十和田の夏霧
泉鏡太郎
彼處に、
遙に、
湖の
只中なる
一點のモーターは、
日の
光に、たゞ
青瑪瑙の
瓜の
泛べる
風情がある。また、
行く
船の、さながら
白銀の
猪の
驅けるが
如く
見えたるも
道理よ。
水底には
蒼龍のぬしを
潛めて、
大なる
蠑
の
影の、
藻に
亂るゝ、と
聞くものを。
現に
其處を
漕いだ
我が
友の
語れるは、
水深、
實に
一千二百尺といふとともに、
青黒き
水は
漆と
成つて、
梶は
辷り
櫓は
膠し、ねば/\と
捲かるゝ
心地して、
船は
其のまゝに
人の
生えた
巖に
化しさうで、もの
凄かつた、とさへ
言ふのである。
私は
休屋の
宿の
縁に――
床は
高く、
座敷は
廣し、
襖は
新しい――
肘枕して
視めて
居た。
草がくれの
艫に、
月見草の
咲いた、
苫掛船が、つい
手の
屆くばかりの
處、
白砂に
上つて
居て、やがて
蟋蟀の
閨と
思はるゝのが、
數百一群の
赤蜻蛉の、
羅の
羽をすいと
伸し、すつと
舞ふにつれて、サ、サ、サと
音が
聞こえて、うつゝに
蘆間の
漣へ
動いて
行くやうである。
苫を
且つ
覆うて、
薄の
穗も
靡きつゝ、
旅店の
午は
靜に、
蝉も
鳴かない。
颯と
風が
吹いて
來る、と、いまの
天氣を
消したやうに、
忽ちかげつて、
冷たい
小雨が
麻絲を
亂して、
其の
苫に、
斜にすら/\と
降りかゝる。すぐ
又、
沖から
晴れかゝる。
時に、
薄霧が、
紙帳を
伸べて、
蜻蛉の
色はちら/\と、
錦葉の
唄を
描いた。
八月六日の
日と
覺えて
居る。むら
雨を
吹通した
風に、
大火鉢の
貝殼灰――これは
大降のあとの
昨夜の
泊りに、
何となく
寂しかつた――それが
日ざかりにも
寒かつた。
昭和五年十一月
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。