僕が詩人フランソア・コッペをマンドルの田舎に訪問したのは、十月の晴々した日であつた。僕は以前からこの別荘の名は知ってゐたし。また誰が尋ねて行つても歓迎されると云ふことも、聞いてゐた。新聞記者などがコッペの閑居『
……そこで僕達は出発した。僕達といふのは学友のシャルル・ブノワが同行したからである。ブノワはコッペの縁戚で且つ今日の往訪は予ねて先生に打合せ済みだつた。午前十時にヴァンセンヌの停車場から出発した。遠方の田舎へでも旅行するやうな意気込みで出掛けたのだつた。而して実の処マンドルは巴里近郊――日曜日には女優や女店員などが愛人と手を携へて散歩したり、学生などが短艇を漕いだり、その路傍には香の高い花が植ゑてあつたり、遠くには高い塔が見えたりなどして、宛然芝居の書き割のやうな巴里の近郊――とは全く趣を異にした処である。マンドルは百姓家が散らばつてゐて、馬糞肥料が積んであつて、群鶏が土をほじくつてゐる本当の田舎村である。而して村はづれの旅宿の看板には今尚、古式に則つて柊の枝が結び付けてある。
何とか云ふ小さな駅(名を忘れた)で下車し、僕達は左の方へ二キロメートル程の道を歩いた。道はよく耕やされた畑の間を通つてゐた。暫くすると、ひどく大きな門の前に出た。而して大きな樹の枝は垣根越しに外にのしかかつてゐた。僕達は『
僕達が漸く其の広々した庭園を(処々秋の木の葉の散つてゐる)――眺め始めた時に……十二時が鳴つて、昼飯の食卓に就く時刻が来た。
僕は今日始めて詩人の話振りを聞いて、ものを書くコッペと、話をするコッペとがひどく懸け離れてゐる事に気が付いた。書く方のコッペは感傷的なアイロニーと少し儀式張つた熱の高い抒情詩的であるが、話す方のコッペは、極めて開けつ放しで、愉快で気軽で、少しの遠慮もなく、それに猥談がかつたきわどい駄じやれさへ交へて、人を笑はせるのである。思ふにこれがこの詩人の本来の二つの性質と見える。彼は繊細な洗煉された嗜好を持つてゐて、同時に単純な心の持主である。貴族的な感情と民衆的な精神とが一つの身体に同棲してゐるのだ。言ひ換へて見れば、芸術家的敏感を巴里の悪戯小僧の心意気で裏付けた様なものだ。コッペ先生が自分でも言つてゐられる如く彼は全く巴里生え抜きの巴里つ児である。其の声音迄が明澄で、しかも喉音が多く、所謂「フォブリアン」の
『余は素敵に勉強した
実に其の通りの人だ、自知の明ありと云ふべしだと、僕はこの時何とはなしにさう感じた。
何故『
「革命以前の収税請負人などは非常に、贅沢をしてゐたので、ここへ遊びに来て、田舎気分を味ふと言ふので、時々親戚や知人を此処へ招いたものです」と話しながら、先生は王政時代の財界の富豪の事を、こんな風に語つて聞かせた。
「革命以前の財界の富豪なんて奴はどれも、みんな狡猾な奴等ばかりだつた。併し又一方には奴等は善く散財したもので、特に彼等は芸術を愛して芸人や芸術家にうんと金を与へて、保護したり奨励したものです。中にはそんな意気張りや豪奢の為めに巨万の身代を叩き潰したものさへあつたのです。君達はあの『豪奢な地主と豌豆の話』と云ふのを御存じですか?」
我々は「存じません」と答へた。するとコッペ先生は「この財界の富豪がどうかして王様のお妾を(マダーム・ポンパドールの方か、又はマダーム・ジユバリーの方か、どちらか)一度自分の別荘へ招待して、見たいと思ひ込んだ。処が王様のお妾の方では成金の田舎の別荘なんかへ行つてやるものかと云ふえらい権式で其の招待を拒絶した。処がその富豪は王様のお妾がいつも借金の必要に迫られてゐる事を知つてゐたので、内密に其の金子を御用達しませうと、申し込ませた。そしてそれにはその金は富豪の手からお妾へ直接手渡したいと附け加へさせた。たうとう王様のお妾さんは駕籠に乗つて出掛けて来た。
そこで別荘の主人がいふことには私は御前様が良い牛乳をお好きでゐらせられると承りましたので……ですから何卒一杯召し上つて頂きたいものです……と黄金の茶碗に注いで恭々しく差出して……「如何です、お口に叶ひますか?」といふと、公爵夫人は「今迄こんな
当時の富豪の『意気張

先生は書斎へ這入つていつもの椅子に腰掛けて巻煙草を燻らせた。すると前に写真機が据ゑ付けられた。みんなが同時に同じ事を考へた。おい、トリユックは? トリユックは何処へ行つた? トリユックが主人公の傍にゐないでは……トリユック、トリユックと、アンネット嬢さんはやさしい声で犬を呼ぶのであるが、トリユックは何処へ行つたか見付からない。
犬は写真機が怖いので卓子の下に隠れてゐた。それをやつとの事で、肘掛け椅子の上へ蹲踞らせた。併し写真機の大きな眼鏡と、見知らぬ人が此処にゐるので犬は益

今我々は枝葉の翳つてゐる庭園を散歩してゐるのである。この夏は余り暑くなかつたので樹の葉はまだ青々して、(ただ処々に褐色の葉が芝生の上に散点するのみで。)そよそよと吹く北風に戦いでゐる。それが恰もどーどー鳴る濤の音を偲ばせる。……寒がりのコッペ先生は早や鳶合羽の様な外套を着てござる。詩人はこの濤の音と草木の香の中で極めて楽しさうで、而して如何にも満足らしい。先生は、自分が選んだこの隠遁所が余程気に入つたものと見える。而してそれは至極尤もな次第である。如何かと云ふに一生働き抜いて、少しずつ貯めた金で、この田舎の屋敷を買つて、緑色の鎧扉のある簡素な別荘に引退して、始めて永い間の夢想を現実したのだから。コッペ先生が如何に誠実な感動を以て此の平和な、質素な生活の快味を屡々其の詩の中に歌つたことか! この芝生を、この薔薇壇を、此の花垣を、この白色の回墻と、赤煉瓦の屋根と而して遠くの方には、累々と重さうな実が赤く熟した林檎畑と、丸々とよく出来た球菜の畠を眺めながら、僕は僕の家にゐるのだ。これはみんな僕のものだ、而して是等は僕の勉強一つで、正直な手段で贏ち得たのであると、心の満足が自然口に出るのも尤もなことではないか。
先生が独りで、又はその仲よしの妹さんの腕に倚つて此の苺園の小径を逍遥する時に、黄昏のメランコリーと共に、その憐れな子供の時の記憶が一々頭に浮び出るであらうことを、僕は想像せぬ訳にはゆかぬ。古風で而して質素なサロンや食堂や特に献身的な慈愛を以て多くの子供等をそれぞれ皆立派に育て上げて、苦労し抜いて死んだお母さんの影が先生の記憶の真つ先に浮び出ることであらう。で、コッペ先生は今日も亦お母さんの事を話された。
「私の父は陸軍省の属官で、母との間に八人の子供があつたのですが四人だけが生存してゐます。三人は女の子で私は末子だ。父の僅かな俸給で生活して行かねばならないので、母の苦労は一通りではなかつたのです。当時は今と違つて、金はなくとも役人といふ地位は世間から尊敬されたものであつたのですから、たとへ貧しいながらも、ブールジヨワ階級に属して而して母は「
母は快闊な人であつたので、家族のものの元気を引立てる為めに常時も働き乍ら笑つてをられた。本当ですよ! 最も窮迫の際には、平素よりも、更に一層元気でした。おかげで僕の家は金がない代り、いつも笑声満堂といふ有様でした。
処が残念な事には、この苺園の桃や杏や李を母は手づから摘み採る事が出来るまで、長生きせられなかつたことです。若し生きてをられたらどんなに
そこで、僕達はそろそろ文芸上の質問を出して、先づ最初に「テアートル・フランセーズ」の事を訊いてみた。すると先生は、
「私の力作はいづれもリシュリユ町で(コメデー・フランセーズ座を指す)初演した事がないのです。悪運がつきまとつてるとでも言ふのでせうか。」と口を切つて、而してその創作のセヴエロ・トレリーの来歴を次のやうに話された。
「その脚本を書き上げるや否や大急ぎで私は原稿をペラン(当時のコメデー・フランセーズの理事長)に手渡しました。処が、その挨拶が如何にも冷淡であつた。のみならず、二幕目のあたり場で、『ビアがその子に懺悔する処』は芝居にならぬといふので私はむつとしてその原稿を取り返した。而して心の内で言つたのです。ふん、若し僕の脚本が右河岸(コメデー・フランセーズ座を云ふ、セーヌ河の右岸にあるから)で芝居にならぬといふなら、左河岸(オデオン座)でやらして見せよう! こん畜生! コメデー・フランセーズ座の前を通る乗合馬車はオデオン迄行くわい!
と、そこで、私はオデオン行きに乗つた。当時のオデオン座の理事長ラ・ルーナ氏はペランの様に木で鼻をくくつた様ではなかつた。而してラ・ルーナ氏はその場ですぐに云ふのだつた。あなたの「セヴエロ」を頂戴する事にします。而して一週間内に稽古にかかりませう。
その次ぎの脚本で、テアートル・フランセーズ座へ提出した『
コッペ先生はコメデー・フランセーズ座との経緯を右のやうに話して聞かされたのであるが、これは他の人達の言ふのとは少々違つてゐるやうであるから
コッペは親切で人好きはよい男だが、図書係りの職務には余り熱心といふ程ではなかつた。で、少しの隙さへあれば好きな
この事以来彼は決して外の内職などはせぬと決心して、一意文芸に精進した。そのお蔭で、懐工合も以前に比べて別段不如意になつたといふ訳でもなく、却つて自由に仕事が出来て仕合せだと、喜んでゐたといふ事だつた。これがコメデー・フランセーズ座とコッペの間柄について世間に一般に伝へられてゐる話である。
脚本の経緯などにからまつて、話は知らぬ間に『苺園』を抜け出てゐた。
と、急に気がついて、話を後に戻す。で、苺園を辞する前に、僕はコッペの働き振りが知りたかつたのだ。この詩人の好きな勉強時間は、朝なのか、夜なのか? 規則的であるか? 気の向き次第であるか? ゾラのやうに、前以て計画を立ててから、仕事に掛るのか、興味の湧いて来るのを待つてゐて、書くのかが知りたかつたのだ。
すると先生の話はかうである。
「私の様な気まぐれ者はその時その時の出来心で働くのです。ともすれば私は一週間何にもする事が
「先生はよくマッチルド公爵夫人の晩餐にお出になるやうですね。」
「公爵夫人のお邸の事に就いては色々な面白い事がありますよ。実の所をお話しすると、私が初めて燕尾服を作つたのも公爵邸へ招待された時なのです。大急ぎでね。あの頃はまだ私も若かつた! 私の作の「パッサン」がオデオンで初演の時、たしか千八百六十九年の春でした。公爵夫人がセングラチヤンの御別荘へ私をお招きになつたのですよ。私はおどおどしながら、御門の呼鈴を鳴らしたものです。門が開いた時は尚更胸の動悸がひどかつた。といふのは、大きな男が雷のやうな声して、私の前へにゆつと現はれたのです。この大男がギユスターブ・フローベルでした。今でもありありと其の時の彼の様子が眼の前に浮んで来ますよ。蒙古人のやうな鬚、真紅の頬、ノルマンデーの海賊のやうな青い眼、而して馬鹿にだぶだぶしたズボンを袴いて、レースの附いたシャツを着て、而して鏡のやうにぴかぴかよく磨かれた長靴を履いてゐたもんです。而してフローベルは、歩きながら偉らさうな身振りでボッシユエやモンテスキューやシヤトーブリヤンなどの文句を声高に吟誦するのです。而してその言ひ草がまた振つてゐるぢやありませんか。「どんな好い文句でも一度、自分の咽喉に掛けて見なければ分からぬ。」と云ふのです。思へば遠い昔の事ですよ! 実に光陰矢の如しです! もう三十年前の事です! 昨今のやうに思はれるのですが……