三才図会に
長脚国・
長臂国がある。「長脚国は赤水の東にあり、其の国人長臂国と近く、其の人常に長臂人を負ひて、海に入つて魚を捕ふ。長臂国は※
[#「にんべん+焦」、36-4]僥国の東にあり、其の国人海東にありて、人手を垂るれば地に至る」とある。全く空想の国には相違ないが、我が清涼殿の荒海の障子には、これを絵に書いてある事が枕草子にも見えて、人口に膾炙しているところである。信州諏訪には手長大明神・足長大明神の二社がある。諏訪旧蹟誌(安政四年)には、
手名椎・
足名椎を祭ったのであろうと書いてあるけれども、単に手足相対することと、呼声の近いのとから想像したので、もとより拠はない。また足長とはないが、上野利根郡後閑村には
八掬脛社というのがあって、
長髄明神というとの事が、松屋筆記(七十八)に見えている。嘉永の富田永世著上野名跡誌には、安倍貞任の残党の霊を祭ったのだとも、越後風土記に見えた土蜘蛛八握脛を祭ったのだとも云うとある。また安政の毛呂権蔵著上野国志によるに、貞任の残党説は、その社の別当国泉寺の寺記から出ているらしい。国志の記する土人の説には、
上古長人あつて人民を劫掠す。此の地に懸崖あり、其の半腹に窟あり。此人藤を以て山上より縋りて窟中に隠れ住し、夜は出でゝ劫掠す。百姓之を愁ふ。久しうして後其宅窟を審察して、藤縄を剪断す。長人去る事能はず、終に窟中に斃る。其脛八掬あり。後人奇として之を祀るといへり。
とある。
大太郎法師と同じく、一つの巨人伝説の附会したものである。
足長の神は他に所見が少いが、手長の神は各地に多い。延喜式には、壱岐国壱岐郡
手長比売神社、同国石田郡
天手長男神社・
天手長比売神社があって、後の二社は名神大社と仰がれ、その手長男神社は同国一の宮ともなっている。祭神は一宮記に、
天思兼命の一男とあるが、もとより拠るところを知らぬ。太宰管内志には文化十年の壱岐島式社考を引いて、祭神天忍穂耳尊・
手力雄命・
天鈿女命とある。また手長比売神社の祭神は、同書に壱岐図説を引いて、忍穂耳尊の妃
栲幡千々姫命と、稚日命・木花開耶姫命・豊玉姫命・玉依姫命だとしてあるが、果して旧説承けるところがあるか否かわからぬ。
関東・奥州にはことに手長の社が多い。中にも有名なのは磐城宇多郡(今相馬郡)新地村の手長明神で、これは
貝塚と関係のある神らしい。奥羽観蹟聞老志に、
新地村の中に農家あリ[#「農家あリ」はママ]、貝塚居といふ。往昔神あり、平日は伊具の※狼山[#「鹿/(暇-日)」、37-13]に居て好んで貝子を食ふ。臂肘甚だ長く、屡長臂を山巓に伸べて数千の貝子を東溟の中に撮り、其の子を嚼ひ、殻を茲の地に棄つ。委積して丘の如し。郷人其の神を称して手長明神と謂ふ。委殻の地之を貝塚と謂ふ。其の朽貝腐殻如今なほ存す。
とある。同書伊具郡の条にも同様の事が書いてある、同郡山上村にも手長明神があって、類似の説を伝え、附近には貝塚があり、参詣者は貝殻を納めるを例とするという。常陸風土記那賀郡大櫛岡の条に、「上古人あり体極めて長大、身丘壟の上に居て蜃を採て之を食ふ。其の食ふ所の貝積聚りて岡を為す」とあるのと全く同一説話で、けだし後世海岸から離れた地に貝塚のあるのを見て、手の長い人が遠方の海から貝を取ったものだとの空想を描いたものであろう。
しかし手長明神は貝塚にのみ伴うているのではない。かつて武蔵大里郡を旅行して、深谷町の東北、路傍の古墳の上に手長大明神と書いた幟の幾本も立っているのを見た事がある。これを祭る人の心では、お稲荷様とか
道祖神とかを祭ると同じ様に、幸福を祈る外に深い意味はないのであろうが、これを手長と云い、足長と云い、或いは八握脛・長髄明神などというところに、或る理由がなければならぬ。
手長、足長については日本紀に面白い解釈がある。神武天皇が葛城の土蜘蛛を誅し給う条に、「土蜘蛛の人と為りや
身短く手足長く、侏儒と相類す」とある。土蜘蛛の民族的研究は、いずれ本誌上で詳論する予定であるが、結局は先住民族の或る者に対した貶称で、摂津風土記に説明してある如く、彼ら穴中に居たからの名であろう。これを日本語によって旧説の如く「
土籠」と解するか、中田法学博士のかつて史学雑誌で論ぜられた如く、アイヌ語のトンチカムイすなわち土窟中の住民を呼んだ名だとするか、いずれにしても穴住居の先住民を賤んで呼んだという風土記の説は動かぬ。これを古書には往々「土雲」と仮字書きしてあるが、普通に「土蜘蛛」の文字を当てるので、虫の蜘蛛に連想して、身短かく手足長き人だとの説も起ったのである。しかし事実上においても、彼らは幾らか手足の発育のよかったものであったかもしれぬ。大串博士の調査によるに、河内の国府の遺蹟から出た人骨は、普通の日本人に比して、割合に手足が長いという。太古山野を跋渉するに慣れ、座る事の少かった人民は、自然にこの傾向があったかとも思われる。かくて彼らは、或いは時に
八握脛とも呼ばれた。越後風土記には、奈良朝当時なおこの地に属類の多く存した或る種族を以て、崇神天皇朝の
八掬脛の
遺
で、その先祖は土雲だとある。大和において神武天皇に反抗した長髄彦も、畢竟は脚の長い男の義で、もと土蜘蛛と名付けた俗伝が、遂には堂々たる史上の敵軍の大将の名となったものであろう。利根郡の八握脛社を、一に長髄明神というのは、正にこの説を裏書している。国泉寺記にこの神を安倍貞任の残党だとあるのも、全く拠のない説ではない。貞任はもと長髄彦の兄たる安日の後裔だと伝えられていて、明らかに
俘囚の族であったから、長髄明神の名からこの説があるのも無理はない。
要するに手長・足長は、先住穴居民が一旦土蜘蛛の名によって、手足の長い人と信ぜられ、再転して巨人伝説中に収容せられ、或いは遠方の貝を採ったという話などから、手の長い事を主として手長と云い、或いは高い山に昇降したという話などから、足の長い事を主として八握脛などと呼んだものではなかろうか。そしてそれが貝塚や古墳に関係して語り伝えられ、遂にはさらぬ所にも、俗間信仰の神として祭られるに至ったのではあるまいか。三才図会に長脚国・長臂国とあるのも、東海の国に手足の長い人が居て、魚を捕って喰ったという俗伝が彼に伝わって、そんな想像を描くに至ったのかもしれない。
手長という語の出来たのはすこぶる古い。既に文徳天皇嘉祥三年において、壱岐の手長男神・手長姫神が官社に列せられたのを以てみても察せられる。既にこれを手長という事から、御世の長きを祈り、
寿の長きを祝う詞に、往々この語を用いた。延喜式祈年祭・六月
月次祭などの
祝詞に、「
皇孫命の御世を
手長の御世と
堅磐に
常磐に
斎ひ奉る」と云い、伊勢大神宮六月月次祭の祝詞には、「
天皇が
御命にます
御寿を、
手長の御寿と
湯津磐村の如く、常磐に堅磐にいかし御世に
幸はひ給ひ」などともある。この「手長」を賀茂真淵翁は、「手」は発語で単に長い意味だと云い、本居宣長翁は「
足長」の義だと説かれたが、自分はやはり手長の神に関係して考えたい。無論この際において、それが土蜘蛛だという思想はなく、単に手長という語があるところから、長きを祝する意に用いたものであろう。
今一つ併せ考うべきは、古え饗宴の給仕人の或る者を「手長」と云った事で今も寺院にはこの称がある。宇治拾遺物語「寂照上人鉢を飛ばす事」の条に、
王のたまはく、今日の斎筵は手長の役あるべからず、各我が鉢を飛ばせやりて物は受くべしとのたまふ。
とある。この外日記類に散見するところが甚だ多い。
康平記、康平五年正月二十日条、
左近少将政長為二尊者手長一。同少将俊明為二主人手長一。
小右記長徳二年八月条、
手長誰人可二奉仕一乎。
台記仁平四年正月十四日条、
景良雖二六位一奉‐二仕端座手長一。……公卿座将監手長、以将・弁・少納言座無二手長一
玉海、仁安二年十二月九日条、
摂政・左府・下官・内府等、皆手長以下人兼居レ之。
吾妻鏡、康元二年二月二日条、
仲家役送、資茂勤二同手長一。
大乗院寺社雑事記、文明十二年七月二日条、
寺務前手長並役送持‐二参鳥口一、献二御酒一。
など、この外にも所見すこぶる多い。大諸礼に、
手長といふは膳部の方より請取、通の方へ渡すを手長といふなり。
と説明してある。されば倭訓栞には、「今云ふ手伝の人なり」と云い、上田博士・松井簡治氏合著の国語辞典には、「仲居の事なり」と解しているが、共にこれを手長という理由に至っては説いてない。柳田國男君の郷土研究(二巻二号)には、
手長の意味は主公自ら手を延ばして物を調べると同一の結果を得るからで、言はゞ居間から玄関又は勝手元へ届く様な手を言ふことであらう。
と説いておられる。まことに面白い解釈で、手長を単に仲居の場合に見立てたなら、これで十分説明が出来そうである。しかし中古饗宴の際の仲居の役廻りには、
後取・
陪膳・
役送・
手長とあって、それぞれ受持ちが違っておった様である。江次第に、「
陪膳の女房御酒盞を取る。」、「御酒盞の余分、御銚子の余分等を大土器に移し入れて、伝へて
後取人に給し、其の人飲み
畢る」、藤原明衡の雲州消息に、「今日奉‐
二仕
後取之役
一。杖
レ酔退出」、公事根源に、「昔は上戸を選で
後取にめしけるとかや」、三中口伝に、「
役送打敷を取て
陪膳に進む」、台記に、「
陪膳地下五位進み居り、
役送地下五位折敷を取る。」、「
手長外記、
益送(役送に同じ)
史。」など見え、大諸礼には、
膳を出すに先手長の衆一間に二人づゝ有之よし。是は座敷より見えぬ所まで参もの也。
ともあって、手長は仲居の仕事の或る一部のみを勤めたものであったらしい。それにしても、手が長いのは便利であるが、それだけでは、やや落ちつかぬ感がないでもない。ことにそれを手長明神にまで説き及ぼして、この神各地の神社の末社にあって、
仲居の神・巫祝の家の神、侍従の神の意に解せられんとするに至っては、やや窮屈の感があるではなかろうか。自分の知っている限りでは、手長の神が末社にある場合もあるが、磐城の手長明神を始めとして、独立の神たる場合が多い。そこでしいてこの手長明神と、饗宴の手長との間に関係を求めるならば、自分はやはりこれを先住民の意に見て、もと饗宴に手長、足長族を使役したのが起原だと解したい。一段と低級に見られた民族が、コックの役を勤めるのは今も例が多い。支那でも君子は庖厨を遠ざくとあって、料理番はあまり名誉の職ではなかった。我が古代でも内膳司の長官は、安曇・高橋の二氏が任ぜられる例であったが、この二氏ともに手長族に縁がある。高橋氏は景行天皇東幸の際の御膳の役を勤めたものの子孫だと云う事で、新撰姓氏録には、
宍人朝臣・阿倍朝臣などと同じく、大彦命の後だとあるが、宍人とは獣肉を調理する役廻りで、後世ならば
屠者すなわち賤者の任務だ。また阿倍氏は、大彦命の子孫だとして著名ではあるが、その一族として知られたものの中には、
俘囚の家柄も少くない。俘囚の長たる安倍貞任の如きは、後からやはり大彦命に関係はつけているものの、その子孫たる秋田氏では、その実長髄彦の兄の後裔で、神武天皇以前の家柄を伝えた事を、むしろ誇りとしておられるそうである。しからばこの阿倍・高橋・宍人等の仲間には、大彦命よりはさらに古い家柄のものが、何らかの関係で、系図をこれに仮托したものも少からぬを認めたい。よしやその部長たる高橋朝臣は真に大彦命の後であったとしても、その部下たる
膳夫輩には、調理に長じた先住民の後の少からぬことを認めたい。また安曇氏は
海人の長とあって、海人の中には明らかに土蜘蛛の子孫と称せられたものもあり、しからざるもこれが多く先住民の後たることは、種々の点から認定せられるのである。しからば古えの膳夫には、往々にして手長・足長族の人が多かったと言わねばならぬ。大国主神国譲りの際に、
水戸神の孫を
膳夫としたというのも、水に住む漁夫がこの役を勤めた習慣を示している。ことに日本武尊東征の際の
膳夫は
七掬脛だとある。八掬脛よりはやや短いが、これは百里に足らぬ九十九里浜の類で、やはり長髄彦の仲間として、足長族たることを示している。
古代の膳夫が果して手長・足長の族であったとしたならば、これを呼ぶに手長の綽名を以てし、遂にそれが給仕人の或る者に遺ったと解するのもあながち無理ではあるまい。
これを要するに手長・足長とは、土蜘蛛の名を以て呼ばれた或る先住民に関する俗説で、それが貝塚なり古墳なりに関係して語り伝えられ、遂に俗信上の神として祭られるに至って、往々他の神社の境内に寄寓する事、道祖神・百大夫などと同じ有様となったものであろう。東海の長臂国・長脚国の思想も、或いはこれに関係を持っているかもしれぬ。そして一方では、古代その族人が膳夫として貴紳に仕えたので、手長の名が後までも給仕人の或る者に遺ったのではあるまいか。
以上は全く自分の臆説である。なおこれに関連した土蜘蛛の研究は、他日改めて発表するの期を待たれたい。