私はカントから出発する。併しカントの空間論に用いられる概念の間の関係は決して明晰ではない。之を予め纏めて見たいと思う。第一批判の「空間概念の形而上学的吟味」によれば空間は経験的概念でもなく又「物一般の関係に就いての比量的な所謂一般概念」でもない。概念は表象の Menge をその下に unter sich 含むものとは表象されるが決してそれをその内に in sich 含むものとは考えられない。然るに空間はその部分 R




それでは第一と第二の純粋直観のこの区別は実際には如何なるものとして現われるか。それを見るために私はカントの直観形式乃至純粋直観としての空間とは如何なるものと考えられるかを他の方面から検べて見る。空間を直観形式と云うにしてもカントの意味する処は実は框や箱のような frame-work であってはならないそれ自身力を働すものでなければならぬ。又それは Subjekt や Gem




さてかくして第一に空間意識はかかる意味に於て空間直観であることを明らかにした上で吾々の始めの問題であったかの第一及び第二の純粋直観の区別を見よう。已に述べたように直観には一般に直観するものの方面と直観されるものの方面とが備わっていなければならぬ。従って空間直観には客観化されたものの側と未だ客観化されない主観の側とがなければならぬ。今第二の即ち直観形式である処の純粋直観はそれが直観の形式である以上そして直観が之なくしては成立しない以上この直観に或る一定の意味に於て先立つものでなければならぬ。然るに之は恰も前に述べた空間直観の未だ客観化されない側がもつ性質に外ならない。それ故第二の純粋直観とは直観する側面であり従って第一の純粋直観は直観される側面となる。事実カントは第一の純粋直観に関しては常に幾何学的に対象化された空間を例に引くのである。こう考えて始めて両者は空間直観のこのディアレクティッシュとも云うべき特質によって同時に同じく純粋直観と呼ばれる必然性があると云わねばならぬ。そしてかかる意味に於ける直観形式と純粋直観との対立を意識して来ることはとりも直さずカントがその感性論を離れてその「先験論理学」の空間論に這入って行くこととなる。
カントは「演繹」に於て次の如く云っている。「外的感性的なる直観の単なる形式である空間はまだ全く認識ではない。その空間は単にアプリオリな直観の多様を或る可能的な認識へ与えるに過ぎない。併し何かを例えば線を空間内に認識するためには私はその線を引いて見なければならぬ。かくて与えられた多様の一定の結合を総合的に成り立たせねばならぬ。かくてこの手続きの統一は同時に意識の統一(或る線の概念)である。そして之によって始めてオブヤェクト(一定の空間)が認識されるのである」と。之によれば始めに「まだ全く認識ではない」と云われた単なる形式としての空間は吾々の先の意味での直観形式であり、カントが之とは区別した処の「一定の空間」なるものは従って明らかに第一の意味での純粋直観に外ならぬと一応は考えられる。事実カントが「空間は単に感性の形式としてではなく直観自身として表象される」(Kritik der reinen Vernunft, 2 Aufl. S. 160)と云う時、この直観自身とは特に直観されたものを意味すると解さねばならぬ如く、前の「一定の空間」とは明らかに第一の意味での純粋直観に外ならぬと一応は考えられる。即ち茲にカントは私が先程指摘した様に第一の純粋直観と直観形式との対立に立つものと考えねばならぬ。然るにこの対立と共にカントは同時に夫に一つの転向を与えていると考えられる。というのはカントの言葉に従えば空間は「ある多様を含む処の直観自身として表象される、即ちこの直観内のこの多様の統一という規定を以てアプリオリに表象される」(S. 160)と云うが「直観自身として表象される」とは依然直観されるということ以外に正当な意味はないと思う。カントは直観的表象に統一するとも云っている。従って茲に直観自身として表象されるという意味での直観と直観自身とが再び区別されねばならぬ。前者は多様の統一という規定を持つに反して後者にはそれを持つということが考えられていない。後者は単に直観されたるもの即ち第一の意味での純粋直観であるに反して前者はカントの言葉を用いれば「多様を一つの直観的な表象に zusammenfassen する」処の統一という規定を備えた直観でなければならぬ。即ち前の場合にはもはや第一の意味での純粋直観と全く同一とは考えられない。カントは特に之を形式的直観と呼ぶのである。併しカントはこの形式的直観と純粋直観との異同は特にこれを言明してはいないように思われる。私はもう少し立ち入って茲を解釈して見よう。形式的直観が統一という性質を備えているということは如何なる意味であるか。夫は云うまでもなくこの統一によって形式的直観そのものが成り立っているということに外ならない。即ち形式直観が統一の結果であるということである。処がこの統一をば統一するものと統一されるものとの二つの分に解いて考えて見るとすれば、この場合統一されるものというのに相当するものはこの形式的直観ではない。何となれば形式的直観はすでに統一されたものであるから。従って求められたものは未だ統一されない処の直観に相当しなければならぬ。即ちそれは先の第一の純粋直観というの外はない。然るに明らかに単に統一するもの又は単に統一されたるものというものはない、成り立っているのは統一されたるものである。即ち単なる純粋直観なるものはない、あるものはただ純粋直観が統一された形式的直観のみである。それ故正しく云うならば形式的直観の統一によって始めて純粋直観が成り立つのである。云い換えれば第一の純粋直観は形式的直観のコンポーネントと考えられることによって始めて空間直観の面目を現わすものである。純粋直観とは実は形式的直観でなければならぬ。カント自身の云うように形式的直観の統一によって空間が直観として始めて「与えられる」のである(S. 161)。吾々は今純粋直観と直観形式との対立から出発したのであるが、純粋直観がかく形式的直観に帰するとすれば、それではかかる形式的直観とかの直観形式とは如何なる関係に立つか。「直観の形式は単なる多様を、之に反して形式的直観は表象の統一を与える」(S. 160)ものである。それ故形式的直観は単なる直観の形式以上のものと考えねばならぬであろう。而も「空間は対象として表象される時(それは実際幾何学で必要なことであるが)それは直観の単なる形式以上のものを含む」(同上)。之によって見れば形式的直観とは実はすでに対象化されたものであると見ねばならぬ。それでは形式的直観の未だ対象化されない処のものは何であるか。それが直観である以上かかるものは必ずなければならぬことである。それは何か。それは明らかにこの直観形式ではあり得ない。何となれば之によっては単なる多様が与えられるだけであるから。併しながら第一の純粋直観が先に述べた意味に於て形式的直観(対象化されたる)に帰する以上その対立たる直観形式も亦形式的直観(対象化されざる)に帰する外はない。直観形式というも実はこの意味での形式的直観に帰するものと考える外はない。単なる多様を与える直観の形式なるものはない、あるものは多様の統一即ち直観的表象への統一を与える直観形式のみである。それ故かくして純粋直観と直観形式との対立は対象化された形式的直観と未だ対象化されざる形式的直観との対立に移って来る。この移り行きはとりも直さずカントがその「演繹」から※[#下側の右ダブル引用符、U+201E、370-下-20]Analytik der Grunds

この対象化されたものと見るべき形式的直観のこの表象の統一はカントによれば「与えられたる直観一般の多様を範疇に従って根本的な意識に結合する統一に外ならない」(S. 161)。これは如何にして可能であるか。カントによればこの統一は「空間の諸概念 alle Begriffe」が始めて可能にされる処の Sinn には属さない或る一つの総合を予想している。即ちこの表象の統一の背後には或る一つの総合がなければならぬ。この総合を明らかにするものは「直観の公理」に外ならない。凡ゆる現象が経験的な意識(それは現実的な意識という意味であるが)にとり入れられるためには das Gleichartige の結合とこの同様なるものの多様の総合的な統一の意識に是非とも依らねばならぬ。処がこの同様なるものの多様の意識は直観に於ては量の概念である。然るに吾々は「どんな短い線と雖もそれを心の内で引く in Gedanken zu ziehen のでなければ、即ち一点から次第次第に凡ゆる部分を生産しそれによって始めて線という直観を示すことによらなければそれを表象することは出来ない」。吾々はこのように部分の表象が全体の表象を基けそれに先立つものを外延量と呼ぶ。それ故空間はかかる外延量に外ならない。直観の公理の「原理」に従えば「総ての直観は外延量」なのである。外延量として統一されたる直観は上に述べたような部分の順次総合によって可能となるのである。外延量として統一されたる空間の直観は対象化された統一を含む点から見てかの対象化された形式的直観でなければならぬ。然らばこの対象化された形式的直観を基けると考えられた部分の順次総合とは何か。カントによれば空間の意識に於てかく部分を順次に総合するものは produktive Einbildungskraft に外ならない。一般に現実意識を齎すものは実にこの生産的構想力である。生産的構想力が空間直観を成り立たせるレーゲルこそこの順次総合に外ならない。このレーゲルは空間の表象の統一そのものである。そしてこのレーゲルによって生じた Produkt 即ち「図式」としての図形の如きものこそかの対象化された形式的直観である。それ故生産的構想力のこの順次総合こそ正しくかの未だ対象化されない形式的直観に相当しなければならぬ。空間を単に客観的なものとしてのみは考えずに空間の具体的なる形式的直観と解する時以上の如く考えねばならぬのではないかと思う。対象化された形式的直観と未だ対象化されない形式的直観との対立は構想力としての形式的直観によって直接に結び付くのでなければならぬ。空間が直観である所以はカントに於てはかかる形式的直観として現われると思う。そして又形式的直観はすでに構想力と解釈されたのであるがカントによれば構想力は範疇へ結び付くものでなければならぬ筈である。構想力の順次総合のレーゲルとは構想力が範疇に従うことを意味するに外ならない。即ち形式的直観はその限りに於て範疇的と呼ばれることが出来る。然るに範疇とは人も云うように認識の規範ということに外ならない。形式的直観は規範的でなければならぬ。カントが空間に認めたアプリオリとは実はこの規範性に外ならない。直観空間は規範である。
カントの空間をば一応このように解釈出来るとして私は幾何学とこの直観空間との関係を多少立ち入って考えて見たいと思う。カントの識った幾何学は恐らく三次元のユークリッド幾何学であったと想像される。もとより空間の直観そのものがユークリッド的であるか或いは又未だ何等そのような規定を持たぬものであるかということに就いてカントの言葉を聴くことは出来ないであろう。併しカントによればユークリッド幾何学はかかる直観に基くものであり、而もユークリッド幾何学が唯一の幾何学であったと想像される以上、吾々はカントの考えた直観空間をユークリッド的であったと想像するのが自然であるであろう。それでは所謂非ユークリッド幾何学はそれがユークリッド幾何学と相容れないという理由からしてカントの直観空間に基くことは出来ないと云わねばならぬのではないか。事実この点に就いてカントの空間論に対する反駁は普通行なわれる処である。今カントの直観空間がユークリッド的であったと仮定し、且つそれ故にそれが非ユークリッド幾何学を基礎づけることが出来ぬであろうという批難に対して Medicus はカントの精神に従って弁護する(Kants transzendentale

併し元来直観空間なるものは果してユークリッド的であるのか。もしそうとすれば如何なる意味に於てそうなのであるか。O. Becker(Beitr






ユークリッド空間と考えられた直観空間は無限 offen であるというがそれは実は週期性即ち結合からの独立を意味する。従ってそれは無限 offen とも有限 geschlossen とも考えられないと云わねばならぬ。このことは曲率に就いても云われはしないか。即ち直観空間はK=0でもなく又K≠0でもないと。何となれば元来空間その者の結合が問題となり得るのはただ空間の曲率に基くと考えられる限りに於てであり、空間そのものの結合もこの意味に於て計量的であると云わねばならなくなって来るから。私はこの点を追求して行く。直観空間の内面を最も直截に指摘したものはロッツェであると思う。ロッツェに於て直観空間は幾何学を基礎づけるものと考えられる。「線に就いて之を他と比較することによって吾々は長さと方向とを区別するが、両者に関する最も簡単な命題と雖も直観から学ぶのでないならば決して成立するものではない」(Metaphysik, S. 223―4)。幾何学に於ける総合判断は空間の直観によってのみ可能である。然らばロッツェの直観空間とは如何なるものか。線の形に於て直観された二つの要素間の関係rと、角の形に於てかかる二つのr間の関係wとは結合して吾々の直観空間をなすのであるが、此のrとwとが吾々の直観空間に於てとは異った結合をなす時成り立つと想像される所謂 Raumoid なるものは元来あり得ないものである(同上 S. 241)。即ち直観空間は唯一でなければならぬ。次に吾々は直線を曲線の極限と考え得ると云うが「その規定と計量とに当って何等か直線の直観を用いることなくしてはこの曲線の系列を作ることは出来ない」(同上 S. 246)。無限大の直径を持つ円として回帰し得るような直線とは論理的野蛮に過ぎぬ。平行線が永久に交らないということを逆にして平行線は無限遠点で交わると云い換えることは許されない。吾々は論証によって平行線の問題を決定することは出来ない。何となれば直観に対しては問題が起きる理由は全くないのであるから。平行線の存在は「直観の完全に明晰な事実」に基くのであるから、もし物理的現象に於て三角形の内角の和が二直角を離れるような場合が生じたとすれば、その場合にはそこに特殊の物理的な原因が存在して光線をば曲げたのであると吾々は解釈せねばならぬ。そして空間関係そのものは飽くまで不変であらねばならぬ(同上 S. 246―9)、即ち直観空間はユークリッド的と考えられる。併しロッツェによれば直線に対して曲線が考えられる時、それを可能ならしめる原理が直観空間の直線性として働く処のものである。直観空間のユークリッド的性質とはとりも直さずこの直線性の原理に外ならない。それではかかる直線性は何と考えるべきであるか。普通直線は曲率を持たぬと云われるのであるが私はこれを「曲率がない」ということと「曲率が零である」ということとの二つに区別する必要があると思う。吾々は射影幾何学には曲率がないと云い、計量幾何学には曲率があるという。そして後者の内ユークリッド幾何学に於てのみ曲率が零であると考える。それ故以上の区別は単なる言葉の分類ではない。直線が原理であると云う時、それは茲に曲率が考えられていないということ、即ち曲率がないということを意味するに外ならないと思う。何となれば零も一つの数と考えられる以上曲率が零であるという場合はそれが零でないという場合と対等の位置にある筈であり、従って前者が後者を基ける原理となるというようなことは零に特殊の意味を与えない限りこれからは出て来ようのないことなのであるから。直線性が原理であるとは曲率が零であるという特殊の場合を意味するのではなくして曲率がないということでなければならぬ。非ユークリッド幾何学に於ては所謂その直線と雖も曲率を持つのであるが、それにも関らず直線は矢張り一義的に他の曲線と区別されるということは直線性が曲率に依存しないということを意味するのではないであろうか。原理としての直線性は凡ゆる幾何学に一貫する原理であると思う。ポアンカレが射影幾何学は直線を予想し直線は計量に基くが故に射影幾何学も量的であるというが(Derni






平面性に就いて以上のように考えて見たがそれでは三次元に就いてはどう考えられるか。カントは空間の三次元を必然的なものとして幾何学の命題の一つにさえ数えている。それではカントの空間はn次元の幾何学を基礎づけることは出来ないのであるか。メディクスは平面性に就いてと同じく茲でも空間の三次元性は経験の必然的制約として演繹されるものではなく単に事実上そうあるに過ぎないのであるからこの点に就いてもカントに何等困難はないと弁護する。併し直観空間の三次元性はその平面性に較べてよほど「疑い得ない」ことである(上掲論文)。処がすでに述べたようにカントの空間が直観と考えられねばならぬのであるからこの「疑い得ない」ことがこの直観の規定として一応顧みられなければならなくなる。勿論それは理性的な必然性は持たぬであろう。空間の次元が何故に3でなければならぬかは理性の少しも教えない処である。その意味に於て経験の必然的な制約ではないであろう。併しかく考えられるものは実は空間そのものではなくして高々空間性に過ぎない。空間性には三次元であるべき理性必然性はないかも知れない、併し空間は直覚上是非とも三次元でなければならぬ。カントも考えたようにそれは「必然的」と云わねばならぬ。この必然性があって始めて直観空間が成り立つと云わねばならぬ。そしてこの直観空間故に空間が経験の制約と云われる理由も生じて来るのである。直観空間の三次元性の必然性を説く者は再びロッツェである。ヘルムホルツが、もし二次元の意識しか持ち得ない処の而も吾々と同じく英知的な生物があるとすればその生物の意識する空間はリーマン幾何学平面に相当するユークリッド空間の球面のようなものであり得るだろう(Popul




そこで私はカントが考えた幾何学と直観との関係を多少徹底させて見なければならぬ。「形像の生産に於ける生産的構想力のこの順次総合の上に延長の学(幾何学)はその公理と共に基き、その公理は感性直観の先験的制約を云い現わす」(K. d. r. V. S. 204)と云うようにカントに於ては幾何学の対象と直観空間とは直ちに一と考えられるのであるが、直観そのものと直観の公理とは何と云っても一応別なものと考えなければならぬ。公理から矛盾律によって始めて他の命題が帰結するにしても如何なる命題も総て直観内容でなければならぬ点に於てそれは公理と少しも異る処はない。ただカントによれば公理は「直接に確か」であるというのである。併し直観が直接に確かであるとか直接に確かではないとかいうことはそれは直観の判断であって直観そのものの立場ではない。直観そのものは総て直接でなければならぬ。最も煩瑣な証明を必要とする定理の内容も決してそれだけ間接であるのではない。「直接に確か」であると云う「直接さ」は直観それ自身の「直接さ」ではなくして直観の判断のそれである。直観そのものには前後はない。それはただ「論証」に於てのみあることである。公理はこのような論証の出発点に外ならない。それ故公理は直観から一定の内容を特に「直接」なるものとして引き出す処に始めてなり立つと云うの外はない。公理によって直観があるのではなく直観によって公理があるのである。それでは直観が直観の公理となることは何を意味するか。それは直観に思惟が結び付くことでなければならぬ。併し茲に云われる直観は生産的構想力と解釈された処の形式的直観なのであるから構想力が単なる所謂直観ではなくして範疇に結び付いたものでなければならぬ以上、それが思惟と特に「結び付く」と云うのは不当であると云われるかも知れない。併し明らかに構想力が範疇であるのではない。又構想力が範疇を内に全く包むのでもない。構想力(それは感性である)はあくまで範疇の外になければならぬ。そして而もそれは範疇に「従う」ものでなければならぬ。それ故構想力としての形式的直観は始めから概念に結び付いているものではなくして実は結び付き得る可能性を持っているということにすぎない。直観に思惟が改めて結び付くのでなければならぬ。そして思惟に真に結び付き得る処に空間の直観の特徴があるのである。経験的直観の結び付き得るものは経験的概念にすぎない。空間の直観に於てのみ純粋思惟がその demonstrativ な力を充分に発揮し得るのである。直観の公理とは思惟された直観であると云うことが出来る。空間の直観は自由なる思惟へ結び付くこと(公理)によって思惟そのものの力を借りて自らの内容を規定し得ると共に、自由なる思惟は空間の直観へ結び付くこと(公理)によって空間の直覚に基きつつ之を否定することなくして之を自由に超えることが出来る。n次元空間の公理はかくしてのみ始めて成り立つことである。何となれば思惟そのものにとっては三次元を四次元に拡張することは、たとえそれが感性的には不成立であるにしても、決して矛盾を含むものではないのであるから。空間を図式と考えればそれが三次元でなくてはならぬ処にその感性があり之を矛盾を含むことなくして越えて行く処で知的であるとも云えよう。そしてかかる可能性を持つ処に形式的直観の形式的直観たる所以がなければならぬ。もしそうでなければ空間は単なる経験的直観と選ぶ処はない筈である。以上のように解する時カントの立場は何の困難も含むものではない。今もし思惟が空間直観に対して持つこの自由を茲に認めないとすれば、即ち空間直観が始めから思惟と結び付いて了っているならば、独りn次元の空間概念が不可能であるばかりではなく、吾々は如何にして異った公理の上に立つ種々なる幾何学の空間を考え得るかが理解出来ない。そして之はカントが恐らく陥ったであろう処の困難である。カントは空間直観と思惟とを不当に密接に即ち不動な関係に結び付けたために、公理は直観の同語反覆的な裏面となり、一定不変なものとならなければならなかった。カントの考えからすれば私が先に述べたように直観空間が質的に平面性を持つならばそれはまた平行線公理を意味することとなり従って非ユークリッド幾何学と矛盾せねばならなくなるであろう。このような困難を脱する唯だ一つの道は公理を一定不動なものとすることを捨てること、即ち空間の直観に対する思惟の自由を認めることでなければならぬ。それはとりも直さず直観と直観の公理とをあくまで区別することに外ならない。即ち「直観空間」は幾何学の対象としての「幾何学的空間」とはその概念の内包に於ても外延に於てもあくまで区別されねばならぬこととなる。その区別の一斑を吾々は直観空間の三次元性に発見するのである。
今までのことを茲に反覆すれば、一つ、直観空間は規範性を持ち、二つ、直観空間は幾何学の対象とは別である、ということとなる。之だけのことを決めておいて私は物理的空間が如何にして成り立つかを考えよう。物理的空間という言葉は云う迄もなく一般に用いられているものであるが、その独立の存在は必ずしも承認されているものではないであろう。「幾何学的及び物理的空間の区別には何の根拠もない。ただそれは数学者にとっては空間は物理的な物体から抽象された空間的形像であるに対して、物理学者にとってはそれが物理的対象であり、空間的形像はただその形式に外ならない」。「この区別はただ吾々の主観即ち観察の視点にあるものに過ぎない、空間そのものはあくまで区分出来ない一者である」(L. Nelson, Kant und Nichteuklidische Geometrie, S. 26 ff.)と考えられはしないか。かくすれば物理的空間は要するに幾何学的空間に没し去るものとなるであろう。併し私はかかる疑問に対しては然りとも否とも答え得ると思う。二つの空間が何かの意味に於て同一でなければならぬということは考察の結果によるというよりも寧ろその出発点でなければならぬ。何となればもし両者の間に直接の結び付きがないならば吾々がそれを共に「空間」と呼ぶことさえ無意味となるのであるから。併し同時に空間が結局あるただ一つのものに結び付かねばならぬとしても吾々はその故に空間がただ一種でなければならぬと考える理由は少しもない。すでに私が幾何学的空間と直観空間との区別を指摘したように前者が後者に基きながらも結局後者とは区別されねばならなかったことから見ても空間をただ一種のものと見做すのは独断でなければ無造作の故である。吾々は本質的に種々なる空間が可能であることを許さなければならぬ。所謂「観察の視点」こそこの種々なる空間の存在を意味するに外ならない。併しもしネルソンの言葉から何か積極的なものを見出そうとならば、それは幾何学と物理学との間の固有に緊密な関係であろう。この固有性によって幾何学的空間と物理的空間とは区分することの出来ぬ一者であると臆測されるのでもあろう。併し種々なる空間の可能性を考える時この関係は物理的空間の独立を否定する結論に達する代りに却って物理的空間が如何にして独立するに至るかの理由を明らかにするに役立つ筈である。幾何学的空間と物理的空間との区別をこのようにして否定しようとする見方に対して之と同じ結論に達しながら或る意味では之と正反対の立場ともなるべきものを私はヘルムホルツの空間説に見出し得ると思う。ヘルムホルツに従えば幾何学に於ける測定は「合同の原理」に基きこれは又剛体の完全に自由な運動の可能性に基くものである(Ueber die Ursprung und die Bedeutung der geometrischen Axiome.)。そしてこの合同が図形の位置や方向や運動の道には無関係に行なわれるということは空間の測定を可能にする事実 Tatsache なのである(Ueber die Tatsache, welche der Geometrie zugrunde liegen.)。幾何学の公理が如何にして物理学へ応用されうるかという問題は、幾何学がかかる事実の上に建つものと考えられる時初めて理解され得る。同一の条件と同一の経過時間とに於て同一の物理現象が行なわれるような空間量を「物理的に等値」であると呼ぶならば、かかる等値な空間量は剛体の運動例えばコンパス及び定規によって規定される。この物理的等値という事実のみが空間量の完全に決定されたる客観的にして唯一なる性質なのである。それ故このような事実に基く幾何学は実際、物理的幾何学と呼ばれる筈である。物理学に応用される幾何学はこの物理的幾何学なのであるから、その応用の可能性は当然なものとして疑いを

第一批判の dritte Analogie には「凡ゆる実体は空間に於て同時に知覚される限り完全なる相互作用にある」と云われるが、この空間はカント自身特に何の説明も加えていない処から見ると之を私がこれまでカントに於て見出し来た直観空間と解釈するのが自然であるように見える。そうとすればこのような物理的な実体の相互作用の場となる意味に於て物理的な空間は特に直観空間と区別される手懸りがないかのようである。普通云われるようにカントの直観空間を絶対的空間と呼ぶならば今の場合これも物理的な絶対的空間と呼ばれてよいであろう。処が一方カントは凡ゆる絶対的運動の存在を否定し従って一切の物理的空間※[#下側の右ダブル引用符、U+201E、383-下-11]empirischer Raum“は相対的であることを主張する。相対的空間と相対的空間とを含むものは又相対的空間でなければならぬ。唯だあり得る一切の相対的空間を終局に於て包むと考えられた理念としてのみ絶対的空間が要請されるにすぎない(Metaphysische Anfangsgr

カントに於ては純粋直観は経験的直観の極限と考えられる。経験的直観に於ける感覚の一定量が次第に減じて零となる時純粋直観となる(K. d. r. V. S. 208)。直観空間はカントも考えたように一面に於てこのような虚空間 leerer Raum としての意味を失うことは出来ない。直観空間と感覚乃至知覚との関係は更に立ち入ってどう考えられるか。空間内に於ける形、量というような「純粋な規定」はアポステリオリに常に経験に於て与えられうるものをアプリオリに表象するが故に、吾々はそれを「現象の予料」と呼ぶことも不可能ではない(S. 209)。即ち直観空間は感覚を予料するものと考えられる。直観空間の内に這入って来る感覚はすでにそれに於て予料されてあるものでなければならぬ。感覚は直観の形式に対する直観の単なる内容というに過ぎない。それは全く直観空間そのものの下に原理上従属して了う立場にあるのであって直観空間に対して自らの特殊の立場を主張するものではない。かく考えて見ればこの場合の感覚は全く消極的であると云う外はないであろう。併しカントを離れて考えて見る時吾々は事実空間表象に於ける感覚の重さをより尊重する見方に逢着するのである。空間表象に於て感覚をより積極的に見るものは心理学に於て最もよく行なわれる空間知覚の概念でなければならぬ。カントのように空間を直観と見る代りに、空間を直観と知覚との和とも云うべき空間知覚と見るのであるから、知覚はそれだけ積極的となるわけである。もし心理学が一般にその方法論上の制約からして直ちに吾々の今の問題に結び付き難い困難を持つことを指摘し従って空間知覚に就いての議論を無用であると主張されるならば、吾々は意識をそれに固有な立場で観察する現象学を以て之に代えてもよいであろう。既に先に私はベッカーを引用して空間知覚の分析に触れたのである。併しベッカーも示すように空間知覚には種々なる段階を区別しなければならぬ。而もかかる段階は単なる区分ではなくして一つの順序を現わすものに外ならない。原始的なものから最も発展したものまでの階級を意味するものに外ならない。かの等質空間とはかかる階級の最高位に在るものであった。即ちそれは空間知覚の発展の終局と考えられねばならぬ。併し発展のこのような終局とは元来何を意味するか。のみならず他方ではこの等質的空間はそれ以前の段階の空間をその規定として内に含み得る性質を持つものと云わねばならぬ。orientierter Raum と雖も立ち帰って見れば等質的空間の内に於て orientieren されるのでなければならぬ。かく他の総ての空間知覚を内に含むとは元来何を意味するか。それは明らかに等質的空間が特殊の価値を有つことを示している。等質的空間はあらゆる他の空間知覚の発展の終局となり又その基となり得る価値を持つのである。勿論現象学の課題から云う時之以上出ることは出来ないかも知れない。併し認識の妥当性の modalit

感覚が真に積極的になり得ないのは客観界の唯一性とも云うべきこの規範性が常に感覚を超越した直観空間に求められているからである。規範性を何かの意味に於て感覚乃至知覚自身の内に見出すことが出来るならばそれによって始めて直観空間の立場を離れることも出来るであろう。併しこう云っても自らの内に見出されたものが直観空間の規範そのものであるならばそれは要するに直観空間の規範性であって積極的なる感覚乃至知覚のそれではない。それ故正しく云えば感覚が独立するためには自らの内に直観空間の規範そのものではなくして而もそれに相当する規範性を見出すことが必要となる。勿論このような独立な規範性を見出し得たにしてもそれによって感覚が直観空間から完全に独立して了うと云うのではない。あくまで直観空間の規範に支配されていながらなお且それ自身に独立な新しい領域を造り出すのである。それでは直観空間に相当する規範性とは何であるか。私はすでに直観空間と幾何学の対象との区別を指摘したのであるが、幾何学の判断乃至命題の apodiktische Geltung は幾何学が直観空間から由来する処に成立すると云わねばならぬ。即ち直観空間の実在認識の規範に由来するのでなければならぬ。直観空間は経験に規範として先立つという意味に於てアプリオリでありそれに従って幾何学は経験から独立に妥当するという意味に於てアプリオリなのである。勿論幾何学の先験的妥当性そのものが直にこの規範性であるのではない。それが規範性の意味を持ち得るのはただそれが実在の認識に応用される時に限るであろう。併し少くとも直観空間の規範に相当するあるものが幾何学であることだけは明らかである。それ故今もし直観空間の規範に相当する規範性を求めるならばそれは正に幾何学が応用される処に成り立つ筈である。直観空間と幾何学的空間との区別を明らかにした以上かくして求められた規範性が直観空間の規範そのものではないのは云うまでもない。幾何学が感覚乃至知覚に応用される時始めてこれに独立な規範性があり得るのである。感覚が真に積極的となるのである。感覚乃至知覚の間に幾何学的関係が成立する時始めてそれは直観空間から独立した意味を得てくるのである。併しこの場合もしカントの考えたように幾何学が直観空間の「純粋な規定」となるという意味に於て(図式としての図形などは之である)経験に対するその応用を云々するのであるならば、それは先に述べた所謂現象の予料の外ではなく、其処には感覚の積極的な権利は少しも見出すことが出来ない。カントは感覚の積極的な権利を認めることなくして幾何学の経験に対する応用を論じたために応用された結果は要するに直観空間の内容規定の外ではなく、其処から直観空間とは独立な何物かが生じるという可能性が全く断たれているのである。もしカントの考えた処のものを幾何学の直接の応用と呼ぶことが出来るならば、今の吾々の場合はその間接の応用と呼んでよいでもあろう。それでは幾何学の経験に対する間接の応用とも云うべきこと即ち感覚乃至知覚の間に幾何学的関係を成り立たせるとは何を指すか。それは即ち物理学の根本的規定とも云うべき測定の成立に外ならない。物理学にとっては測定し得るもののみが存在し得るのである。私は茲に測定と計量とを厳に区別したいと思う。後者が数と延長との直接な先験的な対応であるのに対して前者はこの対応関係が更に或る経験的な手続きによって現実に見出された結果を意味するのであるから相対性原理の教えるように空間の測定は必然的に時間の測定を含み時間の測定は光速度というような物理学的要素によって始めて成立するものである。また測定は測定者の存在即ち測定の原点を予想せずしては不可能であるが、而もこの原点は計量幾何学の原点とは直ちに同一ではない。測定の原点の間には相対的運動の可能性を許さねばならぬのであるから。併し測定は云うまでもなく計量を予想せずには不可能である。感覚乃至知覚の間に幾何学的関係を成り立たせるとはそれ故計量幾何学を之に応用するということに外ならない。幾何学が経験に応用されることの最も徹底したものは寧ろ今のこの場合でなければならぬと思う。かく応用されて生じる測定量の体系即ち測定の座標系はもはや単なる計量幾何学の対象でもなく、又直観空間の単なる内容規定でもないであろう。それは感覚を含んでいる。所謂「物理的空間」とはこれでなければならぬ。
物理的空間はもとより直観空間から由来するには相違ない。併しそれは第一に直観空間に於ては消極的と考えられる感覚の積極化を含むことによって直観空間とはその材料を異にしている。第二にそれは感覚の積極化を含む時幾何学の数量的規定を必然的に測定としてその内容にとり入れなければならなかった。而も直観空間にはこのような数量的規定は必ずしも本質的ではない。第三に幾何学の数量的規定は直観空間の三次元性を超えたものである以上物理的空間も亦三次元に限定される理由を必ずしも持たない。ミンコーフスキーの四次元の世界はその一例である。勿論人も云うようにミンコーフスキーの世界空間は直観空間の内容規定の内に尽きない点に於て仮構に過ぎぬと考えられるかも知れない。併し直観空間に対して仮構であるものが総ての意味に於て仮構であるのではない。寧ろこれは物理的空間としては正当な存在を持つものの一つであると私は思う。空間に感覚的内容が真に結び付くためには物の時間上の変化が更に一つの独立な次元となって付け加えられるということは寧ろ物理的空間の重大な特質と云わなければならぬ。吾々が普通常識的に空間と呼んでいるものは正しくこのような物理的空間の素朴なものであると思う。ミンコーフスキーの世界の如きはその最も精錬された成果であると云うべきである。物理的空間は空間の直観とあくまで区別されねばならぬ。次に又物理的空間は幾何学的空間とは明らかに同一ではない。幾何学的空間がたとえ射影幾何学の対象のように純粋に質的であるのでなくして座標による計量幾何学の対象と考えられる時でも、それは計量の座標系の体系であって、まだ決して測定の立脚点の体系ではない。物理的空間はあくまで幾何学的空間とも区別されねばならぬ。それ故に物理的空間は独立の意味を持つ一種の空間として成立することとなる。物理学に対して物理的空間が如何に重大な基礎となるかを考えて見る時このことは愈々著しくなるであろう。
(一九二四・一一・二〇)