまでもない。
ここで、高徳の口から、備前佐々木党のうごきを聞かされた重明は、すくなからず驚きはしたが、
「やはり佐々木道誉、ぬけ目はない。さすがな者だ」
と、感嘆した。
そして、子息の五郎へ、
「そちが加古川ノ宿で会った道誉は、さあらぬ
と、結論をつけた。ざんねんだが、留守の城を突かれては
だが、五郎
大覚ノ宮の心事もまた同様なのは、問うまでもなかった。
「いや、ここは高徳に、おまかせくださるまいか」
高徳が、それを救った。
「お引揚げの儀は、それがしからもおすすめする。したが、そのうちの、すぐれた兵百五十人ほどを、特に権殿へおさずけ下さい。自分にも屈強な兵六、七十騎は来合うはずゆえ、それをあわせて、船坂峠に
だが重明は、それにも、うんとは
道誉以下、輦輿をまもる一千の兵は、鎌倉方でも精兵中の精兵と聞いている。玉砕も時にこそよれと、あやぶむのだった。
「もとより無謀に近いでしょうが、といって、全く絶望するにもあたりません。策はあります。充分、味方の利もあります」
なんの鋭さもない抗弁だが、高徳の
高徳は、なお説いた。
「――
あくまで、その
「備後どのが、さほどに申すなら」
と、ついには彼の説にしたがい、手勢の内の百五十を、子息権ノ五郎へ与え、あとの総勢は、急遽、大安寺の居城へひっ返すことにきまった。
そのさいにも、部下のなかで、はしなくも一つの紛争が起った。
というのは。
かねて摂津、和泉からこの地方へ潜入していた笠置、赤坂の残党もかなり交じっていたのである。彼らはすでに
だから、重明の命が、
「百五十人をのこし、あとは居城へ引っ返す」
と、つたわるやいな、まず彼らの間から、ごうごうと、非難不平の声があがった。事態の説明を聞かされた後も、
「ここまで来て、俄な
「たとえ
などと理窟をこね、容易に服するいろも見えなかった。
これへも、高徳が立って、ねんごろに、戦いの利害と策を言って聞かせた。そして困難な飽浦との地形的状況なども説いて、
「分ったら、その意気であとに残る組へ入れ。そして高徳と共に来い」
と、言った。
当然、彼ら残党たちは、ほとんどが、高徳と五郎権ノ頭の手についた。さらには、大覚ノ宮もまた、
「わしも……」
と、すすんで船坂峠へ向う組に志望された。
こうして、大部分は主将重明と共に、元の居城へひきあげ、別れた百五十騎だけが、夜をかけて、北へ急いだ。
道はやがて、熊山の南、豊田ノ荘を通ってゆく。熊山は山陽道一の大岳だ。すると、その山間から
「何者か」
わけを知らぬ笠置、赤坂の残党たちは初め大いに怪しんだが、それはみな児島高徳の親族、家の子たちとわかった。――豊田の地は、高徳にとって、祖先伝来の古郷土なのだった。
この熊山党をも入れて、およそ二百余騎となった一陣は、夜明けがた、和気郡片上の入り海のほとりで朝の兵糧を解きあった。目的の船坂峠は、騎馬ならあと半日の彼方にあった。
船坂峠は大昔のいわゆる“
播州赤穂郡から備前
「おそらく帝の
高徳は言った。
片上の磯では、兵糧や馬の飼いも
かくて、麓の三石村へついたのは、
そこには先の日、加古川ノ宿で別れた権ノ五郎の家来十数名が先着していて、軍馬の埃りを遠くに望むと、
「や。来られた」
と、村口へ出て、みな首を長くしていた。
ここで一ト息入れながら、五郎は、待ち合わせていたその者たちへすぐ訊ねた。
「街道の様子はどうだ。輦輿の同勢は、あの翌日、加古川を出て、姫山泊りか、
「されば、姫山泊りでございました」
「次の日は」
「
「そして、ゆうべは?」
「てっきり
「なに、有年の山寺とな?」
「は」
「では、船坂峠からわずか二里余のさきではないか。山路の上、
「いやまだ、お急ぎにはおよびません」
「なんで」
「またも帝のご不例か、前日の疲れか、同勢は今朝まだ有年の山寺を出てはおりませぬ」
「はてな?」
五郎は、俄には信じない。
「備後どの」
と、高徳を見て、
「聞かれた通りな情勢だが、昨夜は夜道までかけてきた敵が、この
「されば、兵法の語で“まぎれ”と申す一条がある。何によれ、疑心にとらわれるのは禁物だ。敵もこの険路へ向って、用心の“まぎれ”を
「では、新手の物見を放って、もいちど、仔細を
「それもよいが、こなたはこなた、かねて
「いかにも」
それ行けと、馬はみな麓に隠した。一さんに
まもなく、東南は
峠は暮れた。夜になっては、なおさら何のうごきもない。
ただ折々には、
「さては、
朝となった。
峠の上はもう明るい。権ノ五郎は、夜どおし伏せていた露まみれな体を起して、高徳が隠れている陣の方へ歩いて行った。
が、兵に訊くと、
「備後どのは、まだ彼方の木蔭で眠っておられます」
とのことだった。
自分は気が立っている。そのせいとしてはいたが、でも五郎には高徳のそんな神経が「ても、悠長な」と舌打ちされた。で、べつな所に、大覚ノ宮をたずねてなお今日の合戦の手筈など、打ち合せていた。
兵糧もまた、今朝は午ちかくになって使った。頂上のここで
が、ついに。――陽は午後に入りかけたのに、今日もなお、
「はて。おかしい?」
自身時々、高い所に立って鯰峠から有年の方ばかりを眺めていた。
すると
「とんでもない! こんな所へ幾日陣を伏せてお待ちあっても、無駄事です。天皇のおん
「なに」
大覚ノ宮を初め、高徳や五郎も仰天して言った。
「なぜだ。ここでの埋伏は、なぜむだだと申すか。
「さ。その輦輿には、お身代りの公卿が乗せられ、警固は、千葉と小山の二将だけで、まことのおん輿ではありません」
「や、や。では有年に来ておる同勢は敵の偽計か」
「されば、敵は今宿を立ち出るさい、その軍中に
「しまった」
五郎は、絶叫した。
「いま思えば、道誉めは初めからこちらの計を感づいて、裏を掻いていたとみえる。備後どの、こうしてはいられまい! すぐ杉坂へ追ッかけよう!」
「いや、それもどうかな?」
高徳は、
「備後どの。残念だが、仕方があるまい。何をお迷いか」
「でも、作州杉坂越えまでは、いかに急いでも、一昼夜の余はかかる」
「知れたこと。道のりなどは」
「しかし敵もふかく企んだ計略、なんで帝の輦輿におめおめわれらの
「いや、相手は輦輿や女房輿をつれていること。急いでも
「ああ、権殿はお若いな」
「そういわるる備後どのはまた、分別すぎる。分別はまま大事を取り逃がす」
「が、
高徳は、峠の下に望まれる播磨灘の一端を指した。
「昨夜らい、
果たして、高徳の言ったとおりな事実が、麓の三石からも聞えて来た。――のみならずその時、大安寺の富山城からも、松田重明の早馬があった。早馬の者の言によれば、備前佐々木党の全面的なうごきが見え、事態は危急に迫っている。すぐ引っ返して、富山城の危急をまず
それさえあるに、
「ご一同、ご猶予はなりませぬぞ」
「いまにもこれへ見えましょう。敵の千葉ノ介、小山秀朝の東国勢六、七百人」
「はや
「
かたちは逆転した。
いつのまにか、ここの
「もう、だめだ」
権ノ五郎が叫ぶ代りに、二百の部下が一せいに騒ぎ出した。
「犬死にすな」とも言い合うのだった。元々、松田の直臣でなく、いわば烏合の残党である。こうなると
「権殿。お退きなさい。この高徳にかまわず、一刻もはやく、大安寺のお父上をお
「備後どのは」
「てまえは、一人で残る」
「え。お一人で」
「む。帝のおあとを慕うてまいる。そして幸いに、もし
彼がみなまでいわないうちに、大覚寺ノ宮も列を出て、高徳のそばに立たれた。
「わしも行く。……備後と共に、わしも帝のおあとを追うて、せめては、お力づけの一ト言でも申しあげたい。おさらばじゃ、権ノ五郎は敵に包囲されぬうち、少しも早うこの船坂を去るがよい」
まして大勢の旅だ。
さらには、後醍醐帝のほか、典侍の女性三名もそれぞれ
「いそげ、ここ数日は」
しかし、どういってみた所で、輿は牛の足より遅い。二日目でやっと千本ノ宿。そして翌日は、どうにか杉坂を越えたものの、三日月村ではもう
その代りに、佐々木道誉が帝に奉侍するさまは、かゆい所へ手が届くほどだった。
ひとつには、
三日月泊りの宵だった。
道誉は、宿所の
「いかにとはいえ、連日の山また山路。
「いいえ、私たちは、忍ばねばなりません。ただ
「したが、ここは早や都の人目も遠い
「うれしく思います」
こころもち頭を下げて、
「みかどにおかれても、道誉が
それは廉子も思うことらしかった。境遇が人の情を感じやすくさせるのでもあろう。廉子は道誉をいつかしら「頼もしい者」と、見る風であった。
また、道誉にすれば「――将ヲ
「ときに道誉。
「仰っしゃってみて下さい。何事ですか」
「この三日月の宿所で、数日休息はなりますまいか」
「ま、もう幾日か、ご辛抱ねがわしゅう存じます。今宿で別れた千葉、小山らの別隊が追ッついてまいるまで」
「どうして、公卿の行房と忠顕には、べつな道を取らせたのでしょう?」
「それの仔細も、ほどなくお分りになりましょうが、とにかくここはご辛抱を仰ぎまする。そしてせめて、院ノ庄へでも行き着くならば、きっと、充分な御保養の儀を計らいまする。どうかこの道誉をお信じあって」
次の日もまた、いなやなく、帝も彼女たちも、山輿のうえの山旅だった。
道誉は、腹心の
そしてたえず、後の道や横の峠路などへ眼を働かせながら、千葉、小山からの連絡はないか、あるいは児島高徳らの宮方が、
現今でも、作州街道の佐用、江見村、勝間田、そして
後醍醐帝
なる名所や遺蹟の碑が、いたるところに残っている。
“お
よそにのみ
思ひぞやりし
思ひきや
たみの竈 を
かくて見むとは
と、「増鏡」の“久米のさら山の巻”に見えるのはこの地などと、かぎりもない。思ひぞやりし
思ひきや
たみの
かくて見むとは
そしてその道順にも多少の異同はあるが、だいたい江見、
ところが、その日は。
山国には特有なものだが、気まぐれな照り降り雨に出会って、とかく道は
馬さえ山坂ではまま
まして
「おそれながら」
道誉は時々、その騎馬を、
「
そしてまた、
「おそくも、今日明日には、院ノ庄へ行き着くはず。――先へ家来を走らせて、
と、これは廉子の輿へも言ったのである。なんど繰返すのかしれなかった。
そのうちに、時ならぬ雷鳴が、
「
道誉は、狂う馬をしぼッて、
「長くはない。すぐ止もう、すぐ止もう」
ひとり声を
はたして、まもなく
「ああ、大きい景だ。こんな大観は都では見られぬ。まぢかな南の山は、久米の皿山。遠い雲の帯の上なるは
道誉の命に
「あっ、この一軍は?」
馬を持つ者は馬の背へ戻り、
「騒ぐな」
道誉は制した。
「味方らしいぞ。千葉ノ介と小山秀朝が、山陽道から追ッついて来たのかもしれぬ」
やがて彼方からのものが近づくほど、道誉の頬には微笑がのぼっていた。
やはり待ちかねていたその手勢だったのである。しかし全部ではなく、小山秀朝とその一隊だけだった。
「やあ」
と、お互いは、相近づくなり、馬上から手と手を伸ばして握り合った。
「ご苦労だったな。小山」
「いや、御辺こそ」
「して、千葉ノ介は」
「一日ほどは
「では、予想にたがわず、土地の土豪や残党ばらが、山陽道の険路へ出て、帝の奪取を計っていたのだな」
「お察しは図星だった。しかし彼らの計のウラをかいた備前佐々木党のうごきも彼らのキモを
と、小山秀朝は、こう状況を語ったうえで、
「……しかしなお、敵に再度の
と、つけ加えた。
「やれ、やれ。……それでやっと今夜からは熟睡できよう」
こういったのは、秀朝の労にたいする謝意を、べつのことばで表現してみせたにすぎない。
およそ何が愉快なといって、自分の先見の策が図に
「もう急ぐこともない」
急に彼も疲れをおぼえたか、その日は、陽も早目に、福岡村の雲清寺に入った。
小山と共に帰って来た千種忠顕と一条行房のふたりも、その夕からは、帝の
そのせいか、ずいぶんなお疲れでもあろうに、雲清寺の
それもあろうが、折から雲清寺の夕桜もさかりだった。
忠顕はその一ト枝に歌を添えて、お部屋へささげた。後醍醐も彼へ“返し”の歌をお
朝。ここの朝桜もまたきれいだった。とはいえ、馬のいななきやら人声が早や
「道誉」
と、彼の姿を捜していた。
「やあ、召されましたか」
「オ、道誉、ちと約束がちごうてはいませぬか」
「はて、
「途々では、院ノ庄へ着いたなら、かならず両三日のご休養を……と、まいど申していたではないかの」
「されば、ここはもう皿山ぢかくではございますが、院ノ庄ではありません。院ノ庄とは、ここから西へ二里ほどの先」
「では、こよいのご宿所は」
「その院ノ庄です。……いやそれゆえの、ご不審でしたか。……何の何の、今日は昨日と違い、
「おうそのような、優しい計らいであったのか」
廉子はよろこんだ。それがそのまま、帝の仮の
「花の下道、ゆるやかに
その日は、道誉も秀朝も、馬は郎党の手に曳かせて、輦輿のそばに添って歩いた。
憂き旅と
思ひは果てじ
ひと枝の
花のなさけの
かかる折には
こんな歌も侍者の公卿に思ひは果てじ
ひと枝の
花のなさけの
かかる折には
久米の皿山を越えると、院ノ庄はもうちかい。そこには近郡近郷の飢饉年に備える倉院(蓄備倉)の役所がある。ひろい院庭には、見る人のない
「いざ、お約束です。二日ほどは、存分、ごゆるり遊ばされい」
着くと、道誉は、
彼の家臣が先着していて、ここでは何かと用意もととのっていたのである。第一は長旅の雨露に汚れぬいた
もちろん、帝をはじめ、三人の妃や侍者たちのためにも彼は用意させておいた。また、つたえ聞いた近郡の地頭や、郷士、法師らの
お湯浴みなども、久々であり、湯殿をめぐる湯けむりのうちに、妃たちの溶く化粧のものの香や
「もぐさはないか」
廉子からの求めに、道誉はさっそく、
同じ夜のことだった。
院ノ庄の附近に、
「……備後。星もだいぶ夜更けたようだの」
「あれが北斗でございますな」
二人は、堂の縁から仰いでいた。児島高徳と、大覚ノ宮とである。
事むなしく、船坂峠で一たん軍を解いて権ノ五郎とも別れた高徳は、後醍醐の御子(じつは異母弟)の大覚ノ宮と共に、あれから道もない
「ひと目でも」
と、大覚ノ宮は、後醍醐を慕い、高徳もまた、
「つかの
と、自分たちのこの思いを、なんらかによって、帝のお胸へ、結んでおかぬことにはと、お道筋を先へ廻って、時刻をはかっていた今夜であった。
「大覚さま」
高徳は、立ち上がって、
「おそらく、行宮のまわりには、警固の武士が、夜すがら交代で見張っていましょう。高徳がさきに忍んで、
笠や
やがて近づいた倉院の屋根は、雨上がりに似た深い
「このぶんなら」
高徳は、大覚を物蔭にのこして、倉院の建物へ忍びよって行った。
警固の人馬はあらかた津山川の河原近傍から、蓄備の土倉の方に
「お座所は、どこか」
高徳はすばやく高廊下の下に身をかがめた。が、
「……?」
廉子である。
しかし田舎武者の高徳が、彼女を三位ノ典侍廉子とはもとより知ろうはずもない。彼はただその高貴な容姿から見て、帝のお側近くに仕える
「たれじゃ」
「…………」
「警固の者か?」
彼女の男まさりな気強さも、高徳には、威厳に聞えた。
廉子は怪しんだ。
「
ほんとに、呼び立てそうに見えたので、高徳はあわてて、
「あいや」
中坪の内へ、
「ご不審ではございましょうが、決して曲者などではありませぬ」
と、笠を
一瞬は、さすがびくとしたが、彼女の白い手の
「では、誰じゃ。佐々木や小山の手の者とも見えぬが」
「深夜、
「余事は
「備前
「高徳とな……。耳にしたこともない名だが」
「もとより田舎武者。
「その高徳とやらが、して、何しにこれへは」
「
「大覚ノ宮?」
紙燭が消えかかった。
眉をひそめた彼女の白い顔から肩のあたりへ、花が舞った。
「……大覚ノ宮などと仰っしゃる親王はおわさぬぞ。そちは
「や、おゆるしを。……うかと申し損じまいた。大覚ノ宮とは、世を忍ぶご変名。まことの
「えっ」
彼女はあきらかな驚きを全姿に見せた。――その恒性の
「高徳。それは真か」
「いや、ことばの上のみでは、なかなかおいぶかりも
「ああ、そうであったか」
彼女は深い息のように呟いた。
高徳の眸にはその人のうごかぬ姿が、大覚ノ宮のまごころに、いたく打たれたものかと見えた。だが、廉子の胸はそう単純でない。めったに、ほかの皇子の行動になど打たれはしない。
彼女が腹をいためた実の皇子も幾人か都に残してあるのである。こうなっても、廉子は自分が生みまいらせた
「……控えて居やい」
彼女は高徳をおいて、濡れ縁の果ての妻戸のうちへすうと隠れた。――高徳は地に
「……はて?」
余りに長い。なんの音沙汰もいつまでもない。
彼はよく五郎などから「分別すぎる者」と笑われるほど、人には一応も二応も疑いをもってみる方だが、高貴な雲上の美女を疑うことまでは、知らなかった。
ようやく、彼もすこし変だと感じ出したらしい。それに足の
「おかしいぞ。……いかがなされしか」
考えてみれば
彼は、あくまで善意にとったが、しかしお待たせしてある大覚ノ宮も気がかりだった。
「そうだ、この間にお呼び入れしておいた方が、宮もご安心なさろうし、時も
すぐ返って来る
ところが、先に大覚ノ宮を待たせておいた桜の大樹の蔭にも、またその附近にも、宮の姿は見あたらなかった。――はっと、彼は不吉な感に振り廻されたが、声をあげて、御名を呼ぶわけにもゆかない。
「さては、余りに自分の来るのが遅かったため、宮にもどこかそこらを
彼はついおろおろした。花明りを歩き迷った。
と。これは当然、警固の眼にふれないわけはない。
「出合えッ」
どこかで鋭い声がした。
つづいて「曲者っ」と
「またか!」
と言ったような声もする。
高徳は、行動の意識もなく跳躍していた。木を
着ている
「もし、そうだったら」
いやそうでなくても、万事休す、ともう観念をつけずにはいられない。彼は、らんと動物的な眼をくばった。逃げる方向を
つ、つっ、と後退がりに、楯としていた木の幹を離れかけると、包囲のいとまなく前方にだけ迫っていた兵は、
「逃がすなっ」
と、とたんに
だが、逆だった。高徳は前へ
しかし、この地ひびきも一
「なんだ。何事があったのだ。物々しげに」
道誉の声である。
兵たちは口々に、取り逃がした曲者の
「いや、さほどな者でもあるまいがの。さいぜん捕えた乞食法師も、自身、入念に
道誉はまた、兵たちへ訊ねた。
「もう、時刻は
「いやそうはなりません。やっと
「そうか。千葉ノ介の一隊が、この
「おことばですが」
「なんだ」
「あとの歯がみではございませぬが、どうも逃げた曲者は、ただ者とは思えませぬ」
「ただ者でなくば、何だと申すか」
「ひょっとしたら、宮方の一類ではございますまいか」
「そうだったら面白いが、いかに不敵な宮方でも、一人二人でこの陣営へ忍び込むなどは考えられぬ」
「そう仰せあると、そのようにも思われますが」
「世に
これほどに、主君が多弁にいうものを、なお、それに逆らってみる気などは、兵の誰にも起らなかった。彼らは道誉から「夜明けも近いぞ、眠っておけ」といわれたのをいい
道誉も隠れた。その四ツ目結の幕の内は、倉院役人の私宅の一つか、とにかく、
「
「は」
黄母衣の民谷玄蕃がそこへ来てぬかずくと、
「先刻、兵が捕えて来た怪しげな法師は、どこへやったな」
と、すぐ訊ねた。気がかりらしい訊き方でもある。
「は。あのまま彼方の
「縄目のままでか」
「はい」
「連れて来い。なおまだ、調べ残しがある。縄目は解いて、連れてまいれ」
「こころえました」
立ちかけると、また急に、
「玄蕃、待て」
「は。何ぞ」
「いや、わしが納屋へ行こう。そしてな玄蕃、これはそちだけに申しつける。誰をも納屋へ近づけてはならん。……また、書院の
「承知いたしました」
「これは極秘だ。主人から極秘の命をうけるのは、きさまにとって
にやと、道誉の顔の
道誉の影は、荒れ庭のすみに見える低い
夜明けがたの院ノ庄は、きのう以上な
「きょう一日は旅も休みぞ」
と、行宮のお湯殿には、朝からの湯けむりも
「……髪も洗える」
そのことすらが、よろこびだった。
いつか、都を出てから二十日に近い。もし
「髪を洗いたい……」
と、口癖に言いあっていたのであった。
また、後醍醐も、
「昨夜は深々と何もかも忘れて眠った。寝酒のせいか」
と、いつになく、み気色もうるわしかった。
「いいえ」
廉子は言った。
「きっと
「嫌いだ、灸は熱い」
「でも、お脚のむくみのみか、お背なども骨
「まるで、そなたはきつい母親のようだの。子をつかまえていう母のようだ」
「ホ、ホ、ホ。お
「わかった。つづけるよ」
「では、朝の間に」
「もうか」
「朝の灸治は、わけてよく効くと申しますから」
すぐ小さい
しきりに、
「ともあれ、佐々木を呼べ」
「いや、もう見える頃」
などと忠顕や行房なども
人々が寄って、いぶかり合っていたわけは、中坪の地上に、一箇の竹ノ子笠が捨ててあったことからだった。
「どうして、このような
と、最初に騒ぎ出したのは小宰相ノ局で、
「もしや、宮方の者か」
と、彼女が問題にし出したため、捨ておけずとなって、すぐ侍者たちから、道誉を呼びにやったものらしかった。
しかし、やがてその道誉が姿を見せると、彼は事もなげに、中坪に立って笑った。
「……や、ここへも
すぐ、部下のひとりを振り向いて、道誉は
「これ。……その
事はかんたんに片づいた形である。それから、侍者や妃へ、こう告げた。
「今日はこの辺の地頭や
「そうか」
忠顕の顔が、上で受けて。
「それはさだめしよい
「いや、さまでには行き届きません。しかし隠岐への旅も、ようやく
まもなく、中坪の声は、散って行った。
障子の内の、帝の
竹ノ子笠の怪は、廉子も聞いていたにちがいないが、帝のお耳には入れまいとするように、彼女は、中坪でのその人声をしいて
はや倉院の近くの馬場では、その日の催し事の太鼓がとどろに鳴っていた。――俄造りの桟敷に、帝以下、三人の妃と、忠顕、行房らの姿が揃うころには、馬場のまわりには、山国の群衆が、物珍らに、無遠慮な声など放って、わいわいと見物していた。
むりもない。
こんな山国の奥で、まざと、天皇や妃たちのお顔を見るなどは、彼らにすれば夢のようなことだったろう。しかも、どんな事情で
その中に、ゆうべ辛くも逃げ
今日は竹ノ子笠ではない。それに代る猟師頭巾。
腰の太刀はすでに、船坂落ちの途中でただの山刀とかえている。身なり足ごしらえ、どう見ても山家の猟師か郷士である。彼の
「…………」
しかし、気がつく者があれば、眼光だけはただならぬものがあったはずである。
「……あの
彼は胸で憎んでいた。
もしあのさい、彼女が自分を長々と待ちわびさせなければ、大覚ノ宮を見失うこともなかったはずだ。
また果たして、自分の切願を、帝のお耳へ取次いでくれていたのかどうか。
「覚えておこう」
高徳は、見物人の中を流れ歩きながら、それとなく聞き出した。――三位ノ局阿野
やがてその“笠懸け十番”の競技がすむと、
幾種の踊りのうちでも、わけて
むかし美作 ノ国に、中参 、高野 と申す神まします。
神の体は、中参は猿、高野は蛇にてぞましましける。毎年に一度の祭りあるごとに、生贄 をぞ供へけるが、その生贄は、国人 の未 だ嫁 がざる処女 をば、浄衣 に化粧してぞ奉りける。
「今昔」のうちのそんな話は、まいど宮廷ではよく局の夜ばなしに語られていたものである。だから思わぬ僻地でその実演に触れたことが、帝にも妃にも一ばい珍しかったものであろう。神の体は、中参は猿、高野は蛇にてぞましましける。毎年に一度の祭りあるごとに、
が、群集の中にまぎれ込んでいた三郎高徳の眼は、
かえすがえす、残念でならないのである。
「ああ、ここに一軍の手勢を持っていたならば」
と、痛嘆を禁じえない。
だが、
「よもや?」
彼にはまだ、宮が敵に捕まったとは信じられず、また、信じたくもない。もし事あらわれているとしたら、今日の警戒はもっと厳でなければならないはずだと、考えられる。
「いや、宮こそ高徳を、捜しておいでかもしれぬ」
彼の
夕桜の蔭はもう
その果てである。酒豪でおわす後醍醐もしたたかお酔いになったものだろう。……やがてのこと。儚い今日だけの歓楽も早や尽きたかのころ、妃たちの手にもおえぬ後醍醐の大きなお体を、ひとりの武士が抱え
「…………」
高徳は、まぢかに見た。
身を
「
「
と、共に酔歩を
武士は道誉なのである。
後醍醐は、しばしば、その道誉の襟がみをつかんでは、彼の入道頭をガクガク小突き廻しながら、こんな風な酒言も
「
それこそは、人の上の中参の魔王が、
夜も深まると、ゆうべのように、倉院の地内は、おぼろな
だが、何かは厳しい。
そのせいか、花の蔭を行く剣光が終夜キラキラ巡っていた。――が、高徳は
「ああ、何もかも空しく終った。松田ノ五郎がいったように、おれはやはり分別者の
眼をふさぐと、帝の
「しょせん、おれは一
いつか、彼はとろと眠っていたらしい。――はっと眼がさめたのは、どこかを行く馬蹄の音に驚かされていたのだった。
「や。明けかけている」
簗小屋を這い出すなり高徳は息をつめて
けれど
まもなく、それは近くの堤へ
「おられぬわ」
不安とすべきか、安心とみていいか、彼はいずれとも解き迷った。捕われてはいないとも解せる。或いは、捕われてなお倉院に置かれたかとも考えられる。
高徳は惑いに駆られながらいつか倉院の広場へ来てあちこちしていた。重たげな花の露の下はまだほの暗く、いまは人ッ子ひとりの影もない。またなんらその人の安否とてもわからない。
が、ふと彼は、大きな一樹の前に佇んだ。
「……?」
桜の木肌が
これで昨日から三つの謎に試されていると彼は思った。第一は廉子である、次は佐々木道誉だ、そしてまた、と高徳はただその詩句のような文字に見入るばかりだった。
「おおっ」
そのうちに、彼はあたりを忘れたような声を発した。詩句の意味が解けたのではない。これを書いた人に違いない者の姿を見たのである。その人は、さながら放心した人間のように、やや遠くの桜の根方に、独り膝を抱いてうずくまっていた。
それは、大覚ノ宮だった。高徳が捜しあぐねていたその人に間違いなかった。
彼の声に、宮も、
「あ。そちは?」
花の下の
「いったいどうなされたことでございますな。おとといの夜、ここでお姿を見失うてから、この高徳、どれほどお捜し申していたかしれませぬ」
「知れぬはず、佐々木道誉という者の手に捕われて、つい今暁まで宿所の土倉に
「して、それは誰の救いで?」
「いや放してくれた者も、その佐々木道誉」
「仰せの意味、よう
「されば、その道誉の心は、わしにも
宮は、不審の中から、記憶をたどって、はなし出した。おとといの土倉の中のこと。道誉の調べ振りのこと。
まず第一の不審は、
なぜか道誉は、その取調べも、部将に委せず、部下の者へは「物盗みに
しかし、その土倉の中では、じっさいには大覚ノ宮のこれへ来た目的から身の上までを、彼自身、宮の口からしかと聞きとっていたのである。
宮は観念され、何もかも包もうとはなさらなかった。――だから今暁、まだまっ暗なうちに曳き出されたときは「――打ち首か。六波羅送りか」と、すでに一命はあきらめ果てていたのだった。
ところが、道誉は人なき所へ宮を連れて行って、意外にも、こう言ったものではないか。
「
すでに。
帝駕は
「む。よいおん謎、これは武者どもには何の事やら解けますまい」
道誉は去った。しかし彼がそう言ったのをみれば、彼には“
まもなく、
道誉は早くも馬上の人と変って、輦輿の先を打たせて来たが、ここまで来ると、俄に駒を下りていた。同時に、侍者の行房や忠顕らも、みな何事かと、彼が指さす一樹のまえに寄り集まり、小首を
「なんと読むのか」
「なんのことか?」
武者どもはいうだけだった。
千葉ノ介や小山秀朝も一見には来たが、分ったような顔つきではない。いや道誉までが、
「何者の
と、そらとぼけている。しかし、侍者の行房と忠顕のみは、それを胸のうちで、
こんな
詩句のいわれと、その解釈をすれば、こうなのである。
――支那の遠いむかし。――
が、越王
ここに
やがて時節は来て、勾践はもう
ついに、待つ日は来たのである。
越軍二十万が、呉へ突入して来た。四隣の
「……それよ。その故事になぞらえて、何者かが、後醍醐のきみを勾践に、自分を范蠡に
忠顕と行房は、眼と眼を見あわせた。が、武士どものてまえ、口には出さない。
ひとしく、後醍醐も輿を出て、御覧になったが、凝視……そのままで何も仰っしゃるところはなかった。
ただ。臆測すれば。
ひょっとしたら後醍醐は、その筆蹟によって、或る肉親の一人に、思い当っておられたかもわからない。
「…………」
その間、ほの暗い花の木蔭に息をこらしていた大覚ノ宮は、なつかしさやら、なさけなさやらで、つい涙をつつみ、帝のお顔もしかと窺いきれぬまに、はや列はまたゆるやかに流れはじめていたのだった。
さるにても、わからぬのは道誉の心だ。
「高徳、そちはどう思うの?」
大覚ノ宮は語り終った。
そしてこの日、この二人も、やがて、院ノ庄を去って、もとの備前国へ帰って行った。
院ノ庄から西へ三日路で、
やっと
日野川の上流に沿い、日ならず、
「ああ、ここは早や」
外洋の風は荒かった。地蔵岬の一端に立たれて、帝はうたた、お眼をそばめる。
さもこそは
月日も知らぬ
我れならめ
衣更 へせし
今日にやはあらむ
帝には侍者の一名から「もう今日からは四月です」と聞かれたので、思わずお口をついてこの歌が出たのであろう。月日も都も、余りにかすんで、かえりみても、かえりみきれぬ。月日も知らぬ
我れならめ
今日にやはあらむ
御座舟、美保ノ浦に着き給ふ。かりに、この津 にありける古き御堂をもて、一夜の皇居となす。
とある、そのそしてここには、鎌倉の下知状によって、隠岐ノ判官清高が、帝のお身がらを引き継ぐため、大小幾十そうの船を艤して、早くから待っていた。
また出雲の守護、
折ふし、裏日本特有な波濤でもあったから、
「一両日は、風待ちせねば、渡海はなるまい」
と、
「さて。御警固の儀も、ここからは、それがしの手を離れて、隠岐の配所における一切まで、これなる清高が代って、朝夕、
と、警固引き継ぎの言上とともに、清高を、帝座の人々へひきあわせた。
侍者の一人、千種忠顕は、
「おう、そちが隠岐ノ判官なるか。行く末たのむ」
と、上で言った。
そこの濡れ縁からすぐの、小暗い一室には、
おそらくは、帝にしても「これから先、隠岐ノ島とやらで、
しかし打ち見やるところ、清高は四十前後の平凡な武者で、そう
のみならず、道誉とは同じ佐々木姓で、その祖も同じ近江源氏の定綱から六世の孫でもあると聞かされて、
「そうか。それや浅からぬ縁ではある。佐々木から佐々木の手に渡さるることならば」
と、一条行房も言い、物蔭にいた妃たちまでが、帝をかこんで、ほっといくらかは胸なで下ろした様子であった。
ここで船待ち三日。
いよいよ、帝以下、明日は美保ノ関を離れて島へ渡るときまった。
前日の夕である。隠岐ノ判官佐々木清高は、赤々と夕焼けに燃える船泊りの一
「万一の惧れもある。お座船は二つに分け、一そうには帝と典侍らだけを乗せ、公卿二人へは、べつな船を仕立てろ」
と、海上の警戒にもおさおさ油断なく、また
「お付きの女房方のため、特に
などと何かの指図に、忙しげな姿だった。
ところへ、道誉の姿が、岸の上から呼んでいた。
「おうい、隠岐どの」
「や、お
道誉は同族の
つまりここまでの護送使の大将に、佐々木道誉が選ばれて来たのも偶然でなく、幕府の人選、なかなか配慮のあるところだったわけである。
出雲の守護の塩冶高貞も、また、島の守護代隠岐ノ判官清高も、みな佐々木一族の分流なので、帝の引き継ぎや今後の連絡なども、すべて道誉を以て当らしめれば、諸事好都合と判断された任命であったのだ。
「お館、何ぞ御用で?」
「こよいは、お別れの宴。いまのうちに、寸時、最後の打ち合せを遂げておきたいが」
「お。すぐまいります」
「いや、わしから行こう」
なに思ったか、道誉はもう船板を渡っている。
「ちょっと、お顔を」
と、人のいない一艘の方へ、清高をさし招いた。そしてただ二人きりで、赤い夕波の
「隠岐どの」
と、何か道誉は、あらたまった。
「はっ」
「ご重任だなあ、これから先は」
「ぜひもございませぬ」
「察し入るよ。この道誉も、やっと肩抜けはしたが、しかし、これまでの道中では、いくたび
「覚悟しておりまする」
「いや、悲壮なご決意だの。しかし、
「ひとえに、よしなにお願いつかまつりまする」
「む。何事によれ、島便りは、いつも洩れなく、この道誉まで報らせておくが何よりだな。……それと、ここだけの話だが」
道誉はあたりを見廻した。
中央の実情にはまったく

塩冶高貞は、隠岐ノ清高よりずっと若い。が、この地方の現職では彼の方が上位だった。
清高は、隠岐の守護代にすぎないが、彼は出雲守であり守護職でもある。
「はて。ただ二人、あんな船の中で、何の密語を?」
彼は、おととい以来、道誉がとかく自分をよそに、清高ばかりを談合相手としているのが、気にくわなかった。
ひいては、両者の
「よし、そしらぬ顔して、こよいの
その宵は、三明院のうちで、心ばかりな別宴があることになっていた。
一夜明ければ、帝の御船は島へ。――道誉以下は元の都へと、立ち別れるのだ。
ほどなく、その道誉と清高も、連れだって来て、三明院に姿を見せる。また、千葉ノ介貞胤だの、小山五郎左衛門秀朝などは、おもな部将をつれて、すでにもう、庭むしろの上に、あぐらして居流れていた。
庭には
帝と妃たちは、そこの明滅のうちに、お姿を見せており、公卿ふたりは、縁にいた。
「三日の月が……」
と、忠顕は
武者たちも、仰向いている。都へ帰る者ですら、
「道誉」
一条行房が縁から呼んだ。
「お召しあらせられるぞ。近う寄れ」
「はっ」
道誉は、庭むしろを立って、そこの下にぬかずいた。後醍醐は心から彼に別れを惜しむふうだった。
「長の旅路を」
直々、ねんごろなおことばのあった末に、
「わけて、そちの肩など借りた、院ノ庄の花の一夜は忘れ難いぞ。覚えておるか」
意味ありげに仰っしゃった。
「なかなか忘れはおりません。生涯忘れることではございませぬ」
道誉は、答えた。
それから、お杯を賜わった。もちろん、彼だけではない、順次、千葉ノ介から小山に賜わり、隠岐ノ清高からさいごに塩冶高貞へも賜わった。
高貞は心の眼をくばって、終始、鎌倉の代官たる自分を
宴は、
その琵琶は、帝が六波羅におわしたころ、
ほどなく、
そのあとは、暗い浪音だけだったが、いつとはなく行宮の古御堂を抜け出て、裏の林のうちへ、すうっと消えこんで行った女性がある。
「……
すると、木蔭にうずくまって、さっきから彼女を待っていたらしい者が、
「はっ。高貞でございます」
と、同じような小声で答えた。当夜の宴も果てて人みな立ちかけた混雑間際に、高貞は、その小宰相からふと意味ありげな結び
かねて。
小宰相ノ局は、ほかの二人の妃とちがって、後醍醐とは反対派の現帝に仕える堀川大納言の
「小宰相さま。何か、かくべつな御用でもございまするか」
「そもじを、二心ない者と見て、頼んでおきます。明朝、御船がこの浦を離れたら、鎌倉表へ、すぐこの状を、飛脚して給わるまいか」
「おやすいこと」
と、高貞は、預かって。
「ご秘報でございますな」
「そうです」と、彼女は充分、高貞には信をおいているものらしく、彼には包むふうもなかった。
「――ここへ来るまでの、道誉の仕方には、道中
「あなたさまにも、ご不審が抱かれましたか。今夕もその清高と道誉が、海上へ出て、長いこと船で密談などしておりましたが」
「油断はならぬ。先々、島からも便りをしましょう。その
「こころえました。たとえ、隠岐の清高に、どんな異心がありましょうとも、この塩冶判官に二た心はございませぬ」
「やがて、小宰相だけは、都へ呼び還されることになっています。そのあかつきには、そもじの忠節を、朝廷から鎌倉表へも、よしなに披露いたしましょう。いわば出雲は隠岐の見張り口、抜かりのう、たのみますぞ」
彼女は、彼をのこして、やがて元の古御堂の一房へ、音もなく消えた。
その、
すでに、陽も昇る。
「
おしたくもすんだと見ると。
道誉は、さっそくに、
帝以下、お
あわれな、その一挿話というのは、こうである。
後醍醐のあまたな御子のうちに、
かの土佐に流された一ノ宮
「島とやらへ、わが身も、行きたい。島へ行きたい」
おん母の為子は、とうに世に亡いお人であったから、姫は孤独にたえなかった。侍女にせがんで、
かよわい足で、しかもはるかな旅を、どんな人々に付き添われて来たろうか。とにかく表向きは、
「先へ行った三位ノ局の
という
しかし、もとより姫のいたいけな願いが、かなえられるはずもない。
また親しく、父皇と会って、さいごのお別れを遂げたらしいような記録もない。伝説として残っているのは、米子市附近の安養寺にある五輪ノ塔だけである。
所伝によれば、身の孤独と、世の
「
――元弘の初め、世の乱れ侍 りしに思ひわび、様など変へけるよし聞いて、瓊子 内親王へ申しつかはしける
と題して、
いかでなほ
我れも浮世に
そむきなむ
羨 ましきは
すみ染めの袖
と、贈られたのに対し、瓊子からは、その我れも浮世に
そむきなむ
すみ染めの袖
君はなほ
背 きな果てそ
とにかくに
定めなき世の
さだめ無ければ
と、こたえられた二首なども見えるが、果たして、いつ何処でというようなことまでは、明確ではない。とにかくに
定めなき世の
さだめ無ければ
ただ、はっきりいえることは、その朝四月の初め、美保ノ関を離れた船上における父皇の万感のうちには、瓊子のおもかげも、ふとお胸には
しかし、この父皇には、余りに、かえりみる恨事や、未来夢が、多すぎている。いたいけな一姫ぎみだけへ、そのおん涙は、
むしろ、かすみゆく出雲の岸や、
「きっと、帰るぞ」
と、ひそかな誓いを、その
大船二十四艘、小舟共は、数も知らず、遥 かに押し出すほどに、いま一霞 、心細う、まことに二千里の外の心地もする……。〔増鏡〕
かくて、後醍醐は、絶海の孤島へ、追いやられた。佐々木道誉以下、これを見とどけた一軍は、即日、元の道を、急ぎに急いで、都へ向って帰っていた。
都では、さきに幕府が立てた新帝(光厳帝)の御即位をいそぐと共に、年号も、この四月二十八日をもって、
正慶
と、
改元は、
なにしろ、隠岐の後醍醐も「退位する」とは決して仰せ出てないことである。
で宮方の者は、こんどの改元を無視して、いぜん元の“元弘二年”を通して行ったので、ここに、一
けれど、時の流れの遠い行先は、誰にも見えない。この四月の新緑が、またたくして紅葉になるまでの、わずか半年先の変化すら予想してみる風はなかった。
ひたすらに、新朝廷を
「さぞかし、今年は加茂の
「本院(後伏見)、新院(花園)
家々では、物見車の塗りかえをさせるやら、女たちは女たちで、晴れ衣裳を拡げ出しては、藤、山吹、卯の花、
もし、時の大河の外にいて、大きな
ああ、魚に河は見えない。
無知でそして
と、
× ×
「さて。やっとこれで」
と、佐々木道誉は、水を得て泳ぎ出したように呟いた。「……これで自分の身には返ったものの、しかし、どうやら心はゆるせぬぞ」
たった今、彼は、六波羅ノ庁から馬上で出て来た。
すでに、彼が大任をおえて、帰京したのは、かれこれ十日も前だった。しかるに、私邸に戻る儀はゆるされず、そのまま禁足の
そして、鎌倉の指令が、やっと今日、探題の許へとどいたものと見える。
「一応、ご帰館はさしつかえない。しかし、再度のお沙汰までは、自邸において、
という命なのだ。
何か、旅先の処置が、鎌倉の嫌疑となったにちがいない。道誉には、もちろん心あたりもある。
だから
「かしこまり奉る」
と、いま庁を馬上で出て来たのである。いささかの不平も昂奮もしていない。
「
口取りの民谷玄蕃に、彼は急に、道をかえさせていた。
この辺。
昼ほととぎすの声ばかりだ。
道誉は、羅刹谷の下に馬を止めて、
「なるほど」
ひっそりと青葉若葉の積み重ねられた一つの峰を、ややしばらく仰いでいた。
ひと頃、ここにいた足利高氏も、また、在京諸大将の大半も、もうあらかた、関東へ引揚げ去ったとは庁でも聞いていたのだが、なんとなく、来てみたかったものらしい。
「あの小右京も、高氏に連れられてか?」
それも眼で見届けたい一つであったが、ほかにも、彼は高氏にたいして、旅行以前に、ちと複雑な復讐を
帰京いらい、気に病まれていたのである。「やはり彼とは将来、手を握って行かねばまずい」という見地からだ。
「こんどの旅で広く見わたしても、高氏ほどな男は、まず見あたらん。未来の運を
主人の道誉が、鎌倉の
「おお、ご帰館だ」
「おつつがなく」
と、つたえ合うやいな、その夕は、家中初めて、眉をひらいた色めきだった。
道誉は、一同へ酒を振舞った。そして留守をねぎらい、長途の供をした将士にも、それぞれ、手当など分け与えたが、
「しずかに飲めよ。まだ、身の嫌疑は晴れたわけではない。これからも当分、道誉は謹慎の身、いずれ鎌倉表から、何かのお沙汰があるまでは」
と、自身はおくへひき
こうして、佐女牛の屋敷は、加茂の祭が過ぎても青葉に深く門を閉じて、一切の訪客を謝し、もちろん、道誉自身は一歩の外出もしていない。
「殿」
留守をつとめていた腹心の早川主膳には、主人が何で鎌倉のご不興を
「察するに、何者かが、先ごろの旅先から、鎌倉殿へ
と、主人の胸へ、自己の不満をたたいていた。
「うるさい」
道誉は、昼の酒気を、青白く眉にみなぎらせた。
「もういうな。
「は」
「弱ったぞ、ちと
「逸まッたとは」
「例の女のことだ」
「藤夜叉のことでございますか」
「それよ」
と、道誉は杯も手に忘れたまま、しばし、その煩悩を、うつろな顔に描いていた。
「おれの、旅の留守に」
自分の痛い部分へ、自分で触るように、道誉は口しぶりながら、主膳へ訊き出した。
「藤夜叉……。どうしておいたな。どんな風か」
「は。ご出立の前に、密々、仰せつけおかれたように、抜かりなくしておきました」
「抜かりなく?」
よくしたとでも賞めることか、道誉は言った。
「ふウむ。そうか。……だがあのさい、何とそちに、いい残して行ったかな?」
これには主膳も、あいた口がふさがらない。
もっとも、あれは三月七日の直前だった。
先帝護送の大役をおびて、都を立ち出るまぎわでもあったから、主君道誉のあたまも、何やかや、大変だったには違いない。
しかし、である。
そんな大変な中ですら忘れずに「きっと、しておけよ」と、命じられたことではないか。
で、主膳としても、思い切った御命令とは思ったが、主命モダシ難シ、であった。非道な行為と承知のうえで、主命を果たしていたのである。
その日、
かねがね、藤夜叉を
おそらく、
「殿。……今となって、なぞ俄なご後悔でございまするか」
主膳は、不服の余り、言いつづけた。
「後はかまわん。たとえ、足利と喧嘩になろうと、こちらにも文句のあること。おもしろい懸合いになるぞとまで、あのさいは、きつい
「さればよ、理窟はないでもない。元々、藤夜叉は当家が抱えていた
「いや、殿には、高氏が小右京を奪うなら、小右京の代りに、藤夜叉を……との烈しいお怒りであったように存じますが」
「それもあったな」
まるで
「まったくは、その意趣だった。しかしな……主膳、藤夜叉も今では、ただの田楽女とはわけが違う。高氏との仲には、子さえもうけている女。そうだ、子の許へ帰してやろう」
「えっ、せっかく理不尽をしのんで、ここへ取り
「そうだ、家来を付けて、三河一色村へ送り返してやれ。じつの所、女苦労など、うるさくなった。藤夜叉にもはや
「ほう? ……では」
相手は主君である。腹を立てられぬ腹いせに、主膳はそのあきれた顔を、わざと大げさにしたものだった。
「殿には、全く藤夜叉に、ご執心はないものなので?」
「ない」
道誉は言い放ってから、
「いまは執心というほどでもない」
と、少し濁した。
「これは、意外な」
「なにが意外だ。藤夜叉にしろ、小右京にしろ、
「それや、仰っしゃるまでもございませぬが」
「……とすれば、
「ならば、もう主膳などが、何も申しあげる儀はございません」
「いいか。さっそく、藤夜叉の身は、一色村へ返してやれよ」
「が、その前に、お会いにもなりませぬか」
「そうだな?」考えこんで、
「やはり、いちど、なだめておかねば、まずかろう。こちらの乱暴も悪かったと」
「しかし、高氏の方にも、胸に覚えがありましょう。乱暴は五分と五分です」
「まあよいわ。とにかく、明早朝、従者四、五名付けて、三河まで送ってやれ。……そして、そうだな、夜食の折、山吹ノ亭へでも連れて出ろ」
池の向いに、井出ノ山吹を写した
ここのところの謹慎中も、彼は蓄えの
池には、
藤夜叉は、痩せていた。
「……えっ? では明日、三河へ帰してくださいますか」
彼女の身は、陽当りのわるい一室に、二人の老女の監視のもとに、道誉の留守中、軟禁されていたのである。
なんで、こんな理不尽な目にと、日夜、怨んでいたが、今は、
「ありがとうございまする」
と、早川主膳の前では、つい涙ばかりだった。
「いずれ、くわしいことは、殿からまた」
主膳は、すぐ去った。
主膳にすれば、何ともここは不面目な立場である。しかし、彼女はそんな彼を責めている眼のいとまもなかった。ただもう、
「不知哉丸はどうしていやるか。ともかくも、ここを解かれて、帰ることさえ出来れば」
と、それだけで、胸はいっぱいなのだった。
そして、明日の旅支度から、夕化粧まですました頃、ふたたび主膳が姿を見せ、彼のあとに、みちびかれていた。
「では、手前は退がりますが、殿が
道誉は、湯上がり姿であった。
白い
「蚊が入る」
手の唐団扇のうごきは、そのためらしい。早い季節の蚊が、どうかすると、プーンとかすめる。
「藤夜叉、後ろを閉めて、こっちへ寄れ」
「久々だな」
藤夜叉は、自分の膝の痩せを、見つめていた。口惜しさも、二重である。が、耐えることしか、ここでは胸に持てなかった。
道誉の領下、近江の
「ご領主様」
としていたものが、どうしても、いまだに、どこかの恐れにある。
それに、いまでも当時の一座の衆や、義父の花夜叉は、この人の
「非道な人、悪魔のような
「主膳から聞いたか」
「はい」
「悪かったの」
「…………」
「昔は昔、いまは足利殿と、子まで
「…………」
「怒るなよ。これには、仔細もあることだった。とはいえ、ふた月の余も、そなたを押し込めおいたなどは、言語道断」
まるで、家臣の
「家来どもはいつまでも、そなたを昔どおりな、わが家の抱え田楽と思い誤っているらしい。それがつい、間違いの
ともいって、いたわり抜く。
白々しいとは憎みながらも、憎み切れぬ程なやさしさに、いつか、藤夜叉も、ややなだめられていた。その上、伊吹の昔ばなしだの、不知哉丸のことなどを、問い出されると、女ごころは、つい、恨みを、
また。ここには酒もない。見えるのは、茶具、香炉、
やがて、灯を見たので、彼女が退がりかけると、
「いやまだ宵だ。せめて夜食を共にしてゆけ」
と、道誉はとめる。いつか自身で自身を持ち迷っているらしい。
昼には、酒が入っていた彼だ。それからの夜膳の酒に、道誉はまた、べつな美味さを追いはじめた。もう藤夜叉が、立とうとしても、立たすことではない
「もひとつ」
と、
「なぜ、うけぬ」
と杯を
こうなると、その酔眼には、女の美が、ただの女体としてのみ映ってくる。彼にある是非ない残忍なものが、しきりに杯を吸い、また藤夜叉の
藤夜叉は、身をずらせた。少しずつ、後ろへと。……そして、女が女の身をまもるときの
「はははは。藤夜叉」
急に、道誉は
「思い出すぞ」
しかし、もう
「そなたが、そうして見せると、一そう伊吹の頃の小娘がこの眼に
「…………」
「あとで聞けば、あの頃すでに、そなたはたった一夜の客の高氏に、身をまかせていたのだそうな」
「と、殿」
「高氏の噂はいやか」
「い、いいえ。もう、おいとまを。……
「まだ、朝には間がある。三河へ返してやることはきっと返す。いまは子持ちの女、一生側におくとはいわぬ」
「仰っしゃるとおり、子が待っておりまする。それを思うと」
「身も世もあるまい」
「それまで、ご推量のくせにして、余りといえば、ご無態な」
「無態、理不尽。すべていわれなくても心得ておる。だが藤夜叉、よっく胸に手をあてて考えてみろ。そなたも悪い」
「な、なぜでございまする?」
「いかなる女も、ままにならぬ女はなかった。伊吹ノ城でも、この都にいてさえもだ。ところが、自分の召抱えている
「おゆるし下さいませ。もう遠い前のことなどは」
「むむ、いつまで、こだわッていたくもない。けれどおれと高氏とは、なぜか女のことでは、ふしぎに妙な宿敵の巡り合せになってくる。それには男の意地も手伝う。……いや、そんなことは聞かすにおよばん。おれはどうしても、いちどはそなたを、ぞんぶんにする。せずにおかぬ」
「…………」
「ややもすれば、この
「……な、なにを、仰っしゃいます。いくらむかしのご領主とはいえ」
「ばかな」
するどく直って。
「領主。そんなものを鼻にかけて、誰が、かほどに手間をかけて女を口説くか。そなたの養父、花夜叉の一座にしろ、以後も変りなく召抱えているのをみても思うがいい。道誉はただ男としてだ」
「あっ。たれかッ」
彼女は、妻戸へ肩をぶつけた。
しかし、道誉は見ていた。あわてて
そこが開かないのを承知だからでもあるが、なぶるほど、狂うほど、また悲しむほど、女の美が増すのを知って待つかのような、彼のいわゆる男根性なのだった。
そこの物音は、すぐ止んだ。と共に、灯も消えている。
おそらく、侍部屋の一つにまだ起きていた早川主膳は、池向うの
「……?」
が、もちろん、彼は近寄らなかった。
ただ、離亭の辺の、黒い山吹の茂みと、さざ波もない池水を見まもりながら、ほっと、自分の気の弱い
何がそこで起ったかは、主膳でさえも、怪しげな想像図に
「……ひどいことをなさるもの」と、主君の獣欲ぶりに舌を巻く。
いや主君の好色は驚くに足りないが、その
主膳は立ちしびれた。
けれど、いくら
すると、ほどへて、
「おや?」
とつぜん、彼は庭をななめに走って、池尻の木蔭に、身をかがめていた。
「……藤夜叉か」
彼が耳にしたのは、
「殿っ……。殿。何事かこれにございましたか」
すると、暗い中で、道誉が、ものうげに言っていた。
「主膳か。……眠たい。
キラと、室内から氷の欠けみたいな物が、主膳の足もとへ飛んで来た。
主膳が拾い上げてみると、それは
つづいてまた、道誉の声で、
「……塀は高い、門には寝ずの番がおる。藤夜叉も朝になれば、庭のどこからか、泣き顔を拭って姿を見せるにちがいないのだ。そしたら、そちがまた、ようなだめて、こんどは本当に三河まで送ってやれい。もう用事はすんだ。明朝は、あいさつにも及ばぬぞ」
そう聞えたと思うと、道誉はもう、
自分はなかった。ただ生きようか死のうかと、闇のかぎりを、走りつづけている息のくるしさだけがある。
だからこそ、あの佐女牛の邸の高塀もやすやす越えられて来たのだろう。木へよじ登り、
走るうちに、
「死んでしまえば……」
川音は彼女を少しおちつかせた。
帯もせず、肌着に下紐だけだった。田楽村の野性な一少女頃の潜在を、道誉の野獣の爪にかきむしられて、はしなくも、その本質が彼女の血に
「……畜生」
と、彼女は風に唇を噛んだ。それは足利殿の
でも、高氏のことだけは、
「殿に合わせる顔はない」
と、胸に忘れず、そして、
「……子のある身で」
という辱に、体じゅうを
元々、田楽親方の花夜叉が、人買いから買ったか、親なし子を貰って来たかして、とにかく、一座の花形にまで、育てて来た藤夜叉なのだ。教養のありなしをここに問うなどは無理である。彼女は生れただけの女なのだ。……ただ天性の美と踊りの妙技だけを持っている。
今、思えば。
高氏はそんな彼女を、つい、自分たちの社会へ引き込む
そもそもは、子を生ませたことが是非ない方向をとらせたのだが、その後悔から、高氏は彼女を鎌倉におかず、またその生みの子も、嫡系に入れ得ずにある状態なのだ。わけて人知れぬ大望を抱く高氏にすれば、彼女の無教養が、未来には逆な不幸にならぬかぎりもないことは、ふかく
しかし、こんどの
× ×
一条ノ末、相国寺裏の裏町。
どこ一軒、起きている灯もみえない
「たいへんだよっ、誰か来ておくれよ、人が死ぬよ」
と、わめいていた。
ほど近い吉田山の法師の庵から、いつものように、ほかの
「なに。女だって」
「身を投げたのか」
大人たちは、彼らの後から、わらわらと駈け出した。河原には、ほかの子らも騒いでいる。たった今、加茂の早瀬へかけて、女の姿が、浮きつ沈みつ流されて行ったと言い騒ぎ、
「こっちだ、こっちだ。こっちに見えたよっ」
少し
京の吉田山には、命松丸ひとりを留守において、
「ちょっと、お
と、
だが、うさんな旅法師とでも見られたのであろう。門の小者は、奥へ取次いでもくれなかったし、それに不平顔もせぬ兼好もまた、
「いや、べつだんな用事でもござりませぬ。お
とのみ、
それと、あとで聞いて、
「なぜ、ひと言、わらわにまで取次いではくれなかったのですか」
と、
「それは、惜しかったの」
と共に
「まあ。またいつか、お目にかかって、おわびをする時もあろうよ」
と、夫妻は忘れることにして過ぎた。
ところで、小馬田は、伊賀山中の一庄で、服部家はこの地の小領主なのだった。
元成は、いちど武士を捨て、家も勘当の身だったが、養父の死後、呼び返されて、ぜひなく、当主の跡目をついでいた。でもなお、妻の卯木も彼も「――どうかして武門の外に」という初志は変えないものの、事情はそれをゆるさない。
去年の
そして、そんな中での小地主の服部家も、表面、どっちつかずに命脈を支えているが、しかし妻の卯木とは切ッても切れぬ楠木家との関係から、じつは、赤坂落城以後の楠木家には、この家こそが唯一の“たのむ木蔭”となっていたのである。
一時、都あたりで、
「正成死せり」
と沙汰された頃も、当の
それだけではない。
なお今年になっては、
もういうまでもないが。
二月頃からこの小馬田へ来ている容易ならぬ“滞在客”とは、その正成の家族なのである。つねに良人の居所さえも知れないうえ、幼な子三人を抱え、わずかな家臣らと共に、これへ身を寄せていた久子以下の、亡命の
すると、この四月中旬となって。
その者たちの上に或る吉報が、河内から聞えて来た。
それは、正成の弟正季から来た密書のうちに見えた消息だった。
文意は、ざっとこうである。
およろこび下さい。下赤坂の一城は、やっと先頃、われら郷党の手で奪 り回 しました。
従って、もう金剛のお住居にも、ご不安はございません。
さだめし多聞丸 たちの幼い者も帰りたがっておりましょう。
近日、お迎えとして、正季が兄に代って参 じますから、諸事、お物語りは、そのせつに。
「従って、もう金剛のお住居にも、ご不安はございません。
さだめし
近日、お迎えとして、正季が兄に代って
久子は、これを読むと、室に坐っていられなかった。
すぐこのよろこびを、爺の恩智左近へもと、呼んだのだった。
「なんです、母上」
声を知って、すぐ庭に見えたのは、多聞丸で、
「爺ならいま呼んで来てあげる」
と、すぐ裏山の方へまた駈け去った。
どこにいても、多聞丸だけは、居る所にひとり楽しんでいる。その姿は久子の救いでもあったし、今日までは、いつも涙をせぐられる一つであった。
彼女は、爺の左近や南江正忠などに、消息を告げ、晩には、
「おかげでした」
と、これまでの庇護をふかく謝した。何といっても、故郷に帰れる、良人にも会える、そうした女心は、つつみきれない。
「けれど、どうして、いちど幕軍の手に落ちた赤坂城が?」
と、元成には、俄に信じられない容子もあった。
それは久子に付いている爺や南江正忠なども同様に、多少な疑いを覚えていたが、やがてそれから数日後、楠木正季の一隊が、彼女たち
「やはり
と、一切は解けていた。
正季の話によると。
鎌倉方の湯浅定仏は、赤坂の焼け城を修築して、そのあとに入り、それもほぼ
この情報をえた正成は、どこからか姿を郷里にあらわして、近郷にひそむ残党を
「抜かるな」
と、その夜、赤坂へ向う兵糧運搬の人夫数百人を、途中で不意打ちさせたのだった。
すべてを奪い、即座に、味方の大部分が人夫の姿に化けた。また兵糧
城兵は「すわ」とばかり打って出て来る。正季たちの少数は、これを城外で迎え討つ。
そのすきに、城内では、すでに入り込んでいた人夫姿の味方が、ぞんぶんに暴れ廻り、内外呼応して、難なく、改修されたばかりの赤坂城を手に陥れ、湯浅定仏以下の敵は、いのちからがら和泉の自領へ退散してしまった――というのである。
「ですから、いまは金剛山の
と、正季の意気は高かった。
正季の迎えの兵に、久子付きの恩智左近以下を加えると、人数は百人からになる。
服部家の朝は大混雑だった。幼い多聞丸や二郎丸なども、
「河内へ帰るの?」
と、わけもなくただ、はしゃぎ廻った。
疎開先から、もとの
「では久子さま、おすこやかに」
「お。お
久子は、輿から顔を出して、なお、祈るように言った。
「ここだけは、いつまでも、平和な山里でありますように。そして、よい
まもなく、人数は小馬田ノ庄を立った。伊賀の山々をうしろに、名張街道を初瀬の方へ
伊賀から河内の金剛山へは、桜井や
しかも、時局の争乱などは、全く、どこに在るかのようだった。――衰亡は末梢から枯れるというが、北条幕府の過敏な神経もここらにはほとんど見えない。
途中では、万一の変も覚悟していた正季だったが、旅はつつがなく、やがて四日目の昼、金剛山に帰り着いた。
頂上の
けれど、久子は何となくまだ
「わが
そっと刑部へ訊いてみた。
「おう、正成殿にも、そのうちお見えにはなりましょう。ここしばらくは、妻子の顔も見られぬと、仰っしゃってではござりましたが」
「では、麓ですか。赤坂のお城にでも」
「いや、いや」
刑部は
「赤坂を
「今は」
「密かに、摂津の天王寺辺に、出ておられるかと察しられまする。おん方やお子たちの無事を、すぐそこへ早打ちして、ご安心にそなえましょう。……何ぞ、ついでに、奥方にも一ト筆お便りをなされませぬか」
刑部は、
しかし、久子は筆をとらなかった。良人とは、かねて誓っていたこともある。――帰っては来たけれど、ここは良人が骨を埋めるといっていた戦場だった。一族、赤坂へたてこもる日、
「幼い者も、みな無事ですと、それさえお告げ給われば」
彼女は、そこから少し降りた
が。ここは金剛山の八合目だ。なんの
金剛山の上に近い小部落は古くからあったらしい。
“
谷、深きこと、東百丈、西七十五丈、南北もまた嶮 し。
ただ東南の間に、ほそき一径の坂路 を見るのみ。元弘の年、廷尉正成のおこす所にして、南河内十七城の根城 となす。〔河内志〕
毎日毎日、雲の中に聞えるとどろな山鳴りは、すなわちこのただ東南の間に、ほそき一径の
地相は、ひと目にも、
と、うなずかれる。
ここに、正成はいつのまにか縄取りしていた。
それも麓の赤坂に、湯浅定仏の軍が入りこんでいた間は、彼も姿を見せず、土木も中絶されていたが、さきごろその湯浅勢を追い出して、元の赤坂城を奪回するやいな、急速にまた工を起し出していたのである。そして、五月に入っては、いよいよその築城も目に見えてすすんでいた。
時々、四山のしじまを破ッて、大石が谷へころげ落ちてゆく。巨木が
「おおういっ」
どこかで、さっきから、上へどなっている者があった。
「正季どのは、そこか。正季どのは、おいでないか」
しかし、彼方の音響は、何百人もの声を交じえ他念もない。彼は、呼ぶのをやめて、一つの坂道を
彼は、摂津から来た正成の伝令だった。その指令の結果にちがいない。
まもなく、正季は、多聞寺の内に、久子をたずねて、
「兄正成殿から、火急、軍勢をつれて、四天王寺へ参会せよとの、急命がございました。留守もしばらくの間です。ここはお動きなされますな」
と、暇を告げて出て行った。
千早、赤坂のほか、国見、猫背山、
「何かは知れぬが、戦機らしいぞ。四天王寺まで、夜を通せ」
と、当日のうちに、河内野を西へ、一陣、急ぎに急いでいた。
そして、真夜半すぎ。
平野街道へかかると、南の
「敵か?」
相互が
これまでには、六波羅の川番所や、鎌倉方の地頭領も当然、駈け抜けていたわけだから「すわ」となったものである。
「
正季が言ったとき、彼方の隊からも一人出て来た。
味方とはそれですぐ知れた。
彼らは、奥大和に散在している宮方の郷士たちの由で、
「楠木殿の御陣に加わるため、馳せつけてまいる者」
と、それぞれ名のる。
このほか、同夜をさかいに、各地から四天王寺へ急いだ兵は、なお大小幾十組となくあった。
まだ「大坂」という地名はなく「
秋ノ坊は、
四天王寺
とも呼び、大昔の
「……では、これで」
正成は今、そこの奥を辞して、外へ出て来た。
そして送って来た後ろの者へ、重ねて、
「もう、おひきとりを」
と恐縮して、立ちどまった。
別当職の一人であろう。彼はそこでも、正成にむかって、厚い礼をくり返し、
「ご戦勝を祈っておりまする」
と、心から言った。
「ありがとう存じます。ただ、ご加護を力に」
二人は、立ち別れた。
もう
こんな武装で、彼が別当職を訪ねたのは、初めてなのだ。――それ以前から、摂津に来れば、ここに寝泊りもし、わけてこんどは、二十日も前から、天王寺村
「どこの田舎武士」
と、人もかえりみぬ風采を常としていた。
だが、先ごろから彼の潜伏していた
そこで、今はと、正成は公然、武装し、彼らにも武器を取らせたものだった。
六波羅にいわせれば、かかる人間どもは、ことごとく、不逞、浮浪の
一つ心の残党
だった。
笠置、赤坂の惨敗や、後醍醐の流離を見ながらも、なお初志を変えずに、地下の合言葉をつたえ聞いて、集まって来た者どもなのだ。
そして、ここに彼が、戦略上の一つの
でも彼は、作戦上、ここを橋頭堡の地と選んだが、四天王寺の
「おお、おやかた」
老臣の
ちょうど正成が東門を出てきたとき、正季の着到が、彼からこれへつたえられた。
「了現」と正成は歩みも止めず「正季はいま着いたのか」
「は。意外にお早いことでした」
「さすがだな」
弟らしい、と正成も思った。夜をとおして来たなとも察しがつく。
「兵は、どれほど連れて?」
「着到帳に、三百二十七名とお
「では、河内の留守の者、あらかた
「ほかに、奥大和の者ども、八十余名も、同時に着陣しましたので、また新たに四百余名を加えたことに相なりまする」
「そうか。……すると、現在の総数は?」
「お待ちください。ここ連日、増加しておりますので」
と、安間了現は、よろいの袖から、
五月十一日 着到
和泉党 百四十六人
金剛寺僧 九人
散所衆 四十五人
十三日深夜
備前国ヨリ帰参ノ衆
島々ノ海上衆
合セテ二百二十人
十四日
吉野郷士、高野僧
三十八人
「了現、もうよい」和泉党 百四十六人
金剛寺僧 九人
散所衆 四十五人
十三日深夜
備前国ヨリ帰参ノ衆
島々ノ海上衆
合セテ二百二十人
十四日
吉野郷士、高野僧
三十八人
「は」
「ざっとの数でよろしいのだ」
「ご本陣の数、ご舎弟の兵など、すべてを合せ、はや二千に近づいておりまする」
「充分だ」
正成は足を早めた。そして四天王寺からすぐの夕日ノ岡へその姿はのぼっていた。
そこの
正季もまた、兵は遠くにおき残して、彼一人、やがて安間了現にみちびかれて、愛染堂の兄の
こう会うことも、兄弟ながら、たまたまらしく、会うと、話は尽きない様子だった。
まず、正季からは。
千早の
「みな、元気でおります。それに河内の領民どもも、よく
と、告げた。
しかし正成は、弟のいうが如くには、諸方面とも、楽観していない面持ちだった。これは正成の持ち前というしかない
「正季。じつは一戦の所存をきめたぞ。あぶない
「いずれはと、覚悟して
「京、六波羅はようやく手薄。ここらで、諸国の同志を意気づけるため、一度、のろしを打ち揚げておかねば、せっかくな気運も、一時だけで、
正成は、なお言った。
「……が正季。一戦はのろしにすぎん。君(後醍醐)は隠岐へ流されても、われら宮方はなお健在なりと、それが諸州へとどろけばいいのだ」
「わかりました、よう、ご意図のほどは」
「無二無三、勝とうとするな」
「さりとて、負けてもならず」
「勝ちに
この日あたり、六波羅軍が、すでに京を発し、
天王寺を中心とする
もともと、聖徳太子の草創になる四天王寺は、ただの殿堂仏教の道楽ではない。この低地帯にむらがり住む貧者のために考えられた社会救済を、
中央の
けれど、その機能も、源平の世頃にはすでに見られず、わけて鎌倉治世も
「やっ、貝の音だ。丘の愛染堂で、貝の音がする」
「それっ、大江へ行け。ご合図だぞ」
その夕は、人間どものうごきに、夕鴉も声がなかった。不気味なほど赤い雲の下を、
「陣触れだぞ」
「おういっ、大江へ出ろ」
と、触れ合いながら、そこかしこの、散所部落の路地や辻から駈け出して行った。
かれらの内には、宮方の残党とみずから称するしかるべき侍もいたが、多くは、食うために、さしずめの職のつもりで、この一ヵ月ほどの間に
しかし、愛染堂の上に見える菊水の旗は、ゆるやかに今、夕日ノ岡を西へ降って行き、一心寺や住吉街道の方面にもまた、幾旗ものおなじ旗が見られた。そして、それらは
五月十七日の未明。
六波羅の軍勢四千と称するものが、尼ヶ崎、神崎、
はじめ六波羅では、
「天王寺
と、聞いても、さしてはと、
「楠木が
と知るにおよんで、一驚を
「楠木が都へ攻め入ってくる」
などという声まで
大江は、名にしおう
大江の岸に宿りして
雲井にみゆる
生駒山かな
おそらく、ここの渡辺橋というのも、当時の大橋でこそあれ、こころぼそい板を敷きならべた
「うかと、こえるな」
隅田、高橋の二将は、味方の大軍にほこらなかった。敵を見くびらなかった。というよりも、時は五月の雨期である。大江の水かさと、あやうげな渡辺の大橋を
「だが、三河どの」
と、藤内左衛門は、数日すると、しびれを切らした。
「敵はどうもたいした数ではないらしいぞ。聞くほどもない陣容だ」
「どれほどと見る?」
「三百か。四百はこえまい」
「隠し勢ということもある」
「それは当ってみねば分らん。が、この河幅だ、遠矢はきかぬ。さりとていつまで、こうしていたら、あとから来る味方にも、何していたかと
翌日、賞を
「われと思わん者は申し出ろ」
と、陣頭
そこでその決死の一組をさきがけに、渡辺橋を駈けわたらせ、敵中へ斬りこませたのである。悲壮な景だった。もちろん、彼らが橋上にいたるやいな、対岸からは、矢の雨が集中した。
だが、すでに、
「おお。ヘロヘロ矢」
「この
と、彼らは、敵を呑んでいた。むらがり寄る橋口の敵もたちまち突破した。そして、敵陣営の防柵の近くまであらしまわったが、ほどなく味方の
「奴らは、暴民です」
口々の答えは、一致していた。
「旗や弓道具を持つだけで、装いなどは、揃っていません。察するに、掻き集めの散所民や、浮浪の徒が、数の大半以上かと思われまする」
ちょうどまた、和泉、河内方面からの偵報も、その日、北岸の陣に入った。
だが隅田、高橋の二将は、
「いよいよわからん」
と、
楠木勢はおよそ六、七百。
と告げるのもあり、千をこえるといっているのもある。
また主将の楠木は、ここに見えず、という観察と、正成一族のほかは、
「いずれにせよ」
と、高橋三河守は結論を出した。
「まちがっても、敵は千前後、味方は五千。しかも、敵は烏合の浪民だろう。味方の装備や精鋭の比ではない」
ここで総攻撃の肚はきまった。
作戦も。
高橋の手勢は、橋上を押してゆき、隅田藤内左衛門の一勢は、水馬隊を編成して、橋下を泳ぎわたる――となって、前夜の北岸は
むろん南岸の楠木勢も、これを無関心ではいまい。それかあらぬか、大江の水をへだてた彼方には、いつもより赤い、そして数も多い
いざ、来い。
と、
五月の
東国勢には、伝統的に馬自慢の武士が多いのである。暁の下に彼らは遠い祖先の宇治川先陣を、今朝の自分に
きれいである、血を見ぬうちは、うごく絵巻のように美しい。
だが、水馬の馬陣が、矢ごろの距離に入るやいな、
「あッ。――」
もう
「伏せろ」
「
「よろいの袖を深く
まるで、夕立のような矢の中だった。多くは、眼をつぶっていたのである。かぶとの脳天には何度となく
「よしっ」
頃を見ていた
ぜひもない。見るまにばたばた、仆れてゆく。
あとはわっと逃げ崩れる。
隅田勢は一気に追う。敵のかばねを踏みこえ踏み越え、すでに全軍は、大江の南を、水から揚ッた水馬隊と共に、遠く敵を追っかけ出した。
ところが、そのあとの渡辺橋の上では、死んだはずの楠木兵が、あらかたムクムク起き出していた。そして手当り次第、そこらの橋板を
作戦は図に
隅田、高橋らの視角と心理の錯覚が、すべて正成の構想によるものだったのはいうまでもない。
だがなお、敵を思う地点へおびき込むまでは、正成の本隊以下、辛抱づよく、天王寺附近に旗を伏せていたのである。
「これはおかしい」
逃げる楠木勢を追いまくして来た藤内左衛門は、阿倍野の辺で、やっと気づいた。
「おおいっ、三河。ちと深入りだぞ。この上どこへ」
折ふし、南へ駈け飛ばしてゆく高橋三河守を見かけて呼ぶと、高橋は彼方で、
「隅田か。あれ見よ」
と、指さした。
「住吉に敵の旗が見える。
「おうっ、こころえた」
どうしたのか、先に住吉へ突進していた高橋の騎馬隊が、味方の歩兵のうちへ、
が、じっさいには、菊水の旗が見えた所に敵はいなかったのである。正成の弟正季、一族の
「今ぞ」
という正季の一令をべつな所で受けていた。
住吉ノ浦へつづく小松大松の密生している乱松地帯は、道があって道がなく、一種の迷路といっていい。
「やっ、敵は後ろだ」
「いや横だ」
高橋隊の逆行を見て、
それは、
と同時に、正成の本隊も、天王寺附近から、鼓を鳴らして起っていた。――そう気づいたときは、一つの兵法の図式が、いつのまにか、
この命題は、やがて、大江の渡辺橋で解決された。
「返せ、返せ」
われがちに、
真ン中の橋板が、所々、剥がされていたのである。
ころぶ。抛り出される。その上へ、後から後から積み重なる。溢れて河の中へ落ちる。
しかも、楠木勢の全力は、その機に、後ろから
世にいう「渡辺橋の合戦」では、六波羅勢がよほど派手な敗け方をしたことは疑いない。
けれど、いかに正成の“
ただこの大敗の責めで、隅田、高橋の両将が、六波羅を出仕止めとなったなどは信じられる。ほぼそれほどに損害も大であったには違いない。
わたなべの
水いかばかり
早ければ
高橋落ちて
隅田 ながるらん
都では、水いかばかり
早ければ
高橋落ちて
「宮方の残党は、まだ根強い」
となす印象を、
やっと、先帝の島送りもすみ、加茂の祭りも終って、まだ残務も多いが、
「ひとまずは」
と、ほっとしかけたところなのだ。
もっと、いけないことには、鎌倉の命で、すでに在京の諸大将あらましは、関東へ引き揚げ去った後なのである。
「誰をば次の、楠木追討の二陣にさし向けるか」
となると、これぞと思う大将もいない。常備の六波羅直属もいるが、ここを
「ばかな!」
宇都宮
ちょうど、べつな用向きで、上洛中だった彼は、評議に出ては見たものの、腹が立ってたまらなかった。
「楠木なぞとは、かつて東国では聞いたこともない。それしきの者に騒ぎ立って、いちいち鎌倉殿へ早馬を立て、ご軍勢の上洛を仰ぐほどなれば、いっそここの両六波羅などは、廃した方がましではないか」
宿所へ帰っても、客をつかまえて、広言を払った。
「楠木が強いのではなく、隅田、高橋らの兵略が
そこで、客が言った。
「もし、御辺なら?」
「この首をやるか、楠木の首を持ち帰るまでのこと」
しきりに、こんな大言を吐くのが聞えて、その反感から評定所でも、彼への酷評が露骨だった。
「公綱こそは、虚勢を吠える。手勢を連れた上洛でないゆえに、ああいえるのだ。もしほんとに討手を命ぜられたら、用を構えて、早々国元へ逃げ帰るにちがいないわ」
それから間もないこと。
「宇都宮公綱が、楠木退治を買ッて出て、近いうち出陣する」
という噂が京中にひろまった。
が、当人の公綱にただせば、
「買ッて出た覚えはない」
のだそうである。
周囲が作った雰囲気だろう。けれど公綱の放言自身も、好んでみずからこの“意地ずく”のかたちを
当の公綱の思わくにすれば、遠い
また。周囲の弥次馬性からは、
「東北の大剛宇都宮が、どんな戦をするか。楠木との駆け合せは見もの」
とする心理が手伝っていたこともある。いわば両者の結合が、やがて事実を生んだのだった。
六波羅は、非公式に、
「楠木勢の押さえに
と、彼をよんで訊いた。
そのときの、公綱の答えがまた振るッている。
「押さえにゆくなどという料簡は毛頭ござらん。ゆくからには、楠木と勝負を果たし、
つまりは、大言のてまえ、公綱の陣頭指揮は、意地ずくからの出発だった。
しかし元々彼は、平時の用務で上洛していたものである。国元兵の軍勢などは持っていない。さしあたって、道中の供として連れて来た七、八十名の子飼い郎党が宿所においてあるだけなのだ。
なのに、彼は六波羅へも、兵を求めなかった。
「
というのである。
出陣の前夜は、一党賑やかに
「正成、何者ぞ」
都を駈け出したものだった。
これには、六波羅探題もあきれたとみえる。
「宇都宮を死なすな」
と、庁の守護兵、二百五十騎を追ッかけさせた。また、我から公綱の
「参陣さまたげなし」
とも、ゆるした。
だから、公綱の隊が、
「音に聞く宇都宮殿の楠木征伐、ぜひ、御陣の端に」
と、望んで来て、麾下に加わる無名の
で、難波の北方、
これを見た楠木方の物見は、
「わずか六、七百の小勢ですが、宇都宮公綱以下、決死のていで、柱松に陣取りました」
と、味方へ報じた。
ちょうど、正成はその日、先ごろの勝利をおさめた礼詣りのため、四天王寺の内にいた。
そこの仁王門廻廊では、物見の偵報をみな笑った。
「何、たッた六、七百騎の宇都宮勢だと?」
「
「いや、あまりひどい負け方を喫したので、敵は、負け腹立って来たのだろう」
しかし、衆言をよそに、正成の
情報の聞えと共に、和田孫四郎が「……一気に蹴ちらしてお見せしましょう」と言って出たのにたいしての、ことばであった。
「まあ、待て」
と、正成は、彼のみならず、幕僚すべての燃え
「その小勢が気にくわぬ。小勢は曲者。正成にもちとニガ手……」
と、つぶやいた。
そしてなお、いうには。
「宇都宮は東北一の弓取。わずか七百の兵でも、よく用いられれば、これは
こう彼は
じたい武者魂とは、お互いの張りと士気で
「では?」
と、正季が何とつかず言い出した。みなの気を腐らせてはと、
「どうなされますか、当面の敵勢は」
「ほっておけ。ここまでは
「夜襲という手もありますが」
「夜には、われらが、もうここにはおらぬ」
「では、どこへ」
「遠くへ退こう。退いての上の考えでよい。そして退く前に、士卒のものすべてを、六時堂の広前に、よび集めておけ。ちと披露しておくこともあれば」
ぜひなく、やがて正季やら諸将のあらましも立ち去った。すべての姿が、ここの陣払いとは? と意外な足つきだった。
しずかな退陣準備が行われ出していた。夕日ノ岡やその他の拠点へも伝令が駈けた。しかし仕事は、
その間の小半日。天王寺の
「兄上、いつでも」
「正季か。みな揃ったか」
「は。ほとんど」
正季と共に、正成は六時堂の方へ歩いた。将士二千、見わたす限りの地に、あぐらして、
「……わしは声が低い」
つぶやいて、正成は横を見、
「
命じられたのは、中院ノ
「かしこまりました」
正成の手から、うやうやしく
「みな聞くがいい」
そこからである。俊秀の声は、端々の兵にまでよく通る。
「
俊秀は、奉書を
「――

兵はぽかんと聞いている。わかったような顔つきは一つもない。
「わかるまい」
俊秀は逆を言った。
奉書を巻きおさめて。
「いま読み聞かせたのは、日本一州未来記というものの
そっくり、
「さるを特に、わがおやかた
それから彼は、その秘文未来記の解釈を、わかりやすく説いて行った。
人皇九十五代とは、とりも直さず、後醍醐帝の今の世をさす。
しかし、帝の島隠れをいう――日ノ西天ニ没スルコト――も一年にすぎない。
西鳥とは、西国の宮方である。帝のお味方が起って、北条氏は亡ぶ。
そして、天下は帰一するが、その間にも、猿のごとき何者かが、一時は天下を盗む。けれどそれも長くはない……。やがては真の万民泰平が返ってくる。
「なんと、おどろくべきではないか。
中院ノ俊秀は、自分の弁に酔うがごとく、
兵たちは、感心した。奇瑞をよろこぶ風である。またみな予言が好きである。多分な迷信の中に生かされていた人々だった。
だが、奇瑞や予言をつかうのは兵家のつねだ。これも正成が士気
「なんの
「おれにつづけ」
と、渡辺橋を駈け渡った。
天王寺の楠木勢が総退却したと、今朝知ったからだった。
「またぞろ、楠木の
さきの隅田、高橋の例もある。その
「楠木の小細工など、公綱に
でも、
「はははは。臆病風は急に、楠木勢へ風向きをかえてたらしい」
天王寺前に立ったとき、公綱は大いに笑った。
なるほど、ひろい地域は
のみならず、
「つつみ隠すな」
と、まず脅しつけ、
「ここにいた楠木について、知るかぎりのことを申せ」
と、詰問した。
寺僧は答える。――寺は一切、
「相違ないな」
という以外、不審を突くところもない。
ところが、夜に入ると、附近にはさまざまな風説が乱れとんだ。公綱はよろいを解けなかった。明ければまた、何の事もない。
怪聞は、味方の物見が持ち込んでくるのである。はなはだしきは、住吉の沖に、深夜、何百艘もの船団が見えたなどという。あるいは、生駒山中に、天狗のような武者声がしたともいう。いずれにしろ公綱にも、楠木勢はまだ遠くに退いていない
かくて、寝もやれぬ緊張の幾夜がつづいた或る晩だった。
「や、や?」
宇都宮勢は、一せいに暗天へ気を奪われた。
生駒山の遠くから、高安、平野、
こんな夜が、三晩もつづいた。そして昼は、ぱったり異状も見ず、六月の
「敵はすっかり
ようやく、公綱も疲れてきたらしい。ひとり
「出て来ぬ敵はぜひもない。宇都宮の一ト面目は立ったも同然だ。ひとまず京へ帰れ。京へ引き揚げようわい」
たしかに、このこと以来、公綱の一ト面目は都でもみとめられた。彼が欲したほどな武名でもないが、彼の存在だけはこの一戦でみな知った。
こんどに限らず、いつも旅行癖にまかせて出ると帰りも忘れるらしい兼好法師が、ひょっこり、その旅疲れを吉田山のわが
「
「あ、お帰んなさい。ああまっ黒け。また日に
「おまえは、なにしてた?」
「おるす中は、毎日
「ははは、それだけでもあるまい。川狩の網がここに見える」
「オヤ、いけねえ」
「
「はい」
「なにして遊んでもいいけれどな」
「だけど、お師匠さんがお魚を食べるのを、見たことだってありますよ」
「魚を
「へえ?」
「雀も、達者か」
「ええ、あいかわらず」
「見えんじゃないか」
「奥にいます。この頃、わたしよりも、べつな人に馴れちゃったんです。ちっとも私の方へは来ないんです」
「べつな人?」
わらじの
――これは怪しからん。
とも言いたげな顔をした。
「命松」
「はい」
「たれだ、あそこで
「お藤さんです」
「お藤さん?」
「こないだ、
「じゃあ、ご病人か」
「病人でもありません。高野川の川合へ身を投げて、あぶなく
「ほう。それはまた」
ただ、
命松丸は、その間に、
「お藤さん。お師匠さんが帰って来たのに、なぜ、もじもじしてんのさ。ごあいさつしておくれよ」
と、奥の人へ催促していた。
「……ええ、いま」
彼女は、針を針刺しに。そして、膝の糸くずなどを払いかけた。
ここでは、藤夜叉という名はもとより身の上も隠して、ただ近江の女とだけ、人には言っていた。兼好の前へ出ても、おなじであった。ひたすら、留守中の世話になった礼やら詫びを、くり返すのみで、すぐ
「……見ればまだお若いのに」
兼好にも、
いちど投身した者が生きかえると、生の執着は別人になる。逆に生きぬくためから、性格までが、もんどり打って一変しやすい。
常識ではよくそういうが、いまのところの藤夜叉には、そんな風もみえなかった。わけて前身を語らないので、兼好には今の彼女と比較して見るべくもなかった。彼はただ、自分にしてやれることとして、
「わしが帰って来たからといって、なにも急にこの
そんなことで、なお数日は、吉田山の庵に身を小さく屋根借りしていた彼女であった。
あるじは、法師でも、
ただ年齢こそ少し違うが、この命松丸の
「
と、忘れがたい。
たまらなく母情にみだれる。道誉にけがされた体を憎む。なぜか道誉を憎めないで
だが二度とは、死など考えに出なかった。いちど死んだのは他人のことのように
「お藤さん」
「なあに」
「お藤さんは、寝てから毎晩、ひとりして泣いてるんだろ」
「そんなことないわ。なぜ」
「だって、朝みると、いつもここンとこが」
と、命松丸は、自分の瞼を、指で抑えてみせて、
「きっと朝は桜色に
「あら、そう」
「また死のうか、尼になろうかなンて、考えているんじゃない? お師匠さんは、尼になるほどなら女に生れなければいいっていってたよ」
「そんなこといったってむりですよ。お師匠さんも男だから女の心はわからない」
「じゃあ、なるつもり」
「尼さんにはなりません。子どもがかわいそうですもの」
「お藤さん子があるのかい」
「命松さんより三ツ四ツ年下ですけれど」
「どこへ預けておいたの」
「三河の田舎に」
「だってお藤さんは近江なんだろ。どうしてそんな遠くにおくのさ。ああ分った。それで毎晩ベソをかいてるんだな」
「ホホホホ。そうよ」
「雀の子では、やっぱり駄目かい。そんなに、おらの雀は、お藤さんに馴れちゃッたけど」
「いいえ、雀も可愛いの」
庵の裏で、洗い物を干している彼女と、その側で、命松丸がしゃべっている声だった。――書斎の兼好は、
兼好も枯木ではない。ないどころか、四十男の性も
独り書斎にいても、自然、藤夜叉の
「なにも自分だけのように、
彼は、しいて取り澄ます。
それにしても、夜々、彼女の
「はて、ばかな」
思考を、逆にかえてみる。
それほどなら、なぜ一ト思いに欲情を晴らしてしまわないのか。その方がはるかに自然なはずではないか。
ところが、兼好の理想だと、
「やはり割が合わない――」
勘定になるらしい。
女と
「しょせん、一庵の巣に隠れて、乱世をよそに、
いまもそう思い返して、眼を書物へ沈めていたのである。――と、洗い物など干しおえた藤夜叉が、やがてそこへ、麦菓子の
「兼好さま、これは今朝見えたお人の、いただき物でございますが」
「オ、代書料にくれた
「つい今、裏におりましたが」
「よう遊び
彼女に付きまとっていた
それは、藤夜叉の左の眉から眼の下へかけての、うすい
高野川の落ち口へ身を投げたあの晩に、早瀬の岩にでも、面をぶつけていたのであろう。初めて、兼好が見たときから、擦過傷らしい
いや、可惜とするのは、つい浮かぶ通念にすぎないことで、男心の裏から
「……あ。たれか
そのとき、庵の外で、
彼女はあわててそこを立ったが、どんな客にも、客を恐れて人前に顔を出さない藤夜叉は、すぐ裏口の外へ出て、
「命松さん、命松さん」
と、助けを呼ぶように、さがし廻った。
お客と聞いて、命松丸は、
「なあんだ、お藤さん、何をあわてているのさ」
と、またすぐ裏口へ戻って来た。
「お客だもんか。薬売りがあっちへ行ったよ。薬売りと間違えたんだろ」
「でも、お武家のような声でしたのに。おかしいわね」
「ア、そうじゃなかった。もう奥へ通ってら」
「え。奥に」
「お師匠さんが、とうに自分のお書斎へ通してたよ。ああ、あのお侍なら、いつかも、ここへお使いに見えたことがある」
しかし藤夜叉は、客を覗いてみることもしなかった。一そう身を隠すように、干し物の下へ立ち寄りながら、
「どこのお方?」
と、小声でたずねた。
が、命松丸は、そのとき、兼好の呼ぶ声に、大きく答えて、家の内へ駈けこんでいた。
そして、しばらくすると、兼好は書斎を立ち、迎えに来た客の侍と共に、庵の
「お藤さん、お入りよ。もう帰ったよ」
「兼好さんもご一しょにお出かけですのね」
「今夜は帰らないよ、って仰っしゃってたけれど、お師匠さんのことだから、分りやしない」
「どちらへおいでになったんですか」
「いま帰ったお侍ね、あれは
「佐女牛って」
「知らないの。
「ま。……そう」
すうと、血が引いてゆく彼女のおもてに、左の瞼へかけての、打身の痣だけが、
「おや、どうしたのさ。お藤さん。気もちでも悪いのかい」
「ええ、なんだか少し……」
「きっと、さっきから陽なたで洗い物していたせいだぜ。もう、暑いもんなあ。家へ入って寝るといいよ。お師匠さんは留守だから、晩のしたくもいらないしさ」
その晩だった。
寝るとすぐ命松丸は正体もない。
藤夜叉は、そっと起きて、身じたくしていた。逃げよう、先は先、それしかないと、宵に胸を決めたのだった。
命松丸のことばによれば、兼好と道誉とは、鎌倉いらいの親しい仲であるとのこと。その酒の座の雑談などで、ふと、自分の噂でも出たとしたら、それこそは大変である。うむもいわせず、佐女牛へ連れ戻されるにちがいない。
「……ごめんね、命松さん」
寝相のわるい彼の枕元の下へ、彼女は、宵に書いておいた
「どこへ?」
深夜の闇は、彼女の胸をあらためて
「そうだった……。なぜ思いつかずにいたのだろう」
ぼやと星屑の空しか彼女には見えていない。
「女は女どうし……」
小松谷にいる
いや、ひょっとしたら、不知哉丸も、なおまだそこに置かれていて、そこでは逆に、この身の行方を案じたり探しぬいていることやらもわからない。――もし、そうあってくれたらと、藤夜叉は、祈りへ向って走るように、東山のすそをひたむきに、いつか六波羅近くへ来ていた。
ところが、大宮、車大路、いずこも道は遮断され、庁の
「行けない」
はたと、彼女は
先ごろから、どこかで
「この様子では?」
あきらめるしかなく、藤夜叉は、また道を後へもどった。
草心尼母子も、不知哉丸も、はや小松谷にいるかどうかは心もとない。――その小松谷の邸は、探題の住居である。戦争とあれば、そこの備えも例外であろうはずがない。
「やはり三河へ……」
と、思い返した意志の足どりというよりは、風にもてあそばれてそこを去って行くような藤夜叉の影だった。――夜をとおして歩いていたにちがいない。一面にはたえず何かにおびやかされて、一歩もとどまっていられないもののようにも見える。
いや事実、彼女は追われていたのである。
彼女自身は、夜が明けたことも、また、街道の人中を歩いていることなども、うつつないかのような姿で、大津越えを東へ、ただせッせと急いでいたが、それいぜんに、
「やっ?」
一人の男が、じいっと、彼女を見送っていたと思うと、もう一人の連れを、同じ旅籠の内から呼び出して、共にあとを追ッかけ出していたのだった。
そして
「もしっ、そこな
「もしや、藤夜叉さまではありませんか」
二人の男は、手をあげて、先へ行くものを呼びとめた。
彼女は答えない。ちらと振り向いたふうではあったが、彼女の足が一ばい早くなったのはそれからだった。むしろ逃げるといった姿にちかい。
男ふたりも駈け出した。
侍だが、ちゃんとした侍ではない。街道でよく見かける蠅みたいな浪人である。
でなければ
いやいや、藤夜叉には、そんな見わけを、とつこうつ抱いているゆとりはない。とつぜん小走りに走って、関ノ清水の横道へ隠れこんだ。
「あっ、逃げた」
唖然としたように、後ろの浪人二人は、
「はて、やっぱり人違いだったのかな?」
「でも、逃げるのはおかしいじゃないか」
「いや、こんな
と、一人は笑う。
「それもそうか」と、
「何、どうあっても、おれには藤夜叉さまに見えた。もう一ぺん追って行って、たしかめて見ようじゃないか」
「だが、藤夜叉さまに、
「それはない」
「ところが、おれがさっき、斜めに寄ってさし覗いたら、左の瞼のあたりに、うすくこう、青痣があった。……だから思い止まれといったのに、きさまはどこまで
「間違っても、損はない。女にあやまればすむことだ。いやなら、おれ一人でただしてみる」
「まあ待て。そう慌てなくても女の足。おれも行くさ」
一方の藤夜叉は、関明神のお
「…………」
誰か、眼の前のやや離れたところに、人が来て立っている。
と、彼女は体で感じていたが、もう立つ力はなかったらしい。笠もそのまま、顔もさし
「……?」
ふたりの浪人も、
「藤夜叉さま!」
同時に言って、同時にふたりとも、地へひざまずいた。
「ああ、どうなされたのでござりまする。やはり
「
「いざ、お立ちくださいませ」
「お供して、これよりすぐに、一色村へ」
「右馬介どの、
「…………」
なお、藤夜叉は、顔を上げなかった。それをかくして笠だけが微かにふるえている。
「さ、さ、いかなる御仔細かは存じませぬが、ともあれ三河へ」
「そこには、お
と聞くやいな、藤夜叉は、ささえていた杖と涙から身を
以来、門をとじて謹慎中の佐々木道誉へ、数日前に鎌倉表からの
道誉はほくそ笑んでありがたくお受けした。心中思うツボとしたのであろう。鎌倉へ下って、高時の前に出さえすれば、高時は
「法師。……そんなわけで、またいつ都へ出るか、次の折はわからん。達者ですごせよ」
わざわざ、吉田山から呼んでおいた兼好法師へ、彼はいろんな物を立ちぎわの
彼自身が、京を立ったのも、その日であった。
言いおくれたが、彼の下向は、べつに重大な一ト役をそのさい申しつかっていた。つまり下向のついでに、鎌倉へ
「自分を試すのだな」
道誉はそう取った。神妙に、その役も奉じて行った。
ところが、俄然、ここへきて、その未決中だった公卿僧侶へも、一せいに刑の申しわたしが断行された。
――わずかな日のあいだに、武士の多くは河原で首切られ、僧や公卿は、
そのうち、おもなる人々だけを
前大納言
また、
僧の
このほか、さきには
が。どうして、幕府がかくも慌ただしい、
だから「……もしや助かるか」と、
「これは、楠木のせいよ」
と、みな恨んだ。
わけて参議の
ところで、道誉が護送する役割となった公卿は誰かといえば、それは後醍醐近臣中の随一の近臣、
北畠ノ
かつての
だから彼のみは、ほかの公卿捕虜の仲間とは、覚悟のほどもちがってみえ、
――鎌倉へ
と、いい渡されて、獄から
「近江ノ入道(道誉)が、身の護送役とは、よいお
と、さすが、悪びれた風もなかった。
そしてはや、護送の人馬が、大津の辺へさしかかると、
「道すがらの
と、
道誉が、馬上、
帰るべき
時しなければ
これやこの
行くをかぎりの
相坂 の関
と、あった。時しなければ
これやこの
行くをかぎりの
道誉はちょっとほろりとした。元来、彼は心ではよくほろりとする
――というのも、護送使の立場にはいるが、自分もじつは、鎌倉の
「今日の人の身は、あすの我が身という言葉もある」
と、どこかでは、彼にも、そんな
近江路も三日目、鏡ノ宿から先は雨空だった。まもなく犬上郡である。
「だいじな
と道誉は、その日の
土地の“長者”ともいわれる旧家であろうか。大夕立の中を、人馬は門へなだれ寄って、そこを不時の宿所に宛てた。――どんな急でも、官旅の人馬には、拒めないのが
「だいぶ都も離れました」
奥の
「こよいは、それがし自身、番士をつとめるつもりです。お心おきなく」
と、風呂場には、新しい衣服をそなえさせ、夜には、食膳を共にするなど、何くれとなく、その
「忘れはおかぬ」
具行は、つい眼を熱くして、
「かねて、近江ノ入道は、やさしい武士と聞いていたが……。そして、
と、なんども言った。
離散、
「みかど(後醍醐)が、六波羅の獄におわした間の給仕人も、彼であった」
「寒中の獄へ、
「隠岐への
こんなふうに、道誉といえば、花も実もある武士と、みな見ていたらしいのだ。北畠具行も、また、その一人だった。
だから、その夜の道誉のいたわりにも、彼は、しんから感激した。
「士は士を知るとか。おなじ護送されるにも、
と言い、そして、
「やがて見給え。第二、第三の宮方の
と、そんな秘事まで、ついには洩らした。
「さも、おざろう」
道誉は、べつに驚いたふうでもなかった。――おくびにも宮方へ同心するとはいっていないが、すでに自分も北条氏の世をそう長いものとは見ていない一人であるのだ。
「して、その連判は、どこへお置きでございますな」
「いや、笠置落城のさい、火中へ捨てた。しかし、名は、洩れなく覚えておる」
「とくに、その連名を、そっとお聞かせいただけますまいか。神かけて、幕府へ密告などはいたしません」
「聞かせてもよいが」
「ご疑念ですか」
「なんといっても、
「もし、宮方なれば」
「もちろん、仔細なしだが」
「では初めて、あなたにだけ心底を申しましょう。
「えっ?」
「かの朝臣とは、以前、ふかく心をかたりあっていたのです。都でも伊吹ノ城内でも」
「まったくですか」
「あなたが、ご存知ないとはおかしい。さもなくて、何で道誉が獄のみかどへ、あんな奉仕を、よそながらでもいたしましょうか。――幕府の前に、一身を賭けてまで」
具行はうなずいた。眼の前の道誉が、百倍もの、たのもしい一味の同志に見えていたのである。
彼は、眼をとじながら、連判の
意外な名が、次々に、具行の口から出た。
道誉でさえ、日頃、よもやとしていた武族までが、宮方連判の一人であると――その連判はないが――いま、明言されて出たのだった。
「……して、足利の名は、
「
「そうです。笠置攻めにも、上っていた又太郎高氏です。しかし彼は、正面の攻撃にはむかわず、伊賀方面をまごまごして、そのくせ、いちばん遅くまで、畿内に兵をとどめていたなど、とかく不審な行動をとっていた者ですが」
「いや、その高氏なら、密勅の呼びかけもしていません。もちろん、連判にもみえぬ」
「赤橋殿の
「それもあるし、高氏は
「では、東国において、勅におこたえした者は、大族では一名もなかったのですか」
「皆無ではない」
「では、たれですか。東国での隠れた宮方といえば」
「新田小太郎義貞がある」
「や、あの新田も」
「笠置には、
いつか、屋根の
北畠具行は、
「……ああ、死にとうない!」
とつぜん、彼は酒気にまぜて、嘆息した。
「きっと、天下はわれらに恵んで来るのだ。いま言ったような面々が、こぞり
「何を仰せられる。死ぬには及びますまいが」
「でも、鎌倉へ曳かれては」
「おあきらめは、早すぎる。それらの裁断は、一に高時公のお胸にあること」
「その北条高時が、たれにもまして、この
「いや」
と、道誉はなぐさめた。
自分も、嫌疑をうけて、その申し開きに
「ありがたい」
具行は、はじめて涙をたれた。
「もし、助かったら、他日、恩賞の日、
いつか、
道誉を先頭に、具行の
愛知川は江南江北の分堺である。そこから先の――犬上、坂田二郡の
道行く者も、
「あ。ご領主が」
と、路傍にうずくまり、
「ご領主が通らっしゃる」
「ご領主のお帰りか」
と、
都でも、彼の評判は一般に好感をもたれているが、近江ではわけて「よい国主」と親しまれているふうだ。ほかの守護のような苛税を
やがて、
「花夜叉が彼方でお迎えに見えておりまする」
「花夜叉?」
道誉もすぐ見つけたらしい。
列をとめさせて、自分も茶屋の前で馬を降りた。ちょうど
今朝来、具行の顔いろは明るかった。ゆうべ夜ッぴて、道誉と語りあったことから、絶望の底にあった彼のひとみも生き生きと一変していた。俄然、生への執着と、希望に燃え出したらしい
その間。
大勢の人馬が、それぞれ、腹をみたして休んでいる間を――道誉は茶店の裏で、花夜叉と、会っていた。
いうまでもなく、この男は、藤夜叉の養父であり、そしてこの附近の、
「花夜叉。――急にこの道誉へ告げたいため、ここで待っていたとは、どういうことか」
「はっ」
と、花夜叉は、地に伏せていたひたいを上げた。
「じつは、つい先おととい、この街道すじで、むすめを見たという者がございまして」
「なに、藤夜叉を」
「はい」
「ふうム……?」
「なんぞ殿に、お心あたりでもございましょうか。かねがね、藤夜叉が村へ立ち廻ったら、必ず一報せよと、仰せつかっておりましたが」
「心当り? ……。いや、知らん。そして、どうした? ……村へ帰って来たわけか」
「いえいえ、そんなことならばよろしゅうございますが」
「では?」
「そのために、田楽村の者二、三が飛んだ災難に会うたのでございまする」
花夜叉の知らせは、道誉に耳をかたむけさせた。
彼の訴えによれば。
つい二、三日前のこと。田楽村の者たちが、西明寺の三重ノ塔供養へ出かけての帰り途で、藤夜叉にそっくりな女性を、この街道で見かけたという。
それは、一頭の荷馬と七人ほどの野武士ていの群れで、女は一人きりだった。――いずれもが、
「おや、藤夜叉があの中に?」
と、思わず立ちどまると、女の方でも、はッとしたらしく、ついと
そこで、人々は、
「人違いか」
と、たじろぎ合い、いちどは通りすぎたが、どうしても今のは藤夜叉だった、と言い張る者もあって、ふたたび、あとへひっ返して、
「藤夜叉ではないか」
と、呼びかけてみたのであった。
ところが、これがまちがいの
「なんだと」
のッけから、
「なにをばかな。そんなお方ではないッ。近づくと、
と、凄いけんまく。
しかし、田楽村の者は、近々と見て、よけいその確信を、つよめずにいられなかった。
左の瞼のへんに、青い
で。つい、親しみのまま、
「これ、藤夜叉。いったい、これはどうしたわけじゃ」
と、そばへ寄り合って、彼女の肩や笠へ、みなで手をふれようとしたのである。
とたんに、野武士たちは、まるで自分らの守る珠玉でも
「それっ、行け」
とばかり、女を荷馬の背へ押し上げて、あとも見ずに、
「それが、藤夜叉であったか、人違いやら、いまもって分りませぬが、余りなふしぎさに、ちょうど御入国の途とうかがって、お知らせまでに、これにてお待ち申しあげておりましたようなわけで」
と、あとは道誉の顔いろを恐る恐るうかがうのだった。
「そんなことか」
道誉は、わざと、軽く聞きながした。彼にも、判断はつきかねる。それに藤夜叉のことも、この養父を前に、今はとやかく思い出したくもなかった。
「花夜叉。おそらく、それは人違いぞ。それに藤夜叉のことは、もう余り口沙汰するな」
「はい」
「わしも近ごろ忘れておる」
「は。さようで」
「身もいまは帰国でなく、鎌倉へくだる途中だ。村へ帰って、一座みな田楽に励んでおれ。そのうちにまた、伊吹ノ城へ呼んでやる」
道誉は彼をおき捨てて、すぐ街道の表に立ち、馬をよび、また一同へ出立を命じていた。
具行の輿や道誉の人数が、
「朝のま、涼しいうちに」
と、早めに出たが、
きのうからの降り足らぬ雨雲が、なお
それもやっと、番場の
「殿っ」
と、馬をとび降りて駈けよって来たふたりがある。道誉の留守城、伊吹の家臣らであった。
二人はすぐ、道誉の馬前に、ひざまずいて告げていた。
「火急のことゆえ、お途中と存じましたが、これまで、駈けまいってござりまする」
「何事がおこったのか」
「昨夕、鎌倉どのの御上使が、お着きでした」
「なに、執権殿のお使いとな」
「さればで」
「いかなる御用で?」
「さ……。その儀はまだ何も」
「いや、道誉にも会わぬうち、公命の内容を、そちたちへ語るわけもなかった」
自問自答、いつになく、彼は顔いろを騒がせた。なにか、とむねを突かれたふうでもある。
「して、御上使は、どこにお待たせしてあるの」
「昨夕、
「では、柏原の亭にお泊りか。またその上使は、誰と誰?」
「
「
語尾は口のうちだった。
「すぐ、行く。――ご上使へ、先ぶれしておけ。また輿の同勢は、あとから来い」
列を残して、彼もまた、一ト足先に、そのまま柏原へ駒を飛ばした。
柏原は、番場からも、伊吹ノ城からも遠くない。つまり佐々木家の城下であり、彼の下屋敷といっていい一館もある。
で今夜は、下向の途中ながら、そこでは、ゆるりと、くつろぎも出来ると予定していたのである。――思わざる執権の上使が待っていようとは、まさに寝耳に水だった。
「そも、なんの急命か?」
上意の何かによっては、一身の大危機が、そこに来ているのかもわからない、と考える。
自分への高時の
わけて、高氏のごときも
下屋敷へつくやいな、彼は、上使の前へ出て、さっそくに平伏した。
「道誉、ただいま下向の途中を、これまで、参ってござりまする。御上意、何事にございましょうか」
ここへ鎌倉の急命とは、一体、何であったのか。道誉は、
「上意、かしこまってござりまする」
と、その場でお受けし、やがて奥から退がって来た。
上使の糟谷孫六、三島新三のふたりには、一刻の
その眉には、
「……まあ、よかった」
として、一時の恐惧を、ほっと涼風に払っていた。
ここは自身の城下だけに、ここで鎌倉の使節が待ちうけていたなどは、いい
しかし、上使から高時の台命をきいてみると、やはり
すなわち、
護送ニ及バズ、途上、ソノ
そしてなお、
「
とも両使は言った。
道誉の答えは、
だが。
外の涼風に、再生の快を味わったすぐ後では、さすが、
「あの中納言が、それと、ここで知ったら、どんなに
と、
おとといの晩、あの
が、彼は、そんな蚊ばしらみたいな心の迷いを、しいて心で払いのけながら、
「……俗にもいうぞ、背に腹はかえられん、と。……はて、まだかな」
と、門に立って、街道の西を見ていた。――
が、まもなく彼方に、列の先頭が見え出した。道誉は、それの近づくのも待ちきれず、馬の背にまたがった。
そして、自身からも、馬を駈けさせて、街道中で、列の先頭にぶつかるやいな、
「北へ折れろ。彼方の辻を、北の方へ曲がれ」
と、やにわに、指さした。
先頭は、まごつき、
近江の山、美濃ざかいの山、どっちを向いても山ばかりな
「よかろう」
道誉は、列へ、号令をくだした。
自身もサッと馬を降りる。
「その辺へ、輿をおろせ」
と、つづいて言った。
輿の内の北畠具行は、さっきから怪しんで、しきりに「……どこへ行くのか」と、警固の兵に訊いていたらしいが、もとより兵も知らないのである。――ここへ来て、命ぜられるまま、輿を、
「はて。ここは街道とも思われぬに、なんで?」
具行は、きのうも今日も、しごく快活に過ごしていたが、よほど不安に突かれたとみえ、板輿の内から顔をさし出して、
「道誉。……
と、言っていた。
けれど、馬の尻や、兵たちの汗の背が、彼の眼をさえぎッているだけで、たれも答えてくれる者すらない。
そのはずだった。
道誉の姿は、そこから百歩も彼方の、山寺の裏口らしい崩れ
「よいか、六郎左」
道誉は、仔細を話していたのだ。そう念を押した上で、ふところから、自分がさきに受けた鎌倉の一状を取り出して、
「
と、いいつけた。
「はっ。かしこまりました」
二人は、床几のまえを離れた。いつになく意気地のない主人と、妙な気もしないでなかった。――それに、おとといからの雷鳴り
わけても。
きのうあたりからは、たいへん、機げんのよかった中納言殿だったのにと思うと、彼らにしても、輿のそばへ立ったときは、ひとしい人間感に取り
「上意ですッ」
言ったとたんに、玄蕃も六郎左も、武者そのものになっていた。
「源中納言殿。輿をお出なさい。御奉書を読みきかせる」
「なに」
具行は、彼らの語気で、すでに何かを感じたように、さっと、血のひいた顔をみせた。荒らかに、兵が輿の引戸を開ける
「上意とは、何か」
と、草に坐って、聞き
「されば、鎌倉どのの上意でおざる」
すると、具行は、憤然として、それを叱ッた。
「だまんなさい。源中納言は朝廷の臣だ。朝命なればわかるが、そのほかの上意などとは心得ぬ。ものは気をつけていうものぞ」
彼の反撥を食うと、かえって、
「しゃらくさい小理窟を」
と、せせら笑った。
「朝廷朝廷と、公卿はいうが、そんな公卿念仏を、たれが今どき、ありがたがろうか。――事ごと、鎌倉殿の下に、からくも、あがめられている飾り物の朝廷であろうがな。おれどもは、武士だ。朝廷の
と、圧倒し、
「上意っ」
と、かさねて言いかぶせた。
やはり具行は公卿だった。「――無知にはかなわん」といいたげに、そのまま口をつぐんでしまった。
とつぜん、伊吹の雲の破れから、冷たい疾風が、裾野をなぐッて、襟もとを打つ。俄に、晩のような暗さを見てのせいか、昼のきりぎりすが
「……前ノ源中納言具行ハ」
玄蕃は、執権奉書を
一句一句、声を張っても、声は風にちぎられて飛び、雷鳴に消されがちだった。
「……以上」
と、彼がむすんだとき、
「この上は、お覚悟を」
と、ややいたわり気味に言ったのは、田子六郎左の方だった。すぐうしろの、まろい小丘の一本松を指さして、
「ここは背も
と、うながした。
しかし、なかなか起つ容子もない具行だった。今にして、悔やまれもし、恨みはつきない。
すでに、
その道誉は、どうしたのだ。どこにいるのだ。
姿も見せない。
一たん、覚悟した自分を、死にたくないと、叫ばしておいて、
「……武士ども」
具行は、容易に処理のつかない未練と怒りを、眸にもキラキラさせて。
「道誉はなぜ見えぬか。かりそめにも、源中納言を刑するに、
「まず、お立ちなされ」
「いや、参らぬうちは、動かぬ」
「立たぬとあれば」
「
「ぜひもおざらん。松の下まで引ッ立てる」
「やあ、
すさまじい
丘の一本松の下には、さっきから、一枚の
その蓆が、吹き起されたとおもうと、生き物みたいに、風をはらんで、遠くにいた道誉のそばまで飛んで行った。
道誉は大ゲサな
「なにしておるのだ」
と、すぐ彼方の群れへ、眼を戻して、
「玄蕃と六郎左へ、早くいたせと申して来い。いまにも、大夕立になりそうだわ」
「どうしたっ。玄蕃」
「殿っ。手におえませんっ」
「何が手におえん?」
「身は朝廷の臣、その源中納言を刑するに、道誉が顔を見せぬという仕方やある。道誉に一言すべきことあり。道誉参れと、
「しゃっ、吠えさすな。かまわん、うごかぬなら、その場で行え」
「ところが」
「なにを
「容易ならぬことを口走ります。斬らば斬れ、道誉も死の道づれにいたすぞと」
「ばッ、ばかな」
「いや、
「いわぬことか。暇どるからだわ。――して、往生ぎわの悪い中納言が、いったい何をば、言い散らすのか」
「あたりの僧や里人へ、身の
「そういうのか」
「そう言います」
「いやなやつだなあ」
「でなくてさえ、ご嫌疑中の殿のお立場、この上不利を叫ばせては、人の聞えも悪かろうと、そこを
「では、源中納言、少しはおちついている様か」
「殿を、お呼びしてまいると、なだめおきましたので」
「たわけめ」
道誉はもう歩き出している。歩きながら、風の中で、言い散らしていたことばだった。
「それでは……行くしかないわ……ぜひもない……僧になったつもりで……
やがて、近づく道誉の姿を見つけると、具行は、
「…………」
道誉は眼をそらした。
もちろん、意識的であるが、そうは見えないほど自然に、
それから、やおら、
「道誉っ。いやさ、
具行の眼光は、まるで灰色の闇にある
「わしの顔が仰げぬのか。……いや見られまいわ。愛知川の一夜、そちは何とわしに申したか」
「はい」
「もし、姿を見せずば、わしはこの首へ、断刀をうくる一せつなでも、そちの腹ぐろさと、腹の秘を、天地へ叫んでやる気だった……」
「あいや、
道誉は、かろくさえぎって。
「愛知川の夜も今も、道誉に変りはございません。もし、
「…………」
「さるゆえ、御生害を仰ぐにも、市の人目の中で、
「…………」
「しかも、ここの伊吹山下は、
「…………」
「つい、
彼は立って。
また、後ろを見まわして。
「これ、里人たち。これは貴人のごさいご、
それから、もいちど、具行へたいして、ていねいに身を
「あの丘にて、心ゆくまで、お名残りを惜しませられませ。山僧に申しつけて、ただいま、筆墨をとりにやりました。さだめし、遺書をやりたいお心のうちの方々もおありでしょう。――せめては道誉がうけたまわって、後々にでも……」
一人の兵が、蓆を松の根がたへ敷き直しているのが見えた。
具行は、やっと、平常心をとりもどしたように、黙然と立った。――道誉のあとから、歩を運ばせつつ、謎を見るように、道誉の背を凝視していた。しかし、歩くしかなく、いまは観念の姿だった。
その数百歩の間にも、やむまなく、風がつよい。稲妻は、彼の弔花のようだった。やがて松の下へ、彼が坐ったと見えたせつなも、一
「道誉。……愛知川の夜も、今の自分も、変らない道誉だと、申したな。その心底を、もいちど、死出のみやげに、たしかめおきたい。その本心を」
具行が問いかけた時である。ちょうど、山僧がそこへ届けて来た
「いやまず、ご遺書を先に……。ご辞世のお歌でも、一ト筆これに」
辞世をといわれて、具行はつい筆を持った。いや持たせられたといってよい。
彼はここで、もいちど、道誉の胸を存分きいてみたかった。いま死す自分へ、嘘をいう要はあるまい。ねがわくば、人を信じ、世を信じ、笑って死にたいと、あせっていたのだ。
しかし、ここへ来ると、道誉の態度はただ、死の
「万事休すか」
死の座は、無力の座だ。いやおうなしだ。とたんに、寸秒の刻々も、具行には、心ぜわしい。
直前の死が描き出す、幼時の父母のおもかげ、自分の少年時の姿、後醍醐もまだ
「隠岐の
と、遠くへ、祈りの目をあげた。
すると。――その眼の前には、
伊吹も見えず、野も見えず、そして丘のぐるりに、十人ほどの黒法師の影が薄く立木みたいな
経に和して、しきりな雷鳴が耳を打つ。それにつれ、
「道誉っ」
「はっ。ご遺書の、おしたためは、すみましたか」
「まだだ」
「ポツと、雨が襟を打ってまいりました。いざ、料紙の濡れぬまに」
「そこらの、読経の声は?」
「近くの山僧たちです。ご最期の
「嘘をいえ! そちが迎えにやった僧侶だろう」
具行は、看破した。
だが彼は、道誉の二タ股を、
――いやもッと覚悟を
「待て!」
四十二年
「いざ、斬れッ」
と、筆を投げた。
そして、せつなの、一秒の生の昇華が、叫ばせていた。
「道誉! わしの血が、明日の天下を洗い、わしの声が、次代の雲を
彼が、身を正そうとするのも待たず、六郎左の太刀は、そのとき、一震の黒雲を破ッた雷獣のごとく跳びかかって、そこだけを、ぱっと赤い霧の
その後。
北畠具行の墓石は、江戸時代の頃まで、近江柏原の峠地蔵にあって、道行く旅人に
碑には、彼が
元弘二年六月十九日
と、あったという。
それから数えて、佐々木道誉が、幕府の上使糟谷孫六、三島新三らと共に、鎌倉の府へ入ったのは、六月下旬とみて、まちがいはない。
そして、彼はさっそく、北条高時の前に出て、
「ご下命のまま、これへの途中、源中納言どのを、
と、それの報告もし、また、身の嫌疑についても、高時のいちいちな
「そうか。いやさようか」
終始、高時は、彼のさわやかな弁に、こッくりしていた。
ここ柳営の台閣にばかりいて、久しく道誉を見てないうちに、彼の耳にも“反道誉”の声が、だいぶ入っていたらしい。
わけて、道誉が近ごろ怪しいと風説されて、もっぱら帰還の諸将の間から、彼の二心が、とかくいわれる段になると、
「うぬ。忘恩の徒……」
高時の怒りは、一時、尋常ではなかったらしい。
すぐ、その頃から、道誉召喚の議もあったのだが、折ふし道誉は、先帝の島送りで、出雲の途中にあったので、その帰洛をみるやいな、閉門の令が飛び、つづいてこんどの“
だが、道誉にたいして難題とみられていた源中納言の処刑も、神妙に仕果たして、これへ出頭してきたのを見ると、高時はもう「うい奴」と、彼をながめ「……まこと、宮方へ心をよせている者なら、宮方随一の公卿をば、斬れといわれても、斬れないはずだ」と、疑いの半ばは、すでにはらしていたものだった。
しかし、いかに道誉が、その弁舌と、しおらしさとで、高時の
評定所というものがある。
その幕府機関へも、彼はいくたびとなく喚問された。彼を、正体の知れない、
「
と、いっているのは、ほとんど十目十指で、北条一族と重臣のみで構成されている評定所衆は、ここぞとばかり、ずいぶん彼のいたいところを突いたつもりでいじめつけたが、道誉の言い開きにはすきもなかった。――しかもあくまでその態度は
「やはり噂は、諸将のざんそにすぎぬものか」
と、結局は、何一つ、罪名とするかどなどはつかめなかった。それにまた高時の
こうして、夏から秋への、
七、八、九月
は、またたくすぎ、いつか道誉の姿はまた、鎌倉の秋風と共に、いよいよ