その一
伊豫の
『M――といふ家はどちらでせう。』
と訊くと、その人の答へないうちに、
『M――さんに行くのですか。』
と他の一人が訊き返した。同じ船から上げられた郵便局行の行嚢を取りあげやうとしてゐる配達夫らしい中年の男であつた。
『さうです。』
と答へると、彼は默つて片手に行嚢を提げ、やがて片手に私の柳行李を持ち上げて先に立つた。惶てながら私はそのあとに從つた。
二三町も急ぎ足にその男について行くと彼は岩城島郵便局と看板のかゝつてゐるとある一軒の家に寄つて私を顧みながら、
『此處です。』
と言つた。
其處のまだ年若い局長であるM――君は
M――君はたいへん喜んで、急がないならどうぞゆつくり遊んでゆく樣に、と勸めて呉れた。身體も氣持もひどく疲れてゐた時なので、言葉に甘えて私は暫く其處に滯在する事にした。M――君はその本宅と道路を中にさし向つた別莊の雨戸をあけて、
『こちらが靜かですから……』
自由に起臥する樣にと深切に氣をつけて呉れた。
M――家は島の豪家らしく、別莊などなか/\立派なものであつた。私の居間ときめられた
一方縁側からは自分の島の岬になつた樣な一角が仰がれた。麓からかけて隨分の高みまで段々畑が作られて、どの畑にも麥が黄いろく熟れ、滯在してゐるうちにいつかあらはに刈られて行つた。
その頃私は或る私立大學を卒業して五六年もたつてゐるに係らず、まだ職業らしい職業を持つてゐなかつた。『金にもならぬ和歌ばかり作つてゐて一體お前はこの若山家をどうする氣か』と云つて、先頃まで歸つてゐた郷里の家で、病父の枕許で、年とつた母や親戚たちから私は責められた。苦しい中から學資を貢がせられ、漸く卒業したと思ふに五年たつても六年たつても金の一圓送つて貰へない彼等の身になつて見るとその苦情も當然であつた。たゞ父だけはその性分からか、さまでに氣にかけず『もう少し待つて見ろ、そのうちに何かするだらう』と寧ろ彼等を慰めてゐた。その父が死んで見るといよ/\私の立場は苦しくなつた。是から東京に出て新聞社などに勤めた所で幾らの送金が出來るわけでもなし、いつそこのまゝ母の側にゐて小學校なり村役場なりに出て暮らさうかとまで考へて、その口を探したがなまじひに何々卒業の肩書のあるのが邪魔になつて都合よく行かなかつた。いよいよ弱つたはてにまた母や姉から若干の旅費を貰つて、ともかく東京へ出て見ようといふ途中に、この瀬戸内海の中の小さな島に立ち寄つたのであつた。
凭り馴れた肱掛窓に凭つてかけ出しの樣になつてゐる窓下を見るともなく見てゐると、丁度干潟になつた其處に何やら
が豫想はみじめに裏切られた。それ以前『死か藝術か』といふ歌集に收められた頃から私の歌は一種の變移期に入りつつあつたのであるが、一度國に歸つてさうした異常な四周の
其處には斯うした種類の歌が書きつらねてあつた。
新たにまた生るべしわれとわが身に斯くいふ時涙ながれき
あるがままを考へなほして見むとする心と絶對に新しくせむとする心と
ともし斯くもするはみな同じやめよさらばわれの斯くして在るは
いづれ同じ事なり太陽の光線がさつさとわが
感覺も思索も一度切れてはまたつなぐべからず繋ぐべくもあらず
日を浴びつつ夜をおもふは心痛し新しき不可思議に觸るるごとくに
言葉に信實あれわがいのちの沈默よりしたたり落つる言葉に
さうだあんまり自分の事ばかり考へてゐたあたりは
自分の心をほんたうに自分のものにする爲にたび/\來て机に向ふけれど
自分をたづぬるために穴を掘りあなばかりが若し殘つたら
何處より來れるやわがいのちを信ぜむと努むる心その心さへ捉へ難し
眼をひらかむとしてまたおもふわが
死人の指の動くごとくわが貧しきいのちを追求せむとする心よ
ふと觸るればしとどに搖れて影を作る紅ゐの薔薇よ冬の夜のばらよ
開かむとする薔薇散らむとするばら冬の夜の枝のなやましさよ
靜かにいま薔薇の花びらに來ていこへるうすきいのちに夜 の光れり
傲慢なる河瀬の音よ呼吸 烈しき灯 の前のわれよ血の如き薔薇よ
悲しみと共に歩めかし薔薇悲しみの靴の音をみだすなかればらよ
吸ふ息の吐く息のわれの靜けさに薔薇の紅ゐも病めるがごとし
むなしきいのちに映りつつ眞黒き珠の如く冬薔薇の花の輝きてあり
われ素足に青き枝葉 の薔薇を踏まむ悲しきものを滅ぼさむため
薔薇に見入るひとみいのちの痛きに觸るる瞳冬の日の午後の憂鬱
古びし心臟を捨つるが如くひややかに冬ばらの紅ゐに瞳向へり
愛する薔薇をむしばむ蟲を眺めてあり貧しきわが感情を刺さるる如くに
灯を消すとてそと息を吹けば薔薇の散りぬ悲しき寢醒の漸く眠りを思ふ時に
この冬の夜に愛すべきもの薔薇ありつめたき紅ゐの郵便切手あり
やや深き溜息をつけば机の上眞青のばらの葉が動く冬の夜
ラムプを手に狹き入口を開けば先づ薔薇の見えぬ深き闇の部屋に
餘り身近に薔薇のあるに驚きぬ机にしがみつきて讀書してゐしが
忘れものばかりしてゐる樣なおちつきのない男の机の冬の薔薇
晝は晝で夜は一層ばらが冷たい樣だ何しろおちつかぬ自分の心
と思ふまにばらがはら/\と散つた朝久しぶりに凭つた暗い机に
ぢいつとばらに見入る心ぢいつと自分に親しまうとする心
斯うしてぢいつと夜のばらを見てゐる時も心はばらの樣に靜かでない
ばらが水を吸ひやめたやうだガラスの小さな壜の冬の夜のばらが
かと思ふと、或る海岸の荒磯に遊んでは、開かむとする薔薇散らむとするばら冬の夜の枝のなやましさよ
靜かにいま薔薇の花びらに來ていこへるうすきいのちに
傲慢なる河瀬の音よ
悲しみと共に歩めかし薔薇悲しみの靴の音をみだすなかればらよ
吸ふ息の吐く息のわれの靜けさに薔薇の紅ゐも病めるがごとし
むなしきいのちに映りつつ眞黒き珠の如く冬薔薇の花の輝きてあり
われ素足に青き
薔薇に見入るひとみいのちの痛きに觸るる瞳冬の日の午後の憂鬱
古びし心臟を捨つるが如くひややかに冬ばらの紅ゐに瞳向へり
愛する薔薇をむしばむ蟲を眺めてあり貧しきわが感情を刺さるる如くに
灯を消すとてそと息を吹けば薔薇の散りぬ悲しき寢醒の漸く眠りを思ふ時に
この冬の夜に愛すべきもの薔薇ありつめたき紅ゐの郵便切手あり
やや深き溜息をつけば机の上眞青のばらの葉が動く冬の夜
ラムプを手に狹き入口を開けば先づ薔薇の見えぬ深き闇の部屋に
餘り身近に薔薇のあるに驚きぬ机にしがみつきて讀書してゐしが
忘れものばかりしてゐる樣なおちつきのない男の机の冬の薔薇
晝は晝で夜は一層ばらが冷たい樣だ何しろおちつかぬ自分の心
と思ふまにばらがはら/\と散つた朝久しぶりに凭つた暗い机に
ぢいつとばらに見入る心ぢいつと自分に親しまうとする心
斯うしてぢいつと夜のばらを見てゐる時も心はばらの樣に靜かでない
ばらが水を吸ひやめたやうだガラスの小さな壜の冬の夜のばらが
あはれ悲しいで衣服 をぬがばやと思ふ海は青き魚の如くうねり光れり
とかくして登りつきたる山のごとき巨岩 のうへのわれに海青し
岩角よりのぞくかなしき海の隅にあはれ舟人ちさき帆をあぐ
嬉し嬉し海が曇るこれから漸くわたしのからだにもあぶらが出る
身體 は一枚の眼 となりぬ青くかがやける海ひらたき太陽
岩のあひだを這ひて歩くはだしで笑ひて浪とわれと
鵜が一羽不意にとびたちぬ岩かげの藍色の浪のふくらみより
下駄をぬいでおいたところへ來たこれからまた市街 へ歸るのだ
この帆にも日光の明暗ありかなしや青き海のうへに
水平線が鋸の齒のごとく見ゆ太陽のしたなる浪のいたましさよ
少女よその蜜柑を摘むことなかれかなしき葉の蔭の
精力を浪費する勿れはぐくめよと涙して思ふ夜の浪に濡れし窓邊に
悲しき月出づるなりけり限りなく闇なれとねがふ海のうへの夜に
と云ふ風の歌を作つてゐるのであつた。とかくして登りつきたる山のごとき
岩角よりのぞくかなしき海の隅にあはれ舟人ちさき帆をあぐ
嬉し嬉し海が曇るこれから漸くわたしのからだにもあぶらが出る
岩のあひだを這ひて歩くはだしで笑ひて浪とわれと
鵜が一羽不意にとびたちぬ岩かげの藍色の浪のふくらみより
下駄をぬいでおいたところへ來たこれからまた
この帆にも日光の明暗ありかなしや青き海のうへに
水平線が鋸の齒のごとく見ゆ太陽のしたなる浪のいたましさよ
少女よその蜜柑を摘むことなかれかなしき葉の蔭の
精力を浪費する勿れはぐくめよと涙して思ふ夜の浪に濡れし窓邊に
悲しき月出づるなりけり限りなく闇なれとねがふ海のうへの夜に
ツイ、僅かばかり前に一生懸命して自分で作つておきながら、いま改めて見直すとなつて殆んど正體なく驚いたのである。どうしてあんなに驚いたのか今考へればわれながら可笑しいが、とにかくに驚いた。ほんの數日ではあつたが、郷里を離れてさうした島の特別にも靜かな場所に身を置いたゝめ、前と後とで急に深い距離が心の中に出來てゐたのかも知れぬ。
驚愕はいつか恐怖に變つた。何だか恐しくて、とても平氣でそんな歌を清書してゆく勇氣がなくなつてしまつた。と云つて、心の底にはさうして作つてゐた當時の或る自信が矢張り何處にか根を張つてゐた。そしてその自信は書かせようとする、故のない恐怖は書かせまいとする、その
折角久し振におちついてゐた私の心はその清書にかゝらうとした時から再びまた烈しい動搖焦燥の
丁度十年ほど前にあたる。いまこの島の數日を考へてゐると、其處の友人の家の庭にあつた柏の木の若葉、窓の下の飯蛸、または島から島にかけて啼き渡つてゐた
その二
いま一度、私は瀬戸内海の島に渡つて行つたことがある、備前の宇野港から數里の沖合に在る直島といふのへ。
夏の初、やゝもう時季は過ぎてゐたがそれでもまだ附近の内海では盛んに名物の鯛がとれてゐた。その鯛網見物にと、岡山の友人I――君から誘はれて二人して出懸けたのであつた。直島附近は最もよく鯛漁のあるところと云はれてゐるのださうだ。
附近に並んでゐる幾つかの島と同じく、直島も小さな島であつた。名を忘れたが、島の主都に當る某村に郷社があり、其處の神官M――氏をI――君は知つてゐた。そして網の周旋を頼むためにこんもりと樹木の茂つた神社の下の古びた邸にM――氏を訪ねて行つた。
M――氏は
『では、參りませう。網は

『でも、たいへんではありませんか。』
『いゝえなに、島中くるりと

私も笑つた。その小さな島にさうした歴史の殘つてゐることがまた面白く感ぜられた。多分、船着場や潮流のよしあしなどの關係から出てゐることであらうとも思つた。
邸の前から漁師の家の間を五六十間も歩くと直ぐ山にかゝつた。とろ/\登りの坂ではあつたが早くも汗が浸み出た。晴れてはゐても、空には雲が多かつた。
『あそこに見えますのが……』
杖をとつて先に立つてゐた老人は立ち止つた。まばらに小松が生え、下草には低い雜木が青葉をつけ、そしてところどころそれらが禿げて地肌の赤いのを
『上皇のお側に仕へてゐた
むんむと蒸す日光の照りつけたその松林にははげしい蝉時雨が起つてゐた。
『さうして生みおとされたお子さまなどは、どういふことになつたのでせう。』
『さア、どうなられましたか……、まだほかに上皇の姫君も父君のおあとを慕つて參られましたが、どうしたわけか御一緒におゐでずに、此處とは別な谷間に上臈と同じく庵を結んで居られたと申します。』
程なくその島の背に當つてゐる峠を越した。そして少し下つた處に
其處から二三丁下つたところに

其處から路もない磯づたひを歩いて入江に沿うた一つの村に出た。玉積の浦というた。其處を右に切れて田圃を拔けるとまた一つ弓なりに彎曲した穩かな入江があり、廣々とした白砂の濱を際どつて一列の大きな松の並木が並び、松の蔭に四五軒の漁師小屋があつた。其處が名にふさはしい
丁度、晝前の網を曳きあげたところであつたが、一疋の鯛もかゝつてゐなかつた。次の網は午後の三四時の頃だといふ。途方に暮れて暫らく松の蔭に坐つてゐたが、やがてM――老人は急に立ち上つて漁師共の寄つてゐる小屋へ出かけて行つた。そしてにこ/\と笑ひながら歸つて來た。
『えゝことがある、今に仰山な鯛を見せてあげますぞ。』
老人からこつそりとわけを聞いてI――君も踊り上つて喜んだ。そして時計を出して見ながら、
『早う來んかなう。』
などと幾度となく繰返して私の顏と沖の方とをかたみがはりに眺めて笑つてゐた。その間に老人は一人の漁師を走らせて酒や酢醤油をとり寄せた。
程なく右手に突き出た岬のはなの沖合に何やら大きな旗をたてた一艘の發動機船の姿が見えた。
『來た/\。』
さう叫びながら漁師たちは
入江の中ほどに來ると、その發動機船は徐ろに停つた。我等の小舟はそれを待ち受けてゐて、漕ぎ寄するや否や一齋に向うに乘り移つた。私もまた同樣にさうさせられた。そして、引つ張られてとある場所にゆき、勢ひよくさし示された所を見て思はず聲をあげた。
この大型の發動機船の船底は其儘一つの
『なんぼほど居ります。』
『左樣千二三百も居りますやろ。』
おゝ、その千二三百の大鯛が、中には多少弱つてゐるのもあつたが、多くはまだいき/\として美しい尾鰭を動かして泳いでゐるのである。
その中から二疋を我等はわけて貰うた。小舟の漁師たちと機船の人たちとの間に何やら高笑ひが起つてゐたが、やがて漁師たちは幾度も頭をさげて小舟へ移つた。機船は直ぐ笛を鳴らして走り出した。聞けば彼女はこの瀬戸内の網場々々を

濱の松の蔭では忽ちに賑やかな酒もりが開かれた。うしほに、煮附に、刺身に、鹽燒に、二疋の鯛は手速くも料理されたのである。
いつか夕方の網までその酒は續いた。そしてたべ醉うた漁師達の網にどうしたしやれ者か、三疋の鯛がかゝて來た。よれつもつれつ、我等三人は一疋づつその鯛を背負うて、島の背をなす山の尾根づたひの路を二里ばかりも歩いた。歩いてゐるうちに月が出た。折しも十五夜の滿月であつた。峠から見る右の海左の海、どこの海にも影を引いて數多の島が浮んでゐた。斯くて今朝早朝に發動船で着いた船着場とは違つた今一つの港に着いて、其處から一艘の小舟を雇ひ、漕ぎに漕がせて宇野港へ歸りついたのは夜もよほど更けてゐた。可哀相に、其處まで送つて來てくれたM――老人は其處からまた島まで一人で歸るのであつた。晝間の酒をほど/\に切り上げて午後の定期の發動船に間に合ふ樣に老人の村まで歸つて居つたらば斯うした苦勞はせずとも濟んだであつたのに。
その三
大うねり傾きにつつ落つる時わが舟も魚とななめなりけり
次のうねりはわれの帆よりも高々とそびえて黒くうねり寄るなり
はたはたと濡帆はためき大つぶのしぶきとび來て向かむすべなし
やとさけぶ
舳なるちひさき一帆裂くるばかり風をはらみて浪を縫ふなり
色赤くあらはれやがて浪に消ゆる沖邊の岩を見て走るなり
かくれたるあらはれにたる赤岩に生物の如く浪むらがれり
友が守る燈臺はあはれわだなかの眞はだかの岩に白く立ち居り
むら立てる赤き岩々とびこえて走せ寄る友に先づ胸せまる
あはれ淋しく顏もなりしか先つ日の友にあらぬはもとよりなれど
別れゐし永き時間も見ゆるごとくさびしく友の顏に見入りぬ
たづさへしわがおくりもの色燃えしダリヤの花はまだ枯れずあり
ダリヤの花につぎて船子等がとりいだす重きは酒ぞ友よこぼすな
歩みかねわが下駄ぬげばいそいそと友は草履をわれに履かする
友よ先づわれの言葉のすくなきをとがむな心なにかさびしきに
相逢ひて言葉すくなき友だちの二人ならびて登る
石づくり角なる部屋にただひとつ窓あり友と妻とすまへる
その窓にわがたづさへし花を活け客をよろこぶその若き妻
語らむにあまり久しく別れゐし我等なりけり先づ酒酌まむ
友醉はずわれまた醉はずいとまなくさかづきかはし心をあたたむ
神子元島は島とは云ふものゝ、あの附近の海に散在してゐる岩礁の中の大きなものであつた。赤錆びた一つの岩塊が鋭く浪の中から起つて立つてゐるにすぎなかつた。島には一握の土とてもなく、草も木も生えてはゐなかつた。其處の一番の高みに白い石造の燈臺が聳え、燈臺より一寸下つたところに、岩を
その友人を知つたのはそれよりも六七年前、私が早稻田大學の豫科生の時であつた。當時私は讀み耽つてゐた『透谷全集』を教室にまで持ち込んで、授業中にも机の下に忍ばせて讀んでゐた。或る時偶然同じ机に隣り合つて坐つたのがその友人で、彼も亦同書の愛讀者であつた。それが緒で折々往來する樣になつたが、別に親しいといふ程ではなかつた。そのうち半年もたつと急に彼の姿が教室から見えなくなつた。一年たち二年たちする間に、同級生であつた彼の同郷人から聞くとなく彼の噂をとび/\に聞いてゐた。彼は佐賀縣の或る金滿家の息子で、急に學校が厭になると郷里に歸つて、以後一切關係を斷つ約束のもとに家から數萬圓の金を分けて貰ひ、肥前の平戸沖あたりの小さな島を全部買ひ切つて一人して其處へ移り牛や鷄を放し飼にして樂しんでゐた。それもほんの暫くでいやになり、二束三文で全てを賣り拂つた金で大盡遊びを續け、金が盡きると或る炭鑛の鑛夫になつた。それも僅の間で、親類たちに多少の金をねだつて米國へ渡り、昨今はあちらで鑵詰工場の職工をしてゐる相だ、といふ樣なことを。が、それも學校にゐる間の事で、學校を出ると同時に彼の同郷人の級友ともすつかり別れてしまつたので、其後の噂を聞くたよりもなかつた。
學校を出て一年あまりもたつた頃、私は或る新聞の記者となつてゐた。其處へ突然見すぼらしい風をして訪ねて來たのが彼であつた。いきなり私の前へ五六圓の金を投げ出して言つた。
『僕は今度、亞米利加から船中で
それから幾日か私の下宿にころがつてゐたが、多少繪の心得のある所から自分からたづね歩いて或るペンキ屋に入り込み、キヤタツを擔いで看板繪をかいて歩いてゐた。それもほんの數日で、或る日またふらりとやつて來た。
『いまペンキ屋の
程經て市内電車の運轉手になつた。これは割合に永く續いたが、何かの事で首になつた。其後、彼に似氣なく入學試驗といふものを受けて入學したのが横濱に在る航路標的所何とかいふ、つまり燈臺守の學校であつた。六ヶ月間の學期を無事に終へて、初めて任命されて勤めたのが、この
彼ほど徹底してはゐなかつたが、私もまた彼のいふ放浪生活の徒の一人であつた。學校を出て、一箇所二箇所と新聞社にも出て見たが、何處でも半年とはよう勤めなかつた。轉じて雜誌記者となつたが、これも三四ヶ月でやめてしまつた。自分等の流派の歌の雜誌を自分の手で出して見たが、初めは面白くやつてゐても直ぐ飽きが來た。さうかうしてゐるうちにいつか自分もひとの夫となり親となつてゐた。さうしてその日の米鹽すら充分でない樣な朝夕をずつと數年來續けて來てゐたのである。さういふ場合だつたので、今まではさういふ島があるといふ事すら知らなかつたこの島からの友人のたよりは、割合深く私の心にしみたのであつた。そして、
秋のダリヤの盛りの頃であつた。一本の木草すら無いといふその島には
多分今日の船で來るであらうと、友人は朝から雙眼鏡を持つて岩の頭に立つてゐたのださうだ。船の島に着いたのは午前十時頃であつた。そして、つれられてその岩窟内の彼の居間に通つて、二年振ほどで彼と對座したのであつた。彼の妻とは初對面であつた。まだ年も若く、何も知らない田舍の娘と云つた風の人であつた。
氣のせゐかいかにも從來の彼としてはおちつきが出來てゐた。おちついたといふより、急に
年若い妻は案の如く大輪のダリヤの花を見て驚喜した。そして珍客の接待よりも先づその花をあり合はせの器に活けて、その部屋にたゞ一つしかないガラス窓の所に持つて行つて据ゑた。窓のツイ向うには
直ぐ始まつた酒は一時間二時間と續いて行つた。が、最初にそれ始めた私の心の調子はどうしても平常の賑かな晴々しい所に歸つて行かなかつた。友人とても亦たさうであつた。そしてどうかしてその變調子を取り除かうと努めてゐるのがよく解つた。
其處へ、積荷を上げ、晝食をとり、一休みした船頭たちの一人が顏を出して友人に言つた。
『ではもう船を出しますが、別にお忘れの御用はございませんか。』
それを聞くと私は咄嗟に決心した。
『K――君、では僕もこの船で歸らう、ただ顏を合せればそれで氣が濟むと思ふから……』
さう言ひながら、居ずまひを直さうとした。不意に彼は立ち上つた。これは、と思ふ間もなく彼の烈しい拳が私の頭に來た。惶てゝ身をかはす間に二つ三つと飛んで來た。
『何だと、……歸る、ひとを散々待たしておいて、來たかと思ふと歸るとは何だ。歸れ、歸れ、直ぐ歸れ、この馬鹿野郎……』
彼はなほ立つたまゝ私を睨み据ゑて、息を切らしてゐる。たうとう私は平あやまりにあやまつて改めてこの次の船まで、その島に滯在することにきめてしまつた。
燈臺は島で一番の高い所に立つてゐた。燈臺の高さ十六丈、その根から直ぐ斷崖になつて二十丈ほどの下には浪が寄せてゐた。で、燈臺の最高部、燈火の點る燈室から眞下を見下す事は私の樣な神經質の者には到底出來なかつた。たゞ其處からの遠望はよかつた。伊豆半島が案外の近さに眺められた。半島の中心をなす
燈室の床はその四壁と同じく厚いガラス張となつて居り、その下に宿直室があつた。ガラス張を天井とするこの宿直室は、一尺四方ほどの小さな窓を二つほど持つてはゐたが明りは主としてその天井から來た。一脚の
その空中の宿直室に居なければ私は多く事務室にゐた。それは燈臺守たちの住宅の岩窟の一角に、他の部屋よりはやゝ廣目に作つてあつた。壁には日本地圖世界地圖、萬國々旗表、といふ樣なものが張つてあり、その一方の戸棚には僅かの書物や書類と共に、幾品かの藥品が入れてあつた。この寂び古びた壜や箱の藥品が私には常に氣になつた。凪いで居ればこそ一週間ごとに船が來るが、荒れたとなれば十日もその上も一切他と交通のきかぬこの離れ島に住んで居る幾人かの生命をば僅かにこの幾品かの藥品が守つてゐるのである。大きなテーブルの一部の埃を拂つて凭りかゝりながら、おなじく埃でよごれてゐる大きな地圖を見、棚の上の藥壜を眺め、または窓から見ゆる蒼空を仰いで、靜かな樣な、そして何となく落ちつかぬ時間を私はその部屋[#「部屋」は底本では「屋部」]で過ごした。
でなければ、釣であつた。よほどの鋭い角度で海底から突つ立つてゐるらしいこの岩礁の四周の磯は到る所が深かつた。浪さへなければ、餌をおろせば大小さま/″\の魚がすぐ釣れた。餌はそこらの岩の間に棲んでゐる蟹であつた。
或る日、私は獨りでとある岩の角に坐つて釣つてゐた。其處へ友人がやつて來た。何か用ありげに私の側に腰をおろしてゐたが、やがて、
『若山君……』
と呼びかけて、
『どうだね、一つ、君も東京あたりにいつまでもぐづ/\してゐないで、いつそ諦めてこの燈臺守にならんかね。』
と言ひ出した。彼自身これまでに通つて來た境遇の繁雜なのに飽いて、何處か斯う目をつぶつて暮せる樣な靜かな境地はないものかと考へて、他にもかくして航路標的所の試驗を受けた、そして實地此處に來て見ると前から空想してゐた靜かな生活といふ事よりも先づ身にしみたのは暮らしむきの安全といふことであつた、今まで自分も隨分といろんな事をやつて來たが、要するに頭には故郷があつた、親や親類の財産があつた、いよ/\それから見離されたとなると、自づと考へらるゝのはその日/\の生活である、それもはつきりと具體的に考へてゐたのではなかつたが、此處に來て見ていよ/\さうであつたことが解つた、それにまたどうしても自分の歳や健康のことも考へられて來る、それにはこの燈臺守位ゐ安全な生活法はないのだ、月給にした所が他に比べては非常にいゝ、早い話が君が四五年かゝつて大學を出てから新聞社に勤めた月給より僕が六ヶ月の學期を終へて此處に勤めてのそれの方が多いではないか、また、貰つた月給は殆んど貰つたなりに殘つてゆくのだ、見給へ此處で斯うしてゐる分には自分等の食ふ米味噌代のほかには金の使ひやうがないではないか、此處に限らない、灯臺の在る所は大抵似たり寄つたりの場所ばかりなのだ、現に此處の臺長なども幾個所か勤めて歩いて來たのだがその間に溜めた金と云つたら素晴らしいものだ、今では伊豆の方に澤山な地所も買つてあり家をも建てゝ、其處から長男長女を中學校女學校に出してゐる、君もいつまでも歌だの文學だのと言つて喰ふや喰はずにゐるよりか、一つ方角を變へてこの道に入らないか、入つたあとでまた歌なり何なり充分に勉強出來るではないか、見給へ、僕等は四人詰で此處に斯うしてゐるが、職業に就いて費す時間と云つたら朝の燈臺の掃除と夕方の點火と二三行の日記を書く事と、全部で先づ毎日三四十分の時間があつたらいゝのだ、あとは何をしてゐやうと自分の勝手ではないか、いろいろ慾を考へずにさうきめた方が幸福だと思ふよ、と私の顏を見い/\いつもの荒つぽい調子に似合はず、ひそひそとして説き勸めて呉れるのであつた。そして、私の身體に目をつけながら、
『それに第一、遠方から來るといふのにそんな小ぎたない風態をして來る奴があるものか、君の細君も細君だ、僕は最初の日、羽織袴で出迎へて呉れた臺長の手前、ほんとに顏から火が出たよ、其處へもつて來ていきなり歸るなんか言ひ出すもんだからあんな騷ぎになつたのだよ。』
と言つて苦笑した。
私もいつか竿をあげて聽いてゐた。島に來てから見るともなく、其處の彼等の生活がいかに簡易で、靜かであるかを見てゐながら、多少それを羨む氣持が動いてゐたところなので、一層友人のこの勸告が身にしみた。同じく苦笑しながら、
『ウム、
と言つてその日は濟んだ。が、それからといふもの、例の空中の宿直室に在つても岩かげの事務室にゐても、釣絲を垂れながらも、私の心はひどくおちつきを失つてゐた。燈臺守になるならぬの考へが始終身體につき
が、何としても今までのすべてと別れて其處に籠る事は、寂しかつた。よしそれを一時の囘避期準備期として考へても、とてもその寂しさに耐へ得られさうになかつた。その寂しさに耐ふる位ゐなら其處に何の生活の安定があらうとさへ思はれた。そして、或る日、見るともなく事務室の藥品棚の中にある古錆びた藥品を見詰めながら、私は獨りで笑ひ出した。そして自分に言つた、斯うしたものに預けておくには自分の身體にはまだ/\少々
さう思ひきめると、急に東京が戀しくなつた。其處にゐる妻や友人たちが戀しくなつた。そして豫定の日が來ると、私は曾つて私の來る時に友人がしたといふ樣に、朝早くから雙眼鏡を取つて岩の頭に立ちながら、向うの方に表はれて來るであらう船の姿を探した。
いよ/\船に乘り移らうとする時、何となく私はこれきりでこの友人とももう逢ふ機會があるまいといふ樣な氣がした。そして、固くその手を握りながら、
『どうだ、臺長に願つてこれから一緒に下田まで行かんか、あそこで一杯飮んで別れようぢやないか。』
と言つた。一年も續けて土を踏まずにゐると脚氣の樣な病氣に罹りがちなので、折々交替に二三週間づつ陸地の方へ行つて來るといふ話を思ひ出してさう言つた。
『フヽツ』
と彼は笑つた。
『まアよさう、行くなら東京へ訊ねて行かうよ、君もまたやつて來て呉れ、今度はもう毆らんよ、ハヽヽヽ』
『ハヽヽ』
自分も笑つた。送つて來て呉れた燈臺中の人も、船頭たちも、みな聲を合せて笑つた。