1
前夜の調べ物の疲れで、もう少し寝ていたいところを起された私立探偵局の
帆村荘六だった。
「お越し下すったのは、どんな方かね」
「ご婦人です」助手の
須永が
朗らかさを
強いて隠すような調子で答えた。「しかも
年齢の頃は
二十歳ぐらいの方です」
(なにが、
しかもだ)と帆村はパジャマの
釦を一つ一つ
外しながら思った。この手でも確かに目は
醍る。……
「十分間お待ちねがうように申上げて
呉れ」
「はッ。
畏まりました」
須永はチョコレートの兵隊のように、わざと四角ばって、帆村の
寝室を出ていった。
隣りの浴室の
扉をあけ、クルクルと身体につけたものを一枚残らず脱ぎすてると、冷水を張った
浴槽へドブンと飛び込み、しぶきをあげて水中を
潜りぬけたり、手足をウンと
伸したり、なんのことはない
膃肭獣のような真似をすること三分、ブルブルと飛び上って
強い
髭をすっかり
剃り
落すのに四分、一分で口と顔とを洗い、あとの二分で身体を
拭い失礼ならざる程度の洋服を着て、さて応接室の
内扉をノックした。
応接室の
函のなかには、なるほど若い婦人が入っていた。
「お待たせしました。さあどうぞ」と椅子を進めてから、「
早速ご用件を
承りましょう」
「はァ有難とう存じます」婦人は帆村の切り出し方の余りに早いのにちょっと
狼狽の色を見せたが、思いきったという
風で、黒眼がちの大きい瞳を帆村の方に向け直した。その瞳の底には言いしれぬ
憂いの色が沈んでいるようであった。「ではお話を申しあげますが、実は父が、突然行方不明になってしまったんでございます――。昨日の夕刊にも出たのでございますが、あたくしの父というのは、動物園の園長をして居ります
河内武太夫でございます」
「ああ、貴女が河内園長のお嬢さんのトシ子さんでいらっしゃいますか」帆村は夕刊で、憂いに沈む園長の家族として令嬢トシ子(二〇)の写真を見た記憶があった。その記事は社会面に三段抜きで「河内園長の奇怪な
失踪・動物園内に
遺留された帽子と上衣」といったような
標題がついていたように思う。
「はァ、トシ子でございます」と美しい眼をしばたたき、「ご存知でもございましょうが、私共の家は動物園の
直ぐ隣りの
杜の中にございまして、その失踪しました十月三十日の朝八時半に父はいつものように出て行ったのです。午前中は父の姿を見たという園の方も多いのでございますが、午後からは見たという方が殆んどありません。お
午餐のお弁当を、あたくしが持って行きましたが、それはとうとう父の口に入らなかったのでした。正午にも事務所へ帰ってこないことを皆様不思議に思っていらっしゃいましたが、父は大分変り者の方でございまして、気が変るとよく一人でブラリと園を出まして、
広小路の方まで行って
寿司屋だのおでん屋などに飛び込み、一時半か二時にもなってヒョックリ
帰園いたしますこともございますので、その日も多分いつもの
伝だろうと、皆さん考えておいでになったのです。しかし閉園時間の午後五時になっても帰って参りません。たまにはずっと街へ出掛けて夜分まで帰らないこともありますが、その日は事務室に帽子もあり上衣も残って居ますので、いつもとは少し違うというので、
西郷さん――この方は副園長をしていらっしゃる若い理学士です――その西郷さんがお帰りにうちへお寄り下すって、『園長の例の病気が始まった
様ですよ』と注意をしていって下さいました。ところが其の夜は、とうとう帰って参りません。夜遅くなることはありましても、たとい一時になっても二時になっても帰ってくる父です。それが帰って来ないのですから、どうしたことだろうと母も私共も非常に心配しています。園内も調べていただきましたが判りません。警察の方へも
捜索方をお願いいたしましたが、『別に死ぬ動機も無いようだから今夜あたり帰って来られますよ』と云って下さいました。しかし私共は、なんだか
其の
儘では、じっと待っていられないほど不安なのでございます。万一父が
危害を加えられてでもいるようですと、
一刻も早く見付けて助け出したいのでございます。それで母と相談をして、お力を
拝借に
上ったわけなのでございます。どう
思召しましょうか、父の
生死のほどは」
トシ子嬢は語り終ると、ほんのり
紅潮した顔をあげて、帆村の判定を待った。
「さあ――」と帆村は癖で右手で長くもない
顎の先をつまんだ。「どうもそれだけでは、河内園長の
生死について判断はいたしかねますが、お望みとあらば、もう少し
貴女様からも
伺い、その上で他の方面も調べて見たいと思います」
「お引受け下すって、どうも有難とう存じます」トシ子嬢はホッと
溜息をついた。「何なりとお
尋ねくださいまし」
「動物園では大いに騒いで探したようですか」
「それはもう
丁寧に探して下すったそうでございます。今朝、園にゆきまして、副園長の西郷さんにお目に
懸りましたときのお話でも、念のためと云うので行方不明になった三十日の
閉門後、手分けして園内を一通り調べて下すったそうです。今朝も、また
更に
繰返して探して下さるそうです」
「なるほど」帆村は
頷いた。「西郷さんは驚いていましたか」
「はァ、今朝なんかは、非常に心配して居て下さいました」
「西郷さんのお家とご家族は?」
「
浅草の
今戸です。まだお
独身で、下宿していらっしゃいます。しかし西郷さんは、立派な方でございますよ。
仮りにも疑うようなことを云って
戴きますと、あたくしお
恨み申上げますわ」
「いえ、そんなことを唯今考えているわけではありません」
帆村は
今時珍らしい、日本趣味の女性に敬意と
当惑とを
捧げた。
「それから、園長はときどき夜中の一時や二時にお
帰宅のことがあるそうですが、それまでどこで過していらっしゃるのですか」
「さァそれは私もよく存じませんが、母の話によりますと、古いお友達を訪ねて一緒にお酒を呑んで廻るのだそうです。それが父の唯一の道楽でもあり楽しみなんですが、それというのもそのお友達は、
日露戦役に生き残った戦友で、逢えばその当時のことが思い出されて、ちょっとやそっとでは別れられなくなるんだということです」
「すると園長は日露戦役に
出征されたのですね」
「は、
沙河の
大会戦で身に
数弾をうけ、それから内地へ
送還されましたが、それまでは勇敢に闘いましたそうです」
「では
金鵄勲章組ですね」
「ええ、
功六級の
曹長でございます」
応えながらも、こんなことが父の失踪に何の関係があるのかと、トシ子は探偵の
頭脳に
稍失望を感じないわけにゆかなかった。
しかし最後へ来て、この
些細らしくみえるのが、事件解決の一つの鍵となろうとは二人もこの時は
夢想だもしなかった。
「園長はそんなとき、帽子も上衣も着ないでお
自宅にも云わず、ブラリと出掛けるのですか」
「そんなことは先ずございません。自宅に云わなくとも、帽子や
上衣は暖いときならば
兎に
角、もう十一月の声を聞き、どっちかと云えば、オーヴァーが欲しい時節です。帽子や洋服は着てゆくだろうと思いますの」
「その上衣はどこにありましょうか。
鳥渡拝見したいのですが……」
「上衣はうちにございますから、どうかいらしって下さい」
「ではこれから直ぐに伺いましょう。みちみち古い戦友のことも、もっと話して
戴こうと思います」
「ああ、
半崎甲平さんのことですか?」トシ子嬢は、父の戦友の名前を初めて口にしたのだった。
2
園長邸を訪ねた帆村は
心痛している夫人を
慰め、
遺留の上衣を丹念に調べてから何か手帖に書き止めると、
外に園長の写真を一葉借り、園長の指紋を一通り探し出した上で
地続きの動物園の裏門を
潜ったのだった。
西郷という副園長は、すぐ帆村に会ってくれた。あの西郷隆盛の銅像ほど
肥えている人ではなかったが、
随分と身体の大きい人だった。
「園長さんが
失踪されたそうで御心配でしょう」
と帆村は
挨拶をした。「一体いつ頃お気がつかれたのですか」
「全く困ったことになりましたよ」
巨漢の理学士は顔を曇らせて云った。「いつ気がついたということはありませんが、不審をいだいたのは、あの日の
正午過でしょう。園長が
一向食事に帰ってこられませんでしたのでね」
「園長は午前中なにをしていられたのです」
「八時半に出勤せられると、直ぐに園内を
一巡せられますが、先ず一時間
懸ります。それから十一時前ぐらい迄は事務を
執って、それから再び園内を廻られますが、そのときは何処ということなしに、朝のうちに気がつかれた
檻へ行って、動物の面倒をごらんになります。
失踪されたあの日も、このプログラムに別に大した変化は無かったようです」
「その日は、どの動物の面倒を見られるか、それについてお話はありませんでしたか」
「ありませんでしたね」
「園長を最後に見たという人は、誰でした」
「さあ、それは
先刻警察の方が来られて調べてゆかれたので、私も聞いていましたが、一人は
爬虫館の研究員の
鴨田兎三夫という理学士医学士、もう一人は
小禽暖室の
畜養主任の
椋島二郎という者、この二人です。ところが両人が園長を見掛けたという時刻が、殆んど同じことで、いずれも十一時二十分頃だというのです。どっちも、園長は入って来られて二三分、注意を与えて行かれたそうですが、
其の
儘出てゆかれたそうです」
「その爬虫館と小禽暖室との距離は?」
「あとで御案内いたしますが、二十間ほど
距った隣り同士です。もっとも其の間に
挟ってずっと奥に引込んだところに、
調餌室という建物がありますが、これは動物に与える食物を調理したり
蔵って置いたりするところなんです。
鳥渡図面を描いてみますと、こんな工合です」
そういって西郷理学士は、鉛筆をとりあげると、爬虫館附近の見取図を描いてみせた。
「この二十間の
空地には何もありませんか」
「いえ、
桐の木が十二本ほど
植っています」
「その調理室へ園長は顔を出されなかったんでしょうか」
「今朝の調べのときには、園長は入って来られなかったと云っていました」
「それは
誰方が云ったんです」
「
畜養員の
北外星吉という主任です」
「園長がいよいよ
行方不明と判った前後のことを話していただけませんか」
「よろしゅうございます。
閉園近い時刻になっても園長は帰って来られません。見ると帽子と上衣は
其儘で、お自宅から届いたお弁当もそっくり其儘です。黙って帰るわけにも行きませんので、畜養員と
園丁とを総動員して園内の隅から隅まで探させました。私は園丁の
比留間というのを
連て、猛獣の
檻を
精しく調べて廻りましたが異状なしです」
「
素人考えですがね、例えば
河馬の居る
水槽の底深く死体が隠れていないかお
検べになりましたか」
「なる程ご
尤もです」と西郷副園長は
頷いた。「そういう個所は、多少の準備をしなければ
検べられませんので直ぐには参りませんでしたが、今日の午後には一つ一つ
演っているのです」
「そりゃ好都合です」と帆村探偵が叫んだ。「すぐに、私を参加させていただきたいのですが」
西郷理学士は承諾して、卓上電話機を方々へかけていたが、やっとのことで、
捜索隊がこれから爬虫館の方へ移ろうというところだと解ったので、その方へ帆村を案内して
呉れることになった。
白い砂利の上に歩を運んでゆくと、どこからともなく風に落葉が送られ、カサコソと音をたてて転がっていった。もう十一月になったのだ。
杜蔭に
一本鮮かな
紅葉が、水のように静かな空気の中に、なにかしら
唆かすような熱情を
溶かしこんでいるようだった。帆村は、ちょっと辛い質問を決心した。
「園長のお嬢さんは、まだお
独身なんですかねエ」
「え?」西郷氏は我が耳を疑うもののように聞きかえした。
「お嬢さんはまだ独身です。探偵さんは、いろんなことが気に
懸るらしいですね」
「私も若い人間として気になりますのでね」
「こりゃ驚いた」西郷理学士は大きな身体をくねらせて
可笑しがった。「僕の前でそんなことを云ったって
構いませんが、鴨田君の前で云おうものなら、
蟒を
嗾しかけられますぜ」
「鴨田さんていうと、爬虫館の方ですね」
「そうです」と返事をしたが、西郷氏はすこし冗談を云いすぎたことを後悔した。「ありゃ学校時代の同級生なので、有名な真面目な男だから、からかっちゃ駄目ですよ」
帆村は何も応えなかったが、先に園長令嬢のトシ子と語ったときのことと、いま西郷副園長が冗談に
紛らせて云ったこととを
併せて
頭脳の中で整理していた。この上は、鴨田という爬虫館の研究員に会うことが楽しみとなった。
「鴨田さんは、主任では無いのですか」
「主任は病気で永いこと休んでいるのです。鴨田君はもともと研究の方ばかりだったのが、気の毒にもそんなことで主任の仕事も見ていますよ」
「研究といいますと――」
「
爬虫類の大家です。医学士と理学士との肩書をもっていますが、理学の方は近々学位論文を出すことになっているので、間もなく博士でしょう」
「変った人ですね」
「いや
豪い人ですよ。スマトラに三年も居て
蟒と
交際いをしていたんです。資産もあるので、あの爬虫館を建てたとき半分は自分の金を出したんです。今も表に出ているニシキヘビは二頭ですが、あの裏手には大きな奴が六七頭も飼ってあるのです」
「ほほう」と帆村は目を
円くした。「その非公開の蛇も
検べたんですか」
「そりゃ勿論ですよ。研究用のものだからお客さんにこそ見せませんが、検べることは一般と同じに検べますよ。別に園長さんを呑んでいるような
贅沢なのは居ませんでした」
帆村は副園長の保証の言葉を、そう簡単に受入れることはできなかった。園長を最後に見掛けたというところが、此の爬虫館と小禽暖室の辺であってみれば、入念に検べてみなければならないと思った。
「さあ、ここが
爬虫館です」
副園長の声に、はッと目をあげると、そこにはいかにも
暖室らしい感じのする肉色の丈夫な建物が、
魅惑的な秘密を包んで二人の前に突立っていた。
3
扉を押して入ると、ムッと
噎せかえるような
生臭い
暖気が、真正面から帆村の鼻を
押えた。
小劇場の舞台ほどもある広い
檻の中には、
頑丈な
金網を
距てて、とぐろを
捲いた二頭のニシキヘビが離れ離れの
隅を陣取ってぬくぬくと
睡っていた。その
褐色に黒い
斑紋のある胴中は、太いところで深い
山中の松の木ほどもあり、こまかい
鱗は、
粘液で気味のわるい
光沢を放っていた。頭は
存外に小柄で、眼を探すのに骨が折れたが、やっとのことで
彫りこんだような黄色い半開きの眼玉を見つけたときには、余りいい気持はしなかった。帆村たちの入って来たのが判ったものか、フフッ、フフッと、風に吹きつけられたように身体の一部を波うたせていたのだった。
こんなのが、裏手にはまだ六七頭もいるんだと思うと、
生来蛇嫌いな帆村はもうすっかり
憂鬱になってしまった。
そのとき奥の
潜り
戸をあけて、副園長の西郷が、やや小柄の、
蟒に一呑みにやられてしまいそうな、青白い若紳士を引張ってきた。
「ご紹介します。こちらがこの
爬虫館の鴨田研究員です」
二人は言葉もなく頭を下げた。
「園長の最後に此の室へ来られたときのことをお
伺いしたいのですが」
「今朝も大分警視庁の人に
苛められましたから、もう平気で
喋れますよ」と鴨田研究員は
前提して「私は時計を見ない
癖なのでしてネ、
正午のサイレンからして、あれは多分十一時二十分頃だったろうと思うのですが、カーキ色の実験衣を着た園長が入って来られまして、そうです、二三分間だと思いますが、ここに出ている一頭のニシキヘビの元気が無いことから、
食餌の注意などを云って下すって
其儘出てゆかれたんです」
「それは此の室だけへ入って来られたのですか、それとも」
「今の話は奥でしました。私は別にお送りもしませんでしたが、園長は確かにこの
潜り
戸をぬけて此の室へ入られたようです」
「表へ出られた物音でも聞かれましたか」
「いえ、別に気に止めていなかったものですから」
「なにか様子に変ったことでもありましたでしょうか」
「ありません」
「園長が表へ出られたと思う時刻から
正午までに、戸外に何か異様な叫び声でもしませんでしたか」
「そうですね。裏の調餌室へトラックが到着して、何だかガタガタと、動物の餌を運びこんでいたようですがね、その位です」
「ほほう」帆村は眼を
見張った。「それは何時頃です」
「さあ、園長が出てゆかれて十五分かそこらですかね」
「すると十一時三十五分前後ですね。動物の食うものというと、随分
嵩張ったものでしょうね」
「それア相当なもんですなア」と副園長が
横合から云った。
「
馬鈴薯、
甘藷、
胡羅蔔、
雪花菜、

、
藁、
生草、それから食パンだとか、牛乳、
兎、
鶏、
馬肉、魚類など、トラックに
満載されてきますよ」
「なるほど」帆村は
又鴨田の方へ向き直った。「
莫迦げたことをお
尋ねいたしますが、この
蟒は人間を呑みますか」
「呑まないとは保証できませんが、あまり人間は
襲わない
習性です。
先刻もそんなことを訊かれましたが、園長を呑んでいないことは確かですよ。人間を呑むには時間もかかれば呑んでも腹が
膨れているので直ぐ判ります」
帆村は黙って
頷いた。
しかし人間の身体を九つ位にバラバラに
切断して、この蟒に
一塊ずつ喰べさせれば、比較的容易に片づくわけだし、腹も著しく
膨むこともなかろうと考えたので、質問してみようと思ったが、これは重大な結果になりそうだから、もっと先で
訊くことにした。そしてそれとなく蟒全部の腹の膨れ
工合を
検べてやろうと思った。
それで裏手の鴨田理学士の研究室を見せて欲しいと云うと、直ぐ許されて、一同は潜り戸を入っていった。
其処はいとも奇妙な広い部屋だった。
竪長の三十坪ほどもあろうという、ぶちぬきの一室だったが、
縦に二等分し、一方には白ペンキを盛んに使った
卓子や書棚や、書類函や、それから手術台のようなもの、
硝子戸の入った薬品棚、標本棚、外科器械棚などが如何にも
贅沢に並び、
其他、人間が入れそうなタンクのような訳のわからぬ装置が二つも三つも置かれてあった。窓は上の方に小さく、
天井には水銀灯をつかった照明灯が、気味の悪い
青白光を投げかけていた。
床の一ヶ所を開けて地下に
潜んでいる園丁の一団があったが、それは話のあった捜索隊に違いなかった。室の
一隅には警視庁の
制服警官が二人ほどキラキラする眼を光らせていた。
他の
縦半分には頑丈な檻があって、その中に見るも恐ろしい大ニシキヘビが七頭、死んだようになって勝手な場所を占領していた。帆村は檻に
掴まると、
端の蟒から一頭一頭、腹の大きさを見ていった。しかしどうやらどの蛇も思いあたるような大きな腹をしたのは居なかった。しかしバラバラの死体を呑んだとして、犯行が三十日の
正午近くと仮定し今日は二日の午後であるから二日過ぎとすると、この間に蟒の腹は目立たぬ程に小さくなったのではあるまいか。
「鴨田さん」帆村は背後を
振返った。「ニシキヘビには
山羊を喰べさせるそうですが、何日位で消化しますか」
「そうですね」鴨田は
揉み
手をしながら
実直そうな顔を出した。「六貫位はある山羊を呑んだとしまして、先ず三日でしょうか」
それなれば十二三貫ある園長を八つか九つの切れにして、九頭の蟒に与えるなら、いままでまる二日は過ぎたから、もう程よく
溶けたころに違いない。しかし一体誰が殺したか、誰が死体をバラバラにし、誰が蟒に与えたか。それは一向にハッキリ判っていなかったが、この
生白い鴨田研究員の関係していることは
否めなかった。
「ああ、西郷君」そう云ったのは鴨田理学士だった。「一昨日この爬虫館の前で
拾得したので僕が事務所へ届けて置いた万年筆ね、あれは先刻警官の方が調べられて、園長さんのものだと判ったそうですよ」
「ああ、そう」西郷副園長は簡単に
応えたが、其の後でチラリと帆村の方に
素早い視線を送った。
帆村は知らぬ風をして、この会話の底に流れる秘密について考えた。館の前で園長の持ち物を拾ったということは、場合によっては決して鴨田氏の利益ではなかった。万年筆はよく落すものではあるが、そんなに具合よく館の入口に落すものではない。また物静かな園長が落すというのも
可怪しい。鴨田が後に
怪まれることを
勘定に入れて落して行ったか、さもなくて鴨田が
自ら落ちていたと
偽り届けたものか、どっちかである。始めのようだと鴨田を
陥れようとしているのは誰かという問題となり、後のようだと鴨田は自ら
嫌疑をうけようとするもので、そこには容易ならぬ犯罪性を発見することになって、帆村は鴨田の性格を知るために、室内を隅から隅まで見廻して、何か
怪しい物はないかと探し求めた。
「鴨田さんの鞄ですか、これは」と帆村は棚の上に載っている黒皮の書類鞄を指した。
「そうです、私のです」
「随分大きいですね」
「私達は動物のスケッチを入れるので、こんな特製のものじゃないと間に合わないのです」
「こっちの方に、同じような形をした大きなタンクみたいなものが三つも横になっていますが、これは何ですか」
「それは私の学位論文に使った装置なんです。いまは使っていませんので、
空も同様です」
「前は何が入っていたのですか」
「いろいろな目的に使いますが、ヘビが
風邪をひいたときには、
此の中に入れて蒸気で
蒸してやったりします」
「それにしては、何だか液体でも入っていそうなタンクですね」
「ときには湯を入れたりすることもあります」
「だが蟒の
呼吸ぬけもないし、それに
厳重な
錠がかかっていますね」
「これは
兎に
角、論文通過まで、内部を見せたくない装置なんです」
「論文の
標題は?」
「ニシキヘビの
内分泌腺について――というのです」
そこへドヤドヤと、警官と園丁との一団が鴨田研究員を取巻いた。
「もうこの建物は天井から
床下まで調べましたが、異状がありませんでした。
唯残っているのは、あの三つのタンクですが、お言葉を信用してそのままにして置きます」
帆村はそれを聞くと飛出してきた。
「待って下さい。あのタンクは、是非調べて下さい」
「でも開けられないのですよ」帆村の
見識り
越しの警官が云った。
「そんなことは無い。ね、鴨田さん、開けた方が
貴方のためにもいいですよ。あのタンクだけで、
清浄潔白になるのじゃありませんか」
「いやそう簡単に明けられません」鴨田は強く反対した。「あれを明けると、爬虫館の室温や湿度が
急降して、
爬虫に
大危害を加えることになるので、ちょっとでも駄目です」
「私は大したことはあるまいと思うのですが、
演ってみては?」帆村は
尚も主張した。
「いやそうは行きません。私は園長から相当の責任を持って爬虫類を預っているのですから、
拒絶する権利があります。
尤も
他を求めて、どうにも解決の鍵が見つからぬときは開けもしましょうが、それにはちょっと準備が入ります。この爬虫たちを、元居た
暖室の方へ移すのですが、それにはあの室を充分なところまで温め、湿度を
整えてやらねばならんのです」
「弱ったな」帆村は苦い顔をした。「一体何時間あったら、別室の準備ができるのです」
「まア五時間か六時間でしょうね」
「そりゃ大変だ。じゃ私も暫く考えてみましょう」と帆村は
断乎として云った。「その間に別の部屋を検べて来ましょう。西郷さん、調餌室というのを案内して下さい」
4
帆村は爬虫館の外へ出ると、チェリーに火を
点けて、うまそうに吸った。
彼の観察したところでは、
若し
鴨田に
嫌疑をかけるならば、鴨田は何かの原因で、河内園長を爬虫館に
引摺りこみ、これを殺害して
裸体に
剥ぐと、手術台の上でバラバラに
截断し、彼が飼育している
蟒に一部分喰わしてしまったのであろう。
真逆バラバラにしたとは気が付かなかったので、捜索隊も蟒の腹を見るには見たが、人間を頭から呑んでいる程の
膨れた腹をした蟒が居なかったので、それで安心していたものと思う。あの特殊装置というものの中には、きっと
血染になった園長の服とか靴とかが隠匿されているのではなかろうか。万年筆は、園長を館の入口で
絞めあげるときに落ちたもので、それを後に何かの事情があって
遺失品として届けたものであろう。
しかし今横に並んで歩いている西郷副園長が、この万年筆について不審な行動を
演っているのにも気がつかないわけではない。第一に三十日の遺失品として届けられたものなら、直ぐにも疑って調べなければならないのが、今まで黙っていたし、一と目みれば園長のものだ位は判りそうなものを
何故口を閉めていたのか、嫌な眼付で帆村を覗いたところと云い、ひょっとしたら西郷がすべてを
画策し、嫌疑が鴨田にかかるように、わざと爬虫館の前に落して置いたのではあるまいか。園長殺害の方法も死体も判らぬが、原因は勤務上の
怨恨又は、失恋でもあろう。そう思って西郷の横顔を見ると、どこやら悪人らしいところも無いでは無かった。
しかし
嫌疑薄弱な西郷まで疑うのは、探偵上の恐しい無限地獄へ落ちこんだようにも思われた。園長令嬢トシ子の言葉としても、副園長を疑うことは申訳なかった。でも疑えば、トシ子は鴨田のことを爪の
尖ほども言わず、
却って西郷のことを弁明した。これは西郷の愛に
酬うことができなかったので
自ら弁解をつとめて
償いをし、一方鴨田との愛の問題はもう解決を見ているので一言も云わなかったと考えてはどうか。いよいよ
縺れ糸のように乱れてくる帆村の
足許に、事件解決の鍵かと思われる物が転がっていた。それは一個の
釦だった。
「おお、これは園長の洋服についていた釦に違いない。どうしてこんなところに在るのだろう」
帆村は
兼ねて園長の
遺していった上衣の
釦の特徴を手帳に書き留めて置いたことが役立って大変好運だと思った。それにしても釦を拾った場所というのが、調餌室の直ぐ前の、
桐の木材との間に
挟った路面だったので、これでは調餌室の人達について一応嫌疑をかけてみないわけにはゆかない。いや、ひょっとすると、爬虫館前に落ちていたという園長の万年筆もこの釦と殆んど同時に落ちたものと認定すると、これは園長の身体を
搬んで行った経路を
自ら語っていることになりはしないであろうか。恐らく万年筆が最初に落ちて、次にチョッキの釦と思うものが落ちたと考えていいであろう。園長の身体は、爬虫館の前から調餌室へ搬ばれたと考えていいであろう。
だが、どうして人目につかず搬んで行けたかということが次の疑問だった。それが出来たとすると、特殊の状況が必要だったことになる。
白昼下では、その時、
幸いにも観覧人も少く畜養員や園丁も
現場に居合わせなかったというとき、又夜間なれば、これは
極めて容易に行われる。しかし万年筆は園長失踪の日に発見されたのだから、
搬ばれたのは夜間になる以前だといわなければならない。しかも十一時二十分頃までは園長を見掛けたという人があるのだから、
正午になれば園長は食事のため事務所へ帰って行った筈で、それが無かったとすると、どうしても失踪は十一時二十分から正午の間と断定するのが常識のように思う。コースは調餌室から爬虫館ではなくて、反対に爬虫館から調餌室へと考えられる。そこで帆村は、爬虫館の鴨田研究員が十一時三十五分前後に、調餌室の前へトラックが到着して動物の餌を搬びこんでいるらしい騒ぎを聴いたということを思い出した。すると犯行は、この前か後か。――帆村は調餌室の内部にも多分の疑問
符号が秘められていることも考えないわけにはゆかなかった。
西郷理学士と一緒に調餌室に入ってみると、帆村は思わず「
呀ッ」と叫びたいくらいだった。塀の外で調餌室を想像しているのと、こうやって大きな
俎上に、血のタラタラ
滲みでそうな
馬肉の
塊を見るのとでは、まるっきり調餌室というものの実感が違った。壁には、象を料理するのじゃないかと思うほどの
大鉞や
大鋸、さては小さい
青竜刀ほどもある
肉切庖丁などが、
燦爛たる
光輝を放って掛っていた。倉庫には
竪半分に立ち割った馬の
裸身や、ダラリと長い耳を下げた
兎の
籠などが目についた。
この物凄い光景を見た瞬間、帆村の
頭脳の中に電光のように
閃いた
幻影があった。それは、園長の死体が調餌室に搬ばれたと見る間に、料理人が壁から大きな肉切庖丁を
下して、サッと死体を
截断する。そして
駭くべき熟練をもって、胸の肉、
臀部の肉、脚の肉、腕の肉と截り分け、運搬車に載せると、ライオンだの虎だの檻の前へ直行して、園長の肉を投げ込んでやる。……いや、
恐しいことである。
「これが、調餌室の主任、
北外星吉氏です」西郷副園長が、ゴム
毬のように
肥えた男を紹介した。
「やあ、帆村さんですか」北外畜養員はニコヤカに笑った。
「
貴方のお名前は
兼ねてよく知っていましたよ。今度の事件はまるで、貴方に挑戦しているようなもので、実にうってつけの大事件ですなア」
帆村はこの機嫌のいい、しかし何だかひやかされているような気がしないでもない北外の挨拶に対して、
頓に言うべき言葉もなかった。しかし
此のまんまるく太った子供の
相撲取のような男の顔を見ていると、彼が悪事を
企図むような種類の人間だとは思えなくなった。帆村は勢い率直な質問をこの男に向ってする勇気を得たのだった。
「北外さん、私は園長の身体が、この
調餌室か、それとも隣りの爬虫館かで、料理されちまったように思うのですがね」
「はァはァ」北外は小さい口を
勢一杯に開けて、わざとらしく
駭いた。「いやそれは大発見ですな」
「貴方は園長が失踪された朝の、十一時二十分頃から
正午まで何処に居られましたか」
「僕が有力なる容疑者というお見立ですな」北外はニヤリと笑った。「さてお
尋ねの時間に
於ては、この室内に僕一人が残っていた――とこう申上げると、貴方は喜ばれるのでしょうが、実はその時間フルに、
一族郎党ここに
控えていたんです。それというのが、十一時四十分頃に、
けだものの弁当の材料が届くことになっていまして、室からズラかることが出来ないのです」
「それでは其の時間前後は、何をしておいででした?」
「
先ず時間前は、当日も六人の畜養員が、
庖丁を
研いだり、籠を明けたり、これでなかなか忙しく立ち働きました。そのうちにいつもの時間になると、トラックに満載された材料がドッと
搬ばれて来ます。するともう戦場のような騒ぎで、この寒さに
襯衣一枚でもって全身水を
浴たように、汗をかきます。それが済むと
早速調理です。
煮るものは大してありませんが、それぞれの
けだものに頃合いの大きさに切ったり、分けて
容物に入れたりするのが大変です。肉類の方は、生きている
兎だの
鶏だのには、
冥途ゆきの
赤札をぶら下げるだけですが、その
外のは必ず頭のある魚を揃えたり馬肉の目方をはかって適当の大きさに截断し、中には必ず骨つきでないといけないものもあって、それを
拵えるやら、なかなか忙しくて、おひるの弁当が、キチンと
正午にいただけることは殆んど
稀で、いつも一時近くですね。その忙しさの間に、園長を
掴えてきて、これも料理しスペシァルの御馳走として
象や
河馬などにやらなきゃならんそうで、いやはや大変な
騒ぎですよ」
帆村は、うっかり園丁に象や河馬に人間を食わせる話をしたのが、こんなところへヒョックリ出て来ようとは思いがけなかったので、横を向いて
苦笑いをした。
兎も
角、調餌室の連中はあの時間、犯行を
遂げるなどとは非常に困難であることが判った。
してみると、園長の万年筆や
釦は、一体何を語っているのだろうか。理窟からゆけば、どうしても調餌室の連中が疑われてくるのであるが、
北外の話では疑うのが無理である。すると、残るのは何者かが調餌室の人たちに嫌疑を向けるために、万年筆を落し、釦を調餌室の前に捨てたとしかかんがえられない。何者がやったことかは知らぬが、そうだとすると、犯人は実に容易ならぬ周到な計画を持っていたものと思われる。
そこで帆村は大事にしていた切札を、ポイと投げ出す気になった。
「
北外さん。隣りの
爬虫館の
蟒どものことですがね。皆で九頭ほどいますが、あれに人間の身体を九個のバラバラの
肉塊にし、蟒どもに振舞ってやったら、
嘸よろこんで呑むことでしょうな」帆村は北外の答えを汗ばむような緊張の
裡に待った。
「うわッはッはッ」北外は
無遠慮に笑い出した。「いや、ごめんなさい、帆村さん、あの蟒という動物はですな、生きているものなら躍りかかって、たとい自分の口が裂けようと
呑みこみますが、死んでいるものはどんなうまそうなものでも
見向きもしないという
美食家です。ここでは主に生きた鶏や
山羊を食わせています。貴方は多分園長の死体のことを云っていられるのでしょうが、バラバラでは蟒の先生、相手にしませんでしょうよ」
帆村は
折角登りつめた断崖から、突っ離されたように思った。穴があれば入りたいとは、この場のことだろう。彼は北外畜養員に挨拶をして、
遁げるように室を出た。
彼は人に姿を見られるのも
厭うように、スタスタと足早に立ち去った。園内の反対の側に
遺されたる
藤堂家の
墓所があった。そこは
鬱蒼たる森林に囲まれ、厚い
苔のむした
真に静かな場所だった。彼はそこまで行くと、園内の
賑かさを
背後にして、塗りつぶしたような
常緑樹の繁みに対して腰を下した。
「ああ、何もかも無くなった!」
帆村は一本の煙草をつまむと、火を点けて
歎息した。
「一体、何が残っているだろう」
最初から一つ一つ思いかえしてゆく
裡に、特に気のついたことが二つあった。一つは園長がいつも呑み仲間としてブラリと訪ねて行った古き戦友
半崎甲平に会うことだった。そうすれば、まだ知られていない園長の半面生活が
曝露するかも知れない。もう一つはどうしても事件に関係があるらしい爬虫館を、徹底的に捜索しなおすことだった。ことに開けると爬虫たちの生命を
脅すことになるという話のあった鴨田研究員苦心の三本のタンクみたいなものも、
此際どうしても開けてみなければ
済まされなかった。あのタンクは、故意か偶然か、人間一匹を隠すには充分な大きさをしているのだった。
そんな結論を生んでゆく裡に、帆村の全身にはだんだんに反抗的な元気が湧き上ってきたのだった。
「
須永を呼ぼう」
彼は公衆電話に入って帆村探偵局の須永助手を呼び出すと
直ぐに動物園へ来るように命じた。
5
爬虫館の鴨田研究室の
裡へツカツカと入って行った帆村探偵は、そこに鴨田氏が
背後向きになり、ビーカーに入った
茶褐色の液体をパチャパチャ
掻き廻しているのを発見した。外には誰も居なかった。
帆村の
跫音に気がついたらしく、鴨田は静かにビーカーを振る手をちょっと
停めたが、別に背後を振返りもせず、横に身体を動かすと、
硬質陶器でこしらえた立派な流し場へ、サッと液体を
滾した。すると真白な
烟が
濛々と
立昇った。どうやら
強酸性の劇薬らしい。なにをやっているのだろう。
「鴨田さん、またお
邪魔に
伺いました」帆村はぶっきら棒に云った。
「やあ!」と鴨田は愛想よく首だけ帆村の方へ向いて「まだお話があるのですか」とニヤニヤ笑い
乍ら、水道の水でビーカーの底を洗った。
「
先刻の御返事をしに参りました」
「先刻の返事とは?」
「そうです」と帆村は三つの大きな細長いタンクを
指して云った。「このタンクを直ぐに開いていただきたいのです」
「そりゃ君」と鴨田はキッとした顔になって応えた。「さっきも言ったとおり、これを直ぐ開けたんでは、動物が皆
斃死してしまいます」
「しかし人間の生命には代えることは出来ません」
「なに人間の生命? はッはッ、君は此のタンクの中に、三日前に行方不明になった園長が隠されているのだと思っているのですね」
「そうです。園長はそのタンクの中に入っているのです!」
帆村はグンと癪にさわった
揚句(それは彼の悪い癖だった)大変なことを口走ってしまった。それは前から多少疑いを掛けていたものの、まだ断定すべきほどの充分な条件が集っていなかったのだ。
怒鳴ったあとで大いに
後悔はしたものの、不思議に怒鳴ったあとの
清々しさはなかった。
「君は僕を
侮辱するのですね」
「そんなことは今考えていません。それよりも一分間でも早く、このタンクを開いていただきたいのです」
「よろしい、開けましょう」断乎として鴨田が
思切ったことを云った。「しかし
若しもこのタンクの中に園長が入っていなかったら君は僕に何を
償います」
「
御意のままに何なりと、トシ子さんとあなたの結婚式に
一世一代の
余興でもやりますよ」
この帆村の言葉はどうやら鴨田理学士の
金的を
射ちぬいたようであった。
「よろしい」彼は
満更でない
面持で
頷いた。「ではこの装置を開けましょうが、爬虫どもを別の建物へ移さねばならぬので、その準備に今から五六時間はかかります。それは承知して下さい」
「ではなるべく急いで下さい。今は、ほう、もう四時ですね。すると十時ごろまでかかりますね。警官と私の助手を呼びますから、
悪しからず」
「どうぞご
随意に」鴨田は云った。「僕も今夜は帰りません」
帆村はその部屋から警官を呼んだ。副園長の西郷にも
了解を求めたが、彼も今夜はタンクが開くまで、爬虫館に停っていようと云った。
しかし帆村は、彼等と別なコースをとる決心をしていた。丁度そこへ助手の須永がやってきたので、万事について、
細々と注意を与え、爬虫館の見張りを命じてから、彼一人、動物園の石門を出ていった。既に秋の
陽は丘の彼方に落ち、真黒な大杉林の間からは暮れのこった
湖面が、切れ切れに
仄白く光っていた。そして帆村探偵の姿も、やがて
忍び
闇の中に
紛れこんでしまった。それからは時計のセコンドの響きばかりがあった。午後五時、六時、七時、それから八時がうっても九時がうっても、帆村の姿は爬虫館へ帰ってこなかった。九時半を過ぎると多勢の畜養員や園丁が檻を
担いで入って来て
無造作にニシキヘビを一頭入れては別の
暖室の方へ搬んで行った。仕事は間もなく終った。助手の須永は、先ほどから勝誇ったように元気になってくる鴨田理学士の身体を、
片隅から
睨みつけていた。やがて爬虫館の柱時計がボーン、ボーンと、あたりの壁を揺すぶるように午後十時を打ちはじめた。人々は、首をあげてじっと時計の文字盤を眺め、さて入口をふりかえったが、どうやら求める
跫音は蟻の走る音ほども聞えなかった。
「帆村さんはもう帰って来ないかも知れませんよ」
鴨田理学士が両手を
揉み
揉み云った。
「いつまで待って居たって仕様がありませんから、この
儘閉めて帰ろうではありませんか」
警官と西郷副園長とが、腰を伸して立ち上った。須永も立ち上った。しかし彼は鴨田の解散説に賛成して立ったわけではなかった。
「もう少し待って下さい。先生は必ず帰って来られます」
須永は叫んだ。
「いや、帰りません」
鴨田は
尚も云った。
「それでは――」と須永は決心をして云った。「先生の代りに僕が拝見しますから、このタンクを開けて下さい」
「それはこっちでお
断りします」
憎々しい鴨田の声に、須永が尚も懸命に争っている
裡に、いつの間に開いたか、入口の
扉が開かれ、そこには此の場の
光景を
微笑ましげに眺めている帆村の姿があった。
「皆さん大変お待たせをしました」と
挨拶をした後で、「おや蟒どもは皆、退場いたしましたね、では今度は私が退場するか、それとも鴨田さんが退場なさるか、どっちかの番になりました。ではどうか、あれを開いていただきましょう、鴨田さん」
「……」鴨田は
黙々として第一のタンクの傍へ寄り、スパナーで六角の締め金を一つ一つガタンガタンと
外していった。一同は鴨田の背後から首をさし伸べて、さて何が現れることかと、唾を呑みこんだ。
「ガチャリ!」
と音がして、タンクの上半部がパクンと口を開いた。が、内部は
同心管のようになっていて、
鱶の
鰭のような大きな
襞のついた其の同心管の内側が、白っぽく見えるだけで、中には何も入っていなかった。
「
空虚っぽだッ」
誰かが叫んだ。
鴨田研究員は第二のタンクの前へ、黙々として歩を移した。同じような操作がくりかえされたが、これも開かれた内部は、第一のタンクと同じく、
空虚だった。
失望したような、そして又安心したような溜息が、どこからともなく起った。
遂に第三のタンクの番だった。
流石の鴨田も、心なしか緊張に震える手をもって、スパナーを引いていった。
「ガチャリ!」
とうとう最後の
唐櫃が開かれたのだった。
「
呀ッ!」
「これも空虚っぽだッ!」
帆村は須永に目くばせをして彼一人、前に出た。彼の手には自動車の
喇叭の握りほどあるスポイトとビーカーとが握られていた。
彼は念入りに、白い
襞のまわりを
獵って、何やら黄色い液体をスポイトで吸いとり、ビーカーへ移していた。
だがそれは大した量でなく、ほんの底を
潤おす程度にとどまった。
帆村は
尚もスポイトの先で、弾力のある
襞を一枚一枚かきわけ、
検べていたが、
「呀ッ」
と叫んで顔を寄せた。
「これだッ。とうとう見付かった」
そう云って
素早く指先でつまみあげたのは長さ一寸あまりの、
柳箸ほどの太さの、鈍く光る金属――どうやら
小銃の
弾丸のような形のものだった。
一同は
怪訝な面持で、帆村が指先にあるものを
眺めた。帆村はその弾丸のようなものを鴨田の鼻先へ持っていった。
「
貴方はこれをご存知ですか」
鴨田は
腑に落ちかねる顔付で、無言に首を振った。
「貴方はご存知なかったのですね」
帆村はどうしたのか、ひどく
歎息して云った。
「これはですね――」
一同は帆村の唇を見つめた。
「――これは
露兵の射った
小銃弾です。そして、これは三十日から行方不明になられた河内園長の体内に二十八年この方、
潜っていたものです。云わば河内園長の
認識標なんです。しかも園長の身体を焼くとか、溶かすかしなければ出て来ない
終身の認識標なんです」
「そんな
出鱈目は、よせ!」
鴨田が
蒼白にブルブルと慄えながら呶鳴った。
「いや、お気の毒に鴨田さんの計画は、とんだところで失敗しましたよ。
貴方は園長を殺すために、医学を
修め、理学を学び、スマトラまで行って蟒の研究に
従事せられた。そして日本へ帰られると、多額の寄附をしてこの爬虫館を建て、貴方は研究を続けられた。七頭のニシキヘビは貴方の研究材料であると共に、貴重な
兇器を生むものだった。私どもはよく医学教室で、犬を手術し、
唾液腺を体外へ
引張り出して置いて、これにうまそうな餌を見せることにより、体外の容器へ湧きだした犬の唾液を採集する実験を見かけますが、貴方は生物学と外科とにすぐれた頭脳と腕とで、
蟒の
腹腔に穴をあけ、その消化器官の
液汁を、丹念に採集したのです。それは周到なる注意で今日まで貯蔵されていました。そして又ここに並んでいるタンクは、巧妙な構造をもった人造胃腸だったんです」
あまりに意外な帆村の言葉に、一同は
唖然として彼の唇を見守るばかりだった。
「鴨田さんは三十日の午前十一時二十分頃、園長をひそかに
人気のない此の室に誘い、毒物で殺したんです。そこで直ちに園長の
軽装を
剥いで裸体とし、着衣などは、あの
大鞄に入れ
其の夕方、何喰わぬ顔で園外に
搬び去りましたが、それは
後の話として、鴨田さんは園長の口をこじ開けるや、蟒の消化液では溶けない金歯をすっかり
外して別にすると、もうこれで全部が溶けるものと安心して此の第三タンクに入れました。そこで永年貯蔵して置いたニシキヘビ消化液をタンクへ入れて密封をすると、電動仕掛けで同心管――それは
襞をもった人造胃腸なんですが、その胃腸を動かし始めたんです。適当な温度に保ってこれを続けたものですから、鴨田さんの研究によると、今夜の八時頃までに完全に園長の身体はタンクの中で、影も形もなく
融解してしまうことが判っていました。
鴨田さんにその自信があったればこそ、この時間になってタンクを開くことを承知されたのです。そして
尚も計画をすすめて、タンクの中の溶液を、そのまま下水へ流してしまうことにしました。急いで流せば、こんな静かなところだからそれと音を
悟られるので、
排水弁を
半開とし、ソロソロと園長の溶けこんだタンクの内容液を流し出したんです。しかしそれは一つの大失敗を残しました。流出速度が極めて
緩慢だったために、園長の体内に潜入していた
弾丸は流れ去るに至らず、そのまま
襞の間に
残留してしまったんです。この弾丸というのは、園長が
沙河の
大会戦で
奮戦の
果に身に数発の敵弾をうけ、
後に
野戦病院で大手術をうけましたが、遂に抜き出すことの出来なかった
一弾が身体の中に残りました。その一弾が
皮肉にも
棺桶ならぬ此のタンクの中へ残ったわけなんです。本当に恐ろしいことですね。なお附け加えると、園長の
金歯は、
大胆にも私の見ている前でビーカー中の
王水に溶かし下水道へ流しました。万年筆や
釦は鴨田さん自身が
撒いたもので、これは犯罪者特有のちょっとした
掻乱手段です」
「
出鱈目だ、
捏造だ!」
鴨田は尚も
咆哮した。
「では
已むを得ませんから、最後のお話をいたしましょう」帆村は物静かな調子で云った。「この犯行の動機は、まことに
悲惨な事実から出て居ます。話は遠く日露戦争の昔にさかのぼりますが、河内園長が満州の野に
出征して
軍曹となり、一分隊の兵を率いて例の
沙河の
前線、
遼陽の戦いに
奮戦したときのことです。
其のとき
柵山南条という二等兵がどうした事か敵前というのに、目に余るほど
遺憾な
振舞をしたために、
皇軍の一角が崩れようとするので
已むを得ず、
泪をふるって其の柵山二等兵を
斬殺したのです。これは、
軍規に定めがある
致方のない殺人ですが、それを見ていた分隊中の或る者が、本国へ
凱旋後柵山二等兵の未亡人にうっかり
喋ったのです。未亡人は殺された夫に
勝るしっかり者で、そのときまだ幼かった一人の男の子を抱きあげて、河内軍曹への
復讐を誓ったのです。その男の子――
兎三夫君は
爾来、母方の
姓鴨田を名乗って、途中で亡くなった母の意志を
継ぎ、さてこんなことになったのです」
帆村は語を切った。しかし鴨田学士は、今度は何も云わずに
項低れていた。
「もう後は云う必要がありますまい。最後に御紹介したい一人の人物があります。それはこの話のヒントを与えて以後私の調べに
貢献して下すった故園長の古い戦友、半崎甲平老人であります。この老人は
同郷の出身ですが、衛生隊員として出征せられていたので、後に園長がX線で体内の
弾丸を見たときにも立合い、また戦場の秘話を園長から聴きもした方です。鴨田さんの
亡き父君のことも知ってられるんですから、
此処へお連れしました。いま御案内して参りましょう」
そういって帆村は立上ると、入口の
扉をあけた、が、其処には老人の姿は見えなかった。向うを見ると、爬虫館の出入口が人の身体が通れるほどの広さにあき、その外に真黒な
暗闇があった。
「
呀ッ、鴨田さんが自殺しているッ」
そういう声を背後に聞いた帆村は、もう別にその方へ振返ろうともしなかった。
そして彼の胸中には、事件を解決するたびに経験するあの
苦が
酸っぱい
悒鬱が、また例の調子で
推し
騰ってくるのであった。