この雨は
間もなく
霽れて、庭も山も青き
天鵞絨に
蝶花の
刺繍ある
霞を落した。何んの
余波やら、
庵にも、座にも、
袖にも、
菜種の
薫が
染みたのである。
出家は、さて
日が
出口から、裏山のその
蛇の
矢倉を案内しよう、と
老実やかに勧めたけれども、この際、
観音の
御堂の
背後へ通り越す
心持はしなかったので、
挨拶も
後日を期して、散策子は、やがて
庵を辞した。
差当り、出家の物語について、何んの思慮もなく、批評も出来ず、感想も
陳べられなかったので、言われた事、話されただけを、
不残鵜呑みにして、
天窓から
詰込んで、胸が
膨れるまでになったから、
独り
静に
歩行きながら、
消化して胃の
腑に落ちつけようと思ったから。
対手も出家だから
仔細はあるまい、(さようなら)が
些と
唐突であったかも知れぬ。
ところで、石段を
背後にして、
行手へ例の二階を置いて、
吻と息をすると……、
「
転寐に……」
と
先ず口の
裏でいって見て、小首を傾けた。
杖が邪魔なので
腕の
処へ
揺り上げて、
引包んだその
袖ともに腕組をした。菜種の
花道、幕の外の
引込みには
引立たない
野郎姿。雨上りで
照々と日が射すのに、薄く一面にねんばりした
足許、
辷って転ばねば
可い。
「恋しき人を見てしより……夢てふものは、」
とちょいと顔を上げて見ると、左の
崕から
椎の樹が横に出ている――遠くから
視めると、これが石段の根を仕切る緑なので、――
庵室はもう
右手の
背後になった。
見たばかりで、すぐにまた、
「夢と言えば、これ、自分も何んだか夢を見ているようだ。やがて目が
覚めて、ああ、
転寐だったと思えば夢だが、このまま、覚めなければ夢ではなかろう。
何時か聞いた事がある、
狂人と
真人間は、
唯時間の長短だけのもので、風が立つと時々波が荒れるように、誰でもちょいちょいは
狂気だけれど、直ぐ、
凪ぎになって、のたりのたりかなで済む。もしそれが静まらないと、浮世の波に乗っかってる我々、ふらふらと脳が揺れる、
木静まらんと欲すれども風やまずと来た日にゃ、船に
酔う、その浮世の波に浮んだ船に酔うのが、たちどころに
狂人なんだと。
危険々々。
ト来た日にゃ夢もまた
同一だろう。目が覚めるから、夢だけれど、いつまでも覚めなけりゃ、夢じゃあるまい。
夢になら恋人に逢えると
極れば、こりゃ
一層夢にしてしまって、世間で、
誰某は? と尋ねた時、はい、とか何んとか言って、
蝶々二つで、ひらひらなんぞは悟ったものだ。
庵室の客人なんざ、今聞いたようだと、夢てふものを
頼み切りにしたのかな。」
と考えが
道草の蝶に
誘われて、ふわふわと
玉の
緒が菜の花ぞいに伸びた
処を、風もないのに、
颯とばかり、
横合から雪の
腕、
緋の
襟で、つと
爪尖を反らして足を
踏伸ばした姿が、
真黒な馬に乗って、
蒼空を
飜然と飛び、帽子の
廂を
掠めるばかり、大波を乗って、
一跨ぎに
紅の虹を
躍り越えたものがある。
はたと、これに空想の
前途を
遮られて、驚いて
心付くと、
赤楝蛇のあとを過ぎて、
機を織る
婦人の
小家も通り越していたのであった。
音はと思うに、きりはたりする声は聞えず、山越えた
停車場の
笛太鼓、大きな時計のセコンドの如く、胸に響いてトトンと鳴る。
筋向いの
垣根の
際に、こなたを待ち受けたものらしい、
鍬を
杖いて立って、
莞爾ついて、のっそりと
親仁あり。
「はあ、もし今帰らせえますかね。」
「や、先刻は。」
その
莞爾々々の顔のまま、
鍬を離した手を
揉んで、
「何んともハイ
御しんせつに言わっせえて下せえやして、お
庇様で、
私、えれえ
手柄して礼を聞いたでござりやすよ。」
「別に迷惑にもならなかったかい。」
と
悠々としていった時、少なからず
風采が
立上って見えた。
勿論、
対手は
件の親仁だけれど。
「迷惑
処ではござりましねえ、かさねがさね礼を言われて、
私大くありがたがられました。」
「じゃ、むだにならなかったかい、お前さんが始末をしたんだね。」
「竹ン
尖で
圧えつけてハイ、山の根っこさ
藪の中へ棄てたでごぜえます。女中たちが殺すなと言うけえ。」
「その方が
心持が
可い、命を取ったんだと、そんなにせずともの事を、
私が
訴人したんだから、
怨みがあれば、こっちへ
取付くかも分らずさ。」
「はははは、旦那様の前だが、やっぱりお好きではねえでがすな。奥にいた女中は、蛇がと聞いただけでアレソレ
打騒いで
戸障子へ
当っただよ。
私先ず
庭口から入って、
其処さ
縁側で
案内して、それから
台所口に行ってあっちこっち探索のした
処、何が、お前様
御勘考さ違わねえ、
湯殿に西の
隅に、べいらべいら舌さあ
吐いとるだ。
思ったより
大うがした。
畜生め。われさ
行水するだら
蛙飛込む
古池というへ行けさ。化粧部屋
覗きおって
白粉つけてどうしるだい。
白鷺にでも
押惚れたかと、ぐいとなやして動かさねえ。どうしべいな、長アくして思案のしていりゃ、遠くから足の
尖を
爪立って、お殺しでない、
打棄っておくれ、
御新姐は病気のせいで
物事気にしてなんねえから、と女中たちが口を
揃えていうもんだでね、
芸もねえ、
殺生するにゃ当らねえでがすから、
藪畳みへ
潜らして
退けました。
御新姐は、気分が
勝れねえとって、二階に寝てござらしけえ。
今しがた
小雨が降って、お天気が上ると、お
前様、雨よりは大きい
紅色の露がぽったりぽったりする、あの桃の木の下の
許さ、
背戸口から
御新姐が、紫色の
蝙蝠傘さして出てござって、(
爺やさん、今ほどはありがとう。その
厭なもののいた事を、通りがかりに知らして下すったお方は、
巌殿の方へおいでなすったというが、まだお帰りになった様子はないかい。)ッて聞かしった。
(どうだかね、
私、
内方へ参ったは
些との
間だし、雨に
駈出しても来さっしゃらねえもんだで、まだ帰らっしゃらねえでごぜえましょう。
それとも身軽でハイずんずん行かっせえたもんだで、山越しに
名越の方さ
出さっしゃったかも知れましねえ、)言うたらばの。
(お見上げ申したら、よくお礼を申して下さいよ。)ッてよ。
その溝さ
飛越して、その
路を、」
垣の外のこなたと
同一通筋。
「ハイぶうらりぶうらり、
谷戸の方へ、行かしっけえ。」
と言いかけて
身体ごと、この
巌殿から
橿原へ出口の方へ振向いた。身の
挙動が
仰山で、さも用ありげな
素振だったので、散策子もおなじくそなたを。……
帰途の
渠にはあたかも
前途に当る。
「それ見えるでがさ。の、
彼処さ土手の上にござらっしゃる。」
錦の帯を解いた様な、
媚めかしい草の上、雨のあとの
薄霞、山の
裾に
靉靆く
中に
一張の
紫大きさ
月輪の如く、はた
菫の花束に似たるあり。
紫羅傘と書いていちはちの花、字の通りだと、それ美人の持物。
散策子は
一目見て、早く既にその
霞の
端の、ひたひたと来て
膚に
絡うのを覚えた。
彼処とこなたと、言い知らぬ、春の景色の繋がる中へ、
蕨のような
親仁の手、
無骨な指で
指して、
「
彼処さ、それ、
傘の陰に
憩んでござる。はははは、礼を聞かっせえ、待ってるだに。」
横に落した紫の傘には、あの
紫苑に来る、
黄金色の昆虫の
翼の如き、
煌々した日の光が
射込んで、草に輝くばかりに見える。
その
蔭から、しなやかな
裳が、土手の
翠を左右へ残して、線もなしに、よろけ
縞のお
召縮緬で、
嬌態よく仕切ったが、油のようにとろりとした、雨のあとの
路との間、あるかなしに、細い
褄先が
柔かくしっとりと、
内端に
掻込んだ
足袋で
留まって、
其処から
襦袢の
友染が、豊かに膝まで
捌かれた。
雪駄は
一ツ土に脱いで、片足はしなやかに、草に曲げているのである。
前を通ろうとして、我にもあらず
立淀んだ。散策子は、
下衆儕と
賭物して、鬼が出る
宇治橋の夕暮を、
唯一騎、東へ
打たする
思がした。
かく近づいた
跫音は、
件の紫の傘を
小楯に、土手へかけて
悠然と
朧に投げた、
艶にして
凄い
緋の
袴に、
小波寄する
微な響きさえ与えなかったにもかかわらず、こなたは一ツ
胴震いをして、
立直って、我知らず肩を
聳やかすと、
杖をぐいと振って、
九字を切りかけて、
束々と通った。
路は、あわれ、鬼の脱いだその
沓を
跨がねばならぬほど狭いので、心から、一方は海の
方へ、一方は
橿原の山里へ、一方は
来し
方の
巌殿になる、
久能谷のこの出口は、あたかも、ものの
撞木の
形。前は一面の
麦畠。
正面に、
青麦に対した時、散策子の
面はあたかも酔えるが如きものであった。
南無三宝声がかかった。それ、言わぬことではない。
「…………」
一散に
遁げもならず、
立停まった
渠は、馬の尾に油を塗って置いて、
鷲掴みの
掌を
辷り抜けなんだを
口惜く思ったろう。
「
私。」
と振返って、
「ですかい、」と言いつつ
一目見たのは、
頭禿に
歯豁なるものではなく、日の光
射す紫のかげを
籠めた
俤は、
几帳に宿る月の影、雲の
鬢、
簪の星、
丹花の唇、
芙蓉の
眦、柳の腰を草に
縋って、
鼓草の花に浮べる
状、虚空にかかった
装である。
白魚のような指が、ちょいと、
紫紺の
半襟を引き合わせると、美しい
瞳が動いて、
「失礼を……」
と
唯莞爾する。
「はあ、」と言ったきり、腰のまわり、
遁げ
路を見て置くのである。
「
貴下お呼び
留め申しまして、」
とふっくりとした胸を上げると、やや
凭れかかって土手に寝るようにしていた姿を前へ。
「はあ、
何、」
真正直な顔をして、
「私ですか、」と空とぼける。
「
貴下のようなお姿だ、と聞きましてございます。
先刻は、
真に御心配下さいまして、」
徐ら、雪のような
白足袋で、脱ぎ棄てた
雪駄を
引寄せた時、
友染は一層はらはらと、模様の花が
俤に立って、ぱッと
留南奇の
薫がする。
美女は
立直って、
「お
蔭様で災難を、」
と
襟首を見せてつむりを下げた。
爾時独武者、
杖をわきばさみ、
兜を脱いで、
「ええ、何んですかな、」と
曖昧。
美女は親しげに笑いかけて、
「ほほ、
私はもう災難と申します。災難ですわ、
貴下。あれが座敷へでも入りますか、知らないでいて御覧なさいまし、当分
家を
明渡して、
何処かへ参らなければなりませんの。
真個にそうなりましたら、どうしましょう。お
庇様で
助りましてございますよ。ありがとう存じます。」
「それにしても、私と
極めたのは、」
と思うことが思わず口へ出た。
これは
些と調子はずれだったので、聞き返すように、
「ええ、」
「
先刻の、あの
青大将の事なんでしょう。それにしても、よく私だというのが分りましたね、驚きました。」
と
棄鞭の
遁構えで、駒の
頭を
立直すと、なお
打笑み、
「そりゃ知れますわ。こんな
田舎ですもの。そして御覧の通り、人通りのない
処じゃありませんか。
貴下のような
方の
出入は、
今朝ッからお一人しかありませんもの。
丁と存じておりますよ。」
「では、あの
爺さんにお聞きなすって、」
「
否、私ども石垣の前をお通りがかりの時、二階から
拝みました。」
「じゃあ、私が青大将を見た時に、」
「
貴下のお姿が
楯におなり下さいましたから、
爾時も、
厭なものを見ないで済みました。」
と少し
打傾いて
懐しそう。
「ですが、
貴女、」とうっかりいう、
「はい?」
と
促がすように言いかけられて、ハタと
行詰ったらしく、
杖をコツコツと
瞬一ツ、唇を
引緊めた。
追っかけて、
「何んでございますか、聞かして
頂戴。」
と
婉然とする。
慌て気味に
狼狽つきながら、
「
貴女は、
貴女は気分が悪くって寝ていらっしゃるんだ、というじゃありませんか。」
「あら、こんなに
甲羅を
干しておりますものを。」
「へい、」と、
綱は
目を

って、ああ、我ながらまずいことを言った
顔色。
美女はその顔を
差覗く
風情して、
瞳を斜めに
衝と流しながら、
華奢な
掌を
軽く頬に当てると、
紅がひらりと
搦む、
腕の雪を払う音、さらさらと
衣摺れして、
「
真個は、寝ていましたの……」
「何んですッて、」
と
苦笑。
「でも
爾時は寝ていやしませんの。
貴下起きていたんですよ。あら、」
とやや
調子高に、
「何を言ってるんだか分らないわねえ。」
馴々しくいうと、急に胸を
反らして、すッきりとした
耳許を見せながら、顔を
反向けて
俯向いたが、そのまま
身体の平均を保つように、片足をうしろへ引いて、
立直って、
「
否、寝ていたんじゃなかったんですけども、
貴下のお姿を拝みますと、急に
心持が悪くなって、それから寝たんです。」
「これは
酷い、
酷いよ、
貴女は。」
棄て
身に
衝と寄り進んで、
「じゃ青大将の方が
増だったんだ。だのに、わざわざ
呼留めて、災難を
免れたとまで事を
誇大にして、礼なんぞおっしゃって、元来、私は余計なお世話だと思って、御婦人ばかりの
御住居だと聞いたにつけても、いよいよ
極が悪くって、
此処だって、
貴女、こそこそ
遁げて通ろうとしたんじゃありませんか。それを
大袈裟に礼を言って、
極を悪がらせた上に、姿とは何事です。
幽霊じゃあるまいし、
心持を悪くする姿というがありますか。
図体とか、
状とかいうものですよ。その私の図体を見て、心持が悪くなったは
些と
烈しい。それがために寝たは、残酷じゃありませんか。
要らんおせっかいを申上げたのが、見苦しかったらそうおっしゃい。このお関所をあやまって通して頂く――
勧進帳でも読みましょうか。それでいけなけりゃ仕方がない。元の
巌殿へ
引返して、
山越で
出奔する
分の事です。」
と
逆寄せの決心で、そう言ったのをキッカケに、どかと土手の草へ腰をかけたつもりの
処、負けまい気の、
魔ものの顔を
見詰めていたので、横ざまに落しつけるはずの腰が
据らず、
床几を
辷って、ずるりと大地へ。
「あら、お
危い。」
というが早いか、
眩いばかり目の前へ、
霞を抜けた
極彩色。さそくに
友染の膝を乱して、
繕いもなくはらりと
折敷き、片手が踏み抜いた
下駄一ツ
前壺を押して
寄越すと、
扶け起すつもりであろう、片手が薄色の
手巾ごと、ひらめいて
芬と
薫って、
優しく男の
背にかかった。
南無観世音大菩薩………助けさせたまえと、散策子は心の
裏、
陣備も
身構もこれにて
粉になる。
「お
足袋が泥だらけになりました、
直き
其処でござんすから、ちょいとおいすがせ申しましょう。お
脱ぎ遊ばせな。」
と指をかけようとする
爪尖を、
慌しく
引込ませるを
拍子に、
体を引いて、今度は
大丈夫に、背中を土手へ寝るばかり、ばたりと腰を
懸ける。
暖い草が、ちりげもとで
赫とほてって、汗びっしょり、まっかな顔をしてかつ目をきょろつかせながら、
「構わんです、構わんです、こんな
足袋なんぞ。」
ヤレまた落語の
前座が言いそうなことを、とヒヤリとして、
漸と
瞳を
定めて見ると、
美女は
刎飛んだ
杖を拾って、しなやかに両手でついて、
悠々と立っている。
羽織なしの
引かけ
帯、ゆるやかな
袷の着こなしが、いまの身じろぎで、
片前下りに
友染の
紅匂いこぼれて、
水色縮緬の
扱帯の
端、ややずり
下った
風情さえ、
杖には似合わないだけ、あたかも人質に取られた形――
可哀や、お
主の身がわりに、恋の
重荷でへし折れよう。
「
真個に済みませんでした。」
またぞろ
先を越して、
「
私、どうしたら
可いでしょう。」
と思い案ずる目を
半ば閉じて、
屈託らしく、
盲目が
歎息をするように、ものあわれな
装して、
「うっかり飛んだ事を申上げて、私、そんなつもりで言ったんじゃありませんわ。
貴下のお姿を見て、それから
心持が悪くなりましたって、
言通りの事が、もし
真個なら、どうして口へ出して言えますもんですか。
貴下のお姿を見て、それから心持が悪く……」
再び口の
裏で繰返して見て、
「おほほ、まあ、
大概お察し遊ばして下さいましなね。」
と楽にさし寄って、
袖を土手へ敷いて
凭れるようにして並べた。春の草は、その肩あたりを
翠に仕切って、二人の
裾は、
足許なる麦畠に臨んだのである。
「そういうつもりで申上げたんでござんせんことは、よく分ってますじゃありませんか。」
「はい、」
「ね、
貴下、」
「はい、」
と無意味に
合点して
頷くと、まだ心が済まぬらしく、
「
言とがめをなすってさ、
真個にお人が悪いよ。」
と
異に
搦む。
聊か
弁ぜざるべからず、と横に見向いて、
「人の悪いのは
貴女でしょう。
私は何も
言とがめなんぞした覚えはない。心持が悪いとおっしゃるからおっしゃる通りに
伺いました。」
「そして、腹をお立てなすったんですもの。」
「
否、恐縮をしたまでです。」
「そこは
貴下、お察し遊ばして下さる
処じゃありませんか。
言の
綾もございますわ。朝顔の葉を御覧なさいまし、表はあんなに薄っぺらなもんですが、裏はふっくりしておりますもの……裏を聞いて下さいよ。」
「裏だと……お待ちなさいよ。」
ええ、といきつぎに目を
瞑って、
仰向いて
一呼吸ついて、
「
心持が悪くなった反対なんだから、私の姿を見ると、それから心持が
善くなった――事になる――
可い
加減になさい、馬鹿になすって、」
と
極めつける。
但し笑いながら。
清しい目で
屹と見て、
「むずかしいのね? どう言えばこうおっしゃって、
貴下、弱いものをおいじめ遊ばすもんじゃないわ。
私は
煩っているんじゃありませんか。」
草に手をついて膝をずらし、
「お聞きなさいましよ、まあ、」
と
恍惚したように
笑を含む
口許は、
鉄漿をつけていはしまいかと思われるほど、
婀娜めいたものであった。
「まあ、私に、恋しい
懐しい
方があるとしましょうね。
可うござんすか……」
「恋しい
懐しい
方があって、そしてどうしても
逢えないで、夜も
寐られないほどに思い詰めて、心も乱れれば気も狂いそうになっておりますものが、せめて
肖たお方でもと思うのに、この頃はこうやって
此処らには東京からおいでなすったらしいのも見えません
処へ、何年ぶりか、
幾月越か、フトそうらしい、
肖た姿をお見受け申したとしましたら、
貴下、」
と
手許に
丈のびた影のある、
土筆の根を
摘み
試み、
「
爾時は……、そして何んですか、
切なくって、あとで
臥ったと申しますのに、
爾時は、どんな
心持でと言って
可いのでございましょうね。
やっぱり、あの、
厭な心持になって、というほかはないではありませんか。それを申したんでございますよ。」
一言もなく……しばらくして、
「じゃ、そういう
方がおあんなさるんですね、」と
僅に
一方へ
切抜けようとした。
「御存じの
癖に。」
と、
伏兵大いに起る。
「ええ、」
「御存じの癖に。」
「今お目にかかったばかり、お名も何も存じませんのに、どうしてそんな事が分ります。」
うたゝ
寐に恋しき人を見てしより、その、みを、という名も知らぬではなかったけれども、夢のいわれも聞きたさに。
「それでも、私が
気疾をしております事を御存じのようでしたわ。
先刻、」
「それは、何、あの
畑打ちの
爺さんが、蛇をつかまえに行った時に、
貴女はお二階に、と言って、ちょっと御様子を
漏らしただけです。それも
唯御気分が悪いとだけ。
私の形を見て、お心持が悪くなったなんぞって事は、
些とも話しませんから、知ろう
道理はないのです。
但礼をおっしゃるかも知れんというから、
其奴は困ったと思いましたけれども、
此処を通らないじゃ帰られませんもんですから。こうと分ったら穴へでも入るんだっけ。お目にかかるのじゃなかったんです。しかし私が知らないで、二階から御覧なすっただけは、そりゃ仕方がない。」
「まだ、あんな事をおっしゃるよ。そうお疑いなさるんなら申しましょう。
貴下、このまあ
麗かな、樹も、草も、血があれば
湧くんでしょう。
朱の色した日の光にほかほかと、土も
人膚のように
暖うござんす。竹があっても暗くなく、花に陰もありません。燃えるようにちらちら咲いて、水へ散っても
朱塗の
杯になってゆるゆる流れましょう。海も
真蒼な酒のようで、空は、」
と白い
掌を、膝に
仰向けて
打仰ぎ、
「緑の油のよう。とろとろと、
曇もないのに
淀んでいて、夢を見ないかと勧めるようですわ。山の形も
柔かな
天鵞絨の、ふっくりした
括枕に似ています。そちこち
陽炎や、
糸遊がたきしめた濃いたきもののように
靡くでしょう。
雲雀は鳴こうとしているんでしょう。
鶯が、遠くの方で、低い
処で、こちらにも里がある、楽しいよ、と鳴いています。何不足のない、
申分のない、目を
瞑れば直ぐにうとうとと夢を見ますような、この春の
日中なんでございますがね、
貴下、これをどうお考えなさいますえ。」
「どうと言って、」
と
言に連れられた春のその
日中から、
瞳を
美女の姿にかえした。
「
貴下は、どんなお心持がなさいますえ、」
「…………」
「お
楽みですか。」
「はあ、」
「お
嬉しゅうございますか。」
「はあ、」
「お
賑かでございますか。」
「
貴女は?」
「私は心持が悪いんでございます、
丁ど
貴下のお姿を拝みました時のように、」
と言いかけて
吻と小さなといき、人質のかの
杖を、斜めに両手で膝へ取った。
情の海に
棹す姿。思わず腕組をして
熟と見る。
「この春の日の
日中の心持を申しますのは、夢をお話しするようで、何んとも口へ出しては言えませんのね。どうでしょう、このしんとして
寂しいことは。やっぱり、夢に
賑かな
処を見るようではござんすまいか。
二歳か
三歳ぐらいの時に、
乳母の背中から見ました、
祭礼の町のようにも思われます。
何為か、秋の暮より今、この
方が心細いんですもの。それでいて汗が出ます、汗じゃなくってこう、あの、暖かさで、心を
絞り出されるようですわ。苦しくもなく、
切なくもなく、血を絞られるようですわ。
柔かな木の葉の
尖で、骨を抜かれますようではございませんか。こんな時には、
肌が
蕩けるのだって言いますが、私は何んだか、水になって、その溶けるのが消えて
行きそうで涙が出ます、涙だって、悲しいんじゃありません、そうかと言って
嬉しいんでもありません。
あの
貴下、
叱られて出る涙と慰められて出る涙とござんすのね。この春の日に出ますのは、その慰められて泣くんです。やっぱり悲しいんでしょうかねえ。おなじ
寂しさでも、秋の暮のは自然が寂しいので、春の日の寂しいのは、人が寂しいのではありませんか。
ああ
遣って、
田圃にちらほら見えます人も、秋のだと、しっかりして、てんでんが景色の寂しさに負けないように、
張合を持っているんでしょう。見た
処でも、しょんぼりした
脚にも気が入っているようですけれど、今しがたは、すっかり
魂を抜き取られて、ふわふわ浮き上って、あのまま、鳥か、
蝶々にでもなりそうですね。心細いようですね。
暖い、
優しい、
柔かな、すなおな風にさそわれて、
鼓草の花が、ふっと、
綿になって消えるように
魂がなりそうなんですもの。極楽というものが、アノ
確に目に見えて、そして死んで
行くと
同一心持なんでしょう。
楽しいと知りつつも、
情ない、心細い、頼りのない、悲しい事なんじゃありませんか。
そして涙が出ますのは、悲しくって泣くんでしょうか、甘えて泣くんでしょうかねえ。
私はずたずたに切られるようで、胸を掻きむしられるようで、そしてそれが痛くも
痒くもなく、日当りへ桃の花が、はらはらとこぼれるようで、
長閑で、
麗で、美しくって、それでいて
寂しくって、雲のない空が頼りのないようで、緑の野が
砂原のようで、
前生の事のようで、目の前の事のようで、心の内が言いたくッて、言われなくッて、
焦ッたくって、
口惜くッて、いらいらして、じりじりして、そのくせぼッとして、うっとり
地の底へ
引込まれると申しますより、空へ
抱き上げられる
塩梅の、何んとも言えない
心持がして、それで寝ましたんですが、
貴下、」
小雨が晴れて日の照るよう、
忽ち
麗なおももちして、
「こう申してもやっぱりお気に
障りますか。
貴下のお姿を見て、心持が悪くなったと言いましたのを、まだ許しちゃ下さいませんか、おや、
貴下どうなさいましたの。」
身動ぎもせず聞き
澄んだ散策子の
茫然とした目の前へ、
紅白粉の烈しい
流が
眩い日の光で
渦いて、くるくると廻っていた。
「何んだか、私も変な心持になりました、ああ、」
と
掌で目を払って、
「で、そこでお休みになって、」
「はあ、」
「夢でも御覧になりましたか。」
思わず口へ出したが、言い直した、余り
唐突と
心付いて、
「そういうお
心持でうたた
寐でもしましたら、どんな夢を見るでしょうな。」
「やっぱり、
貴下のお姿を見ますわ。」
「ええ、」
「
此処にこうやっておりますような。ほほほほ。」
と言い知らずあでやかなものである。
「いや、
串戯はよして、その
貴女、恋しい、
慕わしい、そしてどうしても、もう
逢えない、とお言いなすった、その
方の事を御覧なさるでしょうね。」
「その
貴下に
肖た、」
「
否さ、」
ここで顔を見合わせて、二人とも

っていた草を同時に棄てた。
「なるほど。
寂としたもんですね、どうでしょう、この
閑さは……」
頂の松の中では、
頻に
目白が
囀るのである。
「またこの
橿原というんですか、山の
裾がすくすく
出張って、大きな
怪物の土地の神が海の方へ向って、天地に開いた口の、奥歯へ
苗代田麦畠などを、
引銜えた形に見えます。
谷戸の方は、こう見た
処、何んの影もなく、春の日が
行渡って、
些と
曇があればそれが
霞のような、
長閑な景色でいながら、何んだか
厭な
心持の処ですね。」
美女は身を震わして、
何故か
嬉しそうに、
「ああ、
貴下もその(
厭な心持)をおっしゃいましたよ。じゃ、もう私もそのお話をいたしましても
差支えございませんのね。」
「
可うございます。ははははは。」
トちょっと
更まった
容子をして、うしろ見られる
趣で、その
二階家の前から
路が
一畝り、
矮い
藁屋の、屋根にも葉にも一面の、
椿の花の
紅の中へ入って、
菜畠へ
纔に
顕れ、
苗代田でまた絶えて、遥かに山の
裾の
翠に添うて、濁った
灰汁の色をなして、ゆったりと向うへ通じて、左右から
突出た山でとまる。
橿原の奥深く、
蒸し
上るように低く
霞の立つあたり、背中合せが
停車場で、その腹へ
笛太鼓の、異様に響く
音を
籠めた。
其処へ、遥かに
瞳を
通わせ、しばらく
茫然とした
風情であった。
「そうですねえ、はじめは、まあ、
心持、あの辺からだろうと思うんですわ、声が聞えて来ましたのは、」
「何んの声です?」
「はあ、私が
臥りまして、枕に髪をこすりつけて、
悶えて、あせって、
焦れて、つくづく
口惜くって、
情なくって、身がしびれるような、骨が溶けるような、心持でいた時でした。
先刻の、あの雨の音、さあっと
他愛なく
軒へかかって通りましたのが、
丁ど
彼処あたりから降り出して来たように、寝ていて思われたのでございます。
あの
停車場の
囃子の音に、
何時か気を取られていて、それだからでしょう。今でも
停車場の人ごみの上へだけは、
細い雨がかかっているように思われますもの。まだ
何処にか
雨気が残っておりますなら、向うの
霞の中でしょうと思いますよ。
と、その細い、
幽な、空を通るかと思う雨の中に、図太い、
底力のある、そして、さびのついた
塩辛声を、腹の底から
押出して、
(ええ、ええ、ええ、
伺います。お話はお
馴染の東京
世渡草、
商人の
仮声物真似。先ず
神田辺の事でござりまして、ええ、
大家の
店前にござります。
夜のしらしら明けに、小僧さんが
門口を
掃いておりますると、
納豆、納豆――)
と申して、
情ない調子になって、
(ええ、お
御酒を頂きまして声が続きません、助けて
遣っておくんなさい。)
と
厭な声が、流れ星のように、尾を
曳いて響くんでございますの。
私は何んですか、
悚然として寝床に足を縮めました。しばらくして、またその(ええ、ええ、)という変な声が聞えるんです。今度は
些と近くなって。
それから段々あの
橿原の
家を向い合いに、飛び飛びに、
千鳥にかけて一軒一軒、
何処でもおなじことを
同一ところまで言って、お
銭をねだりますんでございますがね、
暖い、ねんばりした雨も、その
門附けの足と一緒に、向うへ寄ったり、こっちへよったり、ゆるゆる
歩行いて来ますようです。
その納豆納豆――というのだの、東京というのですの、
店前だの、小僧が
門口を掃いている
処だと申しますのが、何んだか
懐しい、両親の事や、生れました処なんぞ、昔が思い出されまして、
身体を煮られるような心持がして我慢が出来ないで、
掻巻の
襟へ
喰いついて、しっかり胸を
抱いて、そして
恍惚となっておりますと、やがて、
些と強く雨が来て当ります時、
内の
門へ参ったのでございます。
(ええ、ええ、ええ、)
と言い出すじゃございませんか。
(お話はお
馴染の東京
世渡草、
商人の
仮声物真似。先ず
神田辺の事でござりまして、ええ、
大家の店さきでござります。
夜のしらしらあけに、小僧さんが
門口を掃いておりますと、納豆納豆――)
とだけ申して、
(ええ、お
御酒を頂きまして声が続きません、助けて
遣っておくんなさい。)
と一
分一
厘おなじことを、おなじ調子でいうんですもの。私の
門へ来ましたまでに、遠くから
丁ど十三
度聞いたのでございます。」
「女中が直ぐに出なかったんです。
(ねえ、助けておくんなさいな、お
御酒を頂いたもんだからね、声が続かねえんで、えへ、えへ、)
厭な
咳なんぞして、
(
遣っておくんなさいよ、飲み過ぎて
切ねえんで、助けておくんなさい、お
願えだ。)
と言って
独言のように、
貴下、
(
遣り
切ねえや、)ッて、いけ
太々しい
容子ったらないんですもの。
其処らへ、べッべッ
唾をしっかけていそうですわ。
小銭の音をちゃらちゃらとさして、女中が出そうにしましたから、
(
光かい、光や、)
と呼んで、二階の
上り口へ来ましたのを、
押留めるように、
床の中から、
(何んだね、)
と自分でも
些と
尖々しく言ったんです。
(
門附でございます。)
(
芸人かい!)
(はい、)
ッて
吃驚していました。
(
不可いよ、
遣っちゃ
不可ない。
芸人なら芸人らしく芸をして
銭をお取り、とそうお言い。出来ないなら出来ないと言って
乞食をおし。なぜまた自分の芸が出来ないほど酒を呑んだ、と言ってお
遣り。いけ
洒亜々々失礼じゃないか。)
とむらむらとして、どうしたんですか、じりじり胸が煮え返るようで
極めつけますと、
窃と
跫音を忍んで、
光やは、二階を下りましたっけ。
お
恥しゅうございますわ。
甲高かったそうで、よく下まで聞えたと見えます。
表二階にいたんですから。
(何んだって、)
と
門口で
喰ってかかるような声がしました。
枕をおさえて
起上りますと、女中の声で、御病気なんだからと、こそこそいうのが聞えました。
嘲るように、
(病人なら病人らしく死んじまえ。
治るもんなら治ったら
可かろう。何んだって
愚図ついて、
煩っているんだ。)
と
赭顔なのが白い歯を
剥き出していうようです。はあ、そんな心持がしましたの。
(おお、死んで見せようか、死ぬのが何も、)とつっと立つと、ふらふらして
床を
放れて倒れました。段へ、
裾を投げ出して、
欄干につかまった時、雨がさっと暗くなって、私はひとりで泣いたんです。それッきり、声も聞えなくなって、
門附は
何処へ参りましたか。雨も上って、また
明い日が当りました。何んですかねえ、十文字に
小児を
引背負って
跣足で
歩行いている、四十
恰好の、
巌乗な、絵に
描いた、
赤鬼と言った形のもののように、今こうやってお話をします
内も考えられます。女中に聞いたのでもございませんのに――
またもう寝床へ倒れッきりになりましょうかとも存じましたけれども、そうしたら気でも違いそうですから、ぶらぶら
日向へ出て来たんでございます。
否、はじめてお目にかかりました
貴下に、こんなお話を申上げまして、もう気が違っておりますのかも分りませんが、」
と言いかけて、心を
籠めて見詰めたらしい、目の色は美しかった。
「
貴下、
真個に未来というものはありますものでございましょうか知ら。」
「…………」
「もしあるものと
極りますなら、地獄でも極楽でも構いません。逢いたい人が
其処にいるんなら。さっさと其処へ
行けば
宜しいんですけれども、」
と
土筆のたけの
指白う、またうつつなげに草を
摘み、摘み、
「きっとそうと
極りませんから、もしか、死んでそれっきりになっては
情ないんですもの。そのくらいなら、生きていて思い悩んで、
煩らって、段々消えて
行きます方が、いくらか
増だと思います。忘れないで、
何時までも、何時までも、」
と言い言い抜き取った草の葉をキリキリと
白歯で
噛んだ。
トタンに
慌しく、男の
膝越に
衝とのばした
袖の色も、帯の影も、緑の中に濃くなって、
活々として
蓮葉なものいい。
「いけないわ、人の悪い。」
散策子は答えに
窮して、実は草の上に位置も構わず
投出された、オリイブ色の
上表紙に、とき色のリボンで封のある、ノオトブックを、つまさぐっていたのを見たので。
「こっちへ下さいよ、
厭ですよ。」
と
端へかけた手を手帳に控えて、
麦畠へ
真正面。話をわきへずらそうと、
青天白日に身構えつつ、
「歌がお出来なさいましたか。」
「ほほほほ、」
と
唯笑う。
「絵をお
描きになるんですか。」
「ほほほほ。」
「結構ですな、お楽しみですね、
些と拝見いたしたいもんです。」
手を
放したが、
附着いた肩も
退けないで、
「お見せ申しましょうかね。」
あどけない
状で笑いながら、
持直してぱらぱらと男の帯のあたりへ開く。手帳の
枚頁は、この人の手にあたかも蝶の
翼を重ねたようであったが、鉛筆で
描いたのは……
一目見て散策子は
蒼くなった。
大小
濃薄乱雑に、
半ばかきさしたのもあり、
歪んだのもあり、震えたのもあり、やめたのもあるが、
○と
□△ばかり。
「ね、
上手でしょう。
此処等の人たちは、
貴下、
玉脇では、絵を
描くと申しますとさ。この土手へ出ちゃ、
何時までもこうしていますのに、
唯いては、
谷戸口の番人のようでおかしゅうござんすから、いつかッからはじめたんですわ。
大層評判が
宜しゅうございますから……
何ですよ、この頃に
絵具を
持出して、草の上で風流の店びらきをしようと思います、大した写生じゃありませんか。
この
円いのが海、この三角が山、この
四角いのが
田圃だと思えばそれでもようござんす。それから
○い顔にして、
□い胴にして
△に坐っている、
今戸焼の
姉様だと思えばそれでも
可うございます、
袴を
穿いた殿様だと思えばそれでも
可いでしょう。
それから……水中に物あり、筆者に問えば知らずと答うと、高慢な
顔色をしても
可いんですし、名を知らない死んだ人の
戒名だと思って
拝んでも
可いんですよ。」
ようよう声が出て、
「
戒名、」
と口が利ける。
「
何、何んというんです。」
「
四角院円々三角居士と、」
いいながら土手に胸をつけて、
袖を草に、
太脛のあたりまで、
友染を
敷乱して、すらりと片足
片褄を泳がせながら、こう
内へ
掻込むようにして、鉛筆ですらすらとその
三体の秘密を
記した。
テンテンカラ、テンカラと、
耳許に
太鼓の音。二人の
外に人のない世ではない。アノ
椿の、燃え落ちるように、向うの
茅屋へ、続いてぼたぼたと
溢れたと思うと、
菜種の
路を葉がくれに、
真黄色な花の上へ、ひらりと
彩って出たものがある。
茅屋の軒へ、
鶏が二羽
舞上ったのかと思った。
二個の
頭、
獅子頭、高いのと低いのと、
後になり先になり、
縺れる、狂う、花すれ、葉ずれ、菜種に、と見るとやがて、
足許からそなたへ続く青麦の
畠の端、玉脇の門の前へ、出て来た
連獅子。
汚れた
萌黄の
裁着に、
泥草鞋の乾いた
埃も、
霞が麦にかかるよう、
志して
何処へ
行く。
早その太鼓を
打留めて、
急足に近づいた。いずれも子獅子の
角兵衛大小。小さい方は八ツばかり、上は十三―四と見えたが、すぐに
久能谷の出口を
突切り、紅白の
牡丹の花、はっと
俤に立つばかり、ひらりと前を
行き過ぎる。
「お待ちちょいと、」
と声をかけた
美女は
起直った。今の姿をそのままに、
雪駄は獅子の蝶に飛ばして、土手の草に
横坐りになる。
ト獅子は
紅の
切を
捌いて、二つとも、立って
頭を向けた。
「ああ、あの、
児たち、お待ちなね。」
テンテンテン、(大きい方が)トンと当てると、太鼓の
面に
撥が飛んで、ぶるぶると
細に
躍る。
「アリャ」
小獅子は
路へ橋に
反った、のけ
様の
頤ふっくりと、
二かわ
目に
紅を
潮して、
口許の
可愛らしい、色の白い
児であった。
「おほほほ、大層勉強するわねえ、まあ、お待ちよ。あれさ、そんなに苦しい思いをして
引くりかえらなくっても
可いんだよ、可いんだよ。」
と
圧えつけるようにいうと、ぴょいと
立直って
頭の
堆く大きく
突出た、
紅の花の
廂の下に、くるッとした目を

って立った。
ブルブルッと、
跡を引いて太鼓が
止む。
美女は膝をずらしながら、帯に手をかけて、
揺り上げたが、
「お待ちよ、今お
銭を
上るからね、」
手帳の紙へはしり
書して、一枚
手許へ
引切った、そのまま獅子をさし招いて、
「おいでおいで、ああ、お前ね、これを持って、その
角の二階家へ行って取っておいで。」
留守へ言いつけた
為替と見える。
後馳せに散策子は
袂へ手を
突込んで、
「
細いのならありますよ。」
「
否、
可うござんすよ、さあ、
兄や、行って来な。」
撥を片手で
引つかむと、恐る恐る
差出した手を
素疾く
引込め、とさかをはらりと振って
行く。
「さあ、お前こっちへおいで、」
小さな方を
膝許へ。
きょとんとして、ものも言わず、棒を呑んだ人形のような顔を、
凝と見て、
「
幾歳なの、」
「
八歳でごぜえス。」
「
母さんはないの、」
「角兵衛に、そんなものがあるもんか。」
「お前は知らないでもね、
母様の方は知ってるかも知れないよ、」
と
衝と手を
袴越に白くかける、とぐいと
引寄せて、横抱きに抱くと、
獅子頭はばくりと
仰向けに地を払って、
草鞋は高く
反った。
鶏の
羽の
飾には、
椰子の葉を吹く風が渡る。
「
貴下、」
と
落着いて見返って、
「私の
児かも知れないんですよ。」
トタンに、つるりと
腕を
辷って、獅子は、
倒にトンと返って、ぶるぶると
身体をふったが、けろりとして
突立った。
「えへへへへへ、」
此処へ
勢よく兄獅子が
引返して、
「頂いたい、頂いたい。」
二つばかり
天窓を
掉ったが、小さい方の背中を突いて、テンとまた
撥を当てる。
「
可いよ、そんなことをしなくっても、」
と
裳をずりおろすようにして
止めた顔と、まだ
掴んだままの
大な銀貨とを
互に
見較べ、
二個ともとぼんとする。時に
朱盆の口を開いて、
眼を
輝すものは何。
「そのかわり、ことづけたいものがあるんだよ、待っておくれ。」
とその○□△を
楽書の余白へ、鉛筆を
真直に取ってすらすらと春の水の
靡くさまに走らした
仮名は、かくれもなく、散策子に
読得られた。
君とまたみるめおひせば四方の海の
水の底をもかつき見てまし
散策子は思わず海の
方を
屹と見た。波は
平かである。青麦につづく
紺青の、水平線上
雪一山。
富士の影が
渚を打って、ひたひたと薄く
被さる、
藍色の西洋館の
棟高く、二、三羽
鳩が
羽をのして、ゆるく
手巾を
掉り動かす
状であった。
小さく
畳んで、
幼い方の手にその(ことづけ)を渡すと、ふッくりした
頤で、
合点々々をすると見えたが、いきなり二階家の方へ
行こうとした。
使を頼まれたと思ったらしい。
「おい、そっちへ
行くんじゃない。」
と
立入ったが声を懸けた。
美女は
莞爾して、
「
唯持って行ってくれれば
可いの、
何処へッて
当はないの。落したら
其処でよし、失くしたらそれッきりで
可んだから……
唯心持だけなんだから……」
「じゃ、
唯持って行きゃ
可いのかね、奥さん、」
と聞いて
頷くのを見て、
年紀上だけに
心得顔で、
危っかしそうに
仰向いて
吃驚した
風でいる幼い方の、
獅子頭を
背後へ引いて、
「こん中へ入れとくだア、
奴、大事にして持ッとんねえよ。」
獅子が並んでお
辞儀をすると、すたすたと駈け出した。
後白浪に海の
方、
紅の
母衣翩翻として、青麦の根に
霞み
行く。
さて半時ばかりの後、散策子の姿は、一人、
彼処から鳩の舞うのを見た、浜辺の
藍色の西洋館の
傍なる、砂山の上に
顕れた。
其処へ来ると、
浪打際までも
行かないで、
太く
草臥れた
状で、ぐッたりと先ず足を投げて腰を
卸す。どれ、
貴女のために(ことづけ)の
行方を見届けましょう。
連獅子のあとを追って、というのをしおに、まだ
我儘が言い足りず、話相手の欲しかったらしい
美女に辞して、
袂を分ったが、獅子の飛ぶのに足の続くわけはない。
一先ず帰宅して寝転ぼうと思ったのであるが、
久能谷を離れて街道を見ると、人の瀬を造って、
停車場へ
押懸ける
夥しさ。中にはもう
此処等から
仮声をつかって
行く
壮佼がある、
浅黄の
襦袢を
膚脱で
行く女房がある、その
演劇の恐しさ。
大江山の段か何か知らず、とても町へは
寄附かれたものではない。
で、路と一緒に、
人通の横を切って、
田圃を抜けて来たのである。
正面にくぎり正しい、
雪白な
霞を召した山の
女王のましますばかり。見渡す限り海の色。浜に引上げた船や、
畚や、
馬秣のように
散ばったかじめの如き、いずれも海に対して、
我は
顔をするのではないから、
固より馴れた目を
遮りはせぬ。
かつ
人一人いなければ、真昼の様な月夜とも想われよう。
長閑さはしかし野にも山にも
増って、あらゆる
白砂の
俤は、
暖い霧に似ている。
鳩は
蒼空を舞うのである。ゆったりした
浪にも
誘われず、風にも乗らず、
同一処を――その友は
館の中に、ことことと
塒を踏んで、くくと
啼く。
人はこういう
処に、こうしていても、胸の
雲霧の
霽れぬ事は、
寐られぬ
衾と
相違はない。
徒らに砂を握れば、くぼみもせず、高くもならず、
他愛なくほろほろと崩れると、また
傍からもり添える。水を
掴むようなもので、
捜ればはらはらとただ貝が出る。
渚には
敷満ちたが、何んにも見えない処でも、
纔に砂を分ければ貝がある。まだこの他に、何が住んでいようも知れぬ。手の届く近い処がそうである。
水の底を捜したら、
渠がためにこがれ
死をしたと言う、
久能谷の
庵室の客も、
其処に健在であろうも知れぬ。
否、健在ならばという心で、君とそのみるめおひせば
四方の海の、水の底へも
潜ろうと、(ことづけ)をしたのであろう。
この歌は、平安朝に
艶名一世を
圧した、
田かりける
童に
襖をかりて、あをかりしより思ひそめてき、とあこがれた
情に感じて、奥へと言ひて呼び入れけるとなむ……
名媛の作と思う。
言うまでもないが、手帳にこれをしるした人は、
御堂の柱に、うたた
寐の歌を
楽書したとおなじ玉脇の妻、みを子である。
深く考うるまでもなく、
庵の客と玉脇の妻との間には、不可思議の感応で、夢の
契があったらしい。
男は
真先に
世間外に、はた世間のあるのを知って、空想をして実現せしめんがために、身を
以って
直ちに
幽冥に
趣いたもののようであるが、
婦人はまだ半信半疑でいるのは、それとなく胸中の
鬱悶を
漏らした、未来があるものと
定り、霊魂の
行末が
極ったら、直ぐにあとを追おうと言った、
言の
端にも
顕れていた。
唯その
有耶無耶であるために、男のあとを追いもならず、
生長らえる
効もないので。
そぞろに
門附を怪しんで、
冥土の
使のように感じた如きは幾分か心が乱れている。
意気張ずくで死んで見せように到っては、
益々悩乱のほどが思い
遣られる。
また一面から見れば、
門附が
談話の中に、
神田辺の店で、
江戸紫の夜あけがた、小僧が
門を
掃いている、
納豆の声がした……のは、その人が生涯の
東雲頃であったかも知れぬ。――やがて
暴風雨となったが――
とにかく、(ことづけ)はどうなろう。玉脇の妻は、
以て未来の有無を
占おうとしたらしかったに――
頭陀袋にも納めず、帯にもつけず、
袂にも入れず、角兵衛がその
獅子頭の中に、封じて去ったのも
気懸りになる。
為替してきらめくものを
掴ませて、のッつ
反ッつの
苦患を見せない、
上花主のために、商売
冥利、
随一大切な
処へ、偶然
受取って行ったのであろうけれども。
あれがもし、鳥にでも
攫われたら、思う人は
虚空にあり、と信じて、夫人は
羽化して飛ぶであろうか。いやいや羊が食うまでも、角兵衛は再び
引返してその
音信は伝えまい。
従って砂を崩せば、従って手にたまった、色々の貝殻にフト目を
留めて、
君とまたみる目おひせば四方の海の……
と我にもあらず口ずさんだ。
更に答えぬ。
もしまたうつせ
貝が、大いなる水の心を語り得るなら、渚に敷いた、いささ
貝の花吹雪は、いつも
私語を絶えせぬだろうに。されば
幼児が拾っても、われらが砂から掘り出しても、このものいわぬは
同一である。
小貝をそこで捨てた。
そうして横ざまに砂に倒れた。腰の下はすぐになだれたけれども、
辷り落ちても
埋れはせぬ。
しばらくして、その
半眼に閉じた目は、斜めに
鳴鶴ヶ
岬まで線を引いて、その半ばと思う点へ、ひらひらと燃え立つような、
不知火にはっきり覚めた。
とそれは
獅子頭の
緋の
母衣であった。
二人とも出て来た。浜は鳴鶴ヶ岬から、
小坪の
崕まで、人影一ツ見えぬ
処へ。
停車場に
演劇がある、町も村も引っぷるって
誰が角兵衛に
取合おう。あわれ人の中のぼうふらのような
忙しい稼業の
児たち、今日はおのずから
閑なのである。
二人は
此処でも
後になり先になり、
脚絆の足を入れ違いに、
頭を組んで
白波を
被ぐばかり
浪打際を
歩行いたが、やがてその大きい方は、五、六尺
渚を
放れて、日影の如く
散乱れた、かじめの中へ、
草鞋を
突出して休んだ。
小獅子は一層
活溌に、
衝と浪を追う、
颯と追われる。その光景、ひとえに人の
児の
戯れるようには見えず、かつて孤児院の児が
此処に来て、一種の監督の下に、遊んだのを見たが、それとひとつで、浮世の浪に
揉み立てられるかといじらしい。
但その
頭の獅子が怒り狂って、たけり戦う
勢である。
勝では
可い!
ト
草鞋を脱いで、
跣足になって
横歩行をしはじめた。あしを濡らして遊んでいる。
大きい方は
仰向けに
母衣を敷いて、膝を小さな山形に寝た。
磯を横ッ
飛の時は、その
草鞋を脱いだばかりであったが、やがて
脚絆を取って、膝まで入って、静かに立っていたと思うと、
引返して
袴を脱いで、今度は
衣類をまくって腰までつかって、二、三度
密と
潮をはねたが、またちょこちょこと取って返して、
頭を
刎退け、
衣類を脱いで、丸裸になって一文字に
飛込んだ。陽気はそれでも
可かったが、泳ぎは知らぬ
児と見える。
唯勢よく、水を逆に
刎ね返した。手でなぐって、足で踏むを、海水は
稲妻のように
幼児を包んでその左右へ飛んだ。――
雫ばかりの音もせず――獅子はひとえに
嬰児になった、
白光は
頭を
撫で、
緑波は胸を
抱いた。何らの
寵児ぞ、
天地の大きな
盥で
産湯を浴びるよ。
散策子はむくと起きて、ひそかにその幸福を祝するのであった。
あとで聞くと、
小児心にもあまりの
嬉しさに、この
一幅の春の海に対して、
報恩の
志であったという。
一旦出て、浜へ上って、寝た獅子の肩の
処へしゃがんでいたが、
対手が
起返ると、濡れた
身体に、
頭だけ取って獅子を
被いだ。
それから更に水に入った。
些と
出過たと思うほど、分けられた波の
脚は、
二線長く広く尾を引いて、小獅子の姿は
伊豆の岬に、ちょと小さな点になった。
浜にいるのが
胡坐かいたと思うと、テン、テン、テンテンツツテンテンテン波に
丁と
打込む太鼓、油のような
海面へ、
綾を流して、響くと同時に、水の中に立ったのが、一曲、
頭を
倒に。
これに
眩めいたものであろう、
呀忌わし、よみじの(ことづけ)を
籠めたる獅子を、と見る内に、
幼児は見えなくなった。
まだ浮ばぬ。
太鼓が
止んで、浜なるは棒立ちになった。
砂山を
慌しく一文字に駈けて、こなたが
近いた時、どうしたのか、脱ぎ捨てた
袴、着物、
脚絆、海草の
乾びた
状の、あらゆる
記念と一緒に、太鼓も
泥草鞋も
一まとめに
引かかえて、大きな
渠は、
砂煙を上げて町の
方へ
一散に
遁げたのである。
浪はのたりと打つ。
ハヤ二、三人駈けて来たが、いずれも
高声の大笑い、
「馬鹿な奴だ。」
「馬鹿野郎。」
ポクポクと来た巡査に、散策子が、
縋りつくようにして、
一言いうと、
「角兵衛が、ははは、そうじゃそうで。」
死骸はその日
終日見当らなかったが、翌日しらしらあけの
引潮に、去年の夏、
庵室の客が溺れたとおなじ
鳴鶴ヶ
岬の岩に
上った時は二人であった。顔が
玉のような
乳房にくッついて、
緋母衣がびっしょり、その雪の
腕にからんで、一人は
美にして
艶であった。玉脇の妻は
霊魂の
行方が分ったのであろう。
さらば、といって、土手の下で、分れ
際に、やや遠ざかって、見返った時――その紫の
深張を帯のあたりで横にして、少し
打傾いて、
黒髪の
頭おもげに見送っていた姿を忘れぬ。どんなに
潮に乱れたろう。
渚の砂は、崩しても、積る、くぼめば、たまる、音もせぬ。ただ美しい骨が出る。貝の色は、日の
紅、渚の雪、
浪の緑。