甚九郎は店に坐っていた。この麹町の裏店に住む
それは春の夕方であった。別に客もないので甚九郎は
女は小半時ばかりしても動かなかった。甚九郎はもしや女の病気がひどいのではないか、病気がひどいとなればこのままにして置かれないと思った。
「もし、もし、どうかなされたのか」
と云うと、女はやっと顔をあげて、ちらと甚九郎の方を見ながら、
「眼まいがして、倒れそうになりましたから、お断りもせずに店頭を拝借しましたが、この上のお願いには、今晩一晩どうか泊めていただけますまいか」と、女は力なさそうに云った。
悪い感じのしない可哀そうに思われる女であったが、見ず知らずの一人旅の者を泊めることは憚られた。
「私は泊めてあげたいが、見ず知らずの者を泊めると、大屋さんがやかましいから、籠ででも送ってあげよう、お前さんは何処ですかい」
「私は遠い在の者ですから、籠と申しましても、むずかしゅうございます」と、云って懐から銭をだして、「これを宿賃にあげますから、どうぞ一晩泊めてくださいまし」
銭は三分あった。甚九郎は一晩位なら泊めてやっても好いと思いだした。
「見られるとおりの住居だから、着るものも何もないが、それでよければ、泊っておいで」
女は悦んで上にあがった。甚九郎は持合せの薬を飲まし粥を炊いてやって
朝起きると甚九郎は茶を沸かしはじめた。女もその後から起きて来て甚九郎の傍へ坐った。女は好い色
「お陰様で体がさっぱりいたしました、どうもありがとうございました」
「体がよくなったら何よりだ、お前さんは何処だね」
と、甚九郎が聞くと、
「私は八王子在の者でございます、親も兄弟も無い、たった一人あった叔母にも、この比死なれましたから、下女奉公でもしていて、そのうちに私のような者でも
女は気の毒な身の上であった。甚九郎は心をひかれた。
「それは気の毒だ、
「はい」
と、云って女は俯向いて考えていたが、やがて顔をあげて、
「……おねがいがございます」
女の顔は紅くなっていた。甚九郎は考えた。
「何だね」
「こんなことを申しましては、なんでございますが、お見受け申しますところ、お一人のようでございますから、
懐へ手を入れて財布を出してその口を開けた。中には小判が光っていた。女はそれを甚九郎の前に置いた。三十両あれば商も大きくできて従って利益も大きい。甚九郎の心は小判に吸いつけられた。
「それじゃ、二人でいっしょに稼ごうじゃないか」
甚九郎は女と夫婦になる約束をした。彼はその朝大屋へ往って、国元から従妹が尋ねて来たから暫く家へ泊めて置くと云った。
甚九郎の隣に源吉と云う
「おや、おかしいぞ」と、源吉は不審したがその不審の下からぶきみになって来た。で、ちょっと足を止めて躊躇したが、どうも不思議でたまらない。思いきって寄って往って障子の穴から覗いてみた。行灯の横手に坐った恐ろしい獣のような顔をした女が、
甚九郎の女房は人間ではなかった。甚九郎はその五六日行商に出て留守であった。源吉は甚九郎が帰って来ると甚九郎を
甚九郎も女房のすることに就いて不審の晴れないことがあった。それに

甚九郎は源吉の知恵を借りて女を離縁しようとした。それには大屋さんの力も借りなければならないので、彼はしかたなく大屋さんに事情を話した。
甚九郎と打ち合せをしている源吉は、すました顔をして甚九郎の家へ来た。
「大屋さんが話したいことがあるから、来いと云うぜ」
甚九郎は源吉に
「大屋の親爺め、
「どんなことを云ったの」
と、女房が聞くと、
「いや、べつにたいしたことでもないが……」と、
翌日になるとまた源吉が来て大屋さんからだと云った。甚九郎はまた源吉といっしょに出て往ったが、今度はよっぽど遅くなって帰って来た。
「大屋さんは、なんだね」
と、女房が聞く。甚九郎は顔に苦しそうな表情を見せた。
「困ったことになったよ、先月、奥州棚倉の桜町に、みさかや助四郎と云う者の女房が、
女房の顔は見る見る物凄くなった。
「悪人には人相書がある、悪人でないか、悪人かはすぐ判ることじゃ、そんなことを云うのは、私が嫌になったからこしらえて云うことだろう」
甚九郎は恐れて折角の
二十日ばかりしてのことであった。行商から帰って夕飯をすました甚九郎は、行灯の前に横になっていたが睡くなって来た。で、蒲団を出して行灯を消して寝たが、床についてみると眼が冴えて睡れない。しかたなしに暗い中で眼を開けていると、雨戸の隙間がぎらぎらと青く光った。不思議に思ってその方を見つめた。と、雨戸を
「開けてくださいよ、私ですよ」
その声はたしかに女房の声であった。甚九郎は蒲団を頭から冠って顫えた。
「開けてくださいよ、開けてくださいよ」
甚九郎の耳はがんがんと鳴った。と、雨戸ががらがらと開いて女房が枕頭に来た。
「何故私をそんなに嫌います、いくら嫌われても、私は
甚九郎は死んだつもりで顔をあげた。何時の間にか行灯が点いて女房が艶かしい姿で坐っていた。
甚九郎はもう怪しい女を刺し殺すより他に手段がないと思った。彼は此処では好い
そして、山路を往ってその日の午比、小さな辻堂のある処へ往った。甚九郎は女とその辻堂の縁に腰をかけて、腰にしていた弁当を開いた。
女の体に油断が見えた。甚九郎は腰の脇差を抜いて女の胸元を突いた。女は突かれながら甚九郎に掴みかかろうとした。甚九郎は身をかわした。女は仰向きになって倒れた。
それを見ると甚九郎は刀を投げ捨てて逃げ走った。そして、気が
六十前後の住持の僧が
「その方は、今、山
甚九郎はその
「女を殺しても、霊鬼が汝の身についてるから、今晩のうちに殺される、早く往ってその死骸を持って来い、災を除けてやる」
甚九郎はしかたなしに辻堂へ往って、女の死骸を莚に入れて背負うて来た。住持はその額に鬼畜変体即成仏という七字を書き、首に血脈袋と珠数をかけて新らしい棺桶に入れさした。
「その方はこの棺を仏壇へ供えて、その傍で朝まで念仏するが好い、どんな恐ろしいことがあっても、声を立ててはならん、もし声をたてると生命がなくなるぞ」
甚九郎は住持の云うとおりにしていると、
そのうちに朝になった。死骸はばったり倒れてしまった。
甚九郎はその住持の許で剃髪して僧となった。