痛む耳
「耳が痛んでなりませぬ」
と女は云って、
もう一挺の駕籠が地に据えられてあり、それには、女の
「こまったものだの。出来たら
と、優しく云った。
「とても辛棒なりませぬ。痛んで痛んで、いまにも耳が千切れそうでございます」
と女は、武士の妻としては
「このまま沼田まで駕籠で揺られて参りましては、死にまする、死んでしまうでございましょう」
「
と武士は、当惑したように云った。
ここは、群馬の須川在、猿ヶ京であった。
三国、大源太、仙ノ倉、万太郎の山々に四方を取り巻かれ、西川と
文政二年三月下旬の、午後の
「やむを得ない」
と武士は云った。
「舅殿がお待ちかねではあろうが、そう耳が痛んでは、無理強いに行くもなるまい。……今夜一晩猿ヶ京の
「そうしていただきますれば……そこで一晩手あてしましたら、……明日はもう大丈夫」
と女は云って、遙かの谿川の下流、山の中腹のあたりに、懸け作りのようになって建ててある
「聞いたか」
と武士は、駕籠の横の草の上へ腰をおろし、

「今夜はここの温泉宿へ泊まるのじゃ。そちも皺のばしが出来るぞ」
「有難いことで」
と
「越後の長岡から三国を越しての旅、おいぼれの私には難渋でございましたが、一晩でも湯治が出来ましたら元気が出ることでございましょう」
猿ヶ京と云われているだけにこの辺には猿が多く、それが木の枝や藪の蔭などから、この人たちを眺めていた。丘をへだてた
「痛い! ま、どうしてこう痛むのだろう!」
女は駕籠の中で突っ伏した。
「駕籠屋、桔梗屋へやれ」
と武士は、あわてたように云った。
お蘭は、月を越すと、相思の仲の、渋川宿の
土間をへだてた表戸はもう下ろされていたが、昼の間に吹き込んで来た桜の花が、敷居の下に残っていて、長い薄白い雪の筋かのように見えていた。
「こんな気の毒な男があるのですよ」
という声が聞こえた時、両耳の辺ばかりにわずかの髪をのこしている、お
猿ヶ京にたった一軒だけ立っている湯宿、この桔梗屋は、百年以上を経た旧家だといわれていたが、それはこの店の間の板敷が、黒檀のように黒く艶を出しているのでも
板敷には囲炉裡が切ってあり、自在鉤にかけられてある
「こんな気の毒な男があるのですよ」
と云ったのは、その中の、絹商人だという三十八、九の、顔に
「お侍さんですがね、若い頃に、あるお屋敷へ、若党として住み込んだそうで。ところがそこに、若い綺麗なお嬢様がおありなされたが、同藩のお奉行様のご子息と婚約が出来、いよいよ行かれることになったそうで。婚礼の晴着姿で駕籠に乗られた時の美しさにはその若党も
「へえ、そいつは感心ですねえ。……それにしてもどうして婚礼の席から?」
片耳を切られて
こう口を出したのは、越中の薬売りだという三十一、二の小柄の男であった。
「まアお聞きなさい。……お嬢様は、
「婚礼の当夜ではあり、若い若党と、そんな
と云ったのは、同じ越中の薬売りであった。
「だが人は信じますまいよ」
「そうなのです」
と、絹商人は話をつづけた。
「お嬢様の父親というのがまず信じなかったそうで……」
「どうしました?」
「主家の娘を誘惑し、連れ出し、傷者にした不届きの若党というので……」
「どうしました?」
「打ち首……」
「へえ」
「というところを、片耳を剃いで、
「ひどいことをしやがる。娘がそいつを止めないという法はない」
「そうですとも」
「それから娘はどうしました?」
「翌年、他藩の重役のご子息のもとへ、めでたく輿入れなされたそうで」
「結構なことで、フン!」
「結構でないのは若党――お侍さんで、ガラリと性質が変わりましたそうで」
「変わりましょうなア」
「それからは女という女を憎むようになったそうです」
「あっしだって憎みますよ」
と、口を出したのは、八木原宿の葉茶屋の亭主だという、四十がらみの男であった。
「あっしばかりじゃアない、誰だって憎むでしょうよ。……ねえご主人、そうじゃアありませんか」
こう云うと葉茶屋の亭主だという男は、桔梗屋の主人の方へ顔を向けた。
桔梗屋の主人の佐五衛門は、持っていた筆を、ヒョイと耳へ

「ごもっともさまで、女出入りで、そんな
「若党っていう男に、同情だってするでしょうねえ」
とまた口を出したのは、左官の親方だという触れ込みの、三十四、五の男であった。
「さようですとも、その気の毒な若党殿には、私ばかりか、誰だって同情するでございましょうよ」
と、佐五衛門はまた頷いてみせた。
「ところで、その若党――お侍さんが、どんな
と、絹商人は、話のつづきを話し出した。
「そのことがあってからというもの、そのお侍さんは、
『申し兼ねますがお立て替えを』
『よろしゅうござる』
とお侍さんは何んと感心にも、乏しい
『はぐれた筈もないが』
と不思議に思いながらその宿の安宿へ泊まり、翌朝発足して熊谷宿まで行くと、
『申し兼ねますがお立て替えを』
『よろしゅうござる』
……こうしてそこを出、野道へさしかかった時、お侍さんが開き直り、
『拙者立て替えた銭お払いなされ」
……すると女はさもさも軽蔑したように、
『あればかりの
――とたんにお侍さんは女を
「なるほど」
「お侍さんの心持ちはこうだったそうで『弱いを看板に、女が男をたぶらかしたとあっては許されぬ』と……」
「こりゃアもっともだ」
と云ったのは、
「ご主人、何んと思われるかな?」
と、佐五衛門の方を見た。
佐五衛門は、少し当惑したような表情をしたが、
「さようで。女が男をたぶらかすということ、こいつアよろしくございませんなあ。……重ね重ね、そのお侍さんはご不運で」
湯治客たちは一斉に胸を
大盗になった理由
(厭な話だこと)
とお蘭は思った。
(男も男だけれど、女の方が悪いわ……)
この
しかし十七歳の、それも一月後には嫁入ろうとする
(わたし行って寝ようかしら)
「ところが、そのお侍さんは気の毒にも、女のためばかりでなく、金のために、とうとう半生を誤りましてねえ」
と、絹商人だという男が話し出したので、お蘭は、つい、また聞き耳を立てた。
「その後、そのお侍さんは、いよいよ零落し、下谷のひどい裏長屋に住むようになられたそうです。ところがその長屋の大屋さんですがちょっとした物持ちでしてな、
風呂の中の人形
「泥棒に!」
と、
「無理はない。次から次と、ひどい目にあわされれば、どんな人間だろうと……」
「おおご主人もそうお思いか」
と、云ったは、
「それで安心」
と口を辷らせたように云い継ぎ、ハッとしたように、急に黙ってしまった。この時深い谷の方から鋭い笛の音が一声聞こえて来た。
「何んだろう」
と云ったのは、佐五衛門であった。
「
首をかしげ、眉と眉との間へ皺をたたんだ。
お蘭は立ち上がった。
「どこへ行くんだえ」
「お湯へはいって、それから寝るの」
「こんな晩は早く寝た方がいいなア」
五人の湯治客も、今の笛の音に不審を起こしたらしく、黙って顔を見合わせ、耳を澄ました。
お蘭は湯に
(あたしは男に憎まれたり、大事な男の心を、女を憎むようなひねくれた心になんかしやしない)
そんなことを空想していた。大事な男というのは、一ヵ月先になると自分の
(進一さんだって、わずかな金――小判一枚のゆきちがいぐらいで、人を叩き倒すような
彼女にはさっきの湯治客の話が、やはり心にかかっているのであった。
この湯殿は
フーッとまた吹いた。そうして笑った。
と、その時
「まあ」
とお蘭は云った。
「それ妾の着物よ。どうするのさ」
男女混浴の湯殿へ、男がはいって来るに不思議はなかったが、その男が、衣裳棚の中へ脱ぎ入れてあったお蘭の着物を抱えていたので、そう云ったのであった。男は着物を棚の中へ返した。
「お湯へはいったらどう」
とお蘭は云った。
「お客様ね、何番さん?」
しかし男は返辞をしないで、暗い頬冠りの中から刺すような眼でお蘭を見詰めた。
「おかしな人ね。……何番さんだったかしら? ……お湯へおはいりなさいよ」
そういうとお蘭は、背中を
「おかしな人ね、棒ッ杭のように突っ立ってるってことないわ。……わかった、あんた恥ずかしがり屋さんね、女の子と一緒にお湯へはいるの恥ずかしいのね。……大丈夫、あたしかまやアしないことよ。……おはいりなさいよ。フーッ」
「はいってもいいかい」
と男ははじめて云った。その声は深みのある、また濁りのある、聞く人の心をゾッとさせるようなところのある声であった。しかも
怪しの男
でもお蘭にはそんなことは気が付かないらしく、
「どうしたって変な人ね、湯治に来たくせに、湯へはいっていいかいなんて。……おはいりなさいよ」
「じゃアはいろう」
男は
「湯の中へ頬冠りしたままではいるなんてことないわ。おとりなさいよ」
「取らねえ方がいいようだ」
「何故よ」
「恐がるといけねえ」
「誰がよ」
「娘っ子が」
「あたし? フーッ。……湯屋の娘が男の顔見て恐がっていたのでは商売にならないわ。フーッ。明日は雨よ、今夜のお湯とても湯気が濃いんだもの。匂いだって強いし。……こうと、あんたきっと
「猟師?」
と男は
「何故だい?」
「いい体しているもの。……骨太で、肉附きがよくて、肩幅が広くて……」
「猟師じゃアねえ」
「じゃア
「樵夫だって」
吃驚りして、
「違う」
「そう」
「お前さん何んていう名だい?」
と今度は男が訊いた。
「お蘭ちゃん」
「ふうん。そのお蘭ちゃん
「十七」
「年頃だ」
「そうよ。だから
「どこへ?」
「進一さんの所へ」
「親しそうに云うなア。
「幼な馴染なの」
「お前さんを可愛がっているかい?」
「
「ひどい野郎だな」
「あたしの泣き顔が可愛いのでそれが見たかったんだって」
「負けた」
と男ははじめて笑った。好意ある笑い方だった。
この時、また鋭い笛の音が谷の方から聞こえて来た。と、それに答えて、山の方からも同じような笛の音が聞こえて来た。
「チェ」
と男は舌打ちをした。
「取巻きゃアがったな」
「何よ?」
とお蘭は聞き咎めた。
「取巻いたって?」
「
「猪? ……だって、
「猪よりもっと恐ろしいケダモノだ」
「何んだろう?」
「邪悪――そうだ、女をとりわけ憎んだっけ。……
「じゃア『三国峠の
「知ってるのか?」
「三国峠の権の
「うん、沼田のお城下で、土岐様の手に捕えられたよ」
「お牢屋へ入れられたっていうじゃないの」
「その牢を破ったんだ」
「まア。いつ?」
「
「まア」
「そいつがこの土地へ逃げ込んだらしい」
「どうして解るの?」
「捕り手がこの
「じゃアこの家の中に?」
「うん。……恐いか!」
「恐いわ」
「だから俺はさっき恐かアないかと云ったんだ! 俺が権だ!」
ヌーッと男は、湯から、
「フーッ」
とお蘭は湯気を吹いた。
「あたし思いあたったわ、あんたきっと役者ね」
「何んだって?」
「あんたきっと旅役者だわ」
「…………」
「とても芝居うまいものね」
男は湯の中へ沈んでしまった。
三国峠の権
「そうかい、俺を役者だというのかい」
と男は溜息をしながら云った。頬冠りの顔は俯向いて、湯の
「三国峠の権の
「どうして物真似だってこと解るんだい?」
「そりゃア
「なるほどなア、それで
「いい人だと睨んだのよ。だってそうでしょう、女と一緒にお風呂にはいるの恥ずかしがったり、顔見られるの恥ずかしがって、頬冠り取らなかったりするあなたですものね。恥ずかしがり屋に悪人ってものないわ」
「恥ずかしがり屋に悪人はないとも。……だが
「あたしの眼に狂いないわ」
「それならいいが」
「フーッ。狂いないわ」
「
と男はしみじみとした声で云った。
「
烈しい
「
こう云った時にはもう男は湯槽から躍り上がっていた。
「おいお蘭ちゃん、済まないがお前の着物貰って行くぜ、……着物どころかお前の体も貰うつもりだったが、
頬冠りを取り、手拭いで体を拭き拭き、
「それにしても進一さんて人は
男は手早くお蘭の着物を
「アッハッハッ、この風で
お蘭は驚愕した大きな眼で男の顔を見詰め、
「あ、あんたの耳! ないわないわ、一つしかないわ!」
男はこの時もう階段を上がっていたが、振り返ると云った。
「三国峠の権は片耳なのだよ」
三国峠の権が女装をし頬冠りをして湯殿から飛び出し、廊下づたいに主屋の方へ走り出した時には、沼田藩の捕り手たち数十人が、この
権は今廊下を走って行く。と、行く手に四、五人の捕り方が現われた。権は素早く廊下添いの部屋の襖を開けて飛び込んだ。
「それ」
と捕り方たちは走って来た。襖をあけて覗くと、若い女が俯伏しに寝て、両袖で顔をかくしていた。
「女だ」
「恐いことはないぞ。アッハッハ」
と、捕り方たちは走り去った。権はしばらくじっとしていたが、やがて起き上がると廊下へ出、主屋の方へ小走り出した。廊下が丁字形になっている所へ来た。左へ曲がったとたん、二人の捕り方にぶつかった。顔を見られた。
懺悔の妻
「曲者!」
と一人の捕り方が正面から組付いて来た。
「わッ」
と捕り方は悲鳴をあげて仆れた。脇腹から血が流れ出ている。
「
ともう一人の捕り方が横から躍りかかった。権の
「お
と呼ぶ声がした。行く手の降り口から、囲炉裡
「七五郎か、他の奴らは?」
「さっきまで囲炉裡側で、五人揃って、お頭のおいでになるのを待っていましたが、
「集めなけりゃアならねえ。……一つに集まって三国を越して越後境いへ!」
主屋と離れ、崖の中腹に、懸け作りになっている
この優しい親切な良人は、寝もしないで妻の介抱をしているのであった。
「だんだん騒ぎが烈しくなるが、何んだろう?」
長岡藩の槍奉行、坂田内蔵之丞の総領内記は、妻が眠るようにと、わざと燈を細めた行燈を無心に見詰め、耳をかしげながら呟いた。
松乃は、痛む左の耳を上にし、反対の頬を枕にうずめ、夜具の襟から、蒼白の顔を覗かせ、眼を閉じていた。さっき、鋭い
それは、この部屋そのものであった。
彼女がまだ娘であった頃、同藩――沼田藩の槍奉行、斉藤源太夫の息子源之進と結婚することになり、婚礼の席へ臨んだ。ところが源之進が余りの
(その因縁の部屋へ泊まるとは)
松乃は眼を開き、いまさらに部屋の中を見廻した。
(主家の娘を
「痛い!」
と松乃は思わず悲鳴をあげた。耳の痛みが烈しくなったからである。
(片耳を切られた権之介の怨み! それで妾の耳が!)
こんなことも思われた。
(恐ろしい因縁の部屋で、痛む耳の手あてをするとは)
ゾッとするような思いもした。
そっと良人を見た。妻の過去の過失など知らないで、ただただ松乃を愛している内記は、気づかわしそうに妻の顔を見詰め、
「痛むか、困ったのう。この辺には医者はなし……」
と云った。
主屋の方でのけたたましい物音は、いよいよ烈しくなった。
と、渡り廊下をこっちへ走って来る足音がした。
内記は思わず刀を引きつけた。
あわただしく襖をあけて走り込んで来たのは
「大変でございます。お捕り物で! ……昨夜、沼田様のお牢を破りました三国峠の権という大泥棒が……」
「あッ」
と松乃は起き上がった。
「三国峠の権が?」
「はい。……破牢したばかりか、……奥様、旦那様、決してお驚きなさいますな、……それに致しても何んと申してよいやら……その権という泥棒、奥様の
「あッ」
と松乃は立ち上がった。
「お父様の片耳を! ……権が!」
「はい。……そうしてここへ、この猿ヶ京へ逃げ込みましたそうで。……それで沼田様からお捕り方が出……」
「権! 権之介よ! ……無理はない、さあ妾の耳も切っておくれ! ……みんな妾が悪かったからじゃ! ……切って怨みを晴らしておくれ! ……おお痛む! 痛む痛む耳! いっそ切られた方が! ……あげまする、この耳あげまする! 権よ権よ切っておくれ! ……昨夜から痛む訳じゃ! お父様がお切られなされたのじゃもの! ……同じ時刻から痛み出した耳! ……親の苦痛が娘へ伝わったのじゃ! ……それもこれも権の怨み! ……権よ、さあこの耳を切っておくれ!」
松乃は廊下へ走り出た。
救われた命、助かった心
これより少し
(娘は?)
とこのことばかりを思っていた。
(どこへ行ったろう? 何をしているのだ! こんな時に、こんな物騒な時に!)
廊下の方から、部屋部屋から、二階からも
――五人の湯治客が囲炉裡
それはほんの
「娘は?」
(あッ、風呂へはいりに行ったっけ!)
やっと思い出した。そこで行燈を
「お父様アーッ」
と、お蘭が、その廊下から駆け込んで来た。
「お蘭が! わッ、その
お蘭は、男の着物、それも
「これ、権の着物よ、三国峠の権の……」
「権の? じやア手前、……」
「逢ったの、権と。……風呂で……」
「ヒエーッ、それじゃア手前、体を、権に! ヒエーッ、嫁入り前の体を!」
「何云ってるのよ。権、いい人だわ、恥ずかしがり屋だわ。悪人じゃアないわ。妾の眼に狂いはないわ! ……助けてやらなけりゃア! 捕られちゃア可哀そうよ」
「手エ付けなかったと? お前へ!」
(本当だろうか?)
(本当ならどんなに有難いことか!)
と思う心の裏に、そんなことのあろう筈がないという不安が、すぐに湧いて来た。
(兇悪で通っている三国峠の権が、若い娘と、人のいない風呂で……)
ムラムラと疑惑が募るのであった。
でも、彼は、娘が、ひたむきに権を助けようとして
(好きな
「偉えぞ権!」
と、佐五衛門は、嬉しさと、感謝と、神々しい奇蹟にでも
「悪人じゃアねえとも、権! 悪人どころか、神様みたいな男だ!」
「
「吹くか、いいとも、竹法螺吹いて、捕り方の奴らを!」
柱にかけてあった竹法螺を佐五衛門はひっ外した。
「妾が吹く、妾が!」
と、お蘭は、父親から竹法螺をひったくると、蹴放されたままで、月光を射し込ませている表戸の
その後を追って佐五衛門も走った。
と、その時、捕り方の叫ぶ声が聞こえて来た。
「方々、ご用心なされ、三国峠の権の手下五人が、この湯宿に、権めを待ち迎えおるということでござるぞ!」
(あッ)
と佐五衛門は、それを聞くと、思わず口の中で叫んだ。そうして思った。
(そうか、これで解った、炉端に集まっていた五人の湯治客、三国峠の権の手下だったんだ。あいつらの話した話は――片耳を切られた
谷の方から竹法螺の
「……権よ! この耳を切っておくれ!」
という女の声が聞こえ、部屋から女が走り出して来た。
「…………」
「…………」
権之介――三国峠の権と松乃とはヒタと顔を合わせた。
谷からは尚お蘭の吹く竹法螺の音が聞こえて来ていた。
「権! ……権之介様、恨みある妾の耳を、さあお切りくださいませ!」
谷からは、――本当は悪党ではない三国峠の権よ、早くここから逃げておくれというように、お蘭の吹く竹法螺の音が聞こえて来た。
「俺ア」
と権は云った。
「お前なんか知らねえ、昔から今までお前のような女知らねえ」
松乃は廊下へ仆れた。
耳の痛みが次第に消えて行く中で彼女は思った。
(救われた! 妾は救われた)
三国峠の林の中を、五人の手下と一緒に、今は悠々と歩きながら、三国峠の権は思った。
(誰が吹いたかしらねえけれど、竹法螺のおかげで、俺ア助かったのだ)
権はその後改心したという。